第2話
新宿に向かう特急あずさは週末ということもあってそれなりに混み合っていた。ペットボトルのお茶を飲みながら、尊はミステリ小説のページを捲った。
希実は、園田陽子の娘に会うことが樋口の犯行動機を解明するのに役立つ筈だ、と依田を説得したらしかった。事実、尊は詳細を聞いていないが、陸雄の父親が樋口について語った内容からするとその可能性は大いにある、という話だった。
「依田さんは来なくてよかったの?日岐一人で大丈夫なのか」
尊は甲府の街並みを眺めながら欠伸をしている希実に尋ねた。
「うん。まあはっきり言って娘さんに会ってもうまくいくかは五分五分だからね。そんなところに二人も送り込めないってことだと思う。アンくんが一緒に行ってくれるって言ったらそれでOKでちゃった」
希実が少しはにかむように笑った。自分が依田から信用されているということなのか、それとも期待されていないだけなのかはわからなかったが、依田がいればいたでなんとも気詰まりだっただろうからありがたい話ではあった。
「そういえば娘さんのところに電話してみた?」
「うん。昨日の夜何度かかけてみた。けどダメだったよ。留守電に切り替わるだけで」
「そっか。まあいいか、どっちにしても電話だと話しにくい部分もあるし」
希実はチョコレートを口に放り込んだ。目の前の簡易テーブルに置かれたチョコレートの箱がほとんど空になっているのを見て、尊も荷物の中から先ほど駅で買った小さなスナックを取り出した。こうなると半分修学旅行のような気分である。思えば大学を卒業してから、誰かと一緒に旅行に行くことなど全くなかった。一人旅というのも嫌いではないが、いざとなるとどうしても億劫になってしまう。
念のために一泊できるだけの準備はしてきてあった。折角自腹で東京まで足を運ぶのだから、うまく行き会えなかった場合には翌日までは粘るつもりだった。とはいえ、特段ホテルなども予約してはいない。希実は日帰りのつもりかもしれないし、自分一人ならいざとなればネットカフェにでも泊まればいい、と尊は考えていた。空家問題を解決する、という目的はあるものの、決して公式な仕事というわけではない。どちらかと言えば自分が乗りかかった船の終着点を知りたい、という興味から始まった旅行である。当然出張費などは出ないし、そうなれば宿もできるだけ安くあげたいところであった。
「アンくん、今日は東京に泊まるつもりなの?」
尊の考えていることを見通したように希実が言った。
「そうだなあ。正直ノープランなんだけどね。でもあんまり遅く帰るのも面倒だし、泊まっていけるように準備だけはしてきた」
尊がそう言いながらスナックの袋を渡すと、希実は一つつまんで口に入れた。
「さっきからよく食べるね」
「うん。電車の旅はこうでないと」
言いながら希実はもう一つスナックを取り出す。よく食べる割には華奢な手が少し油で光っていた。
せっせと食べている希実を眺めているのはハムスターか何かを見ているようで面白かったが、まだ到着まで時間がある。尊は今のうちに少し寝ておくことにした。ここ数日は疲労がたまっているのか、昼寝をしないと一日身体がもたない。スタミナのつくようなものを沢山食べなければいけないのは自分の方だな、と考えながら、尊は「少し寝ていくよ」と希実に告げてシートを倒した。幸い後ろの席には誰も座っていない。
「うん、着いたら起こしてあげよう」
希実は食べ終わったスナックの袋を細長く折りたたんで結びながら言った。
新宿駅の乗り換えを案内するアナウンスで尊は目を覚ました。電車と言うのはとにかくよく眠れる乗り物である。尊が欠伸をすると、希実はスマートフォンをポケットにしまいながら、
「なんだ、起きちゃったのか。折角どうやって起こそうか考えてたのに」
と悪戯っぽく笑った。
やがて電車が新宿駅に滑り込み、尊と希実は人混みの中を山手線のホームに向かった。いつ来てもこの駅は凄まじいところだな、と尊は押し寄せる人の波を掻き分けながら思った。とにかく広くて複雑な上に、人口密度は梓駅の何十倍もある。
二人がホームに着くとすぐに電車がやってきた。それに乗って今度は渋谷で乗り換えである。群衆のざわめきと電車の轟音で、ほとんど会話をすることもできなかった。
やっとたどり着いた渋谷駅で人の流れに押し流されるように外に出ると、東京のごみごみとした街並みが広がっていた。土曜日の昼間ということもあるのだろう、駅を出てもほとんど変わることのない人口密度で尊は息が詰まりそうだった。
「どっちへ行くの?近くなの?」
希実が周囲のノイズに負けないようにか、少し大きな声で尋ねた。
