幕間2
サヤカの父親を殺した日、すべての作業を終えて家に戻り、布団に潜り込んでも眠気は全く訪れようとはしなかった。実行する前には、人を殺したとなれば、そのことに対する恐怖できっと眠れないだろうな、と考えたものだった。しかし実行した今となってみれば、興奮状態にあるせいなのか、恐怖感はまるで感じなかった。
その代わりに、サヤカと初めて会ったときのことや、それから一緒に過ごしてきた日々が次から次へと思い出され、僕を眠りから遠ざけて行った。五年も前の、まだ僕たちが小学生だった頃のことだ。だけど懐かしい記憶の数々は色あせることなく、僕の脳裏に何度も浮かんでは消えていった。
僕の父と母はごく普通のサラリーマンとOLで、結婚を機に母が仕事を辞めたと聞いている。それでも僕が小学校の三年生になった頃から母はパートに出るようになり、一人っ子の僕は放課後いつも児童クラブで夕方まで過ごすのが日課だった。元々一人で過ごすのは好きだったし、家にはテレビもゲームもある。だから児童クラブに通うことになったとき、別に留守番をしていてもいいんだけど、と母に言ったが、母に、「あなたはよくてもお母さんがダメなのよ、心配で」と言われたので素直に通うことにした。
児童クラブの建物は小学校の敷地のすぐ横にあり、学校が終わってそのまま直行できるので親としても安心感があったのだろうと思う。
児童クラブでの活動は、通い始めてみるとこれはこれでなかなか楽しかった。いろんな学年の子がいて、同じ学校の子供ばかりだったから、五年生や六年生は皆低学年の子と一緒に遊んでくれたし、先生やお手伝いのおねえさんも優しかった。
日によってはちょっとしたイベントがあるときもあれば、同い年の友達と延々とサッカーをして終わる日もあった。また小規模ながら図書室もあり、体を動かしたくない気分のときはそこで読書をして過ごした。
学年が進むにつれて、学校で出される宿題も増えてきたので、図書室で宿題をすることも多くなった。僕は自分で言うのもなんだが昔から勉強はよくできたので、宿題がわからなくて困った、という覚えはほとんどない。むしろどちらかといえば、漢字の書き取りや計算ドリルといった、ほとんど考えなくてもいいのに時間ばかりかかる宿題がどうしても好きになれなかったし、そういったものはたいてい夜家でやる気にならない。だから他の子と一緒に児童クラブにいるうちに片づけてしまうほうが気が楽だった。
児童クラブでは、学校でも同じクラスの友達が二人いた。
カズマは、休日だいたいいつも一緒に虫取りに出かけたり、公園で野球やサッカーをしたり、とあちこち遊び歩く何人かのメンバーの一人で、クラスでも児童クラブでもよくつるんで遊んでいたから、親友と呼んでも差し支えないと思う。
小学生にしては少し太めの体形で、冬でも半袖半ズボンで過ごすような、ちょっと変わった奴だったが、剽軽でいつもニコニコしているせいか友達も沢山いた。
もう一人はユウタといって、こちらは申し訳ないけれどかなり地味な奴だった。勉強も運動も平均くらい、授業中もあまり発言することなく、休み時間にもサッカーやドッジボールに参加せず、いつもいるのかいないのかわからない。
児童クラブに通い始めた頃も、同じクラスの友達がカズマ以外にいるんだと気づいたのは三週間くらい経ってからだった。しかし一度気づけば流石に気になるし、なんとなく親近感も湧いてくる。それである日、図書室で熱心に読書をしているユウタに僕が声をかけた。それ以来、学校にいる間は相変わらず接点が少ないが、児童クラブにいるときはなんとなく話をする、という微妙な距離感の関係となった。
五年生になってしばらく経ち、夏休みがもう目の前まで迫ってきて、僕らの頭の中は今年の秘密基地の建設計画でいっぱいになっていた、そんな頃のことだった。
学校が終わった後、児童クラブに向かう道で、カズマがいかにも重大そうな様子で僕に話しかけてきた。
「なあ、りっくんさ、知ってるか?児童クラブに違う学校の女子がいるの」
「えっ、本当?」
僕は少し驚いてカズマの方を見た。
「うん、なんかさ、クラブの斉藤先生が祐子おねえさんと話してるの、聞いたんだ」
「でもさ、クラブってうちの学校の子しか入れないんじゃないの。だって学校のすぐ隣だよ、建ってるの」
「俺もよくわかんないんだけどさ、隣の東小の子なんだって。東小は近くに児童クラブがないから、ちょっと遠いけどうちのクラブに入れてもらえる、みたいなこと言ってたよ」
「ふうん、東小ちっちゃいからかなあ」
僕は少し鼻の頭をかいた。午後の日差しはまだまだ暑くて、運動しなくても歩いているだけで汗が噴き出てくる。隣を見ると、汗っかきのカズマは僕以上にTシャツが変色しているのがわかった。
梓東小学校は、僕たちが通う西小学校と比べてかなり規模の小さい小学校だと聞いていた。郊外の山の手の方に立地していて、そのあたりは昔ながらの集落が点在する地域だったから、東小の一学年はそれぞれ一クラスずつしかないらしい。西小は各学年で四クラスあったから、それと比べると規模としてはかなり小さいという印象だった。
僕の自宅は東小の校区との境のあたりにあり、実は通う距離だけみれば東小の方がだいぶ近い。市役所でも、東小に通うこともできますよ、と言われたらしい。しかし父母が小規模な学校を嫌がって、少し距離があっても西小に通うこととなったのだ。
「でもほんとに東小の子なら結構遠いよ。僕の家よりもっと向こうだもん。学校終わってからどうやって来てるんだろう」
「お母さんが送ってきてるみたいだよ。俺たぶん車見たことある。こないだクラブの前で見かけて、知らない子が車で来てるな、なんだろうって思ったもの」
「そうなの?変なの。お母さんがその時間に送ってこれるなら、家にいたらいいのに」
僕が訝しむと、カズマもつられて首をひねった。
「そうだな、言われてみればそうかも。みんな家に帰っても留守番だから来てるもんね」
「カズマの勘違いじゃないの。もしかしたら転校生とか」
「うーん、そういわれるとわかんなくなっちゃったな。でもちょっと前に知らない子が来てたのは間違いないよ。俺確かに見たんだ」
そしてカズマは少し考えた後、恥ずかしそうに小声で「可愛いかったよ」と付け足した。
校庭を突っ切り、裏門を抜けて、横断歩道を渡った先の児童クラブの門をくぐると、玄関前のロータリーの中心に茂った大きなケヤキの木陰が少しだけ暑さを和らげてくれた。
どうやら斉藤先生がまた打ち水をしたらしく、玄関からロータリーの半分くらいにかけてまだ少し湿り気が残っている。しかし四方八方から聞こえるミンミンゼミの大合唱を聞くともなく聞いているうちに、打ち水の湿り気さえも熱気にしか感じられなくなってくる。
玄関をくぐって、外の熱が入り込んでいる下駄箱に脱いだスニーカーを入れ、事務室の小窓から中をのぞき込む。斉藤先生が一人で何やら事務作業をしている様子だった。
「こんにちは、お願いします」
と僕とカズマが声をかけると、先生は顔をあげガラス越しにも聞こえるよう大きな声で、
「はーい、こんにちは。今日も暑いね」
と返事をした。
事務室の前を通りすぎ、僕らが単に「教室」と呼んでいる談話室の扉を開けると、やっと少しだけ涼しさを感じられるようになった。低学年の子らは僕ら五年生より先に授業が終わっているのでもう来ているはずなのだが、どうやら体育室へみんな遊びに行ったようで、室内には誰もいなかった。
「やった、俺専用だ」
カズマはそういいながらランドセルを投げ捨て、無人の空間に風を送り続けていた扇風機の前に陣取った。僕も少し離れたもう一台の前に座り、少しの間無言になってランドセルで蒸れた背中を乾かすのに専念した。
そうしているうちに、玄関のドアが開く微かな音が聞こえてきた。やがてぼそぼそと何かしゃべる声に続いて、先ほど僕とカズマに向けられたのとまったく同じトーンの「こんにちは、今日も暑いね」が耳に届いた。
やや間があって教室に入ってきたのはユウタだった。
カズマと僕がほとんど同時によお、と声をかけると、ユウタは軽く頷き、ランドセルを部屋の隅におろして本棚を物色し始めた。あまり愛想がないのはいつものことなので僕らも気にせず、扇風機に向き直ったとき、珍しくユウタの方から話しかけてきた。
「ねえ、りっくんとカズマ、外にいた子、知ってる?」
「外?誰かいたか?」
カズマが僕の方を振り返った。
「見てないよ。誰がいたの?」
僕が逆に問いかけると、ユウタは手に取った「ファーブル昆虫記」を机の上に置き、
「こないだから何回か見かけた女の子。僕らと同じくらいの年だと思うけど、学校で見たことないから」
と答え、さほどその話題には興味がなさそうにページをめくり始めた。僕とカズマは顔を見合わせると無言で立ち上がり、ロータリーに面した窓から外を覗いた。
窓にかかったすだれの間から、ロータリーに軽自動車が一台停まっているのが見える。ややあって車はロータリーを回って道路へと走り出ていき、後には女の子が残されていた。
髪が肩くらいまである、鼻筋の通った子で、切れ長の目を少し伏し目がちにしている。その姿を見て僕は少しどきっとした。可愛い子だったから、ということもあるが、その儚げな印象のせいもあったように思う。彼女は明らかに同年代の他の子に比べて細身であり、まるで触れるだけで壊れてしまいそうだった。
よく見ると上半身にはいかにもくたびれたTシャツを着て、下は飾り気のないシンプルなスカートを穿いている。彼女の全体像の中で、まるで古着を着ているような服装だけが奇妙にアンバランスに写った。
「どうした、好きになっちゃったのか?」
からかうようなカズマの声に、僕はハッとして視線を外した。
「そんなんじゃないよ。ただ、ほんとに見かけない子だなと思って。たぶんこの子だよね、カズマがさっき言ってたの」
「うん、だと思う。車も俺が前に見たのと同じだったし」
「ほんとに送ってもらってるみたいだね」
そう言ってもう一度窓の外に視線を向けると、女の子は玄関の方に向かって歩き始めていた。口をぎゅっと結び、何かに耐えているかのように見える。僕とカズマはどちらからともなく目くばせをすると、教室のドアの前に移動し、聞き耳を立てた。
少しして斉藤先生の声が聞こえてきた。
「こんにちは、サヤカちゃん。今日はどうする?……そう、わかった。じゃあまた休憩室開けておくから」
「名前、サヤカっていうんだな。いつも休憩室にいたのかな」
カズマが囁いた。
「うん、だからクラブの中でもあんまり見かけなかったんだね」
僕も小声で返す。
「どうする?先生に聞いてみようか」
「えー、なんかやだなあ。りっくんが聞いてくれるならいいよ」
「なんでだよ、カズマが聞いてよ」
小声でやりとりをしているうちに、事務室の奥にある休憩室が閉まる音がした。するとそれまで黙っていたユウタが「ねえ」と呼び掛けてきた。
「誰かが具合悪いことにすればいいんじゃない。そうしたら休憩室に入れるよ」
ユウタの言葉に、僕とカズマはまたしても顔を見合わせた。
「そう、お腹痛いの。トイレは大丈夫?」
「大丈夫です。出そうな感じじゃないから」
「じゃあ少し休憩室で休む?お迎えお願いした方がいいかな」
「休みます。お母さん、まだ仕事だし。それに少し休めば治ると思います」
「お水がぶ飲みしたりしたのかな?それじゃあ休憩室使っていいから、ちょっとでもおかしいと思ったらすぐに言ってね。先生事務室にいるから」
「はい。すみません」
ユウタを強引に参加させたうえでジャンケンに負けた僕は、しかし疑われることもなく休憩室を使えることになった。
「あと、今他の子も休んでいるから、静かにね」
先生の注意に、少し緊張が走る。
「そうなんですか。わかりました」
そう言って僕は休憩室の扉を開けた。
全面畳敷きの、僕の家のリビングくらいの広さの部屋で、入って正面の窓際の片隅にテレビが置いてある。低いテーブルと座椅子がいくつかあったが、今は左側の壁際に寄せて片づけられており、空いたスペースには布団が一組敷いてあった。掛け布団が丸まっており、誰かが布団にくるまっているであろうことが見て取れた。
これがサヤカという女の子に違いない。僕はわけもなく心臓のペースが速くなるのを感じた。少し立ち尽くしていると、後ろから入ってきた先生が声を掛けた。
「ごめんねサヤカちゃん。ちょっと他の子が具合悪いみたいだから布団寄せてくれるかな」
丸まっていた布団がゆっくりとほどけ、中から先ほどロータリーで見た女の子が出てきた。そして無言のまま自分の寝床を窓の方へ一メートルほど寄せ、すみません、と呟くように言うとまた中にもぐりこんでしまった。
先生は少し固まっている僕には気づかずに、右手の押入れを開け、もう一組の布団を取り出した。サヤカが開けてくれたスペースにそれを敷きながら、僕に、
「サヤカちゃんっていうのよ。最近入ったの。仲良くしてあげてね」
と言ったので、僕は無言で頷いた。
「何かあったらすぐ声を掛けてね、ここから呼べば事務室に聞こえるから。この建物、壁が薄いのよね」
先生は少し笑いながら言い残しドアを閉めて去っていったので、僕は自分のために敷かれた布団にゆっくりと潜り込み、サヤカとは反対を向いて横になった。
ここまではうまくいった。だけどこれからどうしようか。どうやって声を掛ければいいだろう。僕は目を閉じて、頭の中で声の掛けかたをシミュレーションしてみた。
ねえ、見かけない顔だね。……違う。君も具合悪いの。こっちの方がいいかな――。
気付くと僕は、ゲームのキャラクターに追いかけられて泥の沼にはまり、必死に抜け出そうともがいているところだった。足が抜けない。どうしよう、追いつかれる。やられたら今度はゲームオーバーだ……。
そこでハッと目が覚めた。いつのまにか寝てしまっていたらしい。
太陽は少し西に傾いたようで、室内に入る日差しも心なしか和らいでいた。しまった。サヤカはまだ寝ているだろうか。そう思って窓側の布団を見ると、そこには人が抜け出した後の形のまま、空っぽの布団が敷かれていた。
ああ、失敗した、と肩を落としたところで、細い声が頭の方から聞こえた。
「よく寝てたね」
驚いて振り向くと、そこには壁際に寄せられた座椅子に座っているサヤカの姿があった。
「あー、うん、いつの間にか寝ちゃってた」
「具合、もういいの」
「えっ何が――」
そう言いかけてすぐに思い出した。そうだ、お腹が痛かったんだ。
「あ、そうだね、もう大丈夫みたい」
慌てて言い繕うと、続いて言葉がひとりでに飛び出してきた。
「さっき先生が言ってたけど、サヤカちゃんっていうの。最近入ったの?」
「そう。君はりっくん?」
「あれっ知ってるの」
「さっき先生が来て声を掛けてたよ、りっくん起きてる?って」
すると結構長いこと寝ていたのだろうか。今更ながら時間が気になって時計を探すと、もう四時半をとうに回って、もうすぐ五時になろうかというところだった。もう一時間もしないうちに母が迎えに来る。
「サヤカちゃんは西小?」
「ううん、東小。でも東には児童クラブがないから、こっちに来てる」
「そうなんだ、遠くて大変だね」
「友達もこっちにはいないし、ほんとは嫌だったんだけど。お母さんが行けって」
そう言うとサヤカは、また少し目を伏せた。長いまつげが目立つ。哀しそうなのに、妙に惹きつけられる表情だった。
僕は少し迷って、結局一番の疑問点は尋ねないことにした。「どうしてお母さんが送ってこれるのにクラブに来るの。家にいればいいんじゃない」そう聞いてしまうと、いっぺんに嫌われそうな気がしたからだ。そのかわりに、自分のことを話すことにした。
「僕、東小の方に住んでるんだよ。下條地区。だからほんとは東小に通ってもいいって言われてたんだ。だけどお父さんもお母さんも、西小にしますって言っちゃった。だから学校来るのも結構時間かかるんだよ」
「そうなんだ。あたし瀬田地区だから、下條ならたぶん家近いね」
そこでサヤカは初めて少しだけ笑顔を見せた。
隣の学校の区域なのではっきりとはわからなかったが、僕の住む下條地区から少し山の方へ上ったあたりが瀬田という集落だったはずだ。父の車で何度か通った時に、道路に標識が出ていたのをなんとなく覚えている。
「サヤカちゃんは何年生?」
「五年。りっくんは?」
「おんなじだ。僕も五年」
「他にも五年の子、クラブにいるの?」
「うん、同じクラスの人が二人いるよ。あと他のクラスの子も三人か四人いたと思う」
そう言いながら、僕はカズマとユウタのことを思い出した。あいつらどこで遊んでいるだろう。長いことここで寝ちゃってたけど、様子を見に来たんだろうか。
その時休憩室の扉がノックされ、祐子おねえさんが入ってきた。
「あら、二人とも起きてたのね。りっくん、具合はどう?」
「もう大丈夫です」
「そう、それはよかった。お母さん、お迎えに来たわよ」
僕は驚いてもう一度時計を見た。お迎えには早すぎる時間だ。
「斉藤先生がね、一応お母さんにお知らせしたの。そうしたらお母さん、今日は早く帰っても大丈夫だから迎えに行きますって。ちょうど今着いたのよ。帰りの支度できるかな?」
「わかりました」
僕は立ち上がった。
「またね」
とサヤカに声を掛けると、サヤカも小さな声でまたね、と返した。
その様子を見ていたおねえさんは、
「サヤカちゃん、お友達できてよかったね」
とサヤカに笑いかけた。
サヤカの反応が気になったが、既に扉の方を向いていた僕は振り返るのも恥ずかしい気がして、そのまま祐子おねえさんの脇をすり抜けて教室へランドセルを取りに向かった。
翌日から、僕の生活は少しだけ変化した。カズマと、時々ユウタが一緒に遊んでいたところにもう一人、サヤカが混じるようになった。カズマやユウタもすんなりと新しい友達を受け入れ、一週間も経たないうちに一人だけ女子が混じっている違和感も消えていった。
一学期の終業式の日、僕とカズマはクラブの教室でお互いの通知表を見せっこしていた。
「りっくんすげえ、やっぱ頭いいんだな」
カズマは少し羨ましそうに言った。
「別にそんなことないよ。カズマもそんなに悪くないんじゃないの」
「いやー、だって『もうすこしがんばりましょう』が四つもあるぜ。お母さんにまたなんか言われそう。一学期は宿題そんなに忘れなかったんだけどなあ」
カズマがそうぼやいたとき、ロータリーで車の音がした。
「サヤちゃん来たんじゃない」
「たぶんそうだな。来たらサヤちゃんの通知表も見せてもらおうぜ」
「東小も今日終業式なの?」
「わかんないけど、だいたいどこも一緒だろ」
そう言いながらカズマは立ち上がり、教室のドアから玄関の方を覗いた。そして少し待って、玄関が開く音と同時に、
「サヤちゃんこっちこっち。来なよ。りっくんもいるよ」
と声を掛けた。サヤカは教室に入って赤いランドセルを隅に置いた。
「西小も今日終業式?」
「うん。じゃあ東も今日なんだ。今カズマと通知表見せあいっこしてたとこ」
「へえ。あたしも見たい」
「いいよ。その代わりサヤちゃんのも見せないとダメだよ」
「俺たちだけ見せるんじゃ不公平だもんな」
「わかった。ちょっと待って」
そう言うとサヤカはランドセルの所へ戻り、中を少し漁って通知表を取り出した。何とはなしにその様子を眺めていた僕は、女子にしては少しランドセルが汚れているな、と思った。日ごろからよく運動するのだろうか。赤い色を除けば、男子のランドセルと言われても違和感はなかった。
「ほら。あんまりよくはないけど」
渡された通知表は算数を除いて概ね「とてもよくできました」と「よくできました」で占められていた。特に国語と社会は全部の項目が「とてもよくできました」だった。
ひとしきり眺めて感心した後、僕とカズマの通知表をサヤカに見せた。
「へえ、西小も数字じゃなくて『よくできました』とかなんだね」
「数字?数字ってなんのこと?」
「東京の親戚の子が言ってたんだ。向こうじゃ成績が数字でつくんだって。一がいちばんダメで、五が一番いいの。だからこうやって『よくできました』とかで書いてあるの、東小だけかと思ってた」
「そうなんだ。どこでもこういう風なんだと思ってたよ」
「東京の小学校は夏休みも長いんだって。八月三十一日まで休みなんだよ」
「ほんと? いいなあ、なんで俺らよりそんなに長いんだろう」
僕らの小学校は、夏休みはお盆が明けて一週間もしないうちに終わってしまう。毎年二十日過ぎ頃が二学期の始業式だ。これは東小も大体同じはずだった。
だからお盆というのは、自由に遊べる休みがほぼ終わりに差し掛かったことを示す行事であり、毎年親戚の家に行って送り盆をしていると、なんだか夏の思い出もご先祖様の魂と一緒に去って行ってしまうような、寂しい気分になるのだった。
「ねえ、夏休みに入ったら、僕ら秘密基地作るんだ。サヤちゃんも来る?」
僕は唐突に思いついて尋ねた。
「楽しそう。あたしも行きたい。どこに作るの?」
「うちの近く。ちょっと森みたいになっててさ。そこに作ろうと思ってる」
「それならうちからも近いかな。でもお母さんがいいって言うかなあ……」
「夏休みだぜ。休みになったらすぐ始めるから、宿題だって後でやる時間あるよ」
カズマが言うと、サヤカは少し目を丸くした。
「宿題、先に全部やっちゃわないの?」
それで今度は僕らが目を丸くした。世の中に、夏休みに入ってすぐ宿題に取り掛かる小学生がいるなんて、僕もカズマも考えたこともなかった。ユウタが以前、「八月に入ったらちょっとずつやる」と言っていたのでさえ、感心な奴だな、と驚いたものである。
「だって先に済ませちゃったら後はずっと遊んでられるじゃん」
サヤカの追い打ちに、それができれば……と喉まで出かかった言葉を飲み込み、僕らは乾いた笑いを発するのが精いっぱいだった。
秘密基地の建設は終業式の日の翌日から早速始めることになった。
サヤカも、「お母さんにはなんとかお願いしてみる」と言っていたので、一応参加できるものとして数に入れた。それでも宿題は先にやるらしかったから、二、三日は来れないという。なのでそれまでにカズマと二人でできるところまで作っておく、ということにした。
建設場所は僕の自宅から百メートルくらい離れた森の中だ。
木がたくさんあるので『森』と呼んでいたが、実際は広い空き地が何年も放置されて自然に生えた木が鬱蒼としている、雑木林程度の場所である。しかし僕らにとってみれば、昼でも薄暗いその中は、冒険心と少しの恐怖心がくすぐられる、まさに絶好の場所だった。
さらに都合のいいことに、森の周辺には大量の廃材が積まれており、いかにも使ってくださいと言わんばかりの状態だった。木材やトタン板、ドラム缶等よりどりみどりで、発見してからというもの、いつかはこれを使って基地を作ってやろう、と思っていたのだ。
建設場所は道路から十メートルほど入ったところに生えているクヌギの木の下と決めた。そうして廃材のうちから使えそうなのを引っ張っていくことから建設がスタートした。
比較的状態がよく、面積も広い合板の板を屋根にして、壁は小さな板をつなぎ合わせて作ることにした。カズマが家からこっそり持ち出してきた金槌と釘を使い、板の継ぎ目を打ち付けていく。釘が長くて逆側から飛び出てしまうので、そこには小さく切った木片を追加でくっつけて尖ったところが隠れるようにした。
さすがに昼食には一度家に帰らないといけなかったから、作業はそれほど早くは進まなかった。特にカズマは、僕と違って家まで少し遠い。自転車で十五分くらいはかかるので、必然的に僕が一人で作業をする時間も少なくなかった。
建設開始から三日目の昼過ぎ、出勤前の母が慌ただしく作ってくれた昼食の焼きそばを大急ぎでかき込んだ僕は、
「カズマと遊んでくる」
とだけ言って家を出た。
もちろん秘密基地なのだから、親には一切秘密だ。サヤカにも「親には言っちゃダメだよ、公園とかに行くことにしといてね」と念を押してある。
森が近づくにつれて、セミの合唱が大きくなってきた。ここ数日はもはや耳が痛いくらいである。それでも昼間とはいえ森の中に一人でいると心細くなるので、たとえセミの声でも音がするのはありがたかった。
リンゴ畑を横目に見ながら森に続く角を曲がったところで、森の前に人がいるのが見えた。サヤカだ。いつものように古ぼけた服装だが、珍しくキャップをかぶっていた。
「あ、よかったりっくんいた。誰もいないからここじゃないのかと思った」
「ごめんね、お昼食べてきた。カズマもお昼で一回帰ってるよ。宿題、もう終わったの?」
「うん、今年のは結構簡単だった。あと自由工作が残ってるけど、時間かかるからそれだけ後回しにしようと思って」
「すごいね、僕まだ一個もやってないよ」
「絵日記も?」
「絵日記は……何日かずつまとめて書いちゃう」
僕が笑うとサヤカもふふ、と微笑んだ。
基地はようやく壁の三面と床が出来上がったところだった。あと一面、出入り口のつくところを作ったら組み立てて、最後に屋根を載せて完成のつもりだ。
僕とサヤカは、早速出入り口のスペースを空けながら最後の壁をつなぎ合わせる作業に没頭した。サヤカはあまり器用ではないようで、何度も釘を曲げてしまったが、その度に文句も言わず丁寧に直していた。この根気があるから宿題がすぐ片付くのだろうか。そんなことを考えながら僕もどんどん釘を打ったが、失敗する度に思わず「くそ!」と呟いてしまうのだった。
カズマが合流してからは、作業は目に見えて早くなった。人手が増えたのもあるが、僕もカズマもサヤカにいいところを見せようと頑張ったせいもあったかもしれない。
出入り口にドアをつけるのはさすがに難しかったので、ブルーシートを垂らすことにした。また、屋根に合板を載せてみたら基地の中が真っ暗になってしまったので、半透明のトタンに変更した。これはかなり古くなっていて釘を打つと割れてしまいそうだったので、釘で四隅に穴をあけ、僕が家から持ってきた荷造り紐を通して壁に結び付けた。夏の強烈な日差しが少し和らいで基地内を照らし、ちょうどよい明るさになったので嬉しかった。
そうして完成した秘密基地の中で、僕たち三人はジュースで乾杯した。乾いた喉に甘く冷たい液体が何とも言えず爽快だった。父がいつも仕事から帰ってきて真っ先にビールを開ける気持ちが少しわかった気がした。
それからは晴れていれば毎日、三人で基地に集合し、中でトランプをしたり、周辺の森の中で虫取りをしたりして過ごした。サヤカは女子にしては珍しく虫が平気なようで、僕たちに負けないくらい上手に蝶やセミを捕まえていた。
セミの抜け殻も随分集まったので、基地の隅にクッキーの空き缶を持ってきて、夏休みの間にいくつ貯められるか挑戦することにした。ついでにいくつ取れたかを夏休みの自由研究にしようかな、と僕は密かに思い描いていた。
八月に入って数日が経ったある日、カズマが家族旅行に行くことになり来られなくなってしまった。仕方がないので僕とサヤカは二人で秘密基地に座り込み、時々トランプをしながらとりとめもなく話をした。
「うちはお父さんがお盆しか休めないから、あんまり旅行は行けないんだ。お盆は毎年ばあちゃんちに行くって決まってるし」
「あたしの家も旅行は行かないな」
「お父さん忙しいの?」
「ううん、そういうわけじゃないけど」
そう言ってサヤカは少し悲しそうな顔をした。その表情をされると僕はどうしていいかわからなくなる。それ以上の理由は聞けず、「そっか」とだけ小さく返した。
それから学校の話題になった。東小は小さいから五年生は二十人くらいしかいないこと、だから音楽会や運動会は午前中で終わってしまうこと、同じ学年だけじゃなく全校生徒が顔見知りであること、等を聞いて、僕はその度に驚いた。
「サヤちゃんは学校の友達とは遊ばないの?」
と僕が聞いた。するとサヤカは、
「うーん、あたしあんまりクラスの子に好かれてないから……」
と寂しそうに笑った。
どうやらまた聞いてはいけないことを聞いてしまったらしい。先ほどと全く同じように「そっか」と呟くと、意外にもサヤカはすぐに笑顔に戻った。
「でも、りっくんやカズマと友達になったからいいんだ。こっちの方が楽しい」
そう言われて僕は嬉しくなった。それでつい、
「ごめんね、二人とも女子じゃなくて」
とよくわからない謝罪をし、二人で思わず笑った。
「それにあと一年半で卒業だし。卒業したらあたしもりっくんたちも梓中学校に行くんでしょ。だからそしたらもっと遊べるよ」
そうだ。僕たちが通うことになる中学校は、西小の他に東小と、もう少し街中にある川手小の校区からも入学するはずだった。
「同じクラスになるといいね」
言ってから僕は少し顔が熱くなるのを感じた。
そしてそれを誤魔化そうと、セミの抜け殻の缶に手を伸ばした、その時だった。
基地の入り口のブルーシートが突然めくられた。僕は心臓が飛び出そうなほど驚き、振り返った。サヤカも口を開けたまま入り口を凝視している。
日差しが逆行となって顔はわからなかったが、そこには明らかに大人のサイズの影があり、中を覗き込んでいた。
「おんや、何をしとるだ。人さまの土地に勝手にへぇりこんで」
その影は咎めるように言った。その訛りや声の感じから、ある程度高齢の男性であろうというのはわかったが、目が慣れてきても誰なのかはわからなかった。
その男は勢いよくビニールシートをはぎ取り、仁王立ちになって声を荒げた。
「こっちに出てきんさい。まあずこんなもんこさえちまって。しょうのねえガキどもだ」
仕方なく僕はサヤカを伴って外に出た。どうしてこの人はこんなに怒っているのか。全く訳が分からなかった。ただ、僕らの秘密基地はこれで終わりを迎えたのだということは理解できた。男は素手で基地の屋根を引きはがしながら、僕らの名前を聞いてきたが、突然見知らぬ人に怒られたことと、せっかく苦労して作った基地を壊されているという怒りで、僕は返事をするどころではなかった。横を見るとサヤカは身体を震わせながら口を食いしばっている。それでも頬にあふれ出た涙が一筋、真夏の太陽を反射して光っていた。
その光景を見て、僕の中で何かがはじけたような気がした。
「やめろよ!何するんだよ!」
僕は自分でも驚くような声で叫ぶと、男に向かって突進した。基地に向かって破壊の限りを尽くしている男の服の背中を掴み、引き離そうと力を込める。ここは僕らの基地だ。僕が守らなきゃいけない。何の権利があってこの男は――。
しかし僕は振り返った男の手によって軽々と引き離され、無様にも尻もちをつくことになった。相手は高齢者とはいえ、こちらは小学生である。このとき田舎の老人のパワフルさを僕は嫌と言うほど思い知らされる羽目になった。
やがて壁までも蹴り壊し終えた男は、少し落ち着いたのか諭すように僕らに説教をした。
自分はこの土地の所有者であること、確かにずっと放置して荒れ果ててはいたが、だからといって勝手に人の土地に入ってはいけないこと、いい加減に草刈りくらいはしようと久しぶりにやってきたところ妙な小屋があり、最初はホームレスかと思って警戒したこと。
そして最後に小学校はどこか、と聞かれたので、
「僕は西小、こっちの子は東」
と答えたら、それで解放された。
「もう入り込んだらいかんぞ」
男は言ったが、もとよりそんな気は起こらなかった。
「ごめんね、なんかひどいことになっちゃって」
僕が謝ると、サヤカは涙の跡をTシャツの袖でふき取ってから首を横に振った。
「仕方ないよ。入っちゃいけないなんて知らなかったもん」
「うん。いけないんなら書いておいてくれればいいのに」
僕も同意した。
「カズマになんて言おう」
「正直に言うしかないよ。土地の所有者のおじいさんに見つかって壊されちゃったって」
「そうだよね。怒るかなあ」
「だってしょうがないよ。りっくんのせいじゃないもん。あたしもそう言ってあげる」
「うん、ありがとう」
「それより明日からどうしよう。どこで遊ぼうか」
それを聞いて、僕はちょっと安堵した。頭のどこかで、秘密基地と一緒にサヤカとの友達関係もなくなってしまうような気がしていたのだ。
「そうだね、とりあえず公園とかにしようか。三角公園、わかる?農協の建物のすぐ裏のところ。カズマとか、他のクラスの友達もよくそこで遊ぶんだけど」
「わかった。じゃあ明日は三角公園に集合しよう」
サヤカは立ち止まって言った。
気付けば瀬田集落への上り口の交差点だった。どうやらなんとなく一緒に歩いているうちに、家に帰る道からだいぶ離れてしまったらしい。
「うん、それじゃあ明日またね」
僕は回れ右をして、今来た道を戻り始めた。途中で振り返ると、坂を登っていくサヤカの姿が傾き始めた日の光に溶けていくように見えた。
それから、僕たちはサヤカと遊ぶことがなかった。
あの事件があった翌日、朝起きると母からの説教が待っていた。なぜ知っているのか、と聞くと、あのあと土地の所有者が小学校に苦情を入れたらしい。家が近所であったことと、漏れ聞こえた呼び名、それに服装等から担任の先生が僕のことだと思い至り、昨夜僕が寝た後に電話があったとのことだった。
母からの説教の内容は、他人の土地に入るな、ということより、むしろそんなところで遊んでいて危ないじゃないか、廃材には危険なものも沢山あるし、本当にホームレスがいたり蛇やハチがいるのだから、というものだった。そしてカズマ君は、と聞くので、家族旅行だ、と返したら、ではもう一人の子は誰だ、と問いただされた。どうやら担任からは、僕ともう一人が遊んでいた、ということしか聞いていないらしい。
どうしようかと思ったが、結局サヤカのことを話した。すると母はちょっと驚いて、説教のことも忘れたようだった。あらそうなの、あなたに女の子の友達がいたとはねえ、と言われて、それで話はおしまいとなった。
しかし事件はそれで終わりではなかった。
その日の午前中、三角公園にサヤカは来なかった。何か都合が悪くなったのだろう、と僕はあきらめて、たまたま遊びに来ていた同じクラスの奴らと一緒に遊んだ。そして昼食のため家に帰ると、そこにサヤカがいた。
「どうしたの?」
僕が聞くと、サヤカはそれには答えず、ごめん、と小さく漏らし、目を伏せた。
その時、玄関が開いていることに気が付いた。そして同時にドアの陰から、ヒステリックに叫ぶ声が聞こえてきた。
「どうしてくれるんです!おたくの息子さんでしょう!」
それに対して母のものらしき声が何事か答える。するとなおも叫び声が続いた。
僕がどうしていいのかわからず立ち尽くしていると、叫び声が突然止み、ドアの陰から女性が出てきてこちらを見た。そして、もう一度玄関に向かって、
「さあ息子さんお帰りですよ!直接聞いてみなさいよ!」
と怒鳴り、僕が通れるようにか、少し身を引いた。
髪がプリンのようだ、とその姿を見て僕は思った。
後ろで一つにまとめた髪の毛は七割ほどが金髪で、頭に近いあたりが黒い。スウェットのような服を着て、足元はサンダル履きだった。母より少し若いように見える。怒りのせいか、相手に恐怖を与えるほどの形相をしていた。しかしよく見ると年齢相応に皺があるにせよ、整った顔立ちだった。切れ長の目や鼻筋がよく似ている。間違いない、サヤカのお母さんだ、と僕は理解した。
「帰ったならちょっとこっちに来なさい」
母の呼ぶ声が聞こえたので、僕はサヤカとその母親の横をすり抜けて玄関に入った。その間中、サヤカは目を伏せていたし、母親は僕を睨み付けていた。
「あなた、秘密基地の中で何をしていたの」
母の問いかけに僕は一瞬ぽかんとなった。秘密基地の中?なんで僕らの遊びの内容がサヤカのお母さんと関係があるんだ。
「なにって……トランプとか、虫を捕ったり……」
「それだけ?おじさんに怒られた、あの日は?」
「あの日は……あんまり遊んでないよ。ずっとおしゃべりしてた」
それを聞くと、母は再び玄関の方へ視線を向けた。
「この子はこう言ってます。お宅の娘さんがさっき言っていたことと一緒です」
「そんなのウソに決まっているでしょう!二人で口裏を合わせてるのよ!」
「少なくとも私は嘘ではないと思います。この子と、サヤカちゃんを信じますから」
一体母は何の話をしているんだろう。サヤカたちはどうしてうちに来たんだろう。疑問ばかりが頭の中を渦巻いていた。
少しの沈黙のあと、サヤカの母は、
「とにかく、いずれ責任は取ってもらいますからね!」
と言い捨てて玄関を勢いよく閉めた。そして少しして、車がタイヤをきしませる勢いで去っていくのが聞こえてきた。
サヤカたちがいなくなると、母は少しため息をついて、ちょっとこっちに来なさい、と言ったので、僕は大人しく泥だらけの靴を脱いでリビングに入り、ソファに座った。
「あのね、本当のことを言ってほしいんだけど、あの日サヤカちゃんと何かしたの?」
母は斜め向かいに座りながら僕に問いかけた。
「だから何のこと?何かしたって、おしゃべりしたよ。さっき言ったでしょ」
「それだけ?」
「それだけだよ。他に何かあるの?トランプは少ししたかもしれないけど。そのこと?」
「だから……」
そこで母が少し言い淀んだ。そして意を決したように、
「何かエッチなこととかしてない?」
と口にした。
それを聞いて僕はやっとわかった。つまりサヤカの母親は、僕が何かサヤカにそういうことをしたんだと思っているのか。疑問が解消すると同時に、今度は怒りが沸いてきた。
「してないってば」
「身体を触ったりとかも?」
「してないよ」
「わかった。それならいいわ。この話はおしまい」
そう言って母はやっと眉間から皺を取り除いた。
「もしかして、サヤちゃんのお母さん、それで来たの?僕がサヤちゃんに何かしたって、そう思って」
「うーん、まあ、そうみたいね」
「でもサヤちゃんだって何もしてないって言ったんでしょ。なんでそう思うの」
僕は怒りに任せて質問を続けた。
こんな扱いは理不尽だ。二人とも正しいことを言っているのに、なんでそれを信じようとしないんだろう。
「そうね、まあちょっと、複雑な事情があるんじゃないかな」
「事情って何?」
「これは大人の問題。それに母さんが勝手に思っただけだから。あなたには言えません」
それで話は打ち切られた。僕としては全く納得のいく状態ではなかったが、母はパートに遅れちゃうから、と言って慌てて出勤の準備を始めたので、それ以上は聞けなかった。
その日を最後に、児童クラブでもサヤカの姿を見かけることがなくなってしまった。
カズマは旅行から帰った後でこの事件を聞き、大いに悔しがった。それはそうだろう。僕だって何日も悔しくてイライラしていたのだ。ましてや自分の知らないところで全てが終わってしまい、秘密基地も憧れの女の子も自分の元から去って行ってしまったのだから悔しくない筈がない。それでもこういうときに気分の切り替えが早いのもカズマの長所で、数日もすればまた以前のように元気に走り回っていた。
やがてお盆が過ぎ、憂鬱な夏休み最後の数日が終わり、また学校が始まった。放課後にはまた児童クラブに通う日々が始まったが、もうあまり楽しくはなかった。
斉藤先生や祐子おねえさんをはじめ、クラブの先生たちにサヤカはどうしたのか、なぜ来ないのか、と聞いてみたが、みな一様に、
「おうちの人の都合で、しばらく休むそうよ」
と答えるばかりで、詳しいことは何一つわからなかった。
きっと嫌われたんだろう。そうとしか考えられなかった。クラブに来るのはともかく、僕の家ならすぐ隣の地区だ。母親が止めたんだとしても、こっそり会いに来て事情を話すとか、そのくらいはできるだろう。それすらもないということは、嫌われたに違いない。
あのおじいさんに叱られたとき、僕がカッとなって大きな声を出したからかもしれない。もっと冷静に止めればよかったのに、きっと大声で怒鳴ったから怖がられたんだ。だけどもう遅い。
仕方なく僕もカズマのように気持ちを切り替えることにした。そうして少しずつ、あの夏の大冒険は記憶の片隅に追いやられ、やがて迫りくる運動会や修学旅行といった行事で満たされた僕の頭はそれを思い出すこともなくなっていった。
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