第4話
園田陽子の元を訪ねた翌日、尊は寝不足の頭をなんとかカフェインで誤魔化しながら出勤した。
寝不足の原因は城崎病院の看護師から聞いた話について考えすぎたことだった。樋口がもし仮に陽子と何の話もしないままあの家に住んでいるとしたら。空家に勝手に住み着くだけでなく、あまつさえ改装までしているとでもいうのだろうか。そのことを考え出すと尊は肌寒くなるような恐怖を感じた。まるで普通の顔をして生活しているにも関わらず、何の権限もないところにいる不法侵入者。しかし、考えてみれば隣に住んでいる人さえ、その素性を知らないのが今の時代当たり前になっている。
そういえば、と尊は思い出した。樋口宅の東に住んでいる老婆は、樋口が越してくる前も定期的に庭の管理がされていた、ということを言っていた。話を聞いた時には、所有者や陽子を含めたその子孫が、近所迷惑にならないよう管理していたのではないかと思ってそれほど深く追及はしなかった。しかし園田陽子の状態が判明した今となっては別である。陽子は樋口が引っ越してくる五年前よりも以前に入院していたし、その前も重度のアルコール依存症だったという。そんな人間が果たして定期的に草刈りや庭木の剪定などするだろうか。尊のこれまでの経験ではあり得ないことだった。だとすれば、この手入れをしていた人物は一体何者なのか。
気が付くと相談の処理簿を入力する手が止まっていた。危うく夢の世界に行きそうになっていたことに気付き、尊は慌ててコーヒーを一口飲んだ。いつの間にか中島が電話に出ていたのにその時ようやく気が付いた。
「アンさん、電話です。川本さんから」
中島に受話器を渡され、眠気が一気に吹き飛んだ。陸雄のその後の様子が気になっていたところである。向こうから電話をくれて助かった、と思いながら尊は電話に出た。
「もしもし、杏です」
「ああ杏さん、川本です。覚えていますか」
「ええ勿論。どうされましたか」
「はい。実はあれから色々あったものですから、一応ご報告しておこうかと思いまして。陸雄については病院に連れていくことができました。城崎病院です」
やはり城崎だったか、と尊は思った。タイミング次第では病院内ですれ違う可能性もあったということだ。
「そうですか。それはよかった。どうでしたか」
「大池さんが言っていたように、妄想性障害と診断がされました。障害者手帳が取得できるほどではないようですが、定期的に通院しながら認知療法を試すそうです。あまり酷いようなら投薬も視野に入れると」
やはり統合失調症ではなかったらしい。なんにせよ陸雄が自分の病気について認識したことは大きな前進であった。
「不思議なものですね。それまで怖がっていた病院もはっきりと診断がされて治療の方向性まで示してもらえると、急に頼もしく思えます」
「それは本当によかったですね。原因がわからないと不安が募るだけですし」
尊も少しほっとしながら相槌を打った。
「もし差し支えなければ、警察の方にも一応経過をお話ししてもよろしいですか」
尊が聞くと、電話の向こうで川本悦子は少し声を曇らせた。
「差し支えない、と言いますか……実は警察の方もそのことは知っています」
「もう警察にも報告の電話をしたんですか」
「いえ、そうではなく……二、三日前に刑事さんが訪ねてきたんです。それで、その時に」
「日岐という女性の刑事ですか?市役所に来る前に相談されたそうですが」
「いえ、知らない方でした。男性が二人で」
悦子の声は益々暗くなった。
「どうやら、例の小西さんとかいう方の事件で、陸雄と、それから私の夫が疑われているようなんです。色々聞かれました。アリバイというんですか。それとか最近の夫や陸雄の様子なんか。それでその時に妄想性障害だとお伝えしたんです」
「旦那さんまで?何か関係があるんですか?」
「逮捕された樋口さんという方が、夫の友人なんです。それで何か関係があるんじゃないかということで」
尊は言葉に詰まった。樋口が逮捕された?聞き間違いか、それとも同姓の別人のことだろうか。
「樋口さん、というと……まさか瀬田に住んでる?短髪で背の高い――」
「そうです、その樋口さん。少し前に小西さんの事件の容疑者として逮捕されたそうですが……ご存じなかったですか?」
尊は初耳です、と答え、しばらく沈黙した。樋口が小西事件の容疑者?ではこの前尋ねたときにはまさか人を殺した後だったのか。そう考えて尊の背筋に冷たいものが走った。
「それで、なぜ疑われているんですか。逮捕されたのは樋口さんでしょう」
「一つには、樋口さんがずっと何も喋っていないそうで、そのことがあるようです。もしかすると陸雄や夫をかばっているんじゃないかと警察は疑っているようで。陸雄が彼女だと言い張っていた女の子の父親だそうですし」
「ちょっと待ってください。陸雄君の彼女の父親?誰がですか?」
「ああこれもご存じなかったですか。被害者の小西さんです。陸雄が以前に何度か会っていたというのも、小西さんが娘に対しての行為をやめろ、と陸雄に言っていたということがあったみたいです」
尊の頭は急に聞かされた新たな情報の波に翻弄され、整理が追いつかなかった。何を言っていいのかわからない。
「まあ、元々もしかしたらということがあって警察に相談に行ったんですから、覚悟はしていたんですけど。それでも息子のことは信じたい思いがありますし」
悦子はそんな尊の様子には気づかずに、尊に話すというよりは自分に言い聞かせるように言った。
「小西さんという方が亡くなった前後の日、陸雄は友達の家にずっといたそうですし、その友達のお宅の方もそう証言しているみたいです。家での様子も特段変わった様子もなかったですし、本当に人を殺すようなことはしていないと思うんです」
「警察にもそういう話をしたんですね」
「ええ。必要があれば陸雄の部屋を調べてもらってもいい、とも言っておきました」
「そうですか、わかりました。また何かあったらご相談ください。ご連絡いただきありがとうございました」
尊はそう言って少し強引に電話を切った。今の話が本当なのか、確かめずにはいられなかった。自分のスマートフォンから希実の携帯番号に発信すると、ややあってもしもし、という声が聞こえた。
「ああ、アンくん。ちょうどよかった。こちらも色々聞きたかったことがあって」
「うん。さっき川本さん、陸雄君のお母さんから電話があってね。やはりうちの保健師が言っていたように妄想性障害だと診断がされたらしい」
「ああ、そうだったんだ。でも病院に行けたならよかった」
「それはそうと……樋口さんが逮捕されたっていうのは本当?」
すると希実は少し沈黙した。
「……そうだね。本当。陸雄君のお母さんから聞いたのかな」
「陸雄君や父親についても疑ってるっていうのは?樋口さんが黙秘しているから?樋口さんと陸雄君の父親が友人らしいけど……あるいは被害者が陸雄君が彼女だと言っている女の子の父親だから?」
「うーん……捜査の状況についてはあまり詳しく言えないけど、否定はしないかな。川本さんから聞いた情報だよね、それ。それから陸雄君についてはやっぱり精神障害があるってことで疑われてる部分はあるのかもしれない。その自称彼女っていう子を挟んで、かなり被害者とやりあってたみたいだし」
最後の方は自分を納得させるようにして希実は言った。どうやら悦子が言っていた内容は概ね正しいらしい。つまり樋口は今警察に拘留されており、自由に尊が会いに行けるわけではなくなったということである。
「ところで、樋口のことについて、アンくんも何か調べてたんだよね。もしよかったら教えてもらえないかな。捜査の参考として」
そう希実に聞かれて、今度は尊が口ごもる番だった。どこまで話したものか、と考える。本来ならば業務の細かい内容は話すわけにはいかないのが普通だ。ただ、これまでに尊が調べた情報からは、不法侵入の疑いがあると言わざるを得なかった。地方公務員にはその職務上犯罪と思慮される行為を発見した時は告発する義務がある。ましてや当の本人が殺人の疑いをかけられているのだ。悩んだ末に隣にいる服部に少し相談し、尊は希実に詳細を話し意見を聞くことにした。
「樋口さんは、どうも本来他人のものであるはずの住居に勝手に住み着いている可能性があるんだ。というか、俺がこれまでに調べた中では、そう結論づけざるを得ない」
「ちょっと待って、それどういうこと?他人の住居に勝手に住んでる?」
尊はこれまでに調べたことを簡単に希実に説明した。隣の席では、服部が尊の電話の声に聴き耳を立てながら、時々うんうんと頷いていた。それでよい、ということなのだろう。
「……それで、その所有者の園田陽子という人から買い取った形跡が見当たらないということは、空家になっている園田家に勝手に入り込んで生活してるとしか思えないんだよ」
尊が説明を終えると、希実は電話の向こうで唸った。
「確かにその情報だけだとそうだね。アンくんの言う通りかもしれない。ただ、少なくとも引っ越してきてからずっとトラブルなく住んでいた実績があるわけでしょう」
「そうなんだよな。だからこちらとしてもはっきり告発すべきかと言われると難しいんだ。最低限、廃屋になっている倉庫の問題さえ片付けば、あとは行政が介入するべき部分ではないだろうし。もっとも園田さんがああいう状態では、それを咎められる人がいないわけで、このまま見て見ぬふりというのもどうかと思うけどね」
「警察として不法侵入の方で動けるかどうかは……正直私ではなんとも言えないな。ちょっと上司に相談してみるよ。ただ、今の事件との関係もあるからどうなるかはわからないけど」
「わかった、頼むよ」
尊は受話器を持ったまま少し頭を掻いた。
「ところで、こないだの電話では聞きそびれたんだけど、樋口って実際にアンくんも話したことあるの?小西を見かけたときは留守だったって言ってたけど」
希実が再び質問をしてきた。尊はそうだなあ、と言いながら手帳を取り出すと、樋口との会話をメモしてあるページを探して捲った。
「確か一回目に会ったのは十月二十九日だね。その時は廃屋については知らない、とか、この家は前の所有者から買ったけどその所有者については覚えていない、とか、そんなことを話してくれた。それで二回目に行ったときには、こっちで『園田さんじゃないのか』と聞いたんだけど、多分そうだったと思う、なんて曖昧な言い方で適当にあしらわれたよ。その時は二回も訪ねたからしつこいと思われたのかな、と思ったんだけど、今から考えると不法に居住しているから調べられたくなかったともとれるね」
「二回目に訪ねたのはいつ?」
「ええと……十一月の二日だ」
「ていうことは……朝、死体が発見された日だ」
希実が少し考え深げに言った。
「他にどんなことでもいいんだけど、覚えてることはない?」
「覚えてることねえ……」
今度は尊が考える番だった。だがあまり細かいことまでは思い出せない。目を閉じて樋口との会話の場面の記憶を再生しようとして、最後に玄関を閉めるときのことが真っ先に浮かんだ。
「ああ、そういえばケガの多い人だな、とは思ったな」
「どういうこと?」
「うん、指とか手にいっぱい絆創膏を貼ってたからさ。あれは確か二回目に会ったときだったかな。そうそう、かなりガラガラ声にもなってたよ。風邪でも引いてたのかね。満身創痍って感じ」
「手の傷と、風邪か……」
「あとは、ちょっと俺に似てるな、とも思ったよ」
尊がそう言って笑うと、希実も電話の向こうで笑った。尊は、忙しいところに悪かったね、と言って電話を切った。
「アンちゃん、どうするつもりですか」
服部が尊に尋ねた。
「そうですねえ……電話でも言ったんですが、結局不法侵入なのかどうなのかは、こちらで介入すべき部分ではないとは思うんですよ」
尊は考えながら答えた。
「ただ、土地家屋の所有権が園田さんにあるのか、あるいは樋口さんにあるのかははっきりさせないと、そもそも廃屋の管理責任は誰にあるんだ、という話になりますから……」
「確かにそうですね」
服部も同意する。
「いずれにしても、昨日園田さん、いや看護師ですか、ともかく聞いた情報からすれば、園田さんが樋口さんに不動産を売った事実はおそらくないわけですよね。なのでそれについてはもう一度樋口さんに確認する必要があるとは思います。そのうえでなお自分のものだと主張するのであれば、廃屋の管理も一緒にお願いする、ていうところなんですけどね。なにしろ逮捕されてしまったとなると……管理しろと言ってもどうしようもないですし」
「そもそも樋口さんから話を聞く機会が今後あるかどうかも怪しいですね。まあ仮に話を聞けたとして、あくまで廃屋については自分のものではないというなら、逆に園田さんにお願いせざるを得ないでしょうけど」
「そうなると成年後見人をつけるか、もしくは娘さんのところに連絡を取ってみるかというとこですね。ただ、娘さんも一度様子を尋ねて電話をしてきたきりだということなんで、対応してもらえるかは非常に怪しいですが」
尊が言うと、服部も腕組みをしながら頷いた。
「そうなると元の相談者としても困るでしょうね。もしそうなったらあとは空家対策の枠組みの中で進めてもらうよう、私から建築指導課に話を付けますよ」
「ああ、ぜひよろしくお願いします」
尊は服部に頭を下げた。
その日の夕方にでも樋口に面会できないか確認してみようか、と思っていた尊だったが、結局翌日以降にせざるを得なくなってしまった。空き地からの倒木の相談が二件立て続けに舞い込んだからである。確かに今日の未明頃、かなり強い風が吹いていたのを尊は覚えていた。まあ樋口の件は慌てることはない、と尊は考えて、目の前の相談を片づけることにした。樋口に話をするのは翌週でも構わない。心の準備をする余裕ができたことに少しだけ感謝しながら、尊は空き地の所有者を調べるための登記書類の申請書を作成していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます