第3話
「樋口が小西殺害を自供しました。園田小夜香さんを引き合わせたところ、説得に応じたような恰好です。杏さんには色々とお世話になり、本当にありがとうございました」
依田は深々と頭を下げた。尊もつられて、いえこちらこそ、ともごもごと言いながら一礼した。
確かに園田小夜香を探し出し連れてきたのは尊である。しかしそれが事件とどのように関係するのかなどほとんどわからずにやったことだったので、このようにお礼を言われるのは違和感もあった。どちらかといえば希実の手柄ではないかという気がする。
「ただ、樋口はあくまで正当防衛を主張しています。こればっかりは裁判になってみないとわかりませんがね。あいつ、ご丁寧に小西が所有していた調理用のナイフを台所の包丁類の中にしまってありました。確かに小西の指紋が出たんですが、まあわかりませんね。気絶させた後で無理やり握らせた可能性もあります」
市役所の相談ブースの中はやっと暖房が効いてきたところだった。天井の吹き出し口から低い風の音が聞こえていたが、まだ足元は冷えている。向かいで依田の隣に座っている希実は少し寒そうに足をもぞもぞと動かしていた。
「結局、動機としては地上げ行為が直接のきっかけになったということなんですね」
尊が改めて希実から聞いた話を確認する。依田はうんうんと何度か頷いた。
「そう、そういうことですね。樋口の話によれば、十月三十一日の午後、小西が訪ねて来ていい加減に土地を売ってくれ、と言ってきたと。それまでにも何度か電話やら直接訪問やら受けていて、しつこさに苛立ちを募らせていたようですが、その日は小西はかなり恫喝するようなことを言ったようです。更にナイフを取り出したので、反射的に殴り倒したと。その時に差し歯が取れたんでしょうな。あれを捜査員が見つけたのは非常に幸運でした」
「そのあと、なおも向かって来ようとする小西に対して、樋口はナイフを叩き落として手で首を絞めたということみたい。このままだとこの家を守れないと思った、って供述してた」
希実が説明を途中から引き継いだ。
「それって殺意があったってことじゃないの?」
「そのように取れます。なので正当防衛が認められるかは難しいところです。杏さんが見た、樋口の手のケガというのはその時についたものと思われますが、それだけ激しく抵抗している被害者の首を絞め続けたということになりますし。少なくとも殺してしまっている以上は過剰防衛には間違いないでしょう」
尊の質問に再び依田が答える。
「それから服を脱がせて、夜になるのを待って川へ流したということですか」
「正確に言うと夜中ですね。夜まで、衝動的に犯してしまった殺人をどのように処理すべきか悩んでいたらしい。あの日はずっと雨が続いていて川が増水していたんですが、それに思い至って服を全て脱がせて遺棄することにしたと。あの白い軽で運んだようです。小西の所持品はナイフを除いて全て可燃ごみで出してしまったとも言ってました」
「それから二十五年前のことについては、結局調べても警察には記録は残ってなかった。事故として処理されたんだし当たり前だけど。どっちみち、樋口がやったのだとしても証拠は今更見つけられないし、そもそも当時ギリギリ十五歳だからね。刑事罰にはあたらないよ、当時の法律では」
「そうか、あの頃はまだ刑罰の適用年齢が十六歳からだったか」
「逆に、そのタイミングで園田幸司が死んでいることを考えると、状況としては怪しいんだけどね。今更どうしようもないってとこかな」
依田と希実は一通りの説明を終えると、後処理がありますので、と言って帰って行った。尊が自分のデスクに戻ると、中島が、解決したみたいですね、と声を掛けてきた。
「ああ、みたいだな。正直俺にもこうなるとは予想できなかったんだけど、どうやら俺が遊び半分に東京まで出かけた甲斐があったらしい」
「どうして殺しちゃったんですか、その樋口って人は」
「詳しいことは内密に、って釘を刺されちゃったからな。悪いが言えないわ。ただ、地上げ行為から生じたトラブルってことみたいだな」
「残念だな。まあ悪いことはするもんじゃないってことですかね」
「そういうことだ。被害者も相当色々やってたみたいだからな。あっちこっち渡り歩いては詐欺だの麻薬の売買だのと手を染めてたみたいだし」
「そういえばあの刑事さんと一緒に東京行ったらしいじゃないですか。いいですね、美人だし」
「あのな、大悟が考えてるようなことは何もないぞ。向こうも仕事でたまたま着いてきただけだ。結局泊りもなしで日帰りだよ」
尊は中島をちょっと睨みながら、三日前の夜のことを思い出していた。あの日、小夜香は尊たちの話を聞くと、翌日の予定を全てキャンセルして尊たちと一緒にこちらに来ると言い出した。それで帰りは遅い電車に三人で乗って戻ってきたのだ。なんとも不思議な取り合わせの三人組だったな、と今更ながら尊は思う。その電車の中でぽつりぽつりと語った小夜香の横顔は、未だに尊の脳裏に焼き付いて離れなかった。
「私は子供の頃、両親から虐待を受けていたんです」
と小夜香は俯いたまま、聞こえるか聞こえないかというくらいの声で語った。
「母は、ほとんど家のことを顧みませんでした。外に恋人を作っていたんでしょう、私が中学に上がる頃から家に帰ることすら少なくなっていきました。今で言うところのネグレクトっていうんでしょうかね。小学校の頃でさえ、息抜きに友達と遊んでくる、などと言って私を児童クラブに預けては出かけて行きました。でもそのおかげでりっくんやユウタ、カズマと出会えたんです。ああ、りっくんというのは、樋口理人(まさと)だから。同級生とかもみんなそう呼んでいたので、私もそう呼ぶようになりました。ユウタは川本雄太郎君ですね。もう一人カズマというのは篠原和馬君ですが、何年か前に事故で亡くなったと聞きました。りっくんもカズマとは親しかったから、少し自暴自棄になったかもしれませんね。
あの小学校五年生の夏は楽しかった。まだ父は普通に働いていたし、母も最低限の家事はしていました。毎日りっくんたちと一緒に遊び歩いて、秘密基地を作ってみたりしました。けれどそれがきっかけで母にひどく怒られたんです。思えばそれから段々と母の暴言は酷くなっていきました。機嫌が悪いときは殴られることもありましたし。だから中学、高校と進むにつれて、母が家に帰らないことが増えても私は苦痛ではありませんでした。
だけど父の幸司はもっと酷かった。母が家にいないことが増えると、段々と性的な虐待をするようになったんです。こんな公共の場では言えないようなことを散々されました。中学の終わり頃からはどんどんエスカレートして、でも私が生きていくためには父に依存するしかなかった。必死になって耐えました。耐えられたのはりっくんが傍にいてくれたから。それで高校に入ってから交際するようになって、りっくんに父親のことを全て打ち明けたんです。彼は私を守ると言ってくれました。高校生の陳腐な恋愛だと思うかもしれませんが、本当に心の底から彼を好きでした。頼れるのはもうりっくんだけだった。
それからしばらくして、高校一年生の秋、忘れもしない九月二十七日の夜、父が死にました。その当時、私は夜の間だけ古い祖母が暮らしていた別棟で寝起きしていたんですが、翌朝に父がいる方の家に入ると、既に冷たくなっていました。いえ、りっくんがやったのではありません。仮にそうだったとしても、私は知りませんし、言うつもりもありませんが。警察の方が何人も来て調べていましたが、吐いたものを喉に詰まらせて窒息死したそうです。酔っぱらって炬燵で寝込んだところ予想以上に酔いが回ってしまったのだろうということでした。普段から前後不覚になるほど飲むこともしばしばでしたし、天罰だと思いました。これで私はやっと自由になったんです。
しかしいざ父が死んでみると、どうやって生活していけばいいのかわかりません。親戚にも連絡を取ってみましたが、母の方はほとんど近い親戚がおらず、父の方の親戚には引き取れないと言われました。死ぬ直前の父はギャンブルで借金を作ったり、仕事を首になったりしていたので、親戚筋にだいぶお金を無心していたらしいです。きっとそれで縁を切られたんでしょうね。葬儀をするお金もなくて、直葬というんですか、警察の調べが終わったらすぐに火葬になりました。それでも市役所の人が色々と手配してくれて、結局長野市にある児童養護施設に行くことになったんです。
施設に行く前の数日だけ、りっくんと二人だけで、古い方の家で過ごしました。家族になるってああいうのを言うんでしょうね。私には人生で一度も得ることができなかった、本物の家族。きっとこれからも私には持てないのでしょう。だから私にとって、悪魔のような両親から解放されてたった一度だけ本当の家族を経験できたあの数日は、人生で一番幸せな時だったと思います。愛する人に受け入れられて、ずっとあのままでいたかった。
施設に入ってからは高校を転校し、一応卒業はしましたが、とても大学に行けるような状態ではなかった。施設も十八歳までしかいられないので、職を転々としながら生活しました。女一人、それも右も左もわからないような高校を出たての小娘が生きていくというのは大変でした。梓市に帰ろう、りっくんと一緒にいたい、と何度も思いましたがその度に自分に言い聞かせて思いとどまりました。きっと彼は大学に行っているでしょうから、自分で生きていくことのできない私が帰っても迷惑になってしまうって。当時は携帯電話も持っていなかったので、りっくんとは手紙のやりとりをしていました。彼から来る手紙は私の心に活力を与えてくれました。
それで最初は長野市で正社員の職に就いたんですが、すぐに辞めざるを得なくなりました。その職場では何人かの男性から言い寄られたんですが、それがきっかけだったのか、あるいは環境の変化のせいなのか、酷い鬱病になってしまったんです。ある時会社の帰り道で倒れてしまい、そのまま入院することになりました。更に悪いことにそのまま医師の判断で精神病棟へ移されたんですが、そこが閉鎖病棟だったので手紙も電話も不可能になりました。きっとりっくんも心配したでしょうね。家賃も滞納していたので退院してからは追い出されるようにアパートを出て、住所を転々としました。それでも今の状態で梓市に帰れば間違いなくりっくんに迷惑がかかってしまう。そう思って何とか自立しようと必死になって生きていましたよ。そしてそのうちにどうしようもなくなって夜の仕事を始めたんです。そこからはあっという間に転がり落ちていったように思います。
はじめはいわゆるキャバクラというんですか、ああいう店でした。男性が怖いというのはずっとありましたが、それでもああいう店では逆にお客だと割り切ることで、なんとか乗り切ることができたんです。お金もよかったのでしばらくはそうして長野市内の夜の店にいました。それからお店で知り合った女の子に誘われて、東京へ移ることにしました。あとはなし崩しです。段々といかがわしい店に勤めるようになり、一度だけ風俗店でも働きました。流石に男性と直接触れ合うのは嫌悪感があってすぐにやめたんですが、ああ、これで私もあの母親と同じだ、と酷い自己嫌悪に陥りました。
梓市に帰ろうという思いはずっとありました。でも怖かった。気付いたら私もあの母親と同じように自分の身体を男に差し出している。あの父親と同じように性欲に支配された男に。自分が嫌でもあの両親の血を受け継いでいると思い知らされたようで、とてもりっくんに顔向けできなかった。きっと会えば嫌われるでしょう。それがどうしようもなく怖かったんです。嫌われるくらいなら、彼の思い出を綺麗なままでとっておきたかった。この歳になって、流石に夜の仕事に就くのも難しくなったので、今は事務の仕事を細々とやっています。それでも私がしてきたことは無くなるわけではありません。
りっくんが私の古い家に住んでいるとさっき聞かされたときは驚きました。でも人を殺したなんて……私が帰らなかったばっかりに――」
電車の轟音に交じって途切れとぎれに言葉を紡ぐ小夜香の目からは、幾度となく涙が溢れていた。見れば希実も目を潤ませている。尊は黙って小夜香の物語を聞きながら、樋口理人に思いを馳せた。人を殺してまで守りたいほどのものだったのか。樋口もまた小夜香と同じように、失われたものを求めて人生を彷徨い続けてきたのかもしれない。自分にはそこまでして手に入れたいものが、あるいは失いたくないものが、果たしてあるだろうか。目を閉じて考えたが尊にはひとつも思い浮かべることができなかった。
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