第3話
希実が依田と一緒に署に戻ってきたのは夜の九時になろうかというところだった。捜査会議が終わってからの短時間だったが、現場に近いあたりから上流に向かって一キロ程度は川沿いの民家を回ることができた。
収穫もゼロではなかった。昨日十一月一日の朝、堤防道路に軽トラックが停まっているのを見た、という情報がいくつかの家で得られた。とはいえこれはあまり期待できる情報ではない。現場に近すぎるのだ。あの川の勢いで、遺棄してから数百メートルで橋脚に引っかかったとすれば、全身にあった傷が多すぎる。それでも何もないよりはましだ、と自分に言い聞かせながら、希実は家路についた。
明日も朝から今日の地取りの続きである。刑事たちの中にはここぞとばかりに署に泊まり込む者もいるようだった。家が遠い者が主だったが、中には希実と同じ警察官舎に住んでいる刑事もいる。あるいは上司に頑張りをアピールしておきたい、という心理もあるのかもしれない。希実としても泊まり込みで頑張るくらいの気概は持ってはいたが、流石にこの男だらけの職場で当直でもないのに夜を明かしたくはなかった。朝慌てて出てきたので替えの下着すら持ってきていない。
希実は依田に挨拶をすると署を出て車に向かった。そろそろ聞き込みに出る前に流し込んだゼリーの効果が切れてきたらしく、お腹も先ほどから何度となく鳴っている。二時間分のエネルギー、という広告のうたい文句はまさしく嘘偽りのない数字のようだった。
これから買い物をして帰るのでは夕食は十時を回ってしまう。希実は署からほど近いラーメン屋で夕食を取ることにした。時々昼にも食べに行く店で、鶏ガラの白く濁ったスープが特徴である。年中無休で遅い時間までやっていることや、店主の気分次第でトッピング等をサービスしてくれることもあり、梓署の刑事たちの間でも重宝がられていた。
店の前の僅かなスペースに無理やり区切ったような駐車場に苦労して車を停める。三台分の駐車スペースは希実が停めるとそれで満車になった。
店の入り口をくぐって中に入る。お、いらっしゃい、残業かい、という店主の声に愛想笑いで答え、カウンターの空いている席に向かった。空席が並んで二つあり、希実がどちらにしようか少し迷ったとき、ふと奥側の席の向こうに見知った顔を見つけた。
「杏さん、こんばんは」
希実が声を掛けると、暇そうにメニューを眺めていた坊主頭がこちらを振り向いた。
「ああ日岐さん。こんばんは」
「先日はどうもありがとう。助かりました。ここ、いいですか」
希実は尊の隣の席を指した。
「どうぞどうぞ。遅いね、残業?」
「うん、そんなところ。杏さんも?」
「そう。ちょっと現地調査でね。さっきまであっちこっち聞き込みしてたんだ」
「そっか、おんなじだ」
希実が笑いながら尊の隣の席に座ると、アルバイトらしい若い男の店員がすぐに注文を聞きにきた。いつものように鶏白湯ラーメンの大盛りに煮卵のトッピングを注文する。尊は既に注文を済ませているようだった。
「刑事さんの聞き込みって聞くといかにもって感じだね。何か事件があったってことかな」
「うん、まあね。杏さんはいつもこんな時間まで仕事?」
すると尊は苦笑しながら首を振った。
「今日は特別だよ。勤め人に話を聞くにはこの時間じゃないとね。それより『杏さん』だと言いにくいでしょ。アンでいいよ。みんなそう呼ぶから」
「そうなの?じゃあアンくんと呼ばせてもらおうかな。私もさんづけじゃなくていいよ。職場だとみんな呼び捨てだから、ちょっとムズムズする」
「いきなり職場外の人を呼び捨ては勇気いるなあ」
尊がまた笑った。普段は職場だと敬語ばかりで、こういう会話は久しぶりな気がする。その時店主が尊のラーメンをカウンター越しに差し出した。どうやら鶏白湯ラーメンの大盛りのようである。尊はお先に、と言って割り箸を割ると勢いよく麺をすすり始めた。
「ラーメン屋に女の子が一人で来るのも珍しいね。よく来るの?」
尊が水に手を伸ばしながら聞く。ちょうど出来上がった自分のラーメンをやはりカウンター越しに受け取りながら、希実はうん、と答えた。
「私ラーメン好きなんだ。ここは署からも近いし美味しいから昼なんかよく来るよ」
「確かに美味いね。俺は初めて来たけど当たりだったな」
それからしばらく、二人とも無言で麺をすすった。この時間の夕食である。確認しなくてもお互い腹が減っているのはわかりきっていた。
どんぶりの中身がほぼ無くなったところで、希実は一応尊にも聞いてみることにした。
「ちなみに、昨日か一昨日、戸坂村境の堤防道路なんかに行ってないよね」
「六合のほう?いや行ってないな。なんで?」
「聞き込みの続き。まあ普通はあんな方まで行かないよね。地元の人じゃないと」
「ああ、不審な人の目撃情報とかそういうことか。ちなみにどんな人探してるの」
「人としては、前歯が差し歯でぎょろ目の、少し太り気味の人。あるいは堤防道路近くにいた不審な車両、てとこかな」
尊は少し考えたが、残念そうにわからないな、と答えた。
「逆に俺の方でも聞きたいんだけど、日岐はあれから地上げ絡みの相談とか受けてない?」
今度は希実が首を振る番だった。
「そうか、どうもあれで沈静化したのかな。パトロール強化してもらったのが効いてるのかも」
「そうだといいけど」
希実が応じた。
「捜査のときってやっぱり忙しいの?」
「そうだね。なんだかんだ一日中、それこそこのくらいの時間まで聞き込みしたり、事件によっては張り込みしたりとか」
「大変だな。泊まりになったりもするの?」
「うーん当直以外はほとんどないかな。都会とか電車通勤のところは終電逃して泊まる人もいるけど、私は車だしね。それにあんな男ばっかりの所で泊まるのはちょっと辛いから」
「そりゃそうだ。野獣の群れに若い女が一人、てのはいくら警察署でもぞっとしないね」
「今時そんなイメージの刑事も少ないよ」
希実は笑った。聞けば尊は推理小説を読むのが好きで、刑事の仕事にも興味があるのだという。刑事になれば見た目のイメージそのまんまなのに、と希実は喉まで出かかったが止めておいた。
それからあれこれと職場のことを話しているうちに気付けば客もほとんどいなくなっていた。希実たちも立ち上がり、それぞれ会計を済ませる。店の外に出るとようやく雨も上がり、まだ少し湿り気を帯びた空気がひんやりと希実の頬を撫でた。
「一杯いかないか、と言いたいところだけど、今日は車だしな。これで失礼するよ」
「私も明日朝から捜査の続きだからね。ひと段落ついたら飲みに行こうよ」
「そうだな、楽しみにしておく」
尊はそういうと黒いSUVに乗り込んだ。希実も隣に停めてある自分の車に乗り込んでエンジンをかける。尊はクラクションを挨拶替わりに軽く鳴らすと、先に走り出していった。警笛の不適正使用で今度注意してやろう、と考えながら、希実も反対方向へと車を出した。帰る道すがら久しぶりにカーラジオのスイッチを入れ、流れてくるポップスに合わせて鼻歌を歌う。妙に上機嫌だな、と自覚して希実はにやりとした。
翌日から本格的に始まった地取り捜査は、三日間をかけて梓市の北の端にある六合橋から南へと範囲を広げていった。希実たちの他にも捜査員の多くが投入され、合計で六台の車両の目撃情報が挙がった。中でも十一月四日に科捜研から入った情報から、市内南部の豊川温田方面で目撃された一台に捜査陣の注目が集まることとなった。死体発見当時の川の水量や流速から、途中で引っかからずに流れたとすれば遺棄場所はこのあたりだろう、とシミュレーションによりはじき出されたのがその近辺だったからである。
その車は街中でもよく見かける白い軽の箱バンで、十月三十一日の夜中、市道南部五号線が信濃川を渡る下條橋にほど近い堤防道路に停まっているのが目撃されていた。目撃者は付近に住むサラリーマンの男である。
証言によれば、その日男は梓南駅前の居酒屋で遅くまで同僚と酒を飲み、帰り際雨が酷かったので自転車を置いてタクシーを利用したという。家の近くまで来たところで運転手に細かい道順を指示したのだが、酔っていたせいか曲がるタイミングを間違って伝えてしまった。その時にタクシーが入り込んだのが堤防道路であり、白い軽の箱バンがあったためにタクシーを転回させるのに苦労した、というのを覚えていた。
ただ、酔っぱらっていたこともあり、ナンバーやメーカーについては全く気にしなかったという。それはそうであろう、と希実は報告を聞きながら思った。商用でロゴ等が入っていた記憶はないというから自家用の車だと思われたが、せめてメーカーだけでも特定できなければ、市内に限っても同型の車は何百台と登録されていそうだった。
こうなるとこの情報から所有者を特定するのは不可能に近い。他の車の目撃情報と共に所有者の特定を急ぐことになったが、このセンからの捜査は期待薄である。
一方で市内や近隣の市町村の歯医者からも有力な情報は集まらなかった。
捜査会議では、死体から生前の様子を再現した顔写真も配られた。各自これを持っていき、聞き込み先で提示して身元を特定せよ、というわけである。流石に死体の写真をそのまま使うわけにもいかなかったので、コンピュータで画像処理をして生きているときに撮影したような様子に仕上がっていた。
「そろそろ核心に迫る情報が欲しいですね」
希実は捜査会議の資料を見返しながら依田に言った。六日の金曜日の朝のことである。本来なら週末を前にして少し気分のいいタイミングの筈だったが、まず間違いなく土日も捜査が続くであろうことは容易に予想がついた。
このところ、希実は連日あちこち歩き回っているので足の疲労が抜けきらないでいた。二十台も後半になると学生の頃のようにはいかないものである。
「そうだな。この被害者の写真があればどこかからは情報が出てくると思うが」
と依田も資料を見ながら返事をする。
今日は白の軽バンの目撃地点から近くのコンビニなどを聞き込みして回る予定だった。目撃されたのが夜中であったので、その時間帯に営業している店舗を中心に車の目撃情報を集めるとともに、被害者の顔写真を見せてみるつもりである。
希実は助手席に依田を乗せ、南へと車を走らせた。途中で東へ折れ、梓南駅の近くで線路をくぐり、駅前通りに出た。このあたりは郊外に人口が増えてきていることもあり、駅前はひと昔前より活気が出てきたようだ、と同僚刑事が以前に話していたことを思い出す。確かに地方都市の、しかも中心地からふた駅離れた駅前にしてはシャッターが降りた店も少なく、本屋やカラオケ店などが目についた。
駅前通りで最初に目についたコンビニの駐車場に乗り入れる。場所柄徒歩の客が多いのだろう、駐車スペースは店の前の四台分しかなかった。
店内に入り、レジにいる中年の男に話しかける。男の名札を見ると店長、と書かれていた。それならば話が早い、とばかりに希実たちは警察手帳を示して、梓署の刑事課の者です、と名乗った。
「実は探している人がいましてね」
依田は言いながらポケットの手帳を出し、間に挟んでいた被害者の写真を抜き出した。
「この男に見覚えはないですか」
「そうですねえ」
店長は眉間に皺を寄せて渡された写真を眺めた。その目は真剣そのものである。あるいは警察の捜査に協力するという少し非日常的な出来事を楽しんでいるのかもしれない。
「すみませんがわかりません。お客さんの中にいたかもしれないが、流石に全て覚えるのは無理ですからね」
「それはそうでしょうな」
依田は写真を引っ込めると、店内で品出しをしている店員にも同じように声を掛けた。しかし店員の返事もまた同じようなものだった。もっとも今店にいない店員も沢山いる筈である。希実は自分の写真を店内のコピー機で何枚か複写し、他の店員にも聞いてみてほしい、と店長に預けて店を出た。
二人はそれから駅前通りを東へと進み、コンビニを見つけるたびに立ち寄って同じように頼んでいった。どこの店でも大体似たような反応だった。中には防犯カメラの映像を確認してみましょうか、と申し出てくれるところもあったので、必要そうなら改めて頼みにきます、と言っておいた。しかし写真の男を見たことがある、という者は現れなかった。
気付けば太陽は北アルプスの向こうに隠れそうになっている。希実は運転席のサンバイザーを下ろした。直射日光が眩しい。まるで最後のひと仕事とばかりに街を照らす西日は、少しずつだが確実に山影に隠れようとしていた。
下條橋の近くにあるコンビニが今日の聞き込みの最後になりそうだった。店内に入ると客は希実たちの他には誰もいない。アルバイトらしき少年が一人、暇そうにレジスペースに突っ立っていた。希実は少年に近寄って声を掛けた。
「すみません、私警察の者なんですけど」
「あ、はい、こんちわっす」
少年は顎を突き出すようにして会釈をした。いかにも少しやんちゃな高校生といった雰囲気だ。胸に付けられた名札には武田、という苗字が記されていた。
「アルバイト?ご苦労様」
「そうっす。何かあったんすか」
「うん、実はね、今ちょっと人を探していてね。こんな人なんだけど、見たことないかな」
そう言いながら希実はポケットから被害者の写真を取り出して少年に渡した。少年はそれを見ながら少し難しそうな顔で記憶をたどっているようだったが、しばらくしておもむろに頷いた。
「わかった。ちょっと似たような人、見たことあります」
「えっ本当に⁉」
希実は驚いて思わず声をあげた。
「どこで見たの?お客さん?」
「いや、そうじゃないっす。知り合いの知り合いっていうか……」
その時バックヤードから出てきた店長が事態を察したらしく、奥でどうぞ、と事務室へと案内してくれた。
「すみません。それじゃ少しこの子借ります」
希実はそう言うと少年と連れ立って事務室へと向かった。依田もそのあとをついてくる。店長は空いてしまったレジの前に、少年と入れ替わりに立った。
事務室の椅子に少年を座らせ、テーブルを挟んだ向かいに希実と依田が座った。部屋が狭いこともあって取調室のような雰囲気である。希実は手帳を取り出しながら自己紹介をし、武田が被害者をどこで見たのか、改めて尋ねた。
「お客さんで来た人ってことじゃないんだね。知り合いの知り合い?」
「知り合いっていうか、クラスの奴なんすけど、そいつがこの写真みたいな感じの人と話してるのを見たことがあるんすよ」
「いつ頃、どこでですか?」
「二週間か三週間くらい前だったと思います。梓駅前の、飲み屋とかあるあたり。なんかその知り合いが、川本って奴で中学んとき同じクラスだったんすけど、夕方俺友達と遊びに行ったんですよね。そんで川本が飲み屋のある細い道みたいなとこにいて。俺がその友達におい、あれ川本じゃねえのって言ったら、友達がうわ、マジだ、とかって言って、そんで……」
「ちょっと待った、待った。ええと君は友達と一緒に梓駅前に出かけたんだね。夕方。それでその川本君っていう子が飲み屋街の路地にいるのを見つけた、と」
武田少年の話は主語と述語が入り混じってなんとも難解である。それでも希実が整理しながら確認すると、武田は頷きながら続けた。
「そんで川本が誰かと喋ってるみたいだったから、あいつにも友達いたんか、とかって二人で笑ってたんですけど、その喋ってる相手がたぶんこの写真の人だったと思うんすよね」
「その相手の顔を見たんだね。間違いない?」
「俺も友達も、珍しかったからちょっと立ち止まって遠くから少し見てたんです。しかも川本とあんまり合わなそうっていうか、変なおっさんだなって思って。なんだあいつ、って顔はよく見ました。似てる別の人かもしれないっすけど……」
なるほど、確かに被害者くらいの中年が武田と同い年の少年と何事か話していたとなれば不思議に思っても無理はない。相手が一体何者かと観察するのも頷ける。
「そのときに武田君たちは、川本君とかこのおじさんに話しかけたりは……」
「してないです」
「じゃあ相手の名前とかもわからないか」
再び武田が頷いた。そこで川本の情報を聞くことにした。
「川本君っていうのは君の中学校の同級生なんだね。高校はどこか知ってる?」
「あいつ確か坂代じゃなかったかな。頭はよかったけど、ちょっと変な奴なんですよね」
「坂代高校ね。一年生?」
「そうっす。でも噂で聞いたんすけど、川本は高校入ってしばらくしてから、あんまり行かなくなったみたいですよ」
高校を休みがちだったということか。希実はその理由を尋ねたが、あまり詳しくは知らないようだった。ただ、これも噂ですけど、と前置きしたうえで、
「クラスとか部活で結構浮いてたみたいっす」
と武田は教えてくれた。
希実たちは武田の連絡先を一応手帳に控えると、お礼を言って事務所を出た。思いもかけぬ方向から情報が出てきたものである。まさか客として見かけたのではなく、他の場所で見たという話が聞けるとは思わなかった。
希実たちは早速坂代高校へ向かうことにした。武田は川本の住所は知らないと言っていたので、高校に確認する必要がある。
坂代高校はM市の北の端のあたりに位置する、中信地方でもかなり上位の進学校である。梓市にも近いこともあり、市内からも多くの優秀な生徒が通っている。普通科の他に理数科が設置されており、理数科の方は特にレベルの高いクラスとして地元では有名だった。
学校で尋ねると、対応してくれた教頭は、「うちの生徒が何かしましたか」と不安がりながらも川本の自宅の住所を教えてくれた。ここで被害者の正体がわかるといいが、と考えながら希実は車を川本の家に向かって走らせた。
再び梓南駅前へと戻り、そのまま駅前通りをしばらく東へ進む。人通りが決して多くはなかった昼間と比べ、会社勤めを終えたサラリーマンや部活帰りらしい高校生たちで駅前は多少賑やかになっていた。普段なら希実も缶ビールでも買って家路につく頃だった。
少し渋滞した駅前通りが遠ざかるにつれて、周りも民家が多くなってきた。このあたりから道は徐々に狭くなりはじめ、やがて民家が途切れて田んぼが現れ始めるあたりで、ナビが左に曲がるようにと指示を出した。希実もそれに従って通りを逸れる。住宅街の中の細い道を何度か曲がっていくと、やがて一軒の家の前でナビが目的地であることを告げた。
車を家の前に停めて玄関の方へと向かう。周囲の新興住宅街に比べると少しばかり庭が広いのは、宅地分譲が始まるより前からここに建っていたということだろう。よく見るとデザインや壁の色あせ方なども他の家よりわずかながら歴史が感じられた。
チャイムを鳴らすとしばらくして玄関灯が眩しくあたりを照らした。続いて女性の声で玄関の中から、はい、と聞こえた。
「夜分にすみません、梓警察署の者です」
と依田が返すと、少し間があってからドアが開いた。
「はい、何か?」
中から出てきたのは中年の女だった。外が暗いのではっきりとはわからないが、四十代くらいに見える。年齢から言って陸雄少年の母親だろう、と希実は当たりを付けた。
「我々、こういうものです。川本陸雄君のお母さんですか?」
依田が手帳を見せながら言うと、途端に女の顔が曇った。それを見て希実は少し違和感を覚えた。通常、警察手帳をいきなり見せられたときには、怪訝な顔をするか、あるいはなんだかよくわからない、といったきょとんとした表情を見せる者が多い。このように顔を曇らせるのは大抵、やましいことがある者か、そうでなければ前科でもあって何度も警察の世話になっているような人間である。希実は話をするのを依田に任せ、自身は相手の表情をよく観察しておくことにした。
「ええ、陸雄の母ですが……陸雄が何かしましたでしょうか」
女の声が少し震えた。
「いや、そういうわけでもないのですが。陸雄君は今家にいますか。少しお話を伺いたいんですが」
「陸雄にですか?いますけど……わかりました。お待ちください」
陸雄の母はそう言うと一度玄関を閉め、中へと引っ込んだ。ドアの向こうから息子を呼ぶ声がする。しばらくして足音が聞こえ、再びドアが開いた。今度は先ほどとは違い、高校生くらいの少年が顔を突き出した。
「何か、用ですか」
少年は少しぶっきらぼうな口調で尋ねる。
「川本陸雄君だね、坂代高校に通っている」
「そうです」
「こんな時間に悪いね、我々は梓南警察署の刑事です。実は今探している人がいるんですが、その人が陸雄君の知り合いじゃないか、という情報があったもんでね。知らないかどうか聞きに来たんだ」
「知り合い?誰のことですか」
陸雄は相変わらずぼそぼそとした声で聞き返してきた。よく見れば先ほどの母親によく似ている。ただ母親の方は良くも悪くも表情が豊かだったのに対し、息子の方はほとんど顔が変化しなかった。これだけ無表情だと、少し眠たげな目と細い眉がともすれば冷酷な印象さえ与えかねなかった。
「この人です。陸雄君、少し前にこの人と駅前の路地で会っているよね?」
依田が被害者の写真を取り出して陸雄に渡しながら聞いた。陸雄は無言でそれを受け取り、玄関灯の影にならないよう場所を調整しながらじっと見た。その時、陸雄の目がわずかに見開かれたのを希実は見逃さなかった。
陸雄はしばらく写真を見つめ、何事か考えていたようだったが、やがて諦めるように、
「会いました」
とだけ答えた。
「知り合いなのかな。なんていう人?」
「小西さんです。知り合いってほどじゃない。会ったことがあるのは二回だけです」
「小西、ね。確かかい。どうしてこの人と話していたのかな」
依田が聞くと、陸雄が顔を少し強張らせたように見えた。
「名前は間違いないと思います。話していたのは……警告するためです」
「警告?どういうこと?」
「僕の彼女に近づかないように」
「ええと……小西さんが君の彼女にちょっかいをかけていたということ?」
「いえ、そういうことじゃないです。ただこの人、僕が彼女と会うのを邪魔しようとするんですよ」
そう語る陸雄の顔は硬いままで、どこまで本気で言っているのかもよくわからない。
「よくわからないな。この人は何者なの?連絡取れる?」
「小西さんがどうしたんですか」
そこでやっと陸雄はうつむき加減だった顔を上げた。依田は少し逡巡し、それから陸雄に告げた。
「死亡しているのが見つかったんだよ」
それを聞いた陸雄の反応はまたしても鈍いものだった。ただ、ほんのわずかに口の端が歪み、まるでにやりと笑ったかのように見えたのが気になった。光の加減だろうか。
「ただ、その身元がどこの誰なのかがわからなくてね。小西という苗字も今知ったところだ。陸雄君はこの人について知っていることはないか。下の名前やできれば電話番号とか、住所なんか」
依田が聞くと、陸雄はまた俯くように視線を下げ、それから少し早口で語りだした。
「この人、僕に彼女から手を引くように言ってきたんです。それで僕はあのとき、これ以上僕と彼女の邪魔をするな、って警告したんですよ。だから連絡先なんか僕は知りません。知りたくもないです」
希実と依田は思わず顔を見合わせた。陸雄の話が本当なら、小西という男は陸雄の彼女という女の子に対してストーカーのようなことをしていたということになる。ただ、どうにも話の辻褄が合わないように感じられるのも事実だった。
「小西さんのことはわかった。それじゃあ陸雄君の彼女っていうのはなんていう子?同じ学校の子なのかな」
「彼女は同じ学校ですけど、今は小西から隠れてます。それで学校にも来てないんです。どこにいるかは僕もしりません。名前も言えません」
「名前も?どうして?」
すると陸雄は顔を歪めるように笑ったように見えた。
「これはプライベートな話ですので、すみませんが誰にも言いたくないんです」
結局それ以上の情報が得られないまま、希実たちは川本家を後にすることとなった。陸雄の話から判明したのは小西という被害者の姓だけだった。他の話はまるではぐらかされているような、バカにされているような、掴みどころのない内容で、希実は横で聞いていてよっぽど叱ってやろうかと思ったものである。ただ、陸雄の口調は人をおちょくっているようには到底思えず、むしろ狂信的な宗教徒めいたものすら感じられた。
玄関のドアが閉まると、車に向かいながら希実は依田に、どう思います、と尋ねた。
「面白くないな。どうも話が掴めない。というかあの少年自身、掴みどころがない」
「どういうことでしょうね。この小西という男は高校生の女の子に付きまとってたとでも言うんでしょうか。女の子が誰かっていうことはもう一度坂代高校へ聞いてみればいいかもしれませんが……」
「ちょっと周囲から調べてみる必要があるかもしれんな。その女の子のことか、あるいは陸雄が小西と喋っていたときの目撃証言か」
言いながら依田は助手席のドアを開けた。希実も反対に回りながらポケットのキーを探した。と、その時であった。川本家の玄関が再び開き、最初に応対してくれた母親が走り出てきた。何か忘れ物でもしただろうか、と希実が少し待っていると、母親は小走りに希実たちのところへやってきた。
「どうされましたか」
「あの……明日は土曜日ですが、やはり警察署はお休みですか」
「一応休みですが、当然当直の者がいますよ」
「いえ、その、お二人のどちらかでもいいんですが、お時間とっていただけませんか。少し話したいことがあるんです。陸雄のことで、それから今のお話の内容のことも」
母親も玄関の後ろでやり取りを聞いていたらしい。希実が一瞬ためらっていると、依田が我々は構いませんよ、と答えた。何か他に情報があるなら早い方がいい。そこで希実も、何時でも構いません、と付け加えた。
「では午後一時くらいに、警察署へ伺います」
川本の母親はそう言って一礼すると、再び小走りに家の中へ戻っていった。
どうやらこの情報には続きがありそうだ。明日、母親の話を聞いてからでも真偽を判断するのは遅くないだろう。希実はそう考えながら運転した。途中でふと隣を見ると、依田は寝ているのか考え事なのか、目を閉じたまま腕組みをして動かなかった。
土曜日の警察署は人も少なく、静かであった。それは捜査本部が立ち上がっていても例外ではない。捜査員たちは皆現場へ出払ってしまい、どっちみち署内にはほとんど残っていないからだ。時々静かなフロアに鳴り響く電話の音が、かえって閑散とした雰囲気に拍車をかけていた。
相談室の中で希実と依田は川本の母親と向かい合って座っていた。明るいところで見ると、昨夜はわからなかったがだいぶやつれているかのような印象である。もっとも普段の彼女の様子を知らないから元々そういう見た目なのかもしれない。ただ少なくとも目の下にできた隈だけは化粧でも隠しきれておらず、彼女の疲労を物語っていた。
彼女は
「陸雄は、もしかすると何か悪いことをしているのかもしれません」
悦子の目には早くも涙が浮かんでいた。
「悪いこと、というのはどういうことでしょう」
希実が聞き返す。女性の、しかも被疑者ではない者が相手となると、依田のようにいかにも刑事という人間では話を聞き出しにくい。自然と希実が質問を投げる役に回ることが多かった。これは他の刑事と一緒に動くときも同様である。
「それは、わからないんですが。あの子、最近高校にも行かず、繁華街なんかを昼間からうろついているようなんです」
「そうですか、それは心配ですね」
「元々、学校に行かなくなったのも、クラスでいじめのようなことがあったようなんです。それもかなり酷いもので、刃物で脅されたり、自分のものを盗まれたり、そういうレベルのものだそうです」
「それは陸雄君本人から聞いたのですか」
「ええ。具体的にどんな被害を受けたのか、かなり詳細に話してくれました。だけどこれはいじめではない、僕は狙われているんだ、きっと嫉妬だろう、ということも言っていました」
「それで、その被害について届け出たいという……」
希実が言いかけると、悦子は首を振って否定した。
「実は、その被害自体が嘘なのかもしれないんです」
「といいますと?」
「被害にあった痕跡が全く見当たらないんです。例えば以前、財布を盗まれた、ということがありました。本人がそう言うので私たち親も流石に警察か、そうでなくても学校へ訴え出ようと思ったんですが、陸雄がそれを止めるんです。なぜかと聞いたら、『財布も中身も無事に戻ってきたから』と答えました。実際見せてもらうと、特段傷んでいるわけでもなく、小遣いもそれなりに残っていました。こういうことがしょっちゅうなんです。背中に画びょうを刺された、という訴えもありました。この時も背中を確認しようとしましたが、『たまたま厚着をしていて背中までは針が届かなかった』と」
「被害の証拠が何も出てこないんですね。学校には聞いてみましたか」
「担任の先生に、それとなく聞いたことはあります。しかし全くいじめのようなことはないとおっしゃっていました。担任はどちらかというと熱心なベテランの先生で、もしおかしいところがあればもみ消したりするようなタイプでもないと思うんですが……」
悦子はカバンからハンカチを取り出すと額にうっすらと浮いた汗を抑えた。希実はそれほど部屋の中が暑いとは思わなかった。むしろ休日で人がいないため、かえってうすら寒いくらいである。それだけ緊張しているのだろうか、と考える。あるいはこの年齢の女性に特有の生理的なものかもしれない。
「それで、今日お話しに来たのは、昨日玄関先で陸雄が話した内容、これもどこまでが本当かわからない、ということなんです」
「つまりあの話も嘘かもしれない、と?」
「はい、実は……陸雄は中学三年生の頃、同じ学年の女の子に対して、ストーカーのようなことをしたということで先生から注意を受けたんです」
悦子は声を顰めるようにして話した。
「最初は随分浮かれたような様子でした。どうしたのかと聞いたらなかなか教えてくれませんでしたが、色々と聞いているうちに彼女ができたんだと。うちの子もそんな年になったかと感慨深かったのを覚えています。でもしばらくして、先生から呼び出されました。ある女の子に迷惑をかけているという話でした。内容はとても恥ずかしくて言えませんが、大人がやったら逮捕されるかもしれないくらいのことでした。もっともその女の子本人がそう訴えていたというより、お父さんか誰かが学校に怒鳴り込んできたらしくて、どこまでが真実だったのかはわかりませんが。最終的に相手の子が学校に来なくなって自然と解消しましたが、陸雄が原因で来れなくなってしまったのかもしれないと思うと……」
「その女の子というのが陸雄君が彼女だと言っている子ということですか。なんという名前なのかわかりますか?」
「それが、相手の親御さんや学校の方針で、名前は明かさないことにしたんだそうです。これ以上目立ちたくないからそっとしておいてほしいということで。私たちは謝罪にすら行けませんでした」
悦子はそこで口をつぐんだ。相談室に再び沈黙が降りた。希実はなんと返していいかわからなかった。母親として息子の異常な言動を警察に話そうという決意は並大抵のものではなかったはずだ。ましてや内容が内容である。その勇気を思うと、余計な慰めの言葉は何の意味もなさないように思えた。
