幕間3-1
僕たちが中学校に入学したのは、四月にも関わらず季節外れの雪がちらつく寒い日だった。桜の蕾にうっすらと積もった雪が幻想的だったのをまだはっきりと覚えている。
クラス分けの発表では、僕とカズマは同じクラスだったがユウタは隣の六組になり、僕らは少し残念がった。しかし当の本人は至って平然としていた。ユウタのことだ、どんなクラスに入っても大して変わらず、一人で自由にやれる自信でもあるんだろう。
中学では新たに部活動が始まり、四月いっぱいの仮入部期間にあちこち試してみ
て、五月から本入部することになると言われた。僕はいろいろ悩んだ末、サッカー部に入ることにした。梓中のサッカー部は決して強豪ではなく、部員の数も二年生が全員ベンチ入りできるくらいの規模だった。しかしそのせいか仮入部してみた中では一番熱心に誘ってくれたし、初心者でも大歓迎、練習もそんなに厳しくない、という話に釣られた格好だった。
一方カズマは、その体格を買われて柔道部に入った。柔道部は強豪で、何年かに一度は全国大会に出場しているらしい。体験入部に行ったところ顧問の先生と主将の三年生につかまり、やったこともないと言ってもなかなか帰してくれなかったそうだ。
「太ってるってだけで力があるわけじゃないんだけどな」
とカズマは心配そうだったが、毎日遅くまで練習しているうちにめきめきと力をつけていった。そうして一年生の秋には、すっかり筋肉質の身体つきになり、新人戦でもかなりいい成績を残したようだった。ちょうど成長期なのか、背もだいぶ伸びたので、受ける印象も随分変わった。
中学に入って驚いたのは、定期テストがあるたびに成績上位者が廊下に貼り出されることだ。僕はいつも五位以内には入っていたから、クラスの奴だけじゃなくて学年中の生徒に名前を知られることになった。やっぱり運動よりも勉強の方が得意だな、と僕は再認識した。サッカー部の新人戦は一回戦負けとなり、僕は途中出場で、ボールに触ったのは四回だけだった。
二年生の夏休みが終わり、文化祭のシーズンが迫っていた。
カズマは今年の個人戦でとうとう全国大会の切符を掴んだ。九州で開催されたので流石に応援に行くわけにはいかず、頑張って来いよ、カズマの乗るバスを送り出した。
残念ながら二回戦で優勝候補の一人とされる三年生と当たり、綺麗な一本負けを食らって敗退してしまったが、帰ってきたカズマは、「九州っていいなあ、ラーメンがさ、どこの店でもうまいんだよ」とのんきなことを言っていたので笑ってしまった。
それから柔道漬けでだいぶ遅れをとっている彼の勉強を見るため、二学期の中間テストの前の二週間ほどは二人で図書館の自習室に行き、主に英語と数学を教えた。
全国大会まで出場した校内きってのデカブツが、be動詞の使い方や一次関数でうんうんと唸っているのを見ていると、妙にアンバランスに見えて面白かった。それに、そういうすごい奴がいまだに親友として何の取り柄もないような僕を頼ってくれるのが嬉しくて、僕もできるだけ丁寧に教えてやった。
その甲斐があったのか、あるいは柔道で培った粘り強さがものをいったのか、カズマはぎりぎり補習ラインをクリアした。後で聞いたら、英語などはあと一問間違えていたら補習だったらしい。
成績上位の五十名が並んだ掲示を見に行くと、僕の名前は十二位のところにあった。今回は社会のテスト範囲がちょうど苦手なところで、そこで大きく点を落としたのが響いた。
「あれ、りっくんちょっと落ちたな、珍しいじゃん。俺が点吸い取っちゃったかな」
ふざけるカズマの横で、僕の目は全然違うところに釘付けになっていた。
四十七位、掲示板の一番端に近いところに、サヤカの名前があった。
サヤカ――声に出さずにその名前を呟くと、急にあの夏の出来事がフラッシュバックして胸が苦しくなった。そうだ、どうして忘れていたんだろう。彼女も当然この学校にいるんだ。どうして今まで気づかなかったんだろう。どこかで見かけてもいるはずなのに。
「卒業したらあたしもりっくんたちも梓中学校に行くんでしょ。そしたらもっと遊べるよ」
サヤカがあの日、基地の中で話しかけてきた言葉が、今にも聞こえてきそうだった。
気づくとカズマが僕の目の前で手をひらひらさせていた。
「おーい、大丈夫か?そんなにショックだったか?」
「あ、いやごめん。大丈夫。ちょっと他のこと考えてた」
「それならいいけど。でもほんとにちょっとふらふらしてるぞ」
そう言われて、僕も視界が少し揺れていることに気付いた。
「ちょっと風邪気味かも。保健室に行ってくるから先生に言っといてくれる?」
「わかった。無理すんなよ」
言い残して僕はよろよろと保健室に向かった。体はなかなか言うことを聞いてくれなかったが、頭の中では、人間って精神的なショックがちゃんと体に現れるようにできてるんだな、すごいな、などと妙に冷静なことを考えていた。
その日は結局保健室で二時間ほど寝させてもらった。養護の多田というおばちゃん先生は暖かい紅茶を入れてくれ、それを飲んだら気分がだいぶ落ち着いた。起きた頃にはもう放課後になっていたので、多田先生に担任への連絡を頼み、そのまま帰ることにした。
テスト前の期間中は全面中止となっていた部活動も今日から再開される予定だったが、僕はとてもじゃないが運動をする気分ではなかった。もっともサッカー部はサボる生徒も時々いたし、顧問もキャプテンもあまりうるさいことは言わなかった。
帰る道すがら、僕はサヤカのことをずっと考えていた。顔も、声も、すべてが懐かしく思い出された。明日学校にいったら二組の奴にそれとなく聞いてみようか。それとも二組の教室に直接訪ねた方が早いかな。確かあのクラスならサッカー部の友達がいたから、教科書忘れたとかなんとか適当に理由つけて……。
トラックが横を通り過ぎて、そろそろ落ち始めた紅葉を舞い上げた。その音に顔を上げると、ちょうどあの日、最後にサヤカと別れた交差点に着くところだった。
坂の上見上げると、登っていくサヤカの姿が一瞬見えた気がした。
僕はため息をついて、家へと続く方へ曲がり、家路を急いだ。
それからというもの、僕は週に何度か、保健室に行くようになった。理由は自分でもよくわからなかった。ただ、妙に体がだるかったり、頭がすっきりしなくて、授業に全然身が入らないのだ。それであるとき養護の多田先生にそのことを訴えると、先生は笑って、
「それは寝不足なんじゃないかな。最近悩みがあってよく寝れないとか、そんなことない?」
と聞いてきた。
「ああ、それはあるかもしれないです。夜、布団に入ってからいろいろ考えてると気づいたら結構時間経ってて」
「青春の悩み事ってやつね。羨ましいわあ。まあそんなに毎日でもないし、担任の先生には内緒にしといてあげるから、怠いようなら寝にきなさい。でもできれば夜ちゃんと眠れるように、いろいろ試してみてね」
そう言って先生は何かカラー刷りのパンフレットのようなものを渡してきた。中を見ると、どうやら不眠の対策がいくつか書かれているようだった。僕はお礼を言ってそれを折りたたみ、学ランのポケットにしまうと、二つあるうちの入り口側のベッドに横になった。窓側のベッドは他の生徒が使っているようで、カーテンが引かれていた。
布団にもぐりこんでしばらくすると、あっという間に睡魔が訪れた。そうか、これは眠かっただけなのか。そんなことを考えながら、いつしか眠りに落ちて行った。
外から聞こえる、野球部の声で目が覚めた。何人もの部員が、てんでに「さ、こーい!」「もう一本!」などと叫んでいる。
もう時間は放課後らしい。丸まったままあまりよく働かない頭で、やっぱり野球部は強豪なだけあるな、同じグラウンドで練習してるはずのサッカー部の声は全然聞こえてこないもの、とぼんやり考えていると、鋭い声に交じってすぐ近くから細い声が聞こえた。
「よく寝てたね」
ああ、あの時とおんなじだ――そう思ってからはっとして声のした方を見ると、そこには懐かしい顔があった。
「サヤちゃん⁉」
言ってから慌てて口を押えた。自分が保健室にいることや、これが夢ではないことを思い出したからだ。
しかしサヤカは笑って、先生はいないよ、さっき用があって出てった、と教えてくれた。
突然の再開に僕は何を言っていいかわからず、サヤカの顔を見つめた。
小学校の頃とあまり変わっていない。ただ少し顔つきがシャープになり、後ろ髪だけを高いところで縛っている。座っているのではっきりはわからないが、背も伸びたように見える。細いのは相変わらずだが、胸のふくらみが服の上からでもわかるようになり、全体的に大人の女性になった印象だった。
「久しぶりだね」
なんとかそれだけを口にすると、サヤカは頷いた。
「りっくん、大人っぽくなったね」
「そうかな、あんまり変わってないよ。サヤちゃんの方が大人っぽくなったんじゃない」
「あたしこそ変わらないよ」
少しはにかむような彼女を見ながら、僕は必死に次の言葉を探した。
聞きたいことはたくさんあった。どうしてあれから来なくなったの。あのあとお母さんとはどうなったの。しかし何を聞いてもサヤカを傷つけてしまうような気がした。
「どうしてここにいるの」
「りっくんが来るまでそっちのベッドで寝てたんだよ。そしたら知ってる声がしたから。りっくん声変わりしたね。声の感じは同じだけど、ちょっと低くなった」
「あんまり学校で見かけなかったね。二組だっけ」
「うん、二組。一応普通に通ってるけどね。ちょっといろいろあって、保健室登校が多かったからじゃないかな」
「そうだったんだ。そういえば今回のテスト、名前出てたね」
「うん、珍しく数学が悪くなかったから。りっくんいつも上位でしょ。ずっと見てたよ」
それを聞いて、僕の心臓は跳ね上がった。
それから多田先生が帰ってくるまで、三年近い空白を埋めるように、僕たちはいろんな話をした。小学校の卒業式のこと、今度の文化祭のこと、勉強のこと、流行の音楽のこと。カズマが柔道で全国大会に行き、二回戦で負けて帰ってきたという話から、部活のことも話題に上った。
それから二人の間に沈黙が下りた。次の話題を探していると、サヤカがぽつりと呟いた。
「あのとき、ごめんね、うちのお母さんが酷いこと言って」
僕は少し面くらって「いいよもう。大丈夫だったよ」ともごもごと返事をした。
「あの頃はあんまりわからなかったけどね、」
サヤカは小さな声で絞り出すように言葉を紡いだ。
「うちのお母さん、あんまり家にいないで、他の、お父さんじゃない男の人のところに遊びに行ってるんだ。昔からずっとそう。それって、つまりそういうことでしょ。だからあたしが男子と二人で秘密基地にいたって担任の先生から聞いて、真っ先にああいうことを考えたんだと思う。自分がいつもしているから。それであたしがいくら言っても信じてくれなくて、西小に電話して、りっくんの家聞き出して……。あのあと家に帰ってからも散々言われた。ずっと否定してたら最後には諦めたけど」
「そうだったんだ……。なんか、大変なんだね」
僕はそう返すのが精いっぱいだった。
「もう慣れちゃったから大丈夫なんだけど。お父さんも何も言わないし。どうして離婚しないのかなって思うけど、きっとあたしのこととか世間体とか、色々あるんだろうね」
悲しそうな笑みを浮かべて、投げやりな言葉を続けるサヤカを見ていると、僕まで苦しくなった。
その時、保健室のドアが開き、誰かが入ってきた。そして僕らのいるベッドのカーテンを開け、中を覗いた。多田先生だった。
僕は、叱られるのを覚悟した。秘密基地を見つけたあのおじいさんのように、僕らを叱り飛ばし、そしてまたあらぬ疑いをかけられるのだろう。今度は僕らも何も知らない子供じゃない。親密になった男女が何をするものか、少なくとも知識としては知っている。何を言っても信じては貰えないだろう――。
ところが多田先生はにっこりと笑っただけだった。
「なんだ、二人とも知り合いだったの。お二人さん、何か飲む?って言っても今紅茶しかないけど」
その言葉に緊張がほどけた僕は、反射的に頷いた。見るとサヤカも同じような反応をしている。目があって、お互いの考えがわかった僕らは思わず同時に吹き出した。
先生は不思議な顔をしながらも、僕らに紅茶を入れてくれた。一口啜ると、身体の芯からほぐれるような気がした。
信州の厳しい冬が終わりを告げ、日差しが少しずつ暖かくなるにつれて、僕がサヤカと顔を合わせる機会は増えていった。僕らも三年生になり、少しずつ進路や受験のことで周りは騒がしくなっていったが、僕は相変わらず週に何度か保健室を訪れていた。ただ、以前とは違い、体調におかしいところはない。先生や友達には何か言われないよう、休み時間を利用して顔を出すことにしていた。
そうして訪ねるとだいたいいつもサヤカがおり、多くの場合は隅の机で勉強をしていた。
多田先生によれば、他にも保健室登校の子が何人かおり、その子らが勉強に使えるように置いてある机だそうだ。とはいえ、他の子がその机に向かっているのを見たのは数えるほどであり、たいていはサヤカ一人が使っていた。
僕が行くと、最近は先生の許可がおりたらしく、先生不在のときでもサヤカがお茶を淹れてくれるようになった。それを飲みながら、休み時間のほんの短いあいだ、その日の出来事や趣味の話など、とりとめのないことを話しては笑いあった。
補習と宿題と部活の大会で予定の詰まった中学最後の短い夏休みが終わると、いよいよ周りは受験一色になってきた。宿題嫌いの僕も流石に自主勉強せざるを得なくなり、またしても全国大会に勝ち進み今度は三回戦で負けてしまったカズマは、そのためにまた勉強がついていけなくなってきたから見てほしい、と僕に頼んできた。サッカー部は地区大会でさっさと敗退していたし、これをもってカズマも部活を引退したので、僕らは放課後図書室で勉強することにした。
その話をするとサヤカも数学を見てくれないか、と言い出したので、図書室の勉強会は三人になった。受験生の多くは塾に通っていたし、下級生は皆先輩が抜けた後の部活動を盛り上げていくのに忙しい。したがって、放課後の図書室は利用者もほとんどなく、気兼ねなく使えたのがありがたかった。しんとした図書室で三人で声を潜めて話をしていると、秘密基地でのあの短い日々の延長戦のようだ、と思った。あの頃トランプと蝉の抜け殻だった話題が、今は二次関数と証明問題、英単語の暗記になった。違いはそれだけだ。
ある時、カズマが英語の長文に詰まってペン回しをしながら、ふと問いかけた。
「なあ、二人は進路、どうするの」
「僕は今のところ、坂代高校のつもりだけど」
僕は答えた。坂代高校は進学校で、普通科の他に理数科が設置されている。理数系科目が得意な僕はそこを狙っていた。
「マジか、レベル高いなあ。やっぱり理数?」
「うん」
「あたしは坂代の普通科。でも今の成績だとちょっと足りないから、ここからあんまり伸びなかったらひとつランク落として篠崎高校にするかも」
「そっかー、二人とも坂代か……」
わかってはいたけど、といった具合で、少し気落ちしたようにカズマは言った。
「俺、篠崎も厳しいしな。梓南か、柔道で推薦取れたら吉田工業かなと思ってるんだよね。だから三人でいられるのもあとちょっとだな」
梓南高校も吉田工業高校も、どちらも柔道の強い高校である。特に私立の吉田工業は、毎年のようにインターハイに選手を送り出す、県内トップクラスの強豪だった。
「そっか、でもいいな。二人とも、自分の強みを生かせるってことでしょ。あたしは何もないから。ただ勉強のレベルに合わせて行くだけだもん」
「そんなことないよ。保健室登校多かったのにこれだけ勉強できるって、それむしろすごいことじゃん。それにさ、大事なのはどこに入るかじゃない。入った先の高校で何をするかでしょ」
「おお、それかっこいいな。りっくんもたまにはいいこと言うね」
「いや、こないだ進路指導の時に先生が言ってたの。ちょっといい言葉だなと思って、いただき」
僕が言うとカズマもサヤカも笑った。
実際のところ、中学校生活もあと半年も残っていない、ということに僕は改めて気が付かされて、気が重くなった。このままこの時間が続いてほしい。死ぬまでこのままがいい。勉強なんて大して面白くもないと思っていたけど、この二人と一緒ならずっと勉強していてもいいくらいだ。
「それに、私立が受けられるのは正直羨ましいよ。僕のとこ、父さんが薄給だからさ。流石に私立は勘弁してくれって言われちゃった」
僕が少しおどけて見せると、カズマは苦笑いした。
「サヤちゃんとこも私立はナシ?」
僕はそう聞いてからしまった、と後悔した。見ればサヤカは少し俯き加減になっている。
「うちは……そうだね、私立はナシ」
取り繕うような笑顔を浮かべてそれだけ返すと、サヤカは今答え合わせをした図形問題をもう一度見直し始めた。
