第2話
紅葉した街路樹の葉が、雨にうたれてだいぶ落ちてしまったようだった。市役所の目の前の歩道も赤と黄の入り混じった絨毯を敷いたようになっている。尊はそこを行き交う人たちが時折傘の傾きを変えながら歩いているのを窓から眺めていた。どうやら少し風が出てきたようである。土日に降り続いた雨は、週が明けてもまだぐずぐずと居座っていた。
尊の手元には住民課から交付された二通の戸籍があった。宮澤恭一とその娘のものである。先ほど届けられたそれらを見ながら、コンビニで買ったパンで昼食を済ませたところだった。
尊はもう一度戸籍に目をやった。恭一と多佳子の夫婦には娘が一人いる。その戸籍にある夫婦と娘、三人が全て除籍されていた。恭一も多佳子も既に亡くなっており、戸籍には死亡日が記載されているが、
先ほどから開いたままにしてある、相続事務の参考書を改めて読み直す。不動産の登記名義人が死亡者になっており、相続登記がされていない場合、基本的に法定相続人が現在の所有者となる。法定相続人の優先順位は、子、親、兄弟の順となっており、配偶者はどの場合でも常に法定相続人となる。では恭一の法定相続人は、というと、死亡した時点で子がいるので、配偶者と子がその財産の全てを分配することになるのだ。つまり配偶者である多佳子が半分、そして娘の陽子が残り半分ということになる。そしてそのうち、多佳子に相続された分についても、多佳子が死亡した時点でやはり陽子が相続したことになるので、実質的に現在の所有者は全て陽子となっている筈だった。
続いて尊は陽子の新しい方の戸籍を手にとった。筆頭者は夫の
いずれにせよ、この園田陽子という人物を探し当てる必要がある。尊は宮澤と園田の家系図を簡単に描きながら相続関係をもう一度チェックしなおした。園田陽子が生存している以上は、たとえ相続しているという意識が本人になくともあの廃屋の所有者は園田だ。当然所有者の管理責任の範囲で何らかの対応をしてもらう必要がある。
そして樋口の住む土地と家屋についても、園田は何らかの事情を知っていると考えられた。樋口が今の場所に転居した時期から考えて、平成の初めころまでに亡くなっている宮澤夫妻から購入したとは思えない。そうなると当然、樋口に不動産を売却することができる「所有者」は園田陽子ということになる。
園田の居場所を確認するには、もう一度住民課に戸籍の交付申請を出す必要があった。今度は戸籍の附票を入手するためである。通常、転居した際には住民票の異動届を役所に提出することになる。この住民票の異動情報は、その住民の本籍地の市町村へと送られ、戸籍に紐づけされる。これにより、その戸籍に記載された個人が住所をどこに移したか、実際にどこに住んでいるかが戸籍とともに記録される。これを戸籍の附票と呼ぶ。
本籍をある場所に置いたまま、転居だけを繰り返している人物の居住地を調べるには戸籍の附票を調べるのが一般的な手段である。住民票のように、転出入の記録を追いかけながらあちこちの市町村に照会する必要がなく、一度の申請で全部の履歴が分かるからだ。
尊は電話を取ると、住民課の内線番号を押した。しばらくコール音が鳴った後に電話に出たのは係長だった。尊が期待した相手ではない。
「もしもし、よろず相談室の杏です。ちょっと戸籍の公用交付の関係で伺いたいんですが、土屋さんはいませんか」
土屋は住民課に所属する、先日尊に戸籍書類を交付してくれた女性職員だった。公用交付関係の事務は土屋が一手に対応しているらしい。
「ああ実は土屋さんね、今週いっぱいお休みなんですよ」
と電話に出た相手は言う。
「今週いっぱいですか⁉」
驚いて思わず尊が繰り返すと、電話口の職員は少し笑った。
「土屋さん、ご結婚されたんですよ。それで今週は新婚旅行。結婚休暇フルで使ってね」
「そういうことですか……。そうすると交付は来週まで待った方がいいですかね」