「川本さん、お話はわかりました。つまり陸雄君がその女の子に関係して、小西さんとトラブルを起こしているかもしれない、ということですね。」
と依田が希実に替わって語りかけた。敢えて『陸雄が殺したのかもしれない』という言葉を避けているのが希実にもわかった。
「ただ、今のお話だけで陸雄君が小西さんに何かしたとは言い切れないでしょう。確かに彼女だと思い込んでいたのかもしれませんが、本当に小西さんとはただ会って、彼の言葉を借りれば『警告した』だけかもしれない。もっともそうなら小西さんには何のことだかわからなかった可能性もありますが」
「そうですね……。わかってはいます。ただやはり、最近のあの子の言動は何かおかしくて。もしかするととんでもないことをしたのではないかと、そればかりが心配で……」
悦子の目からとうとう涙が溢れた。手にしたハンカチでそれを必死に拭いながら、悦子はそれでも気丈に刑事たちに向かい続けた。ふと希実は思い付き、悦子に提案してみることにした。
「川本さん、今回の事件のこととは別に、息子さんのこと、専門家に相談してみませんか」
「どういうことでしょうか」
川本は涙を拭う手を止めて希実の方を見た。
「私も詳しいわけではないですが、例えば環境の変化によるストレスで参ってしまっているのかもしれません。そうであるなら、一度カウンセラーのような専門家に話を聞いてみることで、何か解決策が見つかるかもしれませんよ」
「ああ、それはそうですね。ただ私も何度か考えたのですが、どこに相談すればいいのかわからなくて。精神科の病院はちょっと怖いですし……」
「そうですねえ……」
希実は少し考えた。市の保健師や、あるいは学校カウンセラーなどがよいのだろうか。病院よりは敷居が高くない気がする。しかし希実にも市の福祉部門や健康部門にどういう支援制度があるかはわからなかったし、相談を受けてくれるのかも知らなかった。そこでふと、坊主頭にあごひげの男が思い浮かんだ。
「それではとりあえず、市のよろず相談室に相談してみてはどうですか。あそこならどんな相談でも受けてくれますし、そのあと専門家や市の担当部署を紹介してくれると聞いています。それに必要なら一緒に専門家などのところへ着いてきてくれますよ。なかなか心強いと思います」
「そんなところがあるんですか。行政も色々やってるんですね」
最後の一言は希実の主観だったが、それでも悦子は前向きに検討を始めたようだった。いつの間にか涙も止まっている。
「それでは週明けにでも市役所の方へ行ってみたいと思います」
と悦子は言って席を立った。依田が座ったまま、もし何かまた気づいたことがあれば相談してください、と言うと、悦子は深く礼をして相談室を後にした。
「一応、市の相談室に連絡だけつけておきます」
希実が言うと、依田が、
「日岐、もしかしてこないだ窓口に来てた目つきの悪いお役人か」
とからかうような口調で言った。
「いやそんなことは……まあでも、そうですね。あの人です。杏さん」
「いつの間に仲良くなったんだ」
「別にそこまでじゃないですよ。ただインパクトのある見た目だったんで、ふと思い出しただけです。それはそうと、川本さんの話、どう思いますか」
「とりあえず容疑者の一人とは言えるだろうな。どうも陸雄には妄想か、ひょっとすれば幻覚でも見えてるのかもしれん。ただ仮にそういう妄想が引き金になって殺意を抱いたとしても、高校生であそこまでのことができるかというと、な」
依田は腕組みをしながら答えた。
「そうですね。そもそも、川に遺体を捨てるのだって車がないと難しいでしょう。あの雨の中で河原に呼び出したというなら別ですが」
「ともかく周囲から当たってみよう。現状被害者と面識があることが分かっている唯一の人物だ」
依田はそう言うと立ち上がり、さて、もう一度聞き込みしに行くぞ、と希実を促した。土日になるとコンビニの店員や客層もガラリと変わる。それで新たな情報が出てこないかというわけである。ただ、それほど目ぼしい情報はないだろうな、というのが希実の率直な予想であった。
考えてみればまだ昼食を食べていない。このままだと三日連続のコンビニ飯になりそうで、希実は少しうんざりした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます