幕間3-2

 翌日からもサヤカは図書室には勉強をしに来た。結局、僕にはケガの理由を尋ねることができなかった。いや、正確に言えば尋ねようとはした。しかしサヤカは、先回りをして首を横に振り、


「ごめんね、心配かけて。なんでもないから」


 と僕の質問を全てシャットアウトしてしまった。


 どちらにしても受験が近づくにつれて、僕たちは勉強に没頭せざるを得なかったから、その後も聞く機会は訪れなかった。サヤカの顔の傷は徐々に薄れて眼帯で隠す必要もなくなり、僕はいつしかそのことをあまり気にしないようになっていた。


 サヤカの数学の成績は、今や僕が教える必要のないくらいまでよくなっていた。元々理解力は優れているのだろう。保健室登校では自分で教科書を読んで一から学ばざるを得ず、それで時々大事な考え方のポイントが抜け落ちていたということのようだ。むしろ僕の方が、理数科を受験する都合上ケアレスミスすら許されないシビアな基準に翻弄されて必死になっていた。


 受験の当日は、予報通り雪もなく、あらゆることがスムーズに終わった。


 僕は坂代高校の教室を出てからしばらく校内を歩き回った。今日の出来なら文句なく合格だという確信があった。理数科の合格ラインは概ね四百二十点前後だと聞いていたが、どの教科も九割はできたはずだ。久しぶりに晴れ晴れとした気分で、自分が通うことになるだろう校舎や体育館、部室棟なんかを見て回り、玄関に戻ったところでユウタを見つけた。


「あれ、ユウタもここ受けてたのか」


 僕は少し驚いて声を掛けた。


 小学校の頃は少なくとも勉強のできる部類ではなかったから無理もないと思う。ユウタは昔のように淡々とした様子で、


「正直ぎりぎりだと思うけどね。やるだけはやったからあとは毎日お祈りするだけだよ」


 とにやりとした。


 中学の間はクラスも異なるためあまり顔を合わせることがなかったが、もし合格すれば最初から友達がいることになり心強い。カズマと離れるのが決まっている今、なんとなく嬉しかった。


 久しぶりに顔を合わせたこともあり、帰り道では珍しく話が弾んだ。ユウタがこんなによく喋るのを初めて見たと思う。受験のストレスから解放されたからだろうか。


 ユウタは相変わらず読書が好きで、休みともなると古本屋を巡っては安い小遣いを掘り出し物の文庫本につぎ込んでいるらしい。そのおかげか話の引き出しが多く、話していて興味を惹かれることばかりだった。


「最近は海外ミュージシャンとかのノンフィクションが面白いんだ」

「へえ、どんな内容?」

「ロックが生まれた経緯とか、黎明期のロックを支えたミュージシャンの功績とかさ。うち、父親が昔の海外ロックが好きでCDとかいっぱいあるんだよ。で、それをBGMに流しながらそういう本を読むと、なんか自分が大物になった気がしてくる」

「なんか大人っぽいっていうか、贅沢な感じだな。ちょっと真似してみたくなるけど、うちにはその手のCDはないなあ。でもよくそれで受験勉強やる暇あったね」

「流石に勉強時間は削ってないよ。元々結構頑張らないと坂代は難しい、って先生にも言われてたし。だから土日とかの、少し休憩できる時間にちょっとだけね。でもそのせいで最近はミステリ小説とか読む暇がなかったよ」

「まあそれはこれからたっぷり時間取れるんじゃない。春休みになれば宿題もないんだし」

「そうだね。本は逃げないし、長生きさえすればいくらでも読めるからね」


 僕はそれを聞いて、ちょっといいセリフだな、と思った。また引用してサヤカあたりに言ってみようか。


「長生きといえば、ロックミュージシャンってなぜか二十七歳で死ぬ奴が多いんだって、知ってた?」

「なんだそれ、初耳だ」

「ローリングストーンズのブライアン・ジョーンズや、ジム・モリスンでしょ、ジミヘンもジャニス・ジョプリンもみんな二十七歳で死んでるんだよ。新しい人だとカート・コバーンとか」


