第6話
尊はパソコンを打つ手を止めると、コーヒーを一口飲み、ふうっと息を吐き出した。尊の手元には園田陽子の戸籍の附票がある。その最後の住所に宛てて、廃屋に関する管理の依頼の文書を作成しているところだった。
陽子は夫を亡くした後、あちこちを転々としていた。最初は市内の北部、六合のあたりのアパート、それからM市の中心部、さらに東京に移り住み、世田谷、目黒、八王子と三度も住所を変えている。その後県内に戻って上田市の市営住宅に行き、最後の住所は再びM市の郊外のアパートになっていた。おそらく最初のうちこそは娘も一緒だったのだろうが、どこかのタイミングでは独立しただろう。
樋口の言っていることが本当なら、樋口が家や土地を譲ってもらったという頃には既にM市のアパートに引っ越してきていることになる。インターネットのストリートビューで見てみると、年季の入った木造のアパートだった。なぜこんなところにいる気になったのだろうか、と尊は思いを巡らせた。自宅によほど嫌な思い出があるのかもしれない。
ふと尊は樋口の家の周辺を聞き込みに行ったときのことを思い出した。樋口の隣、山﨑邸と反対側に住んでいる女性が、陽子の夫は吐瀉物を喉に詰まらせたことによる事故死だったと言っていた。一時的に警察が出入りしていたという。通常病院や家族に看取られて死んだ場合には警察が動くことはないが、逆に誰も気づかないうちに亡くなったケースや、事故や自殺のときは一旦警察が確認することになる。尊も以前障害福祉課にいたときに、担当していた障害者が孤独死し、警察の捜査に立ち会ったことがあった。
その当時は同じ家に住んでいたのだろうから、第一発見者が陽子だった可能性も高いな、と尊は考えた。夫が事故死して、その家にはもう戻りたくないと考えたのか。大いにあり得る話である。尊の脳裏に布団に横たわって吐瀉物に塗れ冷たくなっている男の姿が思い浮かんだ。発見した時にはさぞかしショックであっただろう。その辛さから家を逃げるように飛び出したのだろうか。
戸籍の附票の裏にある陽子の生涯を想像して、尊は通知の文章を打つ手が進まなくなった。こういった場合に果たしてどう話を持っていけば傷つけずに済むのだろうか。きっと辛い出来事を思い出したくもなくてひっそりと隠れるように住んでいる高齢の女性にとって、どのような文章であれこれから出す通知は、傷を抉るような痛みを伴うに違いない。尊は頭を悩ませながら、一文書いては消し、ということを何度も繰り返した。
通知をなんとか完成させ、発送の手続きをしてしまうと、尊は来年度予算の説明資料の作成に手をつけることにした。特に出張のための費用については、経費削減の折、財政課からかなりの注文をつけられていた。このご時世、出張に係る旅費というのは特にやり玉に挙げられやすい。よろず相談室では相談者の随伴で遠方まで出かけることもあったから、特に旅費の予算額は大きく、余計に目立ってしまっていた。
電卓をはじきながら路線図やら時刻表やらとにらめっこをして、鉄道料金を積算していく。とはいえ当然来年度にどんな出張が舞い込むかなど今から予想ができるわけもない。昨年度、あるいは今年度のこれまでの実績を参考にはじき出すしかない。
今年度の相談実績の記録を見ながら、遠方へ出張したケースを拾い上げていく。遠方への出張を伴ったものは、空家の所有者を訪ねたのが一回と国の専門機関に行く相談者に同行したのが二回、相談以外には研修や会議での東京行きが何度か、という具合であった。
ふと気づくと、ディスプレイの端にアラートが点滅していた。新しいメールが届いたらしい。尊は庁内ポータルサイトを開き、メーラの新規メールボックスを確認した。そこには希実から届いたメールが表示されていた。『新たな発見がありました』という意味深なメールを開くと、そこには簡潔な文章が記されていた。
『お疲れさまです。このあいだは情報をありがとう。お陰で少し捜査が進展しました。先日こちらに相談で来た、地上げ行為に関してですが、どうやらそれをやっていたのが今回の被害者のようです。小西という名前なのは間違いないように思われます。今後、周辺を更に詳しく聞き込みする予定ですが、アンくんの方でも地上げに関する相談があったらまた教えてください。取り急ぎ要件まで。』
尊はメールを読みながら驚いていた。それではあの地上げ行為に関係した男が殺されたということなのか。原因となったのはそれに関するトラブルか、あるいはまったく関係のないことだろうか。この手の人間なら他にも悪事に手を染めていたことも大いに考えられる。園田陽子からの返事を待つ間、廃屋の方はお預けになるだろうから、これまで地上げに関する相談が来たという家をこちらでももう一度チェックしてみようか。多少なり希実の役に立つようならいいが、と尊はもう一度メールを読み直しながら思った。
しかしそれから何日かの間、尊は相談室を訪れる市民の対応に追われることとなった。大体季節の変わり目には相談者が多くなる傾向がある。特にこれから冬を迎えるにあたり、落ち葉や積雪に関する相談が目立った。
相談室に県からの研修会の通知が回ってきたのは十九日の木曜日のことであった。その日も相談者が多い一日で、室長などは「こりゃ今日が仏滅だからにちがいねえわ」などとぼやきながらも自らも窓口に出て相談者の応対をしていた。
文書棚へ郵便や庁内便を取りに行った中島が、しばらく手に持ったコピーと思しき通知を眺めて部屋の真ん中で立ち止まった。ちょうど電話での相談を終えた尊が受話器を置くと、中島は、
「これ、どうしましょうか」
と尊に聞いてきた。
「なんだ。なんかあったか?」
尊が中島の手元を覗き込むと、中島はその文書を尊に手渡してきた。
「研修会の通知の写しが来てるんですよ。高齢者福祉課からだと思うんですけど、認知症患者とその家族の見守りがテーマだとかなんとかで……うちでもどうですか、て意味でしょうかね」
「そうだろうな。どっちかっていうと民生児童委員とかケースワーカーみたいな人たちに対する研修みたいだけど……なんだこれ、開催日が来週の水曜じゃないか」
「そうなんですよ。また随分ギリギリに送ってきたもんですね。通知の原本は半月前には来てるみたいなのに」
尊は通知にざっと目を通すと、中島に戻した。
「ま、こういう案内がありました、てことだけ、回覧しとけばいいんじゃないか。こっちでも行く価値はあるだろうけど流石に開催日まで短すぎる。高齢者福祉課の担当者の机で埋もれてたんだろう、きっと」
「わかりました。じゃあ回すだけにしときます」
中島は文書を受け取ると自分のデスクに戻っていった。だが、その時尊はふと思いついたことがあって中島を呼び止めた。
「いや、待て。やっぱり俺行くわ。こっちにその紙くれ。俺の方で伺書作るから」
中島はそう言われて意外そうな顔をしながらも文書を尊にもう一度渡した。
「なんでまた、って顔だな。研修会はどっちかっていうとついでだよ」
「本命はなんですか」
「いや、実は前から関わってる廃屋の件でな。所有者がM市に住んでるらしいんだよ。しばらく前に通知は出したんだけど、本当なら一度訪ねてみた方がよさそうだと思っててさ」
「返事がこないからですか?」
「それもあるけど、直接話したいことがあったんだよ。通知じゃちょっとややこしいから書けなかったんだけど」
「ああ、そういうことですか」
中島も納得したようだった。
梓市の市役所庁舎からM市は決して遠い距離ではないが、それでも車で向かうとすれば三十分くらいはかかってしまう。勿論必要があればそれくらいの時間は取れるが、通知を出してある手前あまりわざわざ時間を割いても仕方ないか、というつもりでいたのだ。しかしちょうど研修会がM市であるという。それならそのとき一緒に陽子を訪ねてみればよいだろう、と尊は考えていた。
中島には返事が届かないから、とは言ったものの、これまでの経験から一週間返事がなければその後も返事が期待できないだろう、と思っていたこともある。実際のところ、何か対応してもらう必要があって文書を送った時、対応する意思のある者は大抵二、三日中には連絡してくる。一週間以上経ってから、「以前に貰った通知の件、なんとか対応します」などと連絡がくるケースは、尊が今まで受けてきた案件の中ではあまり多くなかった。園田陽子についても、おそらく今後待っていても返事は来るまい。
尊が作成した伺書を手に服部に研修会への参加を打診すると、服部は二つ返事で了解し係長の決裁欄に判子をついてくれた。
「これからの高齢者社会においては、認知症に関係する対応は是非学んでおく必要がありますね。どうぞ行ってきてください」
服部は文書を課長のデスクへ置いて来てから尊に言った。この人は時々こういう妙に堅苦しいことを言うな、と思いながらも、尊は早速公用車の予約を取ることにした。
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