幕間5-1
あの男を殺してからしばらくの間は、僕は警察の影に怯えながらの生活を余儀なくされた。どこで何をしていても、ふと気が付くと周りに警察官の姿がないかきょろきょろと見回していて、周囲からは少し気味悪がられた。中には体調を心配してくれる者もおり、僕は「ちょっと最近眠れなくてさ、疲れているんだ」と答えた。
実際のところ、眠れていないというのは本当だった。毎晩のように悪夢を見ては飛び起きた。目を閉じるとサヤカの父親の二つの目玉が見開かれる光景が浮かび、その度に大声を上げないようにするので必死だった。
何日か経った頃、珍しくサヤカが僕の教室を訪ねてきた。そして、放課後になったらどこかで会いたい、と告げられた。
「いいよ、どこにしようか」
「私の家……は嫌だよね。どこか他に聞かれる心配がないところがいいんだけど」
「じゃあ僕の家にしよう。場所はわかるよね?」
「うん。家の人は?」
「今日は遅いって言ってたから大丈夫。」
僕が言うとサヤカは小さく頷いた。そして去り際に、「ありがとう、もう大丈夫だから」と付け加え、微笑んだ。
その顔を見て、僕の身体は何日かぶりに弛緩した。きっとうまくいったんだ。僕の計画は成功だった。その日、僕は久しぶりにまともに授業を聞いた。生物の授業など、真面目に聞いたのは入学して初めてだったかもしれない。
放課後、僕は学校にだらだらと残ることはせず、まっすぐに家に帰った。それから自分の部屋を片付け、掃除機をかけた。少し浮かれていたのかもしれない。ふと気が付くと鼻歌を歌っている自分がいるのに気が付いた。
一時間ほどそうやって部屋の掃除をしたり、リビングの埃を見つけてはふき取ったりしているうちにサヤカがやってきた。
「いらっしゃい。上がって」
僕が出迎えると、サヤカは小さな声でおじゃまします、と言って靴を脱いだ。僕たちはリビングのソファに座り、ペットボトルから注いだお茶を飲んだ。
しばらくそうやって黙ったまま喉を潤していると、やがてサヤカは、
「あのね」
と切り出した。
「私……長野市にある児童養護施設に行くことになった」
「えっ」
僕は絶句した。長野市の児童養護施設だって?ずっと一緒に居られるんじゃなかったのか?僕の中でいくつもの言いたいことが瞬時に膨れ上がり、喉のところで詰まってしまったようだった。僕のそんな様子には気づかないように、サヤカは説明を続けた。
「私の母親、いなくなっちゃったから。一人ではまだ生きていけないし、他にどうしようもないんだって。親戚のところや市内の施設も市役所の人が当たってくれたんだけど、ダメだった。長野にならすぐに受け入れできるところがあるんだって」
「でもあれからもう何日も経ったじゃない。これまでどうしてたの?これまでと同じようにすれば……」
「ここ何日かはクラスの友達の家に無理を言って泊まらせてもらってたの。でもそれを続けるのは難しいから。既に友達の親にも疎まれてるみたいだし」
「じゃあ僕の家においでよ。ここで生活したらいい。僕が親を説得するから――」
「無理だよ。私たち、結局他人だもの。どんなに好きでも、恋人になっても、結婚したわけじゃないんだから他人でしかないんだよ」
サヤカは寂しそうに笑った。
「明日には荷物をまとめて施設に移ることになってるの。当面の生活費は社会福祉協議会っていうところで貸してくれた。働き始めたら返せるときに返せばいいんだって。それに高校は向こうへ転入して、卒業するまで通わせてくれるみたい」
「あの家は、どうするの」
僕はやっとのことで尋ねた。口の中はからからに乾いていた。お茶をいくら飲んでもすぐに舌が干からびてしまうようだった。他に選択肢はないのだろうか。どうして僕らが離されなきゃならない。僕はそんな終わり方のために人を殺したんじゃない。僕は――。
「おばあちゃんの家の方は大好きだからまだ住んでいたいけど、新しい方はもう戻りたくないよ。あんな家、壊してしまえばいい。古い方の家だけ残して綺麗に無くしてしまえればいいのに」
サヤカは最後の方を絞り出すように言った。でも結局同じことだ。高校生が一人で暮らしていくすべがないのなら、あの家に住む選択肢はない。僕は必死に頭をはたらかせようとしたが駄目だった。何も思いつかない。
「僕はどうすればいいんだろう」
声に出して言ってみると、途端に今まで堪えていた絶望的な気分が全身を包み込むように感じられた。どうにもならないのはわかっていた。自分が無力であることが悔しかった。