思えば彼女は家庭のことをほとんど話さない。五年生の事件や、保健室での会話から、何となく母親の振る舞いが原因なんだろうと考えていた。しかし最近になって妙な事に気づき始めた。サヤカの父親がいったいどういう人物なのか、僕もカズマも全く聞かされていないのである。サヤカも父親の話題になるとさりげなく他のことをしだすか、話題を変えてしまうので、いつもそのままになっていた。
それで今回は、僕の方で話題を変えることにした。
「そういえば知ってる?理科の中田先生、今度結婚するんだって。しかも奥さん、まだ十九歳なんだってさ」
「うそ、だってあの先生もう四十超えてるんじゃないの?」
「ああでも俺も聞いたよ、なんかちょっと前の教え子らしいぜ。つまり俺らの先輩」
「えー、なんかいやらしい。ちょっとやだなあ」
そう言ってサヤカは、今度はちゃんとした笑顔を見せた。
それから話題は、自分が結婚するならどういう相手がいいか、という話になり、僕もカズマも、サヤカが珍しく熱弁する理想の男性像に興味深く聞き入ったのだった。
季節が秋から冬へと移ろい、受験生にとっては名ばかりの正月休みが明けても、僕たちは相変わらず毎日のように図書室に通った。この頃になると、流石にラストスパートとばかり勉強する生徒が増え、図書室も席が八割がた埋まるようになっていた。例年になく暖かい冬で雪もほとんど降らず、この調子だと受験の日に雪が積もるようなこともなさそうだ、という長期予報が出されていた。
サヤカの成績は勉強すればしただけしっかりと上向き、一月最後の進路指導ではついに坂代高校の受験にゴーサインが出たらしい。授業への出席が少なくて内申点が酷いことを考えると、この半年でかなり伸びたということになるだろう。
一方でカズマも、吉田工業のスポーツ推薦を受けられることになった、と喜びの報告をしてきた。高校の推薦枠は受験すればまず合格するようあらかじめ人数等を中学校の側と調整している、と聞いたことがある。つまりカズマはこれで苦手な勉強からとりあえずは解放されたということであり、放課後の勉強会ではなく、後輩の指導、という名目でまた柔道部に出入りするようになった。
僕はといえば、変化もなく図書室に通い続ける日々だった。進路指導では、担任から坂代ではなくさらに上のレベルの高校を勧められた。しかし通うにはかなり距離があったし、何よりサヤカが坂代に行くなら僕も、という思いがあった。それで一応両親には形だけ相談したものの、「理数系の勉強をしたいから」という理由で志望校の変更はしなかった。
二月のある晴れた日のことだった。
僕は五時間目の授業を終え、いつものように鞄をつかんですぐに図書室へ向かった。サヤカと二人分の席を確保するために、最近はできるだけ早く図書室へ行くようにしていた。
その様子を見たクラスメイトからは、あいつら付き合ってるらしい、という噂が出ていることも承知していた。最初は否定して回っていたが、考えてみれば僕がクラスメイトの立場ならやっぱりそう思うだろう、ということに気付いてからは、その話題については無視を決め込むことにしていた。
図書室への階段を上がりながら、踊り場の窓の向こうを眺める。校門に向かう生徒の列ができ始めていた。この時期の運動部は、野球部や柔道部などの特殊な例を除けば、練習が自由参加となっているところが多い。
ふと僕は、生徒の中に見慣れた後ろ姿を見つけて立ち止まった。あれはサヤカじゃないか?今日は来ないつもりだろうか。勿論都合によっては、僕が来られないことも、サヤカが来られないこともこれまでに何度かあった。それにしても何も言わずに帰るのは初めてだ。いつも何とはなしに、一度図書室やクラスに立ち寄り、「ごめん、今日は都合悪いから帰るね」と一言伝えてから帰るのが常だった。
よく見るとその後ろ姿も、少し様子が変だ。僕は直感的にそう思った。なんだか足取りがゆっくりだし、真っ直ぐ歩けていないようにさえ見える。事実、他の生徒がどんどんとサヤカを追い抜いて校門を出て行った。僕は図書室の席の確保を諦め、急いで昇降口へ降りた。どのみちサヤカが来ないなら席の確保は必要ない。僕一人分くらいなら後から来てもどこかしら座れるはずだ。
下駄箱を開けて靴を取り出すと、脱いだ上履きを乱暴に突っ込み、扉を閉めるのさえもどかしく靴を突っかけてサヤカの後を追った。
僕が追いついたとき、サヤカはまだやっと校門にたどり着くかどうかという位置にいた。相変わらずよろめくように進んでいる。僕は少し躊躇って、それから声を掛けた。
「サヤちゃん?どうしたの?」
その声にびくっとして振り向いた彼女の顔は、目のあたりが青く腫れており、唇にも傷ができているのが見て取れて、僕は言葉を失った。
「りっくん……ごめん。ちょっと今日は、お医者さんに行かなきゃいけないから……」
「あ、うんいいよ、大丈夫?」
僕の問いかけに彼女は黙って頷く。
「どうしたの?ケガ、ひどいね」
「うん、ちょっと……家の階段で転んじゃって」
「そう……大変だったね。足もケガしてるの?」
そう言ってサヤカの足に目を走らせたとき、おかしなものが飛び込んできた。
ひざ丈のスカートから覗く足の、短めのソックスとの間、左のふくらはぎのあたりに、まるで人の手の跡のような痣が残っていたのだ。
僕の視線に気づいたサヤカは、慌てて左足のソックスを思いっきり引っ張り上げ、痣を隠した。
「うん、足もぶつけちゃって。骨は折れてないみたいだけど、痣になっちゃった」
弱々しく笑う彼女の言葉は、虚しく二月の寒空に飲み込まれていった。
「誰が――」
と言いかけて僕は言葉を止めた。
サヤカが首を横に振っていたからだ。よく見ると、頬や目の周りは涙を何度も拭いたかのように赤く腫れぼったくなっていた。
「本当に何でもないの。ごめんね、明日は行けると思うから」
それだけ言うと、僕の返事を待たずにサヤカはまた歩き出した。僕は少しずつ強くなり始めた風にあおられながら、呆然と立ち尽くすしかなかった。
その日は結局図書室まで戻ったものの勉強をする気にはなれず、三十分くらい白いままだった問題集を諦め、僕も帰ることにした。
一人コートのポケットに手を突っ込んで歩きながら、僕は考えた。
あれは手の跡だった。顔も、階段から落ちただけであんなぶつけ方はしないんじゃないかと思う。どう見ても誰かに殴られたり、足を強く掴まれたように見えた。でも誰に――?
最初に思いついたのは喧嘩だった。以前、いかにも不良、というタイプのクラスメイトが同じような顔のケガをしていたことがあった。そいつは隣の中学校の不良とタイマンをはったらしい。ああいう風に殴り合いの喧嘩となれば、ひどいケガにも説明がつくだろう。しかしサヤカがそんな喧嘩をするとはとうてい思えない。
とすれば、考えたくもない可能性ではあったけれど、やはり暴漢か何かに襲われたということだろうか。僕にはその確率が高いように思えてならなかった。こんな片田舎の街では凶悪な事件はそうしょっちゅう起きるわけではない。それがいきなり、それもよりによってサヤカが被害に遭うなんて……僕は混乱とショックをどうすることもできず、家に着くなりトイレに駆け込み胃の中の物をすべて吐いてしまった。
部屋に籠って布団に潜り込み、またとりとめもなく考えを巡らせた。しかしそういう被害に遭ったのなら、一人で登下校させるだろうか。何日か休ませるのが普通ではないだろうか。いや、あの母親ならあるいは……そこまで考えてまた嫌な可能性に思い当たった。
まさか母親が?いや、あり得ない話ではない。例えば親子で言い争いがあり、以前なら怒鳴りつければサヤカも大人しくなっただろうが、何か言い返したとする。娘の思いもよらない反撃に怒り狂った母親が拳を振り上げ、床に倒れたサヤカの足を掴んで――。母親が原因ならば、送り迎えがないのも当然だろう。また、休まなかったことや、僕に嘘をついてまで隠そうとした理由も納得できる。
しかし結局どの考えも推測でしかなかった。明日は放課後、図書室に来られると言っていた。明日もう一度本人に聞いてみよう、と思った。このとき僕は生まれて初めて、他人を守りたいと強く思った。カズマのような体格でないことが今更ながら悔やまれた。
夜になり、母が一度、ご飯ができた、と伝えに来た。僕は、いらない、風邪っぽいからもう寝る、とだけ答え、しばらく後には本当に眠りに落ちていた。
その日の夢は口にするのも憚られるくらいの最低最悪の夢だった。
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