第3話

 被害者である小西智行の自宅に希実たちが到着した時には、既に鑑識係や県警の捜査員が何人か玄関の前に集合し、鍵屋が来るのを待ち構えているところだった。


 とりたてて特徴の少ない、どこにでもあるような二階建ての家である。どちらかと言えば安価なハウスメーカーで、メーカー側のプランに沿って建築したような印象であった。まだ比較的新しく見えるところからすると、親のものを相続したというよりは小西が家族のために建てた家ではないかと思われた。それでも妻と子に出て行かれてからはろくに手入れをしていないのだろう、庭のあちこちで枯れかけた雑草が秋風に揺れていた。


 玄関の周りも長いこと掃除をしていないと見えて、空き缶などの金属類が詰め込まれた袋や乱雑に縛られた古雑誌の束がいくつか脇に置いてあった。希実はそれを見て、ほんの少しだけ小西に共感した。一人暮らしで、しかも面倒くさがりだと往々にしてこういう事態を招きやすい。週に一度だけの資源ごみの回収日に早起きをするというのは中々の苦行である。ふと自分の部屋の片隅に積まれている古新聞の束のことを思い出し、希実はひとつため息をついた。


 希実たちが到着してしばらくすると、鍵屋がやけにごてごてと飾り立てられた車でやってきた。どうやら車に貼られているのはどれも店の宣伝のステッカーらしい。車から降り立った初老の男がものの数分で小西の部屋の鍵を開けると、待ってましたとばかりに鑑識の制服を着た捜査員たちが中へと入っていった。刑事たちはしばらく家の前でその様子を眺めていた。


 希実は開け放たれた玄関から中を覗いた。入ってすぐ廊下がまっすぐに奥へと伸びており、右手には二階に上がる階段がある。廊下の奥のリビングらしき部屋では鑑識たちがあちこちから指紋を採取したり、写真を撮ったりと忙しそうに動き回っているらしかった。ここから採取された指紋が死体の指紋に合致すれば、身元は確定とみていいだろう。


 しばらく刑事たちの雑談に加わりながら情報交換をしていると、鑑識係が作業を終えて外に出てきた。そのうちの一人が、誰に言うともなく、


「指紋と、脱落毛をいくつか採取できましたので、死体のものと照合を急ぎます。あとはご自由にどうぞ」


 と声を掛け、車に乗り込んでいった。入れ替わりに刑事たちが中へと入っていく。希実と依田も後に続いた。廊下を抜けてリビングを眺めたところで、希実はふと妙な感覚を覚えた。すぐに隣の和室や二階の部屋をざっと見て回り、その違和感は確信に変わった。


 部屋があまりにきれいすぎる。物が少ないのだ。


 希実も決して部屋が片付いている方ではない。ましてや中年の男の一人暮らしともなれば、もっと散らかっているだろうと想像していた。場合によっては足の踏み場もないほどのごみ屋敷であってもおかしくはない。現に玄関の脇にもごみがいくつか置いてあった。案外綺麗好きだったということだろうか。


 リビングに置かれた家具はテーブルと椅子、それにテレビ、それくらいである。他に目立つのは、一階の和室の床に敷きっぱなしになっている薄汚れた布団が一組とその周囲に落ちている脱ぎっぱなしの服が何枚か、それと部屋の隅に置かれたゴミ袋に入っているインスタント食品や弁当の空き箱、それくらいである。


 キッチンも同じようなものだった。流石に酒は大量に消費していたと見えて、ビールの空き缶でいっぱいになったビニール袋が二つ片隅に転がっており、冷蔵庫と電子レンジが一つずつ置かれていた。他にはほとんど何もなく、キッチンを日頃から使っていた様子はない。他の部屋も同じようなものだった。妻や娘が逃げ出すときに自分の荷物を持って行ったのだろうが、それにしても少なすぎる。逃げ出した妻子に腹を立てて衝動的に残ったものを捨ててしまったのかもしれない、と希実は考えながら、リビングへと戻った。


 キッチンから続くフローリングの床は、鑑識が指紋採取のためにまき散らしたアルミ粉末のことを考慮にいれても埃っぽい感じがした。掃除道具もほとんど見当たらないので、滅多に掃除すらしていなかったのだろう。蛍光灯の下でかなりの量の埃が空中を舞っているのが見えた。希実はリビングの壁にあるクローゼットを開けてみたが、ほとんど空であった。それでも端から順に眺めていくと、上の段の奥に何か四角いものがある。背伸びをしても届かなそうだったので、椅子を引っ張ってきてよじ登る。そこにあったのは百円均一ショップで売っているような安っぽいレターケースだった。


 それを抱えて椅子から降りると、テーブルに置いて上の段から順に開けていった。市内の地図が一枚、折りたたまれて入っている。二段目には書類ではなく、スマートフォンのものと思われる充電器が三つ、絡み合ったまま突っ込まれていた。三段目には領収書が何枚かあった。あまり聞いたことのない企業名である。宛名は「小西智行様」となっていた。


 最後の段を開けたとき、希実は思わず声を上げそうになった。かなり厚めの手帳が入っている。死亡したときには持って行っていなかったらしい。いつの間にか刑事たちも希実の捜索に注目していたらしく、振り返った希実が手にした手帳を見ておお、という声がいくつか上がった。そして希実が手帳を開くと一斉に覗き込もうと顔を寄せてきた。


 中にはかなり崩れた字であちこちに書き込みがあった。日記や予定表というよりは、備忘録のような印象である。何のことか見当もつかないような数字の羅列や記号が目立つ。それでも中には文章で書かれたメモの部分が散見された。


「日岐、とりあえず十月末だ」


 依田が言った。希実は頷くとページを捲り、日付を進めていく。左側のページに月から水まで、右側に木から日までの日付が並んでいる。見開きの一ページで一週間分という構成だった。


「十月……二十七日が最後に書き込みのあるところですね。高田×、山本△、太田×、樋口△、坂上○……この辺は訪ねた家の留守状況とか、あるいは交渉の感触っていうところかもしれないです」

「二十七日か。その後も目撃情報は出てるから、まあ毎日記録を付けてたということではないんだろうな。そこから遡るとどんな具合だ?」

「時々記号と数字の羅列が出てきます。意味の分かりそうなのは……いや、待ってください。リクオと会った、とありますがリクオって……」

「どれだ、見せてみろ」


 刑事の一人が言って希実の手から手帳を奪った。依田も今度はそちらの方を覗き込む。


「十月十八日か……日付は合うな」


 依田が手帳を見ながら呟いた。希実も記憶の中から先日のバーの店員の話を思い出していた。間違いなくそのときのことだろう。


 手帳を捲りながら、刑事たちはあれこれと相談を続けていた。


「リクオって名前はそれ以前にもいくつか出てるな。どうやらこの家を訪ねてきたことが何度かあるらしい」


 刑事のうちの一人が言った。


「樋口の方はどうだ?」

「いや、ほとんど出てこない。さっきの地上げ交渉の結果みたいな書き方でふたつみっつあるだけだ」


 それを聞いていた依田は、希実の方を見て眉根に皺を寄せた。


「やはり川本陸雄とはそれなりに繋がりがあるようだな。こうなるとやはりもう一度陸雄から事情を聞く必要がありそうだ」

「これまでの情報だけだと、どうしても動機がありそうなのは陸雄君なんですよね……状況証拠が樋口を指しているのと、なんだかちぐはぐに見えます」


 希実も腕組みをしながら答えた。樋口の殺害動機を調べるほど、樋口から離れていくように思える。小西の家を出て車を運転しながら希実と依田は、想像しうる殺害動機を検討していった。


「共犯、てことはないですよね」

「そりゃ流石に飛躍しすぎだろう。第一陸雄と樋口の接点が何もないじゃないか」

「樋口が単純に小西の地上げ行為にカッとなって手を出してしまった、というのがどうしても想像できないんですよ。そんな単純な話で逮捕までされてなお黙秘というのはどうも腑に落ちないというか……」

「それは俺も同じだ。ただ陸雄が何か絡んでいるというのも直接的な証拠が何一つないからなあ。まあ案外単純な話なのかもしれん。特に理由もなく警察に対して意地を張ってるだけとかな。現に俺たちが聞き込みに行ったときにも随分つれない態度だったじゃないか。まるで警察が大嫌いだとでもいうような」


 依田の言葉に希実も同意して頷いた。陸雄が何か関与しているとしても、少なくとも死体の処分を樋口が実行したのは確実だろう。被害者の血痕のついた差し歯が発見されたのも樋口の家であり、被害者と樋口の間で暴力の絡んだ争いがあったことも間違いないように思われる。そして依田が言う通り、樋口と川本陸雄の間には何の関係もないのだ。自分の思い過ごしだろうか、と自問したが、明確な回答など得られる筈もなく、希実は黙り込んで車を走らせた。



 数日後、希実の元に思いもよらぬ情報が舞い込んできた。


「日岐、樋口と陸雄が繋がったぞ」


 まだ出勤して鞄も降ろさないうちに聞かされた依田の言葉に、希実は一瞬固まった。


「本当に?どこでですか?」

「陸雄の父親だ。樋口と時々メールや電話のやり取りをしていた記録が樋口の携帯から見つかった」

「父親?父親が樋口の知り合いだったってことですか」

「それがどうも知り合いどころじゃない、昔からの付き合いのある友人関係らしい。メールの内容なんかからするとかなり仲はよかったようだ」


 鞄をデスクの脇に置くと、希実は慌てて手帳を取り出してメモを取り始めた。


「具体的にはどんな内容ですか、メールというのは」

「俺も詳しくはまだなんだが、内容自体は普通のやりとりのようだ。仕事の愚痴とか趣味のこととか。ただ電話をした記録もあるし、そっちで何か今回の事件に関する相談をしていてもおかしくはない。いずれにしても今何人か父親のところへ聞き込みに行ってるから、その結果待ちってところだな」


 つまり樋口からすると陸雄は友人の息子ということになる。四十代の男がある程度の頻度で連絡を取り合うとなると、かなり親しい間柄ということにはならないだろうか。希実はボールペンの頭を少し口にくわえながらこの事実の指し示すところについて思案した。


「……仮に、ですよ。陸雄君が少しねじ曲がった認識から小西に殺意を抱いたとして、実行してしまったとしたら、それを樋口がかばっているという可能性もあるでしょうか」

「あくまで想像に過ぎんが、あり得ない話でもなくなってきたな」


 依田も難しい顔をしながら頷く。


「逆に樋口が逮捕されたことを聞いた川本父子が、捜査の混乱を狙ってあることないこと喋っている、というか陸雄に喋らせているということもあり得るかもしれん。結局何か裏付けが出てこない限りどれもこれも空想の域を出ない」

「それはそうですが」

「今のところ川本家が関わったという物的な証拠は何一つないんだ。あまり推測ばかりしてても仕方ない。が、樋口に直接尋ねてみる材料にはなるだろう」

「今日の取り調べでどういう反応があるか、気になりますね」


 希実はそう言うと手帳を閉じた。もう一度樋口の家の周囲を聞き込みする必要があるかもしれない。もし陸雄が樋口家での惨劇に関わっているとしたら、その周囲で目撃されていることがあってもおかしくはない。


 川本家に聞き込みに行っているという刑事たちはどういう情報を持って帰ってくるだろうか。待つしかないとわかってはいても、希実は報告書を作成する手が進まなかった。



 しかしながら陸雄の父親から得られた証言も芳しいものではなかった。


「確かに親友であることは間違いないし、逮捕されたと聞いてショックを受けていると言っています。ただ、通話の履歴やメールについては一番新しいもので事件のあった少なくともひと月は前のものでした。これについては通信事業者からも裏が取れています。なので何か事件に関係しているとすれば、直接会って話をしたか、あるいは郵送か、というところでしょうか。ひと月前から計画していたという可能性もゼロではないですが」


 捜査会議で報告された内容は、捜査員たちを落胆させるには十分な内容だった。


「それから、陸雄少年は小西が殺害されたと思われる日、ほとんど丸一日友人と会っていたようです。彼は学校では浮いていたということですが、それでも親しい友人が数人はいるみたいで、その日はそのうちの一人の古畑という人物の家に遊びに行っていたとのことです。こちらについても古畑少年の家族から裏は取れてます」

「取り調べの際の樋口の反応は?」

「川本の名前を出したときに、一瞬だけ表情が変わりました。ただ、それだけです。かばっているのか、と聞いても否定も肯定もしません。相変わらずの黙秘です」


 ここまでのところ、樋口が小西を殺害した直接の証拠は何も報告されていない。仮に扼殺であれば抵抗した際に被害者の爪などに犯人の皮膚片が残っていてもおかしくはないが、それも検出されていなかった。


 捜査本部の面々の顔を見渡すと、疲労と共に焦りの色が浮かび始めていた。このまま殺人罪で起訴したとしても、状況証拠しかなく動機も不明、というこの状態では有罪に持ち込めるとは言い切れない。しかし動機が判明しないことには、捜査の焦点が定まらずクリティカルな証拠が出てこないのだ。


 希実たちはまるで亡霊のように、樋口の家の周りを聞き込みながら何度も歩き回った。殺害現場を目撃した者はいないか、家には殺害した直接的な証拠になりそうな痕跡がないか、あるいは陸雄やその父親を連想させる情報はないか――。


 樋口の庭に残された捜査員たちの足跡は日増しに多くなり、朝晩はそこに霜柱が立つようになっても、樋口の口から自白が漏れることはなかった。逮捕されて以来ずっと口を閉ざしたままのこの男は何かを思い詰めたように固い表情のまま、取調室の椅子で捜査員から浴びせられる言葉の雨に耐えているのだった。


 何度目かもわからない聞き込み調査をしながら、希実の脳裏にふと尊の顔が浮かんだ。そういえば尊も別の案件で樋口について調査していた筈だ。一度話を聞いてみよう、と思った。あのお地蔵さまのような顔にすがってみれば、あるいはご利益があるかもしれない。


 隣を歩いていた依田が大きなくしゃみをした。その音は静かな晩秋の山里に響き渡り何度もエコーした。希実は身震いするとコートの前を掻き合わせた。

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