「住所からすると東京大学の近くだね。ここから今度は井の頭線だけど、何か食べて行こうか」
尊も同じように大声で言うと希実が頷いた。時計は十二時半を指している。尊の腹は先ほどから何度も文句を言っていた。
手近にあったラーメン屋に入ると、何人かの客が並んで順番を待っていた。一瞬他の店にしようか、と言いそうになったが大人しく行列の最後尾についた。考えてみれば土曜のこの時間帯に、行列ができていない店など駅の周辺にはあるまい。もしあったとすればそれはよほど美味しくないのだろう。
「勢いで入っちゃったけど大丈夫?お腹空いてる?」
尊が聞くと、希実は頷いた。
「うん。さっきからぐうぐう鳴ってる。お菓子じゃやっぱりもたないね」
「一体その細い身体のどこに消えたんだよ、あれだけのお菓子が」
「普段はこんなに食べないんだけどね。きっと電車の振動で細かくなってるんだよ。それにほら、ラーメンは別腹って言うし」
呆れている尊に対して、希実は真面目な顔で訳のわからないことを言った。
昼食を終えて店を出ると、二人は京王線に乗り東京大学の駒場キャンパスを目指した。山手線に比べるとわりと乗客も少なく、二人は並んで座ることができた。尊は目的地の住所をスマートフォンの地図アプリに入力して場所を確認する。大学の敷地から二ブロックほど離れた学生向けのアパートが林立しているあたりのようだった。
「さて、ご在宅かな」
駅を出て東大のキャンパス沿いに歩きながら尊は呟いた。乾いた冷たい風が吹き抜けて二人の身体から体温を奪ってゆく。並んで歩いていると何人かの学生らしい集団とすれ違った。東大生だとすれば彼らにはきっと輝かしい将来が待っているのだろう。あの中の何人かは官僚や医者、弁護士といった職に就くのかもしれない。あるいは一流企業に勤める者もいるだろう。もしかすれば将来の希実の上司になるかもしれないキャリア警察官を選ぶ学生もいるだろうか。
「この仕事をしてると、人生ってなんだろうなって考えるよ」
尊は横を歩く希実に話しかけた。
「例えばどんなときに?」
「例えば園田さんの戸籍を見てると、旦那さんが早くに亡くなっていたり、それからすぐにあの家を出て転々としていたりする。入院してからほとんど連絡をとろうとしていないことを考えれば、娘さんが独立してからはきっと交流も少なかったんだろう。結婚して子供が生まれて、っていう、普通の価値観でいえば幸せな筈の人生がどうしてそうなってしまったんだろうか。それともそれでも幸せなのだろうか、とかさ」
「そうか、色んな人の人生を覗き見るようなものなんだ」
「うん。障害福祉課にいたときも、建築指導課で空家の担当してた時も、いつもお客さんは困っている人だからな。そういう人たちの話を聞いていると、世間でごく当たり前に語られている普通ってなんなんだろうな、って思ったりする」
「それはわかるよ、私も」
希実も同意した。
「刑事の仕事で相手をするのって犯罪の被害者か加害者が多いから。理不尽に何かを奪われたり、貧困の中でどうしようもなくなって罪を犯したり、そういうのが当たり前の世界だから。何も起きない平和な人生がどれだけ貴重なものなのか実感するよね」
希実は寒そうに手をすり合わせている。尊は手を握ろうかと少し考えたが止めておくことにした。代わりにスマートフォンを取り出し、地図をもう一度確認する。
「この先の角を右に行ったところだ」
尊は指で示しながらそちらへ向かった。気付けば周囲は住宅街になっていた。ところどころに学生相手の安くて量の多そうな飲食店がある。尊は自分の学生時代を思い出して懐かしくなった。こういう店には尊もよく通ったものである。
洋食屋の角を曲がると目指すアパートが見えてきた。鉄筋コンクリート造りの三階建てで、隣の古びたビルとほとんど一体化しているのではないかと思えるほど近接している。近づいてみるとまだ新しいらしく、外壁にもあまり汚れがついていない。大きさと部屋数からして、学生向けのワンルームマンションというよりは新婚世帯などを対象にしたアパートのようだった。
「何号室?」
希実がアパートの郵便受けの前に立って尋ねた。
「三〇四号室だね。三階だな」
「三〇四……あった。これだ。園田さん」
尊も近づいて見てみると、確かに郵便受けには園田という名前がある。この場所で間違いないようだった。
ゆっくりと階段を登っていく。希実も尊の後に続いた。三階に着くと、陽子のかつて住んでいたアパートとは違う、綺麗に保たれた廊下が続いていた。その一番奥の三〇四号室のドアの前で、尊はもう一度表札にある名前を確認した。この部屋で間違いない。
チャイムを鳴らしてしばらく待つ。しかし中で人の動く音はしなかった。
「留守かな。休日だし、どこかに出かけているのかも」
「そうだな。一応、隣の部屋にも聞いてみるか?」
尊が提案すると、希実は少し考えて、
「とりあえず今回はいいよ。少し時間潰してからもう一回来よう」
と答えた。
仕方がないので二人は一度渋谷まで戻り、街中をぶらぶらと散策することにした。流石に梓駅前とは違い、どこを歩いても面白そうな店があちこちにある。
「ああ、この店前にテレビで見た。すごい並んでるね」
希実はアイスクリームか何かを売っているらしい店を見つけて声を上げた。白とピンクのファンシーな店構えの前に、客が大行列を作っている。その長さは先ほどのラーメン屋の比ではない。
「どうする、並ぶか?」
「いや、いいよ。そこまでして食べたいわけでもないから」
「そう言いつつ目線はずっとそっちだな」
尊が指摘すると、希実は慌てて前に向き直った。
結局二人は道玄坂の途中にあるハンバーガーショップでしばらく休憩をすることにした。コーヒーを二つ注文し、希実はそれに加えてポテトフライを頼んだ。本当によく食べるな、と尊は苦笑いする。席についてコーヒーを啜りながら、尊は今度こそポテトを頬張る希実を眺めていることにした。
「そういえば前にも聞いたけど、陸雄君のお父さんはどういう内容の話をしていたの?」
「うん、そのときも言ったように詳細は言えないんだけど」
希実は口に入れたポテトをコーヒーで流し込んでから答えた。
「動機の解明に役立つかもしれない情報ではあった、てところかな」
「それはつまり、これから行く娘さんのことが関係しているってことなんだよな」
「多分だけどね。ただ、こないだも言ったけどダメ元だから。まあ行って聞いてみればわかると思うよ」
尊は腕組みをして考え込んだ。これから二人が会おうとしているのは、小西智行の殺害と土地や家屋の所有者問題、その両方を辿って行った先にいる人物ということになる。彼女は一体何を知っているのか。あるいは知らないのか。
尊はカップに残ったコーヒーを一息に飲み干した。ぬるくなっているがそれでもまだ心地よい香りが鼻腔に抜ける。都会に来ると適当に入った店でもコーヒーすら上等だな、と尊は一人で感心しながら、ウェイターを呼んでおかわりを注文した。
夕方の五時を回ったところで、もう一度アパートに向かうことにした。帰宅する人が増えてきたのか、京王線の車内は先ほどに比べて幾分混雑している。目的の駅で降りると、つい数時間前に通った道を再び並んで歩いた。今度は寒さのせいか、それとも園田に会う期待感からか、二人とも口数は少なくなっていた。
すっかり暗くなってはいたものの、道順に迷うことはなかった。通り沿いにある食堂からは揚げ物のいい匂いが漂い始めている。先ほど通った時には気づかなかったが居酒屋も少しあるようで、学生たちが早くも店の前で待ち合わせをしていた。
アパートの階段を今度は迷いなく登る。三階まで一気に上がると、尊は少し息切れしていることに気付いた。元々そんなに真面目に運動をするほうではないが、それでも二十くらいの頃から比べると随分体力が落ちていることに今更ながら気づかされた。
三〇四号室の前に立って一呼吸置くと、改めてチャイムを鳴らした。希実もすぐ斜め後ろで固唾をのんで反応を待つ。しかし今度も反応はなかった。
「どうする。もう数時間潰そうか。それとも今夜はどこかに泊まる?」
「ちょっとその言い方だけ聞くとやらしいね。でもそうだな……とりあえず宿を探した方がいいかもしれない」
希実が苦笑しながら言ったところで、尊は階段の方から聞こえてくる足音に気が付いた。カツン、カツン、という高い音からするとヒールのある靴らしい。とすれば女だ。
希実も足音に気付いたようで、階段の方に注目している。少し待っていると、薄暗い階段灯に照らされて髪の長い女の頭が現れた。女はそのまま廊下に出ると、うつむき加減のまま奥へと進んでくる。そして二部屋目を通り過ぎたあたりで顔を上げ、こちらに気が付いたらしかった。
「あの……」
と女が不審げに細い声を上げた。廊下の電灯の光量でもわかるくらいに儚げで美しい女だ。とても四十歳には見えない。鼻筋の通った整った顔の上で長い睫毛が何度か上下した。この人物に間違いない、と直感しながら、尊は女に声を掛けた。
「突然お訪ねしてすみません。私、長野県の梓市役所の杏と言います。失礼ですが、
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