「待ってて。私が大人になって戻ってこれるのを。そうしたら一緒に暮らそうよ」
サヤカの言葉が静まり返ったリビングに虚しく響いた。そうだ。待つしかない。僕も大人になって、サヤカを支えられるようになるまでじっと待つしかないのだ。頭ではわかっていてもその現実は受け入れがたく、僕の身体のあちこちをちくちくと刺激した。
それから僕は高校を卒業し、地元の大学へと進学した。サヤカのことはずっと気にかかっていたが、今のようにSNSなどない時代だし、彼女はずっと携帯電話を持つことができなかったのでメールも電話もできない。それでも高校生の間は、互いに何度か手紙をやりとりした。
『りっくんは大学に行くんだよね。私は卒業したら働かなくちゃいけないけど、りっくんが大学を出たらそのときにはきっと帰れるといいなと思います』
サヤカが僕に最後に送ってよこした手紙にはそう書かれていた。しかし大学に入ってからしばらくして僕が送った手紙は、宛先不明で戻ってきてしまっていた。施設から出て一人暮らしを始めたという住所に送ったものである。サヤカが新しい住所を書き間違えたのだろうか。サヤカとの連絡手段が無くなってしまうと僕の心には大きな穴が開いたようだった。
一年ほどそんな状態が続き、僕はとうとう耐えきれなくなって実際に訪ねても行った。しかしその住所にいたのは胸の悪くなるような香水をこれでもかと身にまとった中年の女で、サヤカのことを尋ねる僕を胡散臭そうに眺めまわすだけだった。
何度か施設にも問い合わせてみたが、個人情報だからといって教えてはもらえなかった。その度に僕はサヤカが言った、「私たち、結局他人だもの」という言葉を思い出して無力感に苛まれた。
仕方がない、何か思いもよらないことがあったのだろう、と僕は自分を無理に納得させた。大丈夫だ。いずれ帰ってくるんだから。僕はここで待っていればいい。
空家になってしまったサヤカの家には草が生い茂るようになったから、僕は時々行って草刈りをすることにした。といっても敷地全てではない。新しい家の周辺には一切手を付けず、古い家の周りだけを刈るようにしたのだ。サヤカにはこっちの家だけあればいい。ここを守るのが僕の次の使命だ。彼女がいつか帰って来られるように。
大学を卒業して、M市にある企業に就職してからも、サヤカは帰ってこなかった。僕はいつか彼女が帰ってくると信じて仕事に打ち込みながら、家の手入れを続けていた。家は人が住まなくなると劣化が激しくなる。風通しが悪くなったり、あるいは一部が破損してもそれに気付かないためそこから傷みが侵食していくのだ。僕の仕事は草刈りだけでなく、空気の入れ替えや外観のチェック、野生動物が住み着いていないかの確認に時々投げ込まれるダイレクトメールの処分といった具合に多岐に渡った。それでもまるで面倒だとは思わなかった。
そんな生活を続けて二年、三年と経ち、職場にも慣れてくると徐々に忙しくなり、サヤカの家の手入れまでやる時間が取れなくなっていた。どうしようもなくなった僕は母に相談した。人を殺したことを除いた、他の全ての事情を打ち明けると、母は不思議なことにごく自然に受け入れてくれ、仕事に追われる僕に替わってサヤカの家の手入れをしてくれるようになった。
僕の東京への転勤が決まったのは就職して五年目のことだった。僕は最初に上司から転勤を打診されたとき、断ろうと思っていた。サヤカの家のことも気になるし、いつ彼女がひょっこり帰ってくるかもしれない。この街で待っていると言った以上、他の土地に引っ越すことなど考えてもいなかったのだ。しかしこの話を断ると、社会人としての僕の人生はレールから大きく外れることになる。僕の働いていた会社では東京の本社に転勤しないということは出世が全く望めなくなるのと同義だった。
迷っている僕の背中を押してくれたのは母だった。
「理人、あなたが自分の人生をかけて好きになった人なら私やお父さんにとっては娘と同じことなのよ。だからあなたは自分の足で立てるように仕事を頑張りなさい。家のことは心配しないで。私がきちんと手入れをしておくから」
母の言葉に僕は東京行きを決心した。旅立つ前の日、母には、サヤカが戻ってきたらすぐに知らせてほしい、と何度も念を押した。
東京での一人暮らしは、ずっと信州の小さな街で過ごしてきた僕にとってはあまりにも寂しかった。ここには信州の何十倍もの人がそこかしこに溢れかえっている。街は賑やかで、夜になってもまるで静まる気配を見せない。それでもその真ん中で、僕は叫びだしたくなるくらいに孤独だった。会社にいるのは同期とは名ばかりの出世競争のライバルでしかなかった。毎日満員電車に揺られて出勤しながら僕はずっと同じことばかりを考えていた。
この電車には何人の人間が乗っているのだろう。その一人ひとりに人生があって、家族や友人がある。それだけ人の繋がりの網が広がっているのに、なぜ僕だけが孤独なのだろう。それともみんな平気な顔をしているけど、心の中ではやはり絶叫したい衝動と戦っているのだろうか。
寂しさを紛らわせようと、職場の同僚に連れられるがままに女の子がいるような店にも行ってみた。しかし薄明りの下で見る化粧のきつい女の子たちは、みんな同じ顔に見えて仕方がなかった。僕はビールを一杯飲んだだけで店を出て、それから二度と行こうとは思わなかった。同じ顔の女の子がかわるがわる僕の隣に座るたびに、僕はサヤカのことを思い出して余計に辛くなるばかりだったからだ。
家に帰って一人で眠っていると、時々あの夜の悪夢を見た。夢の中ではサヤカの父親は何度殺しても息を吹き返し、僕をその大きな目玉で睨み付けてきた。僕が、お前がいるからサヤカが自由になれないんだ、と言うと、首から上だけになった父親は、貴様に何ができるんだ、この殺人鬼が、と僕をなじった。そういう時、決まって僕は大声を上げて飛び起きる。そして真っ暗な部屋の中で起き上がり、パトカーのサイレンが聞こえるのではないかと耳を澄ませるのだった。。
ある日曜日、僕が部屋に籠って一人本を読んでいると、携帯電話が鳴った。東京に来てからしばらくして前の携帯が壊れ、番号が以前と変わっていたから、番号を知っているのは職場の人間か両親しかいない。しかしディスプレイには見覚えのない数字の羅列が表示されていた。誰だろう、セールスか何かだろうか、と訝しみながら電話を取ると、懐かしい声が聞こえてきた。
「よお、りっくんか。久しぶりだな」
「カズマ?どうしてこの番号を知ってるの?」
僕は何年かぶりに聞いた旧友の声に驚きながらも、自分の中にまだ喜びという感情が残っていたことを感じていた。
「りっくんのお母さんに聞いたんだよ。それからサヤちゃんのことも聞いた。色々大変だったみたいだな。ショックはわかるよ。自分の力じゃどうしようもないところで引き離されたんだもんな」
「ああ、うん。ありがとう」
僕は曖昧に答えた。
「それでな、ちょっとそのことで教えておきたいことがあって電話したんだ。サヤちゃん、多分今東京にいるぞ」
「えっ、どうして知ってるの?会ったのか?」
「いや、本当にたまたまなんだけどさ。俺、今長野市に住んでるんだよ。こっちで就職したから。それで何か月か前に駅前のキャバクラに接待で行ったんだよ。信じられるか、今時接待でキャバクラだぜ。うちのお偉いさんも相当古い頭の持ち主だわ」
「そうだね。それでどうしたんだ」
「慌てるなよ。俺はりっくんみたいに要領よく喋るのは苦手なんだよ。それで俺のところに付いてくれた子と出身地の話をしてたんだ。俺が梓市の出身だって言ったら、その子が、前に勤めてた店で一緒に働いてた子が梓市だったなあ、とか言うもんだから、どんな子だったって聞いたんだけどな。どうも年も俺と同じだし、見た目の特徴やなんかがサヤちゃんによく似てたからさ。もしかして本名は園田小夜香とかいうんじゃないだろうね、って冗談半分で言ったんだ」
「そしたら……」
「そのまさかだった。本当は本名なんて客に喋っちゃいけないんだろうけど、俺が言い当てたもんだからびっくりして教えてくれたよ。まあ今勤めてる店の子じゃないからってこともあったのかな。それで今どこにいるのかって聞いたら、他の子に誘われて二人で東京へ行ったみたいだって言うんだよ。流石に次の店の名前までは知らなかったみたいだけどね」
カズマの説明を聞きながら、僕はほとんど放心状態だった。サヤカもすぐ近くにいるのか。この東京で、僕たちは僅か数十キロの距離に暮らしていたのだ。
僕はカズマからメールアドレスを教えてもらい、それを携帯に登録した。それからは僕の東京生活に彩りが加わった。カズマとのくだらないメールのやり取りと、サヤカを探すという目的の二つだ。仕事をし、カズマとテレビやゲームの話題でメールを交換し、そして夜にはサヤカを探して夜の街へと出て行った。幸い僕の会社は給料だけはよかったから、そんな生活でもなんとかやりくりすることはできた。会社の同僚からは、僕は夜遊び好きだと思われていたようだが全く気にならなかった。
しかしいくら探しても、サヤカのいる店は見つけることができなかった。考えてみれば当たり前のことだ。東京中に女の子が在籍する夜の店が何軒あるだろうか。サヤカや僕と同じ年頃の人間が何人暮らしているだろうか。その中からたった一人を、それも何の手がかりもなく探し当てるのは、広大なジャングルの中にいる一匹の虫を探し出すようなものだった。
それでもたった一度だけ、彼女の事を知っているという人に会ったことがある。やはり夜の店で働く女の子で、同じ店にいた頃に仲良くなって何度か家にも遊びに行ったらしい。
「彼女、いつも地元に帰りたがってたわよ。でも自分は汚れてしまったからもう帰れない、って口癖みたいに言ってた。綺麗な子だったわ。」
僕はその店に何度も通い、その度にその子を指名して話を聞き出した。彼女は最後には折れて、内緒だからね、と言ってサヤカが住んでいたという場所を教えてくれた。僕は熱に浮かされたようにそこに向かったが、そこで待っていたのは古ぼけたアパートと、サヤカの次の次くらいに入居したらしい太った老婆だった。そのことがあってから、段々と夜の店を巡る頻度が減って行った。やがて僕は昇進し、仕事は益々忙しくなり、残業時間も増えていった。三十代になって昔のクラスメイトや職場の同期が次々と結婚していっても、僕は相変わらず一人だった。寂しさや孤独といった感情はとうの昔に麻痺してしまい、ほとんど灰色一色にしか感じられない生活の中で、たった一つ光を放つサヤカの面影を胸に抱きながら、僕はいつしか東京の街に埋もれていった。
僕の生活に転機が訪れたのは二〇一七年の冬のことだった。
年も押し迫った一二月の終わりに父が脳卒中で倒れたのだ。ようやく長い会社勤めを終えて退職し、これからは趣味に生きるのだ、第二の人生の始まりだ、と豪語していた矢先のことだった。発見が早く幸い一命はとりとめたものの、左半身に麻痺が残ることとなってしまった。母の身体の調子がそれほど良くなかったこともあり、父は介護施設に入所することになった。僕は月に何度か実家に帰っては、父の様子を見に行ったり、母の話し相手になったりした。それまでは盆や正月にもほとんど帰る暇がなかったから久しぶりに見る故郷は懐かしく、皮肉にも僕の灰色だった生活にやっと色彩が戻ってきたようだった。
仕事で担当していた大きなプロジェクトがあってM市の支社への転勤は認められなかったものの、休日出勤はなんとか減らしてもらった。時間に余裕ができたので、実家に帰った時にはサヤカの家を訪れ、母と一緒にあれこれと手入れ作業をした。古く立派な家はそれでもあちこち傷んではいたが、母が丁寧に掃除をしてくれていたこともあり、まだなんとか住めるくらいの状態を保っていた。僕も暇をみては傷んだところを自分で修繕するようにした。素人仕事ではあったけれど我ながらよくやったと思う。一方でサヤカの父が死んだ新しい方の家は完全に放置され、今やどちらが傷んでいるかもわからないほどになっていた。
父が倒れてから二年ほどして、今度は母にガンが見つかった。見つかった時には既に身体のあちこちに転移しており、一年と少しの闘病生活の末に母はあっけなくこの世を去った。まだ六十六歳だった。
母は息を引き取る間際まで、父の介護のこと、僕の仕事のこと、そしてサヤカのことをずっと気にかけてくれていた。
「いつかまた会えるといいね」
と病床の母は僕に言った。
「私は先に向こうで待っているから、理人は彼女と一緒にゆっくりおいで。二人で年を重ねて、私よりもよぼよぼになってから、手を繋いで来なさいね」
きっと母は、僕がまたサヤカに会えるのを心の底から信じてくれていたのだと思う。僕自身でさえもう二度と会うことはないのだと頭のどこかで理解していたのに。きっと孫の顔も見たかっただろう。僕の結婚式にも出たかっただろう。そういった全てのことを自分の中に押し込めたままに母が逝ったとき、僕は数十年ぶりに涙を流した。
これほど親不孝な人間はいないだろう、と思った。それでも僕はこれまで生きてきた道程を否定することはできなかった。僕は父に会うために相変わらず数か月に一度帰省し、その度にサヤカの家に通った。彼女にもう一度会いたいという望みが虚しいものとなりつつある中で、今やこの家は僕にとっての人生そのものだった。この家を守ることだけが僕の生きる価値であり、希望であり、目標だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます