幕間5-2

 長くかかっていた大型プロジェクトがようやく終わりを迎え、僕は施設にいる父のためにも残りの人生を故郷で過ごすことにした。ずっと前から度々会社へ頼んでいたM市支社への異動がようやく受け入れられ、僕は出世コースを外れて信州へとUターンした。三十三歳の頃のことだった。


 僕の実家は母が亡くなってからは帰省の時に泊まる程度でほとんど空家状態だったから、サヤカの家と同じようにあちこち傷み始めていた。地元に戻ってきた当初は実家をリフォームするつもりでいたが、引っ越しの作業を進めるうちに、僕の中に別の考えが芽生え始めた。いっそこの家を売ってしまい、サヤカの家に住めばいい。そうすれば管理のために通う手間もなくなる。どのみちサヤカの母親は帰って来ないだろうし、近所にも僕の顔を知っている人はもう誰もいないから誰にも咎められることはないだろう。


 僕は父に相談し、実家を手放すことにした。父も賛成してくれた。


「俺が自分で建てた家だから思い入れがないと言えば嘘になるが、どっちみち俺はもう家には戻れんだろう。母さんが言ってたように、お前はお前の思うようにやればいい。俺はここでも友達ができたし、余生を過ごすには十分過ぎるほど恵まれた環境だよ」


 どちらかと言えば無口で、何を考えているかよくわからないような父だったが、うまく呂律の回らない口で懸命にそう話す姿を見て僕の気持ちも楽になった。僕は実家を不動産業者に売り払い、僅かな家財道具を持ってサヤカの家に移った。梓市役所に転入届を提出するときには緊張しながらサヤカの家の住所で申請したが、あっさりと受理された。


「ご実家ではないんですね」


 と窓口の担当職員が確認してきたので、ええ、空家を買ったものですから、と答えたらそれでおしまいだった。


 流石に素人の修繕では限界になりつつあったので、僕は家をリフォームすることにした。東京での激務に耐えて貯めた預金があったし、実家を売った金を使ってもいいと父が言ってくれた。それで内装はできる限りそのままに、躯体の傷んだ部分を全て修繕するように建築会社に頼んだ。外装に古材を使ってもらうことも考えたが、家をこの先も保っていくことを考えて性能のいいものにしてもらった。お陰で外観は新しいのに中に入ると昔ながらの造りというどこかアンバランスな建物に仕上がったが、僕は大いに満足した。なんだかこのちぐはぐな感じが僕の人生にぴったりに思えた。


 それと同時に、ずっと放置されていた新しい方の家を解体した。サヤカはこんな家壊してしまえばいい、と言っていた。建築業者は新しい家を壊して古い家をリフォームしたい、という顧客の妙な注文に、何度も本当にいいんですか、と確認を求めてきたものである。中に残ったものはどうしますか、と聞かれたので、売れそうなものがあれば売って解体費用の足しにしてくれ、と頼んでおいた。とはいえ大して価値のあるものは残っていなかっただろう。最後はギャンブルに狂って死んでいった男の家だ。金目のものは端から売り飛ばしていたに違いない。


 建物が解体された後の部分は駐車場として使うことにした。そこからリフォームした古い家の玄関まで踏み石を自分で敷き、適当な大きい石を車止めの代わりに配置しておいた。そうして出来上がった僕の新しい住まいは、古いながらも快適なものになった。僕は時間を見つけては庭いじりをするようにしたので、気づいた時にはずっと空家だったとは思えないくらいにまともな外観になっていた。



 しかし僕の満ち足りた筈の生活はそう長くは続かなかった。次に僕の元を去って行ったのはあろうことかカズマだった。高速道路での交通事故で、居眠り運転のトラックに追突されたらしい。彼の子供はやっと小学校を卒業したばかりだった。僕はユウタと共に葬儀に参列した。あまりに突然の訃報でショックが大きすぎて、僕もユウタも涙を流すことさえできなかった。


「俺、去年一緒に飲んだのが最後になっちまった」


 葬式の後、二人でユウタの家の近くの公園の桜の下で酒を飲みながらユウタは言った。いい年をした男二人が、夜そんなところで酒を飲んでいるなど、近所の人に見られたら何を言われるかわかったものではない。しかし僕らにとって少し肌寒い春の夜の公園は、献杯を傾けるのにちょうどよかった。


「僕もそうだ。去年の暮れに一度会ったっきり。せめてもう一度会いたかったよ」

「サヤちゃんは当然知らないよな、このこと」

「そうだね。僕もずっと彼女のことを探しているけれど、連絡も取れないんだ」

「俺も探してみるよ。いくつか可能性のありそうなルートから当たってみる」


 ユウタはそう約束してくれた。


 僕はどうしようか迷った末、自分が住むことにした家のことをユウタに告げるのをやめておいた。勘の鋭いユウタのことだから少しでも情報を明かすと僕の背負った罪のことまでわかってしまうんじゃないかと少し怖かった。それで僕は今実家に住んでいる、と言っておいた。どのみち今時郵送で何かをやり取りすることもないだろう。


 それからというもの、僕の生活は少しずつ荒んでいった。サヤカを失い、母を失い、そして親友を失った僕は、自分が生きていることの価値がすっかりわからなくなってしまっていた。仕事もすっかりやる気を失って、クビにならない程度に仮病を使って休むようになった。一時は東京の本社で大きなプロジェクトを成功させたことで得られた社内の評価は、休みを取るたびに新人の頃のそれに向かってまた逆戻りをしていった。


 映画に出てくるゾンビのように感情を持たずに職場と家を往復する日々が続いた。唯一の癒しは家の手入れをすることだった。外装のリフォームをしたとはいえ、家の中はどこもかしこも年代物だ。廊下を磨き、古びたキッチンの蛇口のパッキンを取り換え、風呂場の湿気と戦い、剥がれかけた壁紙を綺麗に貼りなおした。広い敷地の中は放っておくとすぐに雑草だらけになる。まとめて草取りをするのは大変なので、毎日こつこつと草むしりに精をだした。


 ある夏の夕方、そうして草取りを終えて家に入ろうとしたとき、玄関の電灯に照らされた壁に何か茶色いものが張りついているのが目に入った。なんだろう、と近くに寄ってよく見ると、細長い身体に四本の足がついている。トカゲにしては妙に体が太い。初めて見る生物だった。


 僕は元々生き物に興味がある方ではない。ペットにしても今まで一度も飼いたいと思ったことはなかった。だが、僕の家の壁に張りついて時折飛んでくる小さな虫に反応しているそいつを見ていると、なぜか愛おしいような感情が沸いて来て僕は困惑した。


 スマートフォンを取り出して検索してみる。検索サイトの一番上に表示されたページに飛んでみると、どうやらヤモリらしいということが分かった。そこに書かれた説明を見て、僕はハッとした。


『ヤモリは守宮、あるいは家守とも書き、家にやってくる害虫を食べてくれる有益な爬虫類である。そのような性質から、家を守ってくれるものと見做されてきた。地域によってはヤモリがついている家は繁栄するといわれているところもある』


 僕と同じだ、と思った。たった一匹で孤独に家を守り、寄ってくる害虫を退治するのだ。説明には続きがあった。


『南方系の生物で、関西などではよく見られるが、関東以北ではあまり繁殖していないと考えられている。ただし、時折車などに張り付いて運ばれてくることがあるようで、関東や甲信越地方でも過去に何度か観察された記録がある。例えば長野県の中信地域では……』


 道理で見たことがない筈である。説明によれば長野県では過去に数例しか見つかっていないらしい。どれもたまたま運ばれてきた個体が観察されたもののようだった。だとすればここにいるヤモリは少なくとも梓市においてはとても貴重なものだということになる。そんな生物が僕の家を守ろうとしてくれている。僕は思わず心の中でヤモリに話しかけた。お前もこの家が好きなのか。好きなだけここにいてくれよ。


 僕もまたヤモリなのだ。群れを成さず、仲間もなく、ただ孤独に家だけを守っている。やがて自分の命が尽きるその日まで、この家に住み着いて頑なに守り続ける。


 僕はヤモリを脅かさないようにそっと家に入った。ささくれだった気持ちがいつの間にか平穏を取り戻していた。



 カズマが死んでから何年か経ったある日、僕の家に一本の電話がかかってきた。


「樋口さん?おたくの土地を売る気はありませんか。そのあたり今かなり人気ですので、高く買いますよ」


 と男は少し掠れたような声で言った。


「すみませんが売る気はないです。そもそも家をリフォームしたばっかりなんですよ」


 僕が答えたが、電話の相手はしつこく食い下がってきた。


「なんと言われても売る気はありませんので」


 そう言って僕が一方的に電話を切ると、それからかかってくることはなかった。しかしその代わりにサングラスをかけた怪しげな人物が僕の家を直接訪ねてきたのである。


「何度か電話をしましたし、直接訪ねてきたこともあるんですが、やっとお会いできました」


 男は言いながら汗を拭いた。男の体臭とどこからか漂う饐えたアルコールの臭いが混じり合って僕は気持ちが悪くなった。しかし小西と名乗ったこの男がサングラスを外したとき、僕の意識が一瞬遠のいたのはそれだけが原因ではない。


 小西はサヤカの父親によく似ていたのだ。ぎょろりとした大きな目と太り気味の体形、短く刈り込んだ髪の毛、平均よりも濃い髭の剃り跡。目だけではなくあの男と共通する要素をいくつも持っていた。まるであの男が地獄から舞い戻ったかのようだった。


 目の前にいる男の口元がにやにやと歪みながら、僕に土地を売るようにと迫っていた。僕はその時どうやって返事をしたのかも覚えていない。危うく掴みかかりそうになるのをなんとか抑えながら僕は小西を必死で追い返した。


 去り際に小西が僕をひと睨みしたその目を見て、久しぶりに僕の中で怒りの感情が沸き上がった。


 お前は僕が殺したじゃないか。なぜまた戻ってきたんだ。復讐だというのなら、僕が受けて立ってやろう。お前の好きになどさせはしない。


 それから数か月ごとに小西は僕の家を訪れた。そしてその度に、小西の発する言葉は過激になり、段々と暴力をちらつかせるようになった。自分は暴力団と繋がりがある、お前だけじゃなく勤め先や家族にも話をしに行くつもりだ、夜道には気をつけろ……。僕はその都度手が出そうになるのを堪えながら適当にあしらうように心がけた。今何か問題を起こしてここを離れることになるのはまずい。警察沙汰は避けたかった。しかし僕がのらりくらりと躱していることが小西を益々増長させたようだった。こいつは口先で逃げているだけだ、強く押せば落ちるに違いない、というように思われたのだろう。小西は中々諦めようとはしなかった。



 そしてあの雨の日、業を煮やした小西はとうとう超えてはいけないラインを犯した。僕が玄関に出てみると、小西はナイフのものらしき柄をポケットからのぞかせながらその大きな目で僕を睨み付けていた。左手には火のついたタバコを持っており、時々煙を吸い込んでは僕の方に向かって吹き付けながら、小西は言った。


「なあ兄さんよ、痛い目にあうのは嫌だろう。さっさとこんなボロ家は手放してくれよ。こんな家壊しちまってさ、手に入れた金で他のところに新しく建てればいいじゃねえか」

「あんたにとってはその程度の物かもしれないが、僕にとっては大事な家なんだよ。いい加減諦めてくれないか」


 僕は煮えたぎるような怒りを押し殺して、努めて冷静に答えた。


「ちっ。こんなボロ屋が大事とか、頭がおかしいんじゃねえのか。まあ兄さんもこの家が全部燃えて無くなっちまえば考えを変えてくれるかもな、こんな風によ、ははは」


 小西はそう言いながらタバコを玄関の脇の壁にぐりぐりと押し付けてもみ消した。


 それを見た瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。まるで自分がタバコを押し付けられたような痛みが胸に生じて、気が付くと小西は玄関先に倒れて呻いていた。右手が痛い。どうやら自分でも意識しないうちに小西を殴り倒してしまったらしかった。


 小西は悪態をつきながらゆっくりと起き上がり、僕の足元に向けて血の混じった唾を吐いた。こいつ、まだサヤカの家を汚す気か――。


「てめえ、覚悟はできてるんだろうな」


 そう言うなり小西は僕を玄関の中へと突き飛ばした。倒れ込むと背中に痛みが走る。ちょうど上がり框に背骨をぶつけたらしかった。そのまま小西は玄関に侵入して来ようとする。僕は咄嗟にそのまま足を延ばして引き戸がそれ以上開くのをブロックした。


 すると小西は、力ずくで自分が通れるだけの幅を開こうとしたが、簡単にいかないと悟り面倒になったのだろう、あろうことか戸を思い切り蹴り倒した。幸い建具そのものが割れることはなかったものの、レールから外れた戸が僕の上に倒れてきた。


 その光景を見ながら、僕は秘密基地を破壊する老人の姿を思い出した。なぜ僕の大切な家はいつも理不尽に蹂躙されるんだろう。こいつも僕とサヤカの居場所が邪魔なのか。ここはお前の所有地じゃないのに。スローモーションのように不思議にゆっくりと流れる時間の中にあって、僕の頭はそんなことをぼんやりと考えていた。


 ふと気づくと、視界には玄関の中に侵入し、ポケットに入っているナイフを取り出そうと手を伸ばしている小西の姿があった。


 やばい。殺される。そう感じて、僕は痛みに耐えながら倒れた戸をはねのけて身体を起こすと小西の右手を掴んだ。全力でナイフの柄を握った右手の指を引きはがす。小西は指の痛みにナイフを取り落とした。そして僕の腹に蹴りをいれて引きはがすと、今度は素手で掴みかかってきた。


 そこから先はあまりよく覚えていない。覚えているのは僕に向かって見開いたぎょろ目と、玄関先でこと切れた小西の姿だけである。小西の首には僕の手のものらしき跡が残っており、それに沿うように半月型にいくつもひっかき傷ができていた。放心しながら自分の両手を見ると、小西が引っ掻いたようで喉の傷と同じような傷がいくつも残っていた。


 ああ、ついにあの男を殺してやった。僕はぼんやりと小西の死体を眺めながら思った。それも二度も殺してやった。これでサヤカは自由だ。僕は自由だ。僕の家は守られた。サヤカの帰るべき場所は守られた。僕たちの勝利だ。サヤカの父は二度死んだ。もう蘇ることはないだろう――。


 次に冷静さを取り戻したとき、僕は初めて恐怖した。このことが警察にばれたら逮捕されるのは間違いない。僕の過去も調べられるだろう。そうなればこの家の本当の所有者が僕ではないことがばれるかもしれない。万が一、サヤカの母親がここに戻ってくるようなことになれば……それでなくても逮捕されて何年もここを離れることになれば、誰がこの家を守れるのか。ダメだ。それだけは避けなければ。


 僕は必死に考えを巡らせた。いつかユウタが言っていた、「死体が見つからないのが一番ばれにくい」という話を思い出す。幸いにも今日は雨で、川の流れは速くなっている。川に流してしまえば、少なくとも発見は遅らせられる。さらに僅かでも死体の身元が分かりにくくなるように服も全て剥ぎ取ってしまうのだ。そうすれば万一死体が発見されても、すぐには身元を特定できまい。そうやって時間が経てば僕がやったという証拠も薄れてくる。とにかく僕の情報を残してはまずい、と思って小西の身体を玄関に引き入れ、玄関の戸をレールに嵌めなおした。そうしておいてから古い歯ブラシを持ってくると小西の爪の中を念入りに綺麗にする。ミステリ小説で読んだ知識だったが、僕の皮膚片が残っていると証拠になってしまうかもしれない。


 それから夜中まで待ち、死体を車に載せて下條橋のたもとへと向かい、そこで衣類を全て剥ぎ取って信濃川へと流した。硬直している身体から服をカッターナイフで切りながら剥いでいくのは中々骨の折れる作業だった。途中でタクシーが停めてある車の近くでうろうろしていたのでひやひやしたが、どうやら道を間違えただけのようだった。


 家に戻ってから玄関の中を綺麗に掃除した。小西の服は可燃ごみに出した。そうやって小西の痕跡を全て消しておいて、僕は警察が来ないことを祈りながら眠りについた。夢の中でサヤカの父と小西がかわるがわる現れては僕の首を絞めようとしてきて飛び起きると、雨の中で作業をしたせいか発熱しているのがわかった。


 大丈夫。僕は家を守ったんだ。何を咎められることがある。


 そう自分に言い聞かせながらもう一度布団に潜り込んだが、その夜は二度と睡魔がやってくることはなかった。

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