第2話

 M市の市民ホールは中心街から車で十分ほどのやや郊外に位置しており、総合体育館と併設して建てられているM市の中心的な文化施設である。近くにあるS大学の学生が車を無断で駐車しているのだろうか、特に催し物がないような日でも駐車場にはそれなりに車が停まっていた。


 研修が全て終わったのは午後三時だった。三々五々ホールを後にする参加者の群れに交じって外に出た尊は、鞄からプリントアウトしてきた地図を取り出して眺めながら車に乗り込んだ。園田陽子の最後の住所に向かうためである。それによると陽子のマンションはM市の中でもだいぶ南の方にあった。尊の実家もそちらのほうなので、おおよその場所の検討は付く。


 尊は車に置きっぱなしにしていた飲みかけの缶コーヒーを飲み干すと車を発進させる。研修会の参加者で渋滞する道を前の車についてのろのろと走りながら、陽子の生涯について思いを巡らせていた。


 世の中で、結婚というものが普遍的な「幸せ」の基準とならなくなったのはいつ頃からだろうか、と尊は思う。今の超高齢化社会が形成された要因のひとつに、晩婚化や結婚率そのものの低下が深く関わっているのは間違いない。それはひとえに、大学を出て就職し、結婚、子育て、と進んでいく昭和的な価値基準が徐々に薄れていったためであろう。終身雇用制度が絶対的なものではなくなって久しいが、結婚もまた破局によって容易に終わりを告げるものなのだ、という思いが世の中に浸透してきたという背景があるような気がしてならなかった。


 陽子の場合も、それとは別の原因ではあるにせよ、結婚生活が早くに終わりを告げている。それも離婚よりももっと壮絶な終焉だった。陽子にとっての結婚とは、果たして幸せを意味するものだったのだろうか。


 尊も学生時代は何人かの女の子と交際していたことがある。その終わりは大抵、どちらかに他に気になる人ができたとか、あるいはデートの時の些細な喧嘩とか、その程度のことであり、当然ながら相手が亡くなってしまったという経験は全くない。もしも交際していた相手がある日突然自殺を選んだら、あるいは不慮の事故で死亡してしまったら、自分には耐えられるだろうか、と尊は自問した。ましてや陽子の場合は生涯の伴侶と定めた相手である。尊にはその心境はとても推し量ることができなかった。


 考えすぎていよいよ気が滅入り始めた頃、車はようやく渋滞を抜けてスピードが上がり始めた。国道をしばらく進み、途中で左へと折れる。川に沿って蛇行する細い道を抜けていくと、やがて住宅街の中に古びた木造のアパートが見えてきた。どうやらそれが目指す目的地であるらしかった。


 アパートの駐車場は平日の昼間だけあってほとんど車が停まっていなかった。おそらく部屋番号により区画が割り振られているのだろうが、表示が何もないためなんともわからない。仕方なく手近な区画に公用車を停めて尊は外に降り立った。


 二階建ての木造アパートは、各階に三部屋ずつが並ぶ造りになっており、外に据え付けられた鉄製の階段は錆が浮き出て尊が足を乗せるたびにギシギシと鳴る。二階の短い廊下には、灯油のものらしきポリタンクや冬用のタイヤ、あるいは枯れかけた鉢植えといったものが各部屋の玄関の前に所狭しと置いてあった。古い安アパートではよく見られる光景である。


 階段を上がり切ったところにある部屋の玄関には一〇一号と書かれた札が貼ってあった。そのすぐ下には沢木、と手書きの文字で書かれたネームプレートもある。陽子の部屋は戸籍の附票では一〇二号となっていた。こちらが一〇一ということはこの隣の部屋ということだろう。


 尊はゆっくりと廊下を奥に進んだ。いくつかの枯れた植物の鉢に靴の脇が擦れて乾いた音を立てた。こういったものを片づける余力もないほど精神的に疲弊している住人の姿が目に浮かぶ。一〇二号室の前に立って一息つき、尊はドアをノックした。


 しばらく待ったが何の応答もなかった。留守か、あるいは訪問者は誰であれ歓迎されないのだろうか。それから五分ほどの間に四回ノックをしたが、結局誰も出てくることはなかった。場所が間違っているのだろうか。住民票の異動届けを出さずに引っ越しているとすればそもそも別人が住んでいる可能性も捨てきれない。そこで尊は両隣の部屋の住人にも話を聞いてみることにした。


 奥にある一〇三号室もやはり不在のようだった。こちらは他の二部屋に比べれば幾分玄関前がすっきりとしている。きちんと積まれた冬用タイヤからするとやや大型の乗用車に乗っているようだが、駐車場に停まっているのは尊が乗ってきた公用車も含めて軽自動車ばかりである。そうなるとこの部屋の住人はどこかへ勤めに出ているということだろう、と尊は結論付けて廊下を戻った。


 続いて尊は一〇一号室をノックした。こちらはノックの直後に中で人が動く気配がする。数秒後にドアが開き、かなり高齢の男が顔を出した。


「はいはい、どちらさん」

「すみませんね突然。私、梓市役所の者なんですが」

「市役所?M市の役所かね」


 沢木老人は少し耳が遠いらしかった。尊の方へ耳を向けてなんとか聞き取ろうとしていたが、半分くらいしか聞き取れていない様子である。尊はもう少し声のボリュームを上げることにした。


「お隣の、梓市役所です。ちょっとお隣さんのことで聞きたいことがあるだがせ」

「お隣さんていうとそっちの部屋のかね」

「そうです。そっちに住んでるのは園田さんって人かいね」


 尊は自然と方言になっていた。敬語というものはとかく文字数が多くなりがちである。少しでも短く伝えるにはこの方がいい。福祉部門の窓口対応で培った知恵のひとつだった。


「園田さんならいねえじ。何年も前に出てったきりだわ」


 それを聞いて尊は少しがっかりした。やはり転居していたようだ。すると行方を追う手段はほとんどないだろう。そう考えたが、沢木の次の言葉で再び希望の光が灯された。


「どっか施設に入ったってせってたがね。園田さんがどうかしたかい」

「いや、ちょっと聞きたいことがあったもんでね。どこの施設か知らねかい」

「いんやなにしろもうはるかになるでね。おら忘れちまったが。井口さんなら覚えてるかもしんねえが」

「井口さんてのはどちらさんかね」

「民生委員さんせ。もう十何年もやってるで、多分園田さんのことも知ってると思うが」

「沢木さん、井口さんの連絡先はわかります?ちょっとそっちに聞いてみるで」


 尊が言うと、沢木はちょっと待ってろ、と言い残して部屋の中へと消えて行った。


 民生児童委員の仕事のうち、多くを占めているのが一人暮らし高齢者の定期的な訪問である。特にこの沢木老人のように、昼間から孤独に部屋で過ごすような者はかなり重点的に見守りをしているのだろう。しばらくして沢木は紙を一枚持って戻ってきた。


「ほれ、これだわ」


 そう言って手渡された紙には、老人のものと思われる少し震えた文字で「井口さん」と書き込まれていた。右側には携帯電話の番号が記入されている。


 尊は電話番号をメモすると、沢木に礼を言ってアパートの階段を下った。車に乗り込み、自分のスマートフォンから井口の携帯に電話をする。十コールほど待たされた後に電話に出たのは、落ち着いた印象の高齢の女性だった。


「突然のお電話ですみません。私、隣の梓市役所の杏と申します」

「あら、そうですか、どうもお世話になっております」


 丁寧な挨拶につられて尊も堅苦しい口調になりながら、沢木という男性に電話番号を聞いたことを伝え、その隣に住んでいる園田陽子という女性を知らないか、と尋ねた。


「あらあら、沢木さんから。お元気でしたか。私ここのところあまり訪問できてなくて」

「そうですね、耳は遠いようですがお元気そうでしたよ」


 なかなか本題に入らない井口をついせっつきそうになるのを堪えて尊は応じた。


「あ、そうそう、園田さんでしたね。確かもう六、七年にもなりますかねえ。私が訪問するようになった時には既にかなりお酒を飲まれるようになっていましてね。それで入院するように手配したんだったと思いますよ」

「入院ですか?施設ではなく」

「確か病院だったわねえ。でもそのあと帰ってきたという話も聞かないのよ。どうされているのかしらね。退院してまたどこかに引っ越されたかもしれないわねえ」

「どこの病院だったか覚えてませんか」

「あれは確か城崎病院じゃなかったかと思います。今ちょっと昔の訪問記録がすぐに出てこないですけど……そうそう、身寄りもほとんどいなくてね、市の方で娘さんの居所を探してもらったような覚えがあります。結局連絡がついたんだったか覚えがないですが。でもその時に城崎病院の精神科の方と何度かやりとりしたのを覚えてますから、やっぱりそこですね」

「わかりました。ちょっとそちらを訪ねてみることにします。ありがとうございました」


 尊はそう言って電話を切った。


 城崎病院は精神科をメインに内科や神経外科といった診療科をもつそれなりに大きい病院で、M市の北寄り、山を越えて池川町へと続く国道沿いにあった。この国道は途中で分岐し、西へ行くとそのまま梓市へ通じており、梓市内へ入ると今問題となっている市道南部五号線に接続している。尊は頭の中で地図を思い浮かべながら、これなら帰りに寄れるな、と考えた。


 時計は四時近くを示していたが、入院病棟をもつ城崎病院なら五時前なら問題なく話が聞けるだろう。尊は車を発進させると、来た道を逆にたどりながら渋滞の相変わらず激しい中心街を抜け、病院を目指した。



 城崎病院の受付はかなり混雑していた。M市内には精神科を標榜する医院や病院も数多くあるが、その中でも城崎は比較的評判がよく、中には県外から来る患者もいると聞いていた。梓市内には精神科のある大病院というと一か所しかないため、個人医院ではなく大病院で診てもらいたいという梓市民もよく利用している病院である。


 どこの精神科に行くべきか迷ったときに勧められることが多いのもここなので、あるいは川本陸雄も城崎に来ているかもしれないな、と尊は思いながら、忙しそうにパソコンを叩いている受付の事務員に声を掛けた。


「すみません、私は梓市役所の者ですが、ちょっと患者さんのことで聞きたいことがあって来たのですが」

「市役所さん?どうもお世話になります。患者さんというとどなたのことでしょうか」


 受付の女性は手を止めて尊の方を見た。


「それがちょっと昔の話なんですがね。六年か七年ほど前に、園田陽子さんという女性がこちらに入院されたと思うんですが……」


 尊がそれだけ言うと、受付の女性は大きく頷いた。


「ああ園田さんですか。それじゃご本人に会われますか」

「ご本人?園田さんの居場所をご存じなんですか」


 尊が驚いて言うと、女性は不思議そうに首を傾げた。


「北病棟の三一三号室ですが……本人に面会ではないんでしょうか?」


 尊は虚を突かれて少し黙り込んだが、結局面会を依頼した。北病棟の三階のナースステーションで声を掛けてください、と案内され、礼を述べるとすぐ近くにあるエレベーターに乗り込む。


 上部にある階数表示が一つずつ増えるのを見ながら、まだ入院していたのか、と尊は改めて驚いていた。民生児童委員の井口の話では酒の量が多かったということだから、精神病院に入院したこととあわせて考えればアルコール依存症だったのではないかと思っていた。しかし依存症だとすれば六年や七年も入院することはない。


 エレベーターが停止し、機械の女の声が三階であることを告げた。廊下に出ると目の前には病棟の見取り図があり、真ん中あたりに赤い文字で現在地と記されている。どうやら北病棟は右手に行けばいいらしい。尊は見取り図の中で三一三号室の大体の位置を確かめると、北病棟の方へと廊下を進んだ。そのまま奥へ行くと右側にナースステーションがある。尊はカウンターに近づき、看護師らしき女性を見つけると声を掛けた。


「すみません。三一三号室の園田さんと面会したいのですが」

「園田さんですか?ご家族の方でしょうか」

「いえ、そうではないです。実は私、梓市役所の者なんですが、園田さんに確認したいことがありましてね。こちらに入院されていると聞いて来たのですが……面会は難しいですか?」

「そうですか……特に面会できないということではないですが……」


 看護師は少し考えたようだった。


「ああ、ご本人に確認を取らないといけないということですかね。アポなしですし」


 尊が気を利かせてそう言うと、看護師はいえ、そうではないんです、と否定した。


「ええと、園田さんの状態はご存知ですか?」

「いえ、知りません。ここにいるというのも、以前担当していた民生児童委員の方に今日聞いたところだもんですから」

「ああ、そういうことですか……ええと失礼ですが、名刺か何かお持ちですか」


 看護師に言われて、尊は名刺を車の中に置いてきたのを思い出した。筆記用具と手帳、それに財布だけをポケットに入れてきたので、鞄は公用車の助手席の足元である。研修会の資料がことのほか多く、煩わしかったのだ。


「すみません、名刺は車の中にありますが……杏と申します」


 尊は首から下げていた名札を見せた。裏は職場の身分証になっているので、名刺よりもむしろ信頼できるものだ。看護師はそれを数秒間しげしげと見つめていたが、やがてわかりました、と頷いた。


「では杏さん、ちょっとこちらへ入ってきてください。そちらの椅子にかけてお待ちいただけますか」


 尊は言われるがままにナースステーションの中に入ると、打ち合わせ用と思われる簡素なテーブルとセットになっているスツールに腰かけた。看護師は尊と入れ替わりにカウンターを出て、廊下の奥へと消えていく。突然の訪問者で、友人でも身内でもなく、しかも異性である。流石にそのまま病室に案内するというわけにもいかないのだろう、と尊は推察した。


 しばらく壁に貼られたポスターなどをぼんやりと眺めていると、廊下の方から数人分の足音がして、やがて三人の女性が連れ立って現れた。一人は先ほどの看護師で、先頭に立って残りの二人を案内するような形である。それに連れられて来たのは、中年で小太りの看護師と、園田と思しき高齢の女性だった。


 看護師のうち、園田を支えるようにして連れてきた方が尊に挨拶をした。尊も、お忙しいところ突然ですみません、と返す。一方の園田らしき女性は終始無言であった。目線も尊の方を一顧だにしない。そのまま二人はカウンターの中へと入ってきて、尊の向かいにゆっくりと腰を下ろした。


「お待たせしました。園田陽子さんです。園田さん、こちら、梓市役所の方です」

「突然お邪魔してすみません。梓市役所よろず相談室の杏です」


 小太りの看護師に紹介され、尊も立ち上がって頭を下げた。しかし相変わらず園田は聞いているのか、ほとんど反応を示さない。どう話したものか、そもそも話していいのか、と尊が躊躇っていると、看護師の方が替わりに口を開いた。


「園田さん、若年性のアルツハイマーなんです。なので正直なところ、お話がわかるかどうか……」


 尊は絶句した。若年性アルツハイマーだって?それでこんなにも長く入院していたのか。ということは樋口邸の情報などほとんどわからないのではないか?次に言うべき言葉を探して、尊は頭を必死に振り絞ったが、


「それは……大変ですね」


 というありきたりの台詞しか出てこなかった。それでも看護師に促されるまま、一応一通りの説明をする。梓市豊川町に園田陽子の父親名義になったままの廃屋があり、その管理をしてほしいこと、同じく父親名義の土地や建物に住んでいる男がおり、園田陽子から購入したと言っているが契約の存在が確認できないこと、などである。話が進んでも陽子は時折頷く程度で、本当に理解しているのかは甚だ疑問であった。途中からは尊も隣にいる看護師に向かって話しているような恰好になった。


「なるほど、よくわかりました。園田さんには管理責任があるのではないかということですね。ただ杏さん、ご覧のとおり園田さんに今それをお願いするのは難しいと思うんですよ」

「そうでしょうね……成年後見人がついていたりもしませんか」

「今のところついてはいません。その必要もこれまでなかったものですから……それにその今住んでいる方との売買契約ですか、これについても覚えているかどうか……」


 看護師の言葉が尻すぼみになりながら響き、それから沈黙がおりた。


 通常、このように判断能力に欠ける状態の者でも、成年後見人が付いていたとすればそちらに話をすることで対応してもらうことができる。成年後見人制度では、家族などが申し立てることにより後見が開始されるのが一般的ではあるが、必要に応じて市町村長が申し立てることもできる。ただ、問題なのは陽子がおそらくはM市民であることだった。現住所もアパートに置いたままだと思われたが、仮に城崎病院に移していたとしてもM市であることに変わりはない。そうなると余程の理由がないと梓市長の申し立てによる成年後見の開始はできない。


 これは難しいかな、と尊が考えていたときだった。不意にそれまで黙ったままだった陽子が口を開いた。


「あんな家、好きにしたらいいわ」

「園田さん?梓市の家のこと、覚えておられるんですか」

「あんたもどうせ幸司に言われて来たんでしょうが。好きにしていいから、私にはもう関わらないでちょうだい」


 幸司は確か陽子の夫だった人物であった筈だ。死んだことを知らない訳はないだろうから、やはり記憶が混乱しているのだろう。いくつか質問を投げかけたがどうにも話にならず、諦めざるを得なかった。


「すみません、園田さんはいつから入院されているんですか」


 尊は看護師の方に聞いてみることにした。陽子から情報が引き出せないとしても、どうしても気になることがあったのだ。


「そうですね、確か二〇一九年の夏ですから……もう七年になりますか」

「七年ですか。今その、元園田さんの家に住んでいる方、樋口さんというんですが、この人が引っ越してきたのが五年前くらいなんです。なのでもし売買契約をしていたとするなら入院後のことになるんですが、何かご存じないですか?」


 すると看護師は少し笑いながら言った。


「五年前なら既に若年性アルツハイマーが発症している頃です。元々、アルコール依存症があって入院されたんですが、それからすぐにアルツハイマーと診断されましたから。アルコールの過剰摂取が原因でしょうけど、五年前にはもう正常な判断能力はなかったと思いますよ。そんな状態で契約などできないです」

「病院のスタッフさんとか、民生委員さんなんかがサポートして財産の整理をしたとかいうこともありませんか?」

「ないですね。私はもうずっとここの病棟で働いてますので、当時のことも覚えていますけど、そもそも梓市に不動産をお持ちだということさえ今初めて知りましたよ」


 看護師の話を聞いて尊は思わず唸った。状況から推測すると、陽子が樋口と売買契約を取り交わしたとはとても思えない。契約書の作成はおろか、樋口が陽子と接触し、口頭で約束することすら難しそうである。そうなると樋口という男は一体何者なのか。


「園田さんにご親族などは?」

「連絡の取れる方はほぼありませんね。近い親戚は皆亡くなっていると聞いています。唯一、娘さんが一度だけ連絡してきたことがありましたが、そちらもずっと音信不通になっていたようです。何かの拍子にここに入院していると聞いて、状況の確認のための電話をしてきたそうで、特段それ以上関わるつもりもないとのことでしたが」

「それはいつ頃のことですか」

「さあ、三年かそのくらいは前だったと思いますが……それもその時の一度だけです。いずれにしても、園田さんはほぼ身寄りがないといってもいいでしょうね。入院費用はご本人の年金と市の福祉医療費で賄えてはいますから、こちらとしてもそれ以上親戚を当たってみてはいませんが」


 これで樋口が園田の親戚である可能性も低くなった。いよいよわからない。なぜ樋口はあの家に住んでいたのか。本来の所有者がこのような状況で、どういうつもりで引っ越してきたのだろうか。


 結局、城崎病院を訪れたことで、謎がますます深まる結果となってしまった。


 尊は看護師に丁重に感謝を述べると、市役所へ戻ることにした。一旦情報を整理する必要がある。廃屋についてはほとんど八方ふさがりと言っていい状況だった。それでも念のため、連絡してきたという娘の住所と電話番号を控え、尊は病院を後にした。


 外は既に日が落ちて暗くなっている。このところ、日が短くなるのが目に見えて早くなってきた。途中、市道沿いにある樋口の家の前を通りかかったとき、少し車のスピードを緩めて敷地内を覗き込んだ。当然まだ拘置所にいるのだろう、真っ暗な和風家屋が佇んでいる。それを見ながら尊は、お前は誰だ、と呟き、また車のスピードを上げた。空にはまるで尊をあざ笑うかのように、晩秋の月が雲の隙間から覗いていた。

  

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