 そう言われても僕にはピンとくる名前がなかった。


「ジミヘンだけ、名前聞いたことあるかな。ギターの凄い人でしょ」

「覚え方が雑だよ」


 ユウタは笑った。


「でもまあ大体そうだね、ギターの凄い人。歌も歌ってるんだけど、本人も自覚してるくらい下手くそ。でもなんでかわかんないけど、ジミヘンの歌声好きなんだよ、俺。音程は滅茶苦茶なんだけどソウルがあるっていうかさ」

「ジミヘンは何で死んだの?」

「謎が多くてはっきりとはしないんだって。一応、酒と睡眠薬を飲みすぎて、寝てる間に吐いちゃって、吐いたものが喉に詰まって死んだってことになってる」

「うええ、そんな死に方があるのか。なんか嫌だなあ」

「そりゃ、いい死に方なんてあんまりないんじゃない。老衰くらいでしょ」


 そう言われて僕も妙に納得した。どんな方法でも死んでしまえば同じなのかもしれない。


 その日、ユウタと別れた後、家に帰ってから自分の本棚を改めて眺めてみた。そしてユウタと比較すると少々幼稚としか思えないラインナップが恥ずかしくなり、最近読んでいないマンガの一部を捨てることに決めた。それから、もし僕もユウタも合格したら、ユウタから面白い本を教えてもらおうと思った。



 合格発表の日、発表時間の午前九時に間に合うように高校に行ってみると、掲示が出される予定の場所は大勢の受験生で既にいっぱいだった。流石に割り込んでいくわけにもいかないので、自転車を停めてからしばらく様子を見ていることにした。


 ロータリーの中心部分にある植え込みの縁に腰かけてぼんやりと人混みを眺めていると、遊園地のアトラクションに群がる人を見ているような、非現実的な気分になってくる。あるいは新装開店のバーゲンをやっているショッピングモールか。


 人混みは好きになれないな、と思いながら周りを見渡すと、僕と同じように「後からゆっくり見ればいいや組」がわりといて、思い思いの場所でぼんやりと時間を潰していた。


 ふと隣に人が座る気配があったので振り向くと、サヤカが腰を下ろしたところだった。


「やあおはよう」

「おはよう。ここから見えるの?」

「まさか。あの人混みに突っ込む気が起きないから減るのを待ってから見るよ」

「ふーん、じゃああたしもそうしようかな」


 サヤカは鞄からお茶のペットボトルを取り出して一口飲み、それを僕に渡してきた。


「飲む?まだあったかいよ」

「じゃあ一口」


 その時、玄関から教員らしき人が二人、大きなロールの紙を持って玄関から出てきた。


「いよいよだ……緊張する」


 サヤカは手袋をはめたままの両手をこすり合わせる。


 教員たちは腕時計を見ながらしばし立ち止まり、十五秒ほどしてからおもむろに紙を延ばし、掲示板に画びょうでとめ始めた。彼らは彼らなりの重責に多少緊張があるのだろうか、それともまだ残る寒さにかじかんだ手のせいか、途中で二回ほど画びょうを取り落としながらも、何とかしっかり貼り付けると、無言のまままた玄関の中へ消えて行った。


 途端に群衆のあちこちで歓声が上がり始めた。しかし確認を終えて合格に喜んでいる人たちもなかなか動こうとはしない。これは突っ込んでいくしかないかな、と思ったとき、隣の上の方から、


「りっくん、何番?」


 という声が聞こえた。見ればサヤカはいつの間にか植え込みの縁に立ち上がり、目を細めながら掲示板を凝視している。


「一〇一七番だけど……見えるの?」

「あ、そうか理数科か……一〇……一七……うん、よし」


 そしてサヤカは地面に飛び降りると、僕の方を向き直り、にっこりと笑って言った。


「また三年間よろしくね、りっくん」


 その時の彼女の笑顔は、これまでに見せたことのないものだった。心の底から美しくて、喜びに満ち溢れていて、そして僕を受け入れてくれるように思えた。


 僕は立ち上がり、黙って彼女を抱きしめた。サヤカも一瞬戸惑ったようだが、そのまま僕の背中に手を回してくれた。ほんの三秒間だけの抱擁のあと、どちらからともなく慌てて離れ、そして目を合わせて笑いあった。


 人混みがほどけ始めるのを待って、改めて掲示板の近くに行き、お互いの番号を確かめた。僕は五メートルほどの距離に近づくまで、全く数字を認識できなかったので、三倍以上の距離から読み取れたサヤカに驚いた。するとサヤカは、それは私の目がいいんじゃなくてりっくんの目が悪いんだよ、と言い、僕たちは春休みの間に一緒に僕の眼鏡を買いに行く約束をした。


 全部で三回、番号を受験票と照らし合わせたところで、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ると、ユウタが、やはりこちらも今までに見たことのない笑顔で、どうだった、と聞いてきた。


「どうだったも何もないだろ。全員顔がにやけてるよ」


 僕が言うと、ユウタは、


「なるほど、そうだね。それじゃまた入学式で」


 と颯爽と去っていった。


 横でサヤカが、ユウタ、よく見たら背が伸びたね、と少し驚いたような顔をしていた。



 久しぶりに全く勉強も部活もない日々が訪れ、僕とカズマとサヤカは、久しぶりに三人で遊ぶことにした。流石に入学前から問題になりたくはないので繁華街へ繰り出すことはしなかったが、それでもM市の街中まで出かけてあれこれ店を見て回り、喫茶店でコーヒーを飲みながらおしゃべりをした。


 流石にスポーツ推薦なだけあって、カズマは入学式の翌日から早くも柔道部に入部し、練習を開始することになるらしい。そこへいくと僕らの坂代高校では、四月の最初にいきなり二泊三日の「勉強合宿」なるものがあると聞かされており、さらにそれから応援団による全員参加の応援練習がある。部活動は五月にやっと勧誘が始まる、とのことだった。


「勉強合宿?すごい名前だな、何するの?……ていうか何のためにするの?」


 その話を僕から聞いたカズマは素っ頓狂な声をあげた。


「なんでも、クラスメイトとの親睦を深めることと、一日の中で勉強をするリズムを体感して自宅でもできるようにすることが目的なんだってさ。僕みたいに勉強はわからないとこだけやればいいや、ていうんじゃダメで、とにかく毎日勉強をする癖をつけろ、てことなんだろうな」


 僕が答えた。既に高校側から配られた入学案内にそのようなことが書いてあった。


「うーん、でもね、私はちょっと楽しみだよ。非日常的でワクワクするんじゃない」

「少なくとも俺には無理だわ。家で宿題以外の勉強なんてしたら耳から煙が出るぜ」

「あ、宿題はギリギリいいんだね」

「そりゃ宿題はやるさ。鼻から煙は出るけどな」


 そうカズマが言って三人で大笑いした。


 それから僕らは店を出て、帰りに元秘密基地建設現場へ行くことにした。


 僕やサヤカは近所なので知っていたが、そこはもう森ではなくなっていた。あの所有者のおじいさんがどうやら少し前に亡くなったらしく、相続の関係で売ったのではないか、という噂だった。


 かつて森だった場所の前に立つと、三人の間に沈黙が降りた。三月とはいえまだまだ信州は寒く、だいぶ傾いた夕日が少しずつ熱量を失っていくのがわかった。


「久しぶりに見ると、こんなに狭かったんだな」


 とカズマは言った。


「木が全部切られてるっていうのもあるかもね。まあ僕らが大きくなったってことだろうけど」

「特にカズマは大きくなったもんね」


 そう言ってサヤカが笑った。


 今やただの空き地となった土地には、切り株だけがかつての森だった頃の記憶を伝えていた。僕らが基地を作ったクヌギの木も、根元からすっかり切り倒されている。下草もおおよそ刈られ、廃材などはどこにも散らばってはいなかった。


「俺はな」


 と不意にカズマが言った。


「あの頃からたぶんずっと、サヤちゃんのことが好きだったんだよ」


 唐突な告白に、誰も言葉を発せないでいると、カズマは更に続けた。


「でも、サヤちゃんがりっくんのことを見てるのも知っててさ。だから結局、言わないでおいたんだ。言っても関係が悪くなるだけだろうと思って」

「ありがとう、でもあの……」


 ようやくサヤカが呟いたが、それを制してカズマは尚もしゃべった。


「別に二度と会えないわけじゃないけどな、でもここで一回けりをつけておきたかったんだ。それだけ。お前ら二人、ちゃんと仲良くしろよ。俺は少し別の道に進むけど。たまにはみんなでまた集まろうな」

「うん。同じ中信地方にいるんだから、またいつでも会えるよ」


 僕はそう答え、サヤカも黙って頷いた。夕日は既に山の向こうへ消えようとしていた。


 カズマは、


「それじゃあ俺はこれで帰るよ。またな」


 と言い残して自転車で去っていった。


 残された僕らは自然と近くの道路の縁石に座り込み、どちらかが話を切り出すのを待った。そして結局沈黙に負けた僕の方から、「あのさ」と言うことになった。


「僕も好きだよ。たぶん初めて会ったときから」

「うん。きっと私、知ってた。ねえ」

「なに?」

「私も君が好きだよ」

「そっか。たぶん僕も知ってた」


 それから僕はサヤカの手を取り、二人で立ち上がった。そして暗くなり始めた道を並んで自転車を押して歩きながら、僕らは初めて沈黙を心から楽しんだ。



 高校生になると、学校の雰囲気も授業のスピードも一気に変わった。


 僕は理数科のクラスで、サヤカやユウタは普通科のクラスで、それぞれの環境に慣れるのに必死で、しばらくは休みの日もぐったり疲れて一日中家でごろごろとしているような有様だった。


 特に理数科は各学校から集まってきた優等生ばかりで、あいつは中学のとき生徒会長をやっていただの、毎回テストで学年トップだっただのといった話があちこちから聞こえてきた。


 家庭学習の量も多くなり、課題やら予習復習やらで放課後の予定は埋め尽くされた。


 坂代名物の勉強合宿は入学してすぐに訪れた。ひなびた温泉地のホテルで缶詰めとなり、午前と午後にそれぞれ学校と同じような授業を受けた後に大きなホールで各自勉強をする。それを教師が巡回しながら、生徒の質問に答えたり、居眠りしている者を小突いて起こしたりしていた。当然私語をする生徒などほとんどいない。音響設備の整ったホールがしんと静まり返っている様子は僕から現実感を失わせていき、いつしか余計な考えもなくなってただただ勉強に集中した。


 風呂の時間が終わって消灯までのわずかな自由時間に、同室のクラスメイトからのカードゲームの誘いを断り、僕はロビーを訪れた。日程表を見ながらあらかじめサヤカと落ち合う約束をしていたからだ。


 ロビーには消灯前の語らいをする小規模な生徒の集団がいくつか見られた。その中からサヤカを見つけ、やあおつかれ、と声をかける。そして二人で空いているソファに並んで腰かけ、売店で買ってきた炭酸飲料で乾杯した。


 風呂上がりのサヤカはまだ湿っている髪を縛らずに垂らしており、いつもと少し違って、どことなく大人びて妖艶にさえ見えた。僕は照れくさくて横を見ることができず、手に持ったジュースの缶を見つめながら呟いた。


「高校生って大変だね」

「そうだね。毎日こんなに勉強するなんて、私ちょっと自信ない」


 サヤカは化粧っ気のない顔を少しほころばせた。


 ロビーにいる生徒が僕たちの方を見ながらクスクスと笑っているのが見える。合宿が終わる頃にはきっと噂が立っていることだろう。だけどそんなことは全然構わなかった。


「合宿が終わったら次は応援練習でしょ」

「うん、聞いた。応援団がすごい怖いんだって。毎回何人かは貧血で倒れるらしいよ」

「本当に。なんか四月からいきなり色々詰め込んでくるね。部活は五月からだっけ」

「うん。サヤカはもう決めてる?」

「そうだなあ。高校に入ったら運動したいなって思ってはいるんだ。球技はちょっと苦手だし、陸上部とかかな。でもまあ体験入部してから決めるよ」


 首を少し傾げながら彼女はそう言うと、二センチだけ僕の方に詰めて座りなおした。髪の毛からシャンプーの甘い香りが漂ってきて、僕は少し緊張した。


 やがて消灯時間が近づいたので、僕らは空き缶をロビーのごみ箱に放り込み、連れ立ってエレベーターに乗り込んだ。女子は五階と六階、男子は三階と四階にそれぞれ部屋が割り振られている。僕は三階と六階を押したあと、他の人が乗らないうちに扉を閉めた。


 すぐに三階に停止する。僕が、それじゃあまた明日、と声を掛けて降りようとすると、サヤカは僕の手を引っ張って少し引き留めた。そして僕の頬に軽く触れるようなキスをし、美しい笑顔でまたね、と手を振った。



 それから僕たちは時々デートに行くようになった。部活のない休日には大抵、朝の電車で市立図書館に行き、午前中は学習室で勉強をした。習慣になっているのか、それともあの合宿のホールで実感した雰囲気のせいか、それが一番はかどるということでお互いが一致したのだ。そしてコンビニで買った昼食を近くの公園で食べ、午後はカラオケや映画館といった、高校生にありがちなデートコースを楽しんだ。


 サヤカは高校生にしては珍しく携帯を持っていなかったから、他のカップルのように頻繁に連絡を取り合うことはできなかったが、そのことが却って一回一回のデートを貴重なものにしてくれているようにも感じた。


 高校生最初の夏休みには、補習授業の合間を縫って、日帰りで海を見に行ったこともあった。片道二時間以上のローカル線に揺られながらたどり着いた新潟の海は、海水浴客で溢れかえっていた。僕たちは海岸沿いに手をつないで散歩しながら、砂浜の感触を楽しんだ。


「山の方が見慣れているから落ち着くけど、海はまた違うね。眺めてると余計なことは考える気もなくなっちゃう」


 とサヤカは言った。


「水平線があるからかもね。長野県には地平線も水平線もないから」

「そうかもしれない。水平線を見てると細かいことはどうでもよくなっちゃう」

「うん。僕も今日ここに来てから、英単語五つくらい忘れた気がする」


 僕が冗談を言うと、サヤカは笑いながら僕の肩を叩いた。


 帰りの電車はガラガラで、僕らはボックスシートを一つ占有し、並んで眠りながら揺られていった。僕の肩に持たせかけられたサヤカの髪が時々頬をくすぐり、僕は猫を飼う夢を見た。温かで幸せな夢で、とても心地がよかった。



 サヤカの様子が変わったのは、夏休みの最後のデートの時だった。


 その日は台風の影響で雨の予報が出ていたので、いつものように図書館で勉強した後、電車でM市まで行き、ファミレスで何か食べようか、という話になっていた。


 サヤカは朝から元気がなく、暗い顔をしていた。図書館の開館を待ちながら、どうしたのかと聞くと、昨夜母親が久しぶりに家に戻ったのだという。


「ここしばらくはずっと出て行ったままのことが多かったの。今回も二週間くらい顔を見なかったし。もう母親なんていうのも馬鹿らしいくらい。父さんも何も咎めようとしないし、そろそろ離婚するんだろうって思ってる。それで昨日、久しぶりに帰ってきたんだけど、すごく荒れてたんだ。不倫してる相手の人と喧嘩したみたい。私もすごい怒鳴られて、怖くて。そのうちに父さんとも喧嘩し始めて、最後には二人とも包丁まで持ち出してた。流石に切りつけたりはしなかったみたいだけど」


 ぽつりぽつりと喋るサヤカの唇は微かに震えていた。


「最近は父さんも毎晩のお酒の量がすごい増えてきて。夜はいっつも泥酔状態なの。もう私のいる場所じゃない、あんなとこ」


 最後の言葉を吐き出すようにしてサヤカは自分の肩を強く抱いた。僕はどうしようもなく苦しかった。何とかしないといけない。だけどどうすればいいのかがわからない。


「辛かったね」


 と僕は身体にまわされた腕の上からサヤカを抱きしめた。


「酷いこととかはされてない?」


 その言葉に、僕の腕の中で少し彼女は身体を硬直させた。


「大丈夫。夜は父さんのご飯だけ作って、お酒飲み始めたら私はおばあちゃんの家の方で寝るようにしてるから、最近は。酔っぱらうとあの人、時々私の腕をつかもうとしたりするんだ」


 サヤカの家は昔ながらの農家住宅で、彼女が小学校に上がる前くらいに、元々祖父母が住んでいた昔からの家と同じ敷地に両親が新たに家を建てたらしい。そこでサヤカと両親が暮らしている。いや、正確には暮らしていた。家の裏には何枚かリンゴ畑も所有している。とはいえ祖母が亡くなってからは、父親は畑に全く手を付けなかったから今は荒れ放題だ。祖父母の家の方は祖母が亡くなった後は誰も使っていなかったと聞いていた。


 腕の中で強張りが少しほどけるのを感じ、彼女を離した。


 気付けば駐車場の方から、何人かの学生が連れ立って歩いてくるところだった。


「ありがとう。ごめんね、変な事言って」

「僕の方こそ、ごめん。何もできなくて」


 お互いに謝ったあと、僕は無理に笑おうとした。しかしサヤカの目に溜まった涙を見て、それを諦めた。


 その日の勉強はまったく捗らなかった。どの問題に取り組もうとしても、気づけば頭の中ではどうすればいいのかを自問自答していた。サヤカも無言で問題集を開いてはいたが、あまり進んでいないようだった。


 それでとうとう僕たちは勉強を諦め、傘を差して駅へと向かった。少し早いが何か気晴らしが必要だった。しかし街中を歩いても、早めの昼食を食べても、何一つ変化は訪れなかった。雨雲はますますその濃度を増していき、僕の思考はぐるぐると回るばかりだった。


 それからというもの、サヤカは昔のように笑顔をほとんど見せなくなってしまった。何か尋ねれば返事はするし、僕が冗談を言えば表面上は笑ってくれる。しかし顔の外側に嘘が張り付いたかのような見せかけの笑みを見る度に、僕の心は暗く沈んだ。


 二学期が始まってからは、再び保健室に通うことが増えていった。サヤカは中学の頃と同じように奥のベッドに丸くなり、ぼんやりと過ごすのが当たり前の光景になった。今度の養護教諭はあまり用のない生徒を保健室に入れたがらなかったから、僕も長居はできず本当に様子を見るだけで追い出された。


 休み時間の廊下でも、放課後のグラウンドでも、サヤカを見かけることがなくなった。まるでサヤカの存在そのものが世界から薄れていくようだった。



 信州の秋は短い。ここのところ、日中にまだ残っている熱量とは裏腹に朝晩は日を追うごとに寒くなっていくのがわかる。しかしこのどこか儚げな秋という季節が僕は昔から好きだった。小さかった頃は九月末にやってくる自分の誕生日が楽しみで仕方なかったし、親が誕生日のプレゼントを買ってくれる年じゃなくなっても、秋特有の特有のノスタルジックな空気は僕の気持ちを落ち着かせてくれた。


 ある日、保健室に様子を見に行くと、久しぶりにサヤカが僕を誘った。明日の昼間、彼女の家に来てほしいという。翌日は平日だったが、午後から先生たちの職員研修が予定されているとかで半日で授業が終わることになっていた。家に誘われるのは初めてだったから流石に少し緊張した。


「家の人は?」


 と僕が聞くと、サヤカは黙って首を振った。


 翌日の授業が終わると僕たちは昇降口で待ち合わせ、二人で彼女の家を目指した。その間中サヤカはやはり無言で、時々トラックが巻き起こす風に煽られて少しふらつきながらも一心に自転車を漕いでいた。


 僕の家の近くを通り過ぎ、かつての森の前を抜け、瀬田集落への登り口にたどり着く。そこからは二人とも自転車を降り、急な坂道を押しながら登った。前を行くサヤカが少し震えて見えるのは緊張しているのだろうか、それとも息が切れただけだっただろうか。僕はワイシャツと背中の隙間に汗が滲むのを感じた。


 十分くらい上っただろうか。やがて道の右側に広い敷地が見えてきた。ここが彼女の家だった。僕も家の前までは彼女を送ってきたことが何度かある。しかし今、僕が見渡す限り、敷地の中は以前と少し様子が違っていた。


 新しい方の家の前、玄関の脇の軒下に大量の酒瓶や空き缶が置かれている。以前は大まかにでも刈られていた雑草も、人が通らないところは膝が隠れるくらいの高さにまで成長していた。


 僕の戸惑った視線に気づいたのか、サヤカは、ごめんね、汚くて、と謝った。


 古い母屋に通される。外から見たときは正直なところボロボロのあばら家にすら見えると思ったが、中に入ってみると意外としっかりしており、まだまだ十分人が住めるような状態だった。


「地震さえ来なければ大丈夫だよ。おじいちゃんの自慢の家だったから。この家は百年もつ、てよく言ってた」


 とサヤカは言った。


「時々きちんと掃除して、風を通して、とかの当たり前の手入れさえしていれば、長持ちするんだって。だから私がたまにきれいにしてたんだ。おじいちゃんとおばあちゃんと一緒だったときの思い出の家なの」

「そうか、今は一応新しい方に住んでるんだっけ、夜以外は」

「そう。でももう向こうがあんなに汚くなってれば、どっちが新しいかわかんないよね。私にとっては、向こうの家はもう要らないものなの。この家の方がずっと大事」


 最後の方は自分に言い聞かせるようにしながら、彼女はそっと一本の柱を撫でた。そこにはいくつもの傷が入っている。きっとまだこっちに住んでた頃に、遊んでいてつけてしまった傷なのだろう。しばらくそうしていたが、何かを決心したかのように顔をあげ、サヤカは言った。


「お願いがあるの」



 彼女の衣服を脱がせると、身体のあちこちに痣ができているのが見て取れた。少し前と比べると、体形もかなり痩せている。それでも僕は、きれいだ、と思った。初めてサヤカを見たとき、壊れてしまいそうだ、と感じたことを思い出す。今、彼女の肌に直接触れると、本当に壊れてしまうんじゃないかと手を伸ばすのを躊躇った。しばらくの逡巡の後に抱きしめた身体は、今がまだ夏の終わりだということを疑いたくなるくらいに冷たく、僕は両方の腕に力を込めた。


 行為の最中に、サヤカは何度も全身を強張らせ、歯を食いしばるように、痛みでも快感でもない何かを耐えていた。その度に僕はやめようか、と口にし、彼女は大丈夫、続けて、と返した。やがて僕が達して、身体をゆっくりと引き離したとき、サヤカの目から涙が幾筋も流れ落ちた。


「ごめんね、無理なこと言って。でもこうしたら綺麗になれる気がしたの」


 サヤカは泣きながら言った。


「僕なら大丈夫。どういうことなのか、話してもらえないかな」


 僕がもう一度抱き寄せながら聞くと、今度は小さく、だがはっきりと頷いて彼女は喋りだした。

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