第4話
月曜日の朝というのは、勤め人でも学生でもそうだろうがなんとも気怠いものである。尊も例に漏れず朝からなんともいえない倦怠感と戦っていた。おまけに朝から顔に当たるかあたらないかの微かな雨が降っている。尊は庁内ポータルサイトを開いてあまり重要でない掲示板の記事を端から既読にする作業にしばし没頭した。
思えば昨日は久々の晴れ間だというのに一日中部屋でだらだらと本を読んで過ごしてしまった。昼も夜も食事は近くのコンビニで買ってきた弁当である。一人暮らしのワンルームでそんな一日を送れば、必然部屋の中も散らかり放題になる。それを放置して就寝したものだから、朝起きたときから気分は最悪であった。
庁内掲示板の記事に既読を付け終わると、次はメーラを開いた。このところ増加傾向にあるスパムメールの山が表示される。尊はうんざりしながらそれらにチェックマークを付け、まとめてゴミ箱に放り込んだ。それで少しすっきりとした未読メールのタイトルを眺める。室長からの仕事の指示が一件、部の忘年会の日程連絡が一件、それから「相談者の紹介について」というメールがあった。おや、と思い尊は最後の一通を開く。それは希実からのもので、土曜日に受けた相談についてそちらを紹介したからよろしく、という内容であった。
『……話を聞いていて、アンくんの顔が浮かんだので思わず紹介しましたが大丈夫だったでしょうか。内容としては、悦子さんの息子が精神的に病んでいるのかもしれない、というものです。具体的には……』
要するに最近息子の様子がおかしいと感じている母親からの相談である。それからメールには添付ファイルがつけられていた。画像のようだ。文章の末尾にそのファイルに関する説明も記載されていた。
『……これがそのとき死体で発見された男の写真です。小西という名前の可能性があります。もしアンくんや周りの人で見かけたという情報があれば是非教えてください。なお、体型は小太りで……』
尊が男の特徴を読み終わってから添付の画像を開くと、そこには大きな目で睨み付けるような顔つきの、丸顔の男が写っていた。
どこかで見たことがある、と思う。もっとも割と特徴的な顔立ちだけに、テレビで見た芸能人やなんかと記憶が入り混じっているかもしれない。最近は現れてはすぐに消えてゆくお笑い芸人なんかが多い。元々サッカー中継かニュースくらいしかテレビを見ない尊にとっては、テレビをつけるたびに知らない人間が人気を博しているような状態である。
尊は一応、住基システムを立ち上げると小西、とだけ入力して検索してみた。市内に多い苗字だという感覚はないだけに少し期待をしたが、残念ながら検索結果には百件の名前が表示された。システムでは検索結果が百件までしか表示されないので、それ以上いるということになる。性別や年齢層からもう少し絞れるかもしれないが、それでもざっと見る限り数十件は候補が残りそうだった。
席に戻ろうとしたとき、内線電話が鳴った。中島が手を伸ばしてそれを取る。しばらくやり取りをしていたが、やがて受話器を置くと、
「アンさん、住民課の土屋さんからでしたよ」
と言った。それで尊は今日が月曜日であることを改めて思い出した。そうだ、陽子の戸籍附票が取れる筈だ。
「公用交付の件か?」
「そうです。いつでも申請受けられます、長い間すみませんでした、だそうです」
尊は中島に礼を言うと、早速戸籍附票の公用交付申請書の作成に取り掛かった。
出来上がった書類に服部と室長の決裁印をついてもらい、尊が一階の住民課に届けて戻ってくると、窓口では中年の女が中島と話をしていた。どうやら相談者らしい。近くに来ると、中島が、わかりました、川本悦子さんですね、と言っているのが聞こえたのでそばに寄っていった。これが希実からのメールにあった相談者だろう。
「こんにちは、もしかして川本悦子さんですか。警察の方から紹介された」
「あれ、アンさん知ってるんですか」
中島が少し驚いた顔になる。
「うん、警察の方から、紹介したから行くと思いますって連絡貰ってる。概要も聞いたから俺が対応するよ」
内容が内容なだけに、あまり何度も細かい話をしたくないだろう。尊は悦子に対してできるだけ柔和な顔を作りながら、よろず相談室の杏です、と自己紹介をした。
「川本悦子と申します。あの、概要は刑事さんからお聞きになっているとか――?」
「ええ、そうです。一応、大雑把な内容は今朝がた教えてもらいました」
「わかりました。それでは細かい部分は省略しますが、息子の陸雄の言動がここのところおかしいものですから」
「ちょっと待ってください。川本さん、陸雄君……そうか、思い出しました」
尊は思わず悦子の話を遮った。
名前を聞いて先月現場を訪れたヤスデの一件を思い出したのだ。確かあのとき帰り際に見かけた子が陸雄と言う名前だった。尊がそのことを伝えると、悦子も少しだけ顔をほころばせた。
「ああ、確かにお義母さんが市役所の人に来てもらったと言っていました。そうですか、そのときの……その節はお世話になりました」
「いえ、とんでもない。話の腰を折ってすみませんでした。それでその陸雄君のことですね」
「ええ、先日刑事さんが陸雄を訪ねてきたんですが……」
悦子が語った内容は、確かに希実からのメールで知ったものとほとんど相違なかった。陸雄は自分が彼女だと思い込んでいる女の子にストーカーまがいのことをしていたのではないかと思う。そして今度はどこで知り合ったのか、小西という男が彼女に対して付きまとっていると思い込んでいるらしい――だいたいそんなところだ。
どこの専門家に繋ぐべきかを判断するにあたり、メンタルヘルスについては尊も若干の知識があった。なにせ新卒で採用された後真っ先に配属されたのが障害福祉の担当である。それも精神障害者の支援制度をいくつか任されたため、自然と病名と実際の症状を現場で学ぶことになったのだ。
尊は黙って頷きながら聞いていた。過去のことは今更変えようがないが、それでも誰かに聞いてもらうことで気持ちが軽くなることもある。この相談室の担う役割のひとつだと尊は思っていた。
「そういうことがあって、クラスで浮いた存在だったのは確かなようです。明確にいじめだとかはなかったみたいですが。受験の時期になると陸雄も勉強には集中していましたから、あまり問題を起こすことはありませんでした。だけど高校に入ってから、中学の噂が広まったんでしょうかね、友達を作るのがうまくいかなかったようで」
「クラスにうまくなじめなかったんですね」
「そうです。それでそのくらいから段々と学校にも行かなくなりました。今では昼間から繁華街をふらついたり、家族にもあまり口をきこうとしないし……祖母なんか、昔から口うるさい方だったこともあるのか、まったく無視していて、いないかのように振る舞います。時々、本当に見えていないんじゃないかと思うくらい」
「ふーむ、なるほど」
尊はメモを取る手を止め、少し考え込んだ。被害妄想、あるいは幻覚のようなものだろうか。幻覚や幻聴を伴う精神疾患としては統合失調症が有名である。勿論医師ではないから尊にはその判断はつかないが、少なくとも聞いている限りは統合失調症という感じはしなかった。
尊がこれまでに相手をした統合失調症の、とりわけ医師にかかっていないような者だと、陸雄のような被害妄想だけでなく、脈絡のない話や現実には起こりえないような話をするケースが多かった。ただ、軽度だとその程度なのかもしれないのではっきりしたことはわからない。
「これまでに医者にかかったり、カウンセラーや精神保健福祉士と面談したことなどは?」
「いえ、ありません。どこに相談すればいいかもわからなくて」
「そうすると当然市の福祉サービスなども受けてはいないですね」
「ええ、特になにも」
そうなるとともかく精神保健に関するプロに一度話を聞いてもらう必要があるだろう。尊がこのあと市の保健師に話を聞いてみるか、と尋ねると、悦子は頷いた。尊は悦子を待たせておいて、電話の所へ行くと、健康づくり課の保健師の番号をプッシュした。概要を伝え、相談室に来れるかと聞くとすぐに行くとの返答であった。
しばらく互いに黙ったまま待っていると、大池という女性の職員が階段を駆け上がってきた。尊が聞いている話では、精神保健福祉士の資格を持っている筈だ。以前尊が障害福祉課にいた頃からずっと同じ部署にいる。保健師ではよくあることだが、もう随分と長いこと異動していない職員だった。
走るほど慌てることもないのだが、大池が急いで来てくれたことで悦子と二人の気詰まりな沈黙は早々に解消された。もう一度話すのは辛いだろうと、尊がメモを片手に大池に状況を伝える。悦子はそれを聞きながら、時折説明を補足した。
「わかりました。そうですね……お話を聞く限りでは妄想性パーソナリティ障害の可能性があるかもしれませんね」
大池は説明を聞くと、おもむろに言った。
「それはどういう――?」
悦子が尋ねる。
「簡単に言えば、被害妄想などの妄想がある人を言います。誰しも想像、空想といったことはしますが、それが現実とこんがらがってしまっている状態だと思ってもらえればいいです。障害、と言ったのは、その症状で社会生活に悪影響が出ている、という意味ですね」
「それは治るものなのでしょうか。どうすればいいんでしょう」
唐突に告げられた病名に、悦子はうろたえた様子だった。
「お母さん、落ち着いてください。いきなりで驚かれましたよね。すみませんでした、配慮が足らず。そもそも私は医者ではないですので、正確な診断はできません。と言いますか、医者であっても本人を診察しないことにはわかりませんよ。ただ、症状としてはそういうものがある、ということです。いずれにしても、まずは一度精神科に陸雄君を連れていくことが大切です。もし妄想性パーソナリティ障害だとして、精神科医にもよりますが、認知療法や行動療法、薬物療法など、色々と解決の手段はあると思います」
悦子はまだ不安げながらも、わかりました、と言いながら頷いた。
精神疾患の治療に当たっては、なにより家族のサポートが大切であるということを尊は聞いたことがあった。本人にとっては精神疾患の症状というのはそれ自体が現実であり、認知が歪んでいることに自ら気が付くことはそれほど多くない。そのため家族が気づいて医療機関に繋げることが改善への第一歩である。そのサポートが得られないために、いつまでも生き辛さを抱えたままになっている人を尊はこれまでに何人も見ていた。
大池はそれからいくつか医療機関の情報を悦子に紹介すると、最後に名刺を渡した。
「何かあったら気軽に連絡してください。できる限りのサポートをしますから」
「ありがとうございました、お忙しいところ突然ですみませんでした」
励ます大池に、悦子は頭を下げた。それから立ち上がり、尊に、近いうちに精神科医を受診させます、と言って再び一礼した。そして必要なら付き添うが、との尊の申し出を断ると、階段を下って行った。
「実際のところどうなんでしょう。やはりパーソナリティ障害の可能性が高いですか」
尊は悦子の姿が見えなくなったのを見届けると、大池に尋ねた。
「そうですね、少なくともお母さんの話に間違いがなければ、そのように思います。まあさっきも言ったとおり、私は医者ではないですからね。あくまでそう聞こえる、というだけですが」
大池は少しだけ笑顔を見せると、お疲れさまでした、と職場へ戻っていった。
尊は一人になると、窓口に座ったまま考え込んだ。脳が見せるものが人間にとっては世の中の全てである。それがコントロールを失えば、まるで本人には世界があり得ない変容を見せたように感じるだろう。それは軽度のパーソナリティ障害でも重度の鬱病でも同じである。自分の認識している世界が正しいのか、あるいは何か狂っているのか、それは自分では気づかないのだ。
尊は一度目を閉じて視界をシャットアウトした。それから改めて目を開き、自分の世界に変化がないことを確かめるとデスクに向かった。
土屋が申請した戸籍の附票を持って相談室を訪れたのは、その日の午後も遅くなってからのことだった。尊は受け取った書類をクリアファイルに挟み、机の引き出しに放り込んだ。終業までそれほど時間がないこともあり、今日は途中になっている報告書を先に仕上げるつもりだった。戸籍附票の方はまた明日詳しく確認すればよい。
デスクトップに開いたままの報告書の続きに取り掛かりながら、尊は樋口の家のことを思い出していた。先ほどちらっと見ただけでも、附票には五、六行の記載があった。つまりあの家を飛び出してから、何か所も転々と住所を変えていたということだろう。どういう事情があったのだろうか。樋口とはどこで知り合ったのだろうか。
とりとめもなく考えているうちに、樋口の態度にも思考が及んだ。これまでに二度、留守の時も含めれば三度訪れているが、樋口は尊の訪問を嫌がっているのは明らかだった。最終的に廃屋の管理の責任を押し付けられるのを嫌がっているのだろうか。あるいは公務員というものがそもそも嫌いだという可能性もある。それとも時間帯がまずかっただろうか。とは言っても最初に訪ねた時のように昼間に行っても留守で――。
そこまで考えたときに、不意に脳裏に閃くものがあった。あの被害者の写真、小西という男、あの男は――。
尊はパソコンを打つ手を止めて受話器を上げると、梓警察署の電話番号を押した。電話に出た男に、刑事課への取り次ぎを頼む。しばらくして希実らしい声が、もしもし、刑事課ですが、と言った。
「日岐?市役所の杏です。送ってもらった被害者の写真のことなんだけど、俺たぶん見たことあるわ、この人」
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