十一着目「狩場」
「最悪だ……」
スラックスと下着を脱ぎ、トイレットペーパーを何重も重ね、汚れをふき取る。
自分のモノとはいえ、生暖かい感触が気持ち悪い。
ひと気のないトイレだったのが、不幸中の幸いか、今の所、誰も来ない。
「うぁ~パンツオワタ」
水分でピトピトの汚れた下着の処理に困り、ビジネスバッグに入れるかどうか迷っていると……
『トントン!』
突然のトイレのドアを叩く音。
「ヒッ!」
ビックリして、思わず汚れた下着をビジネスバッグの中に入れてしまった。
「鞄オワタ……」
買い換えたばかりなのに(悲)
悲しみに暮れつつ、力なく『トン・トン』と入ってますよの合図をした。
「クソー、こんな時に限って誰か来るんだから……」
小声で呟きつつ、太ももの汚れを拭き取り流す、残りの汚れを拭き取り流す、を繰り返してると……
『ドンドンドン!』
今度は、乱暴に力強くドアを叩かれた。
“先方様”もきっと、鬼気迫る状況なのだろう、焦る気持ちはわかるが……そんな急かさなくてもいいだろっ!
「あれ?」
でも、ここでちょっと冷静に考えてみた。他の個室が多分空いてると思うけど?何で?
『ドンドンドン!』
より、強く乱暴にドアを叩く。
あー、きっと“先方様”は、もうギリギリを通り越して、冷静に周りを見れない状態なんだな。
わかるよ……その気持ち……辛いよね。凄く……辛いよね……ウンウン、わかる。
同じ悲しみを背負わせてはいけない!!
決意を込め、拳を硬く握りしめる。
とは思ってみたものの、このスラックスやっぱり履かないと外出れないよな?
これ履かないと、転職はおろか、社会復帰すら難しくなってくるよなきっと。
出来れば、もうちょっと乾かしたい……
「あのー、すみません。他の個室空いてませんかね?」
僕はドアに顔を近づけ、かぼそい声でゆっくりと丁寧な口調で“先方様”に問いかけた。
「ドン!!!」
思いっきりドアを蹴とばすような衝撃だった。
「イテッ!」
僕はドアに顔を近づけていたせいで、思いっきり顔をぶつけてしまった。
下半身裸で、鼻を赤くする姿は、我ながらとても滑稽だ。一体、面接帰りに何やってんだ自分?
なんだよ!決まった場所でしか“出来ない”タイプか?
まぁ、若干、僕もそういう所あるから、気持ちわかるけど、そんな力いっぱい叩いちゃダメじゃないか!
もう漏らしちゃったのかな?だとしたら、流石に悪い事してしまったな……
意を決して、スラックスを履く。
「あー、最悪」
まだ、水分を含んでるスラックスが、肌にピトっと密着してくる。その感触が、とても気色悪くて、背筋が凍る。
それに加え、いつも下着で守られてるはずのモノが、ノーガードで、スースーする不安。
さらに、ノーパンにズボンを履くという罪悪感。
ここまでの嫌悪感のハーモニーは、なかなか味わえない。
『ガチャ』
僕はドアを開けた。
「あ、すみませんー」
内心、思う所は、いろいろあるけど、大人の対応で軽く会釈して去ろうとした。
が……、僕は硬直した。
「……」
目の前には、強面でガタイの良いヤンキーみたいな人が、こちらを睨み待ち構えていた。
相手の殺気に、僕は言葉が出なかった。
正面のヤンキーの後ろには、洗面台に腰かけ、これもまたガラの悪そうな二人組がニヤニヤこっちを見てる。
これって、もしや……おやじ狩りってヤツ?……
ひと気のない暗がりのトイレ、狩りをするには打って付けの場所……
僕の全本能が逃げろ!と命令した。
そそくさと逃げた。とにかく逃げた。後ろを振り返っちゃいけないと思った。とにかく人混みへ、とにかく人混みへと走った。
「ハァハァハァ」
人混みに紛れ、辺りを見回したが、意外にもあっさりと逃げられた。
もしかしたら、僕の勘違いで、本当にただトイレを待ってただけだったのかもしれない。
おやじ狩りじゃなかったのかも……。でも、狩られた後じゃ遅いから、今の判断は正しかったと思う。
『あー、もうこんな汚いスラックスじゃ電車乗れないし、さっきの道戻ったら、またおやじ狩り(仮)に出くわすかもしれないじゃん!』
心の中で叫んだ。
「とりあえず、隣の駅まで歩こう。んで、途中で下着とズボン買うか。あーあ、痛い出費だな~」
つい、心の声が漏れ、独り言になってしまった。
歩くたびにピトピト触れる嫌な感覚。この感覚から早く解放されたい!
SALEとうたれた洋服店に駆け込み、パパっと目の前に飛び込んだ、SALEの下着とスウェットパンツを手に持ち、レジに向かう。
何でもいい、とにかくこの感覚から、解放されれば、何でもいいんだ!
「ご試着よろしいですか」と聞かれるが、試着なんて出来るわけない。
そもそも、さっき手も洗えなかったから、一度手に持ったものは元に戻せない。一発勝負なんだ!
と思いつつ「はい、大丈夫です」と、悲しみの愛想笑いをした。
「あの、すぐ履くので、試着室借りても良いですか?」
「えっ、ええ……」
ちょっと、困惑気味の様子の店員さん。
まあ、何はともあれ、新しい下着を履き、嫌悪感のハーモニーから解放された。
パンツを履いてる。ただそれだけで、こんなにも快適で、こんなにも安心感を得られるとは。
そして、店員さんが困惑気味だった理由。
それは、試着室の鏡で己の姿を観てすぐわかった。
背広にダボダボのスウェットパンツは絶妙に合わない。
SALEでサイズが無かったのか、だいぶ大きいサイズを買ってしまった……
Mサイズの棚から取ったと思ったのに……
「あの……サイズ交換も出来ますが?」
試着室から出ると、店員さんが気をつかって話しかけてくる。
「いえ、ちょうど大きいサイズ探してたんですよぉ。丁度良かったなあー。ハハハッ」
そりゃ、サイズ交換したいよ。したいけど……、出来ない理由が僕にはある(涙)
「では、こちらのスラックスは、袋においれしましょうか?」
「うわ、だっ大丈夫です!」
僕は慌てて、店員さんが手に持ってるビニールの袋を半ば奪い取ってしまった。
全速力でスラックスをビニール袋に入れ、足早に店を出る。
その途中、手で押さえないと、何度もダボダボのスウェットパンツがずり落ちそうになる。
店員さんからしてみれば、挙動不審で相当怪しい客だったに、違いない。
変な客でほんと申し訳なかった。
今の格好は、上はスーツなのに、下は手で押さえてないと落ちてしまうダボダボのスウェットパンツ。
片方の手には、汚れまみれスラックスがパンパンに詰め込まれたビニール袋。
汚れまみれの下着の入った肩掛けのビジネスバッグ。
うん!完全に近づいちゃいけない人だね。
とんだ災難に見舞われ、グッタリの僕に、ふと男性の声が耳元に聞こえてきた。
「おかえりなさいませ……」
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