十二着目「レピテーション」
僕は何故だか吸い寄せられるように、その声が聞こえた方を向いた。
そこには家電量販店の入り口に展示されたテレビがあった。主婦層向けの情報番組が流れており、執事喫茶の特集が行われているようだった。
あみちゃんとメイド喫茶に行った時のことを思い出す。その時と内容はさほど変わりない。
けれど、僕の心証は随分と変わっていた。
あの時は正直、執事の人達の格好はコスプレじみていてダサいと思った。あみちゃんはうっとりしていたので、とても言えなかったけど。
しかし、今はそんな風には思わなかった。むしろ、正反対の感情が湧き上がってくる。
若い執事が三段ティースタンドをテーブルに置き、紅茶を注ぎ始めていた。
ただそれだけのことなのに、瀟洒なデザインのティーカップに優美な立ち姿で注ぐ様は華麗に見える。
柔らかな指使いでティーポットから注がれた紅茶はティーカップへと滑らかに流れ込み、内側で二つの色合いが混ざり合うことで新たな表情を生んでいた。
それを為す若い執事は何事もないように穏やかに微笑んでいるが、その動作は針の穴を通すように繊細に行われており、神経を研ぎ澄ましていることが感じ取れた。
だからといって、なよなよしているかと言えばそうでもなく、一つ一つの動きには確かな力強さも表れていた。まるでお嬢様を守る騎士のような勇ましさを発しているように見える。
なんだろう、この気持ち……上手く言葉に出来ないけど、男らしくてカッコいいな……。
僕は若い執事の所作にすっかり魅了されており、気づけば食い入るようにテレビを見ていた。
「こちら、地デジ対応となってます。今が買い替え時ですよー」
そうやって家電量販店の店員が話しかけてきても耳に入って来なかった。
……あんな風に振舞えたら、あみちゃんの言う“カッコイイ男”になれるかな?
そう思った途端、胸がドキドキして、気持ちが高ぶるのを感じた。
世界は何も変わっていない。でも、それは僕の中で確かに何かが変わった瞬間だった。
これまでは灰色にくすんで感じられていた視界が、鮮やかに色づいていく。
もう長い間、僕の心を覆い尽くしていたモヤモヤがパーッと晴れ渡っていくように思えた。
「──これだっ!」
臭いビニール袋を握ったままガッツポーズをし、思わず声に出して叫んでいた。
「良いですよねー。今ならだいぶお安くなってますよー」
僕はそんな声が追随してきたことに驚き、やっと店員が傍にいたことに気づいて、反射的に口を手で押さえた。それによってビニール袋から漏れ出た臭いが鼻をつく。
けっこう臭いな……。
少し冷や水を浴びせられたような気分になる。ふと周囲に目を向けると、近くにいた客は避けるように離れていっていた。傍から見れば、僕の様子は異様だと思うので、無理もない。
しかし、今の僕はそんなことどうでも良いと思えるくらいに興奮していた。
執事喫茶の特集は締めくくりの場面となっており、老執事が厳かに告げる。
『それではお嬢様、そろそろご出発のお時間でございます。夕食のお時間までにはご帰宅くださいませ。ちなみに本日の夕食は……トンカツでございます』
この前とまったく同じセリフ。
以前の僕なら『いやいや、もっと相応しい夕食が他にあるだろ』と失笑していた。
けれど、今の僕はその言葉を聞いて『あぁ、もう終わっちゃう……出発しなきゃいけないんだ……』と思ってしまった。
先程までの興奮は風船が萎むように収まり、入れ替わるようにして寂しさが膨れ上がってきた。そこには様々な想いが付随しており、懐古の念を呼び起こした。
「帰りたいよ……」
僕は無意識的に呟いてから、自問自答する。
えっと、どこに帰りたいんだろう……そうだ、あみちゃんと楽しく過ごしたあの頃に帰りたいんだ……。
「えっ?」
興奮した様子から一転してセンチメンタルな様子になったことで、店員は状況に付いていけない様子で泡を食っていた。
それでも、僕は衆目を気にすることもなく、追い求め縋りつくように言う。
「帰りたい……」
仕事でバカにされながらも、なんだかんだ言って、みんなが助けてくれたあの頃に……。
僕の呟きに店員は顔を引きつらせる。
「えっ、コワッ……あのぅ、お兄さん……何かあったらまた声を掛けてくださいね……」
そう言うと、そそくさと立ち去っていた。ヤバい奴が来たとでも思ったのだろう。
それでも、僕の視界に映し出されているのは過去の光景だけだった。
「帰りたいよ……」
普通の日常を過ごしていたあの頃に帰りたい。その一心で口にし続けた。
繰り返しになるが、それはとても異様な光景だったに違いない。
上はスーツで下はダボダボのスウェットパンツ姿の男が、異臭のするビニール袋を持ったまま主婦向けの執事喫茶特集に没頭しており、更には迷子のように何度も「帰りたいよ……」とブツブツ呟いているのだから。
僕の様子に気づいた通行人は触れてはいけない存在だと言うように避けており、周囲にはポッカリと半円の空間が出来ていた。
それでも、僕は悲哀に満ちた表情で涙を堪えるようにしながら呟き続けた。「帰りたい……」、と。
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