「そうだねえ、できればそうしてもらえるとこちらとしては助かります。どうしても急ぎの件なら僕の方で対応するけど」
「いや、急ぎということもないですので、また来週お願いすることにします」
尊は電話を切ると、羨ましい話だ、と口の中で呟いてため息をついた。
園田の戸籍の附票を請求するのは翌週まで待たざるを得なくなったので、尊はもう一度樋口を訪ねることにした。前回の訪問時は売買の相手を忘れたと言っていた。勿論尊もこれを鵜呑みにしたわけではないが、今度は園田の名前を出せば、面倒がっても少しは情報を引き出せるかもしれないと考えたのだ。
また、樋口以外の家にも聞き込みをしてみたかった。なにしろこの間は樋口に少し気圧されてしまい、他の家に聞き込みをするという思考が働かなかったのだ。山﨑由美が一度聞いて回った家についても、園田の名前を挙げれば何か思い出す者がいるかもしれない。
夕方の四時を回った頃、尊はパソコンをシャットダウンし室長に声を掛けた。
「この前の廃屋の件、もう少し近所で聞き込みしてきます。そのまま直帰する予定です」
「そうかい、ご苦労さん。登記簿じゃわからないかい」
「そうですね、一応現在の所有者までは行きついたんですが、戸籍の附票が交付されるまでにちょっと時間がかかりそうなので、それまでに情報を集めとこうかと」
「もしうまくないようなら空家の扱いにして課税情報取ることも考えた方がいいかもな」
尊はわかりました、と言って室長に一礼すると荷物をまとめて庁舎を後にした。
樋口の家を訪れるのもこれが三度目である。すっかり通いなれた感のある道を少しスピードを出して走った。それでも雨で視界が悪いため、大型車とのすれ違いはいつにもまして慎重にならざるを得なかった。
現地に到着すると、今回も山﨑の家の敷地に車を入れた。あちこち聞いて回るのにいちいち車で移動するのも大変だと思ったからだ。幸い妻の由美の方が家におり、尊がこれまでの調査の進捗状況の報告と合わせてしばらく車を停めさせてもらいたい、と頼むと快く応じてくれた。
樋口のところは一番最後にすることにして、地図を見ながら近所を一軒ずつ訪問していくことにした。夕方のまだ早い時間ということもあり、話を聞くことができたのはそのうち半分程度だった。宮澤の名前を出して話を聞いたところ、いくつかの家で情報が得られた。そのうちの一軒は樋口の家から空き地を挟んで山﨑邸と反対側にある家で、息子夫婦と同居しているという老婆が対応してくれた。
「宮澤恭一さんねえ、懐かしいわあ。もう亡くなって何年になるかやあ。おらがこっちへ嫁いできてから色々と世話んなったもんだわ」
「当時はこのお隣に住んでいらしたんですね」
「そうせ。そんで娘がおってさ。あの子なんて言ったかなあ」
「もしかして陽子さんじゃないかね?」
「ああ、そんな名前だったかなあ。おらより十ばか年が下だったのは覚えとるけんども。あの子も可哀想だったわ」
「可哀想?」
尊が聞き返す。
「なんしろ旦那が早く死んじまったずら。そいでなんだか最初は警察も来たりなんかしてせ。ひとっきら近所中の噂んなってたわ。詳しくは知らなんだけどなんでも酔っぱらって寝込んじまって、吐いたもんを喉に詰まらしちまったとかってせってたじ」
「その陽子さんの居場所なんて知らないかね」
「いやあわからねえなあ。旦那が亡くなってからすぐ引っ越しちまったのか、すっかり空家になっとってね。ほいでも年に何度かは気づいたら草刈ってあったりしたもんで、時々は気にして帰ってきてたじゃないかね」
「ほう、そうですか」
尊は手帳を取り出すと老婆の話を書き留めた。空家になってからも手入れはしていたということのようだ。案外近いところに住んでいるのかもしれない。
「向こうの奥にある、農業倉庫みたいな廃屋も宮澤さんのもんだったかいね」
「ああ、あすこの土地も恭一さんとこのもんだわ。荒れほうけ荒れてるけども」
尊はついでに樋口についてもそれとなく聞いてみたが、こちらについては何年か前から気づいたら住んでいた、という話しか出てこなかった。引っ越しの挨拶などもなかったらしい。ただあまりトラブルになるようなこともなかった、と老婆は付け足した。
聞けそうな情報はこれで全てのようだったので、尊は礼を言って辞することにした。老婆はまだ話し足りないようで、お茶でもあがってきましょ、というのを四度も断らなければならなかった。気づけば時刻も八時を回っている。樋口を訪ねるのにあまり遅くなるとまた機嫌を損ねられても困る。
老婆の家を出ると、尊は少し坂を下りながら樋口邸の生垣に沿って歩いた。歩きながら地図を取り出し、スマートフォンのライトで照らして確認する。今日訪ねた家に印がつけてあり、そのうち話を聞けたところには重ねて二重丸が付してあった。尊はスマートフォンを顎の下に挟み、ペンに持ち替えると今出てきた家のところにチェックをし、同じように二重丸を付けた。
こうしてみるとやはり空家が多い。古い農家住宅だけでなく、もう少し坂の上の方には築二十年くらいの比較的新しい家が空家になっているのも見かけた。住宅地図には名前が載っているからおそらくごく最近空家になったのだろう。本来ならばまだまだ住めるだろうに、なぜ誰もいなくなってしまったのか。尊はその背後にある人生を想像しやるせない気分になった。
樋口の家のチャイムの音が宅内に響いてから、樋口が出てくるまでにはだいぶ間があった。樋口がこの前と同じように顔を出したのを見て、尊は少し申し訳なくなった。まるでやつれているかのように疲れ果てた顔をしている。対面するのが二度目の尊にもそうとわかるくらいなので、余程疲労しているのだろう。樋口は尊の顔を見て、隠そうともせずため息をついた。
「またあなたですか。杏さんとか言いましたかね」
「何度もすみませんね。前回売り主の名前を忘れたとおっしゃっていたんでね。こちらでとりあえず色々と当たってみたんですが、園田さんという方ではないですか」
すると樋口の顔がぴくりと動いた。そして少し考えるように、ゆっくりとした口調で、
「あー、確かに……そう、そんな名前だったと思います」
と答えた。前回も少し掠れたような声だと思ったが、今回はしゃがれた、と表現してもいいくらいのガラガラ声をしている。
「お知り合いではないんでしょうか」
「いや、知り合いの知り合いくらいの、まあ親しくしてたわけじゃありませんので」
「ではやはり今の居所もご存じない?」
尊が聞くと、樋口は少し咳き込みながら首を横に振った。
「大丈夫ですか。すみませんね、体調を崩されているときに」
「大丈夫です、ちょっと酷い風邪を引きまして。ともかく前の売り主、園田さんについてはわかることはないですので」
樋口はそう言って玄関を閉めようとした。その時、手に随分沢山の絆創膏が貼られているのに尊は気が付いた。
「手もケガされたんですか。色々と大変ですね」
会話をなんとか続けようと尊は言葉を続けたが、樋口は返事をしないまま玄関を閉めてしまったので、尊は樋口の方から追うのを一旦諦めようと考えながら踵を返した。どうにも非協力的な態度だが、それが何か隠しているせいなのか、公務員や市役所を毛嫌いしているタイプなのか、はたまた尊の態度が気に食わなかったのか、推し量りようもなかった。
時刻もだいぶ遅くなっていた。これで帰宅すると九時は回るであろう。尊は途中でどこかラーメン屋にでも寄ろうと考えながら山﨑の家に戻った。山﨑夫妻に車を置かせてもらった礼を言い、ついでに今日の成果をざっと説明してもう少し調査にはかかるかもしれない、と付け加えた。わかりました、遅くまでご苦労様です、と会釈する山﨑の向こう、リビングの方から肉の焼けたいい匂いが漂ってきた。焼肉という選択肢もあるな、と考えながら尊は車を発進させると、駅の方へと車を走らせた。
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