第4章
第1話
尊が樋口に面会をしたいと申し出ると、希実は早速に上司に掛け合ってくれたらしかった。警察としても動機の解明に繋がる可能性があるのなら、ということで樋口へ面会をするかどうか聞いてみてくれることとなったのである。
不法侵入の問題については希実にも話してあるので、警察の取り調べの中で確認することもできたのだが、やはり詳細となると尊が一番詳しい。それで希実を同席させたうえで面会させてみては、という判断だったようだ。
通常、弁護士への接見を除いて、拘留中の被疑者と面会できるのは一日に一回のみとなっている。そのためその一回を家族や友人との面会に充てるケースが多いが、樋口には面会を希望する家族がいないようであった。何度か陸雄の父親が訪ねてきた程度らしい。
「てっきり拒否されるかと思ったけどな」
尊は拘置場に繋がる廊下を歩きながら希実に話しかけた。
「警察のほうで?」
「いや、樋口さんがさ。彼にとっては刑事も俺たち市役所職員も大して変わらないと思っているのかと思ってたから。一般の面会の扱いなんでしょ、これ」
「ああそういうことか。そうだね、私もあっさり了承するとは思わなかったよ。まあずっと警察の取り調べに黙って耐えていたから、刑事以外の人と話す機会はありがたかったんじゃないかな」
拘置場の中に入ると、梓署の内部と比べて少し肌寒い空気が二人を包んだ。尊は中に入るのは初めてである。物珍しくあちこち眺めまわしながら、希実の後に続いて廊下を進んだ。その先で扉をくぐると、そこはドラマなどでよく見るような透明の板で仕切られた部屋になっていた。その向こうに樋口が座っている。流石に連日の取り調べに憔悴しきっているらしい。目には生気がなく、ぐったりと背もたれに身体を預けていた。
尊は深呼吸をすると、板を挟んで目の前に座り、疲れ切った男に声をかけた。
「こんにちは。お久しぶりです。以前にお話しさせていただいた、市役所の杏です」
「ああ、その節はどうも。しかしせっかく会いに来ていただいたのは嬉しいんですがね、どうせまた空家のことでしょう。私からお話しできることはありませんよ」
樋口はやっと聞き取れるくらいの声で投げやりに言った。尊は構わず続ける。
「園田陽子さんに会ってきました」
「そうですか。それがどうかしましたか」
「園田さんは、あなたがここを購入したという時期よりもっと以前から、アルツハイマーを患っています。売買の約束などできない状態だったんですよ」
尊の言葉を聞いた樋口の表情が固まった。少しの間沈黙が降りる。樋口は何か言おうとして何度か口を開けたり閉めたりしていたが、やがて、
「だからといって約束ができないということにはならないでしょう。私と話をしたときは一時的に状態がよかったんじゃないですか」
とゆっくりと考えるように言った。
「しかし、園田さんはその頃からずっと入院しているんです。当然看護師も付いている。何より園田さんは身寄りがほとんどないようでね、看護師さんも身の回りの世話を焼いてくれているんですが、看護師さんも口を揃えて、樋口さんのことを知らないと言っているんですよ」
今度こそ樋口は完全に黙った。
「樋口さん、我々市役所としては今回の事件のことは関係ないんですよ。ただ廃屋の管理をすべき所有者が誰かということを明らかにしたいだけなんです。まあこの隣にいる日岐刑事はそうもいかないでしょうが。あの廃屋に困っている人がいるんです。本当のところを教えてもらえませんか」
「あれは……」
樋口は逡巡した表情を見せながら何かを言いかけた。そしてまた黙り込む。しかししばらくの沈黙の後に、意を決したようにもう一度口を開いた。
「あれは、あの家は、ずっと昔に僕が所有するようになったものです。所有者の許可を得て。間違いなく僕の家です」
言葉を選ぶようにゆっくりと、しかしはっきりとした口調で樋口は続けた。
「ですが、その時に廃屋のことまでは所有者と話をしなかった。なので僕としては所有権があるのは家とその敷地だけだと思っています」
「その所有者というのは誰ですか。園田陽子さん?」
「それは言えません」
樋口の話はそこまでだった。あとは何を尋ねても何も返事をしない。やがて面会時間の終了が係員から告げられ、尊は諦めて立ち上がった。その時、黙り込んでいた樋口がもう一度声を発した。
「そうだ、杏さん。ひとつだけお願いがあるんですが」
既に出口へ向かおうとしていた尊は立ち止まり振り返った。
「なんでしょうか」
「僕はまだしばらくあの家に帰れそうにありません。あの家の除草と、換気だけでも誰かに頼んでもらえませんか。代金についてはきちんと支払えるよう警察にお願いしますので」
「わかりました。それくらいであれば、シルバー人材センターあたりでやってもらえると思います。後日警察を通じてシルバーから連絡を入れるよう頼んでおきましょう」
「ありがとう。感謝します」
尊は今度こそ希実と一緒に出口に向かった。随分家のことが気になるらしい。尊としてもあのまま空家となってしまうとまた隣の山﨑から苦情が出かねないので、この申し出はありがたかった。
「もしかしたら、その線から何かわかるかもしれない」
署の休憩スペースへ戻った尊が自動販売機でコーヒーを買って飲んでいると、希実がカフェオレを啜りながら言った。
「その線っていうのは家の所有権の話?なんでそう思うの」
「うん、実はあれから何度か他の刑事が陸雄君のお父さんに事情を聞きに言ってね、ちょっと興味深い情報があったもんだから」
「どういう話?」
「詳しい内容はまだ裏が取れてないし、流石にディープな個人情報にもなるからちょっと言いにくいんだけどね。動機につながる手がかりかもしれない。樋口が昔書いていたらしい小説のこととかなんだけど」
「小説なんて書いてたのか。そうは見えないけどな」
「昔の話を色々聞けたんだよ。それでさっき樋口が言っていた所有者っていうの、もしかしたら園田陽子さんの娘さんのことかもしれない。川本さんがそんなことを言ってたみたい」
希実は遠くを見つめるようにして考え深げに言った。
「今日の樋口の態度を見てたら、それが正解なんじゃないかと思い始めた。その娘さんに一度話を聞いてみたほうがいいかも」
「実は俺のほうでも一度娘さんを訪ねる必要があるかなと思ってたんだよ。それでちょうどこの土日にでも旅行がてら行ってこようかと思って」
尊はふと思いついたことを口にした。実のところ以前から決めていたわけではない。しかし今日の樋口の話を聞く中で、その方が話が早いと思い始めていたのだ。
「土日に?平日じゃなくて?」
希実はそれを聞いて、大きい目をさらに見張った。
「うん、うちの課の出張予算はぎりぎりだからね。そんなところに回せないとは思うし、まあ自腹で行ってついでに東京観光でもしてこようかなって思ってね」
「そうか……娘さんってどこにいるか知ってるの?」
「知ってる。確か前に園田陽子さんのところを訪ねたときに看護師から聞いたんだよ。メモしてあった筈だ。今詳しくは思い出せないけど東京だったよ」
それを聞いて希実はしばらく考え込んだ。そしておもむろに口を開き、少し迷った様子を見せながらも、
「ねえ、それ私も一緒に行っていい?」
と聞いてきた。今度は尊が目を丸くする番だった。
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