第2章
第1話
十一月に入ると急に日中の気温が下がるようになった。土曜日から降り続く雨の影響もあるかもしれない。こういう季節の変わり目は通勤の服を選ぶにも時間がかかる。いつもなら薄い上着を重ね着して気温に合わせて調節できるようにするのだが、外はまだしとしとと細い雨が落ちていた。
昨年度まで長野県警の刑事部に配属されていたためか、この梓市という街は全体がのんびりしているな、と希実は以前から感じていた。新たに異動してきた梓署の刑事課では、強行犯といっても多くが盗難事件だ。強盗や殺人といった、ニュースになるような凶悪犯罪は決して多くはない。
勿論それは間違いなくよいことだし、見方を変えれば梓署の警察官のはたらきのお陰だとも言えるだろう。それでも刑事に憧れてこの道を進むことを決めた希実にとって、少し物足りない気がするのも事実だった。
梓署は決して大人数の署ではなく、希実の同期も多くはない。異動してきて半年ということもあり、なかなか仲の良い同僚もできないでいた。刑事部門を希望するのはどうしても男性が多いし、ましてやここの刑事課は皆希実よりもだいぶ年上ばかりである。珍しい若い女性刑事ということもあり上からは可愛がられていたが、流石に気を許せる間柄というわけにもいかなかった。
テレビの天気予報でも今日は一日肌寒い天気となるでしょう、とキャスターが言っている。少し早いが冬物のコートの中で一番薄いものを着ていくことにしよう、と希実がクローゼットの中に手を突っ込んだところで携帯電話が鳴った。
少しの間、希実の動きが止まる。こんな朝の忙しい時間帯に電話を掛けてくるのは職場しかあり得ない。何かあったのだろうか。そう思いながら着替えを中断してテーブルの上に放り出してあった携帯のところへ向かう。手に取ると、画面には「
「もしもし、日岐です」
「ああおはよう。月曜の朝から悪いな、依田だ」
「おはようございます。何かありましたか」
希実は先回りして聞いた。当然何かあったに決まっている。
「うん。実はついさっき署に、水死体らしきものがあるという通報があってな。俺は当直明けなのでこのまますぐ現場に向かうことにした。日岐もこれから直接現場に向かってほしいんだが」
依田の話を聞いて、先ほどまでまだ眠気の残っていた頭がすっかり覚めた。死体の絡む事件は久しぶりである。しかも水死体となると場合によっては見るのも辛い状態となっている可能性もあった。気合を入れなければいけない。
「わかりました。大丈夫です。現場はどこですか」
「信濃川だ。戸坂村との境に六合橋という橋があるんだが、わかるか」
「国道の市境のところですよね」
「そう。その左岸、つまり梓市側だ。橋の橋脚に引っかかっているらしい。今近くの交番の警官が現場の保全のために先に行っているから、詳しい状況は道中で入ると思う」
「承知しました。すぐ向かいます」
希実は電話を切ると、クローゼットから薄手のものではなく雨をはじく素材のコートを取り出した。それからちょっと考えて手近な靴下を予備として鞄に突っ込むと、一人暮らしの部屋に向かって口の中でいってきます、と呟き、秋雨の中へと走り出した。
家を出ると署とは逆方向に向かって車を走らせる。昨日の夜半まではかなり雨脚が強かったようだが、今はワイパーを常時動かさなくてもいい程度には落ち着いていた。国道に出て左折する。最初にあったコンビニへ寄り、急いでパンを三つとコーヒーを買い込んだ。死体を見た後で朝食となると流石に少し辛い。一方で現場で吐くような新人ではない、と自分に言い聞かせ、運転しながらパンを口に詰め込んだ。こういう時は食べられるときに食べておくに限る。
国道はまだ通勤ラッシュの時間には少し早いのか、スムーズに流れていた。しばらく行くと右手から信濃川が近づいてきて、やがて国道に沿って流れるようになる。依田に指示された現場はそこから十分ほど川沿いに走ったところにあった。
橋を渡る手前で堤防道路に入った。河川管理用道路、という看板があるので一般車は通らないということだろう。既に何台かの警察車両が来ていたが、どれも道の真ん中に堂々と停めてあった。
希実もそれに倣って車を停めると、傘を持って外に出た。少し先に堤防道路から河川敷に降りられる階段が設けられており、階段の下には現場に立ち入らせないよう警官が一人立っている。足を滑らせないように慎重に降り警官に挨拶をした希実は、雨で増水して幅二メートルほどまで狭くなった河川敷の端を歩いて、橋の下へ向かった。
橋げたの下に入るとぽつぽつと傘に当たっていた雨が無くなった。希実は傘をたたむと、警察官たちが何事か話し合っているところへ近づいた。時々カメラのフラッシュが光って、薄暗い橋の下を照らしていた。交番勤務らしき若い男や、鑑識の制服を着た者も何人か混じっている。その辺りは橋脚があるためか河川敷の土地が少し高くなっているようで、まだなんとか陸地を保っていた。そのため足場を気にする必要はなかったが、普段とうって変わって勢いのある川を見ていると、引き込まれそうな不安を感じた。
話をしていたうちの一人がこちらに気付いて片手を挙げる。依田だった。当直明けと言っていただけあって流石に疲れたような顔をしているが、それでもよく通る声でおはよう、と言った。
「おはようございます。どんな状況ですか」
「それがまだ引き上げられないんだ。ほら、そこ」
そう言って依田が指を向けた方を見ると、そこには青ざめた人の身体があった。それを見て希実は状況を把握した。川が増水して流れが速く、中に入れないのだ。死体が引っかかっているのは希実たちが立っているところの隣の橋脚であった。その周辺も少し盛り上がっているのだろう。川の中にも関わらず葦やススキと思しき植物たちが水に浸からずに顔を出している。その草むらに、こちらに背中を向けた死体が引っかかっていた。
「裸なんですね」
と希実が言うと依田は頷いた。下半身は濁った水中にありよく見えない。ただ少なくとも上半身には何も衣服をつけていなかった。体格から男であることは一目でわかる。最初はガスで膨張している腐乱死体かと思ったが、よく見ればやや太っているというだけのことらしい。顔を草むらに突っ込んでいるので人相は確認できなかった。
やがて遠くからサイレンが聞こえてきた。死体を引き上げるための応援が着いたのだろう。希実はその場を依田と鑑識係の者たちに任せ、交番勤務の巡査と共に一度堤防道路へ上がることにした。何しろ足場は限られているから、機材を持った者に場所を譲った方がいい。女だからというつもりはないにせよ、力仕事がこれから始まる現場にいても手伝えることは限られていそうだった。
再び細い足場を通って階段まで戻る。ふと傘の下から隣を見ると、新人らしき若い巡査が今にも吐きそうな深刻な顔をしているのに気が付いた。今どきの若者らしく線の細い、ちょっと整った顔の男だったが、今見た死体とどっちの方が青ざめているかわからない。希実は少し先輩風を吹かせたくなり、巡査の肩を軽く叩いて「すぐ慣れるよ」と言い残すと階段を駆け上がった。
引き上げられた死体は、結局階段の上まで運ばれ、そこに横たえられた。相変わらず雨が降ってはいたが、何しろ今の今まで水中にあった死体である。周囲に張られたビニールシートには屋根も付けられたが、少なくとも死体を濡らさないためではないな、と希実は思った。
しばらく依田と二人で死体を見つめる。その男は引き上げてみると全身に何も纏っていなかった。短髪にだんご鼻で、ひげの剃り跡が濃いように見える。全体的に太り気味で腹も少し膨れていた。そこから足へと視線を移そうとしてむき出しになった股間の周辺が目に入り、希実は少し顔をしかめた。
鑑識係があちこちで忙しく立ち回っていた。何度もカメラのフラッシュがたかれる。死体の首元には検視の担当である飯森が屈み込み、詳しい状況を確認していた。口の中をペンライトで照らし、鼻の中もチェックしている。飯森が死体の目をこじ開けるとぎょろりとした大きい目玉が覗いた。
しばらくすると飯森は立ち上がり、依田と希実に向かって、お疲れ様です、と話しかけてきた。
「見たところ少なくとも死後一、二日は経っているようです。詳しく調べてみないとわかりませんが、もっとかもしれない。増水した川で上流から流されたんでしょうね、身体のあちこちに死後できたと思われる傷が山ほど付いてます。死因についてはちょっとわかりません。解剖に回してみないとなんとも」
「服を着てないってことは殺しの可能性が高いか」
「まあそれは私の口からは断言できません。が、その可能性もあるでしょうね」
飯森は言いながら希実にだけわかるように片目を閉じて見せた。希実の背筋に、死体を見たときには感じなかった寒いものが走る。まさかウィンクをしたのだろうか、私に。咄嗟に目を逸らして依田の方を見ると、腕を組んでブツブツと呟きながら考え事に没頭しているようだった。
男の死体は解剖へと回されたので、希実たちは死体が引っかかっていた現場の付近から聞き込みを開始することにした。とはいえそこで得られた唯一の情報は第一発見者の老人のものだけだった。だがそれは無理もない。六合橋と、そこから上流に向かって三キロメートルほどにある忍野橋までの間は堤防道路が全て管理用道路になっている。そのため一般の車両は抜け道として使う不届きな輩を除いてはほとんどいなかった。
それでも一応付近の住民の散歩コースになってはいるから、歩行者は普段ならそれなりに行き来している。ところがこれも折からの雨で散歩に出る者などほとんどいなかった。更に水も濁っていたから、川面に目をやった者があったとしても実際に橋脚に引っかかるまでに気付くことはなかっただろう。
最初に死体を発見した老人はその数少ない歩行者のひとりだった。普段通り朝五時に起床し、朝食を食べてから愛犬の散歩のために傘をさして堤防道路を歩いていたという。紀州犬の血の混じった白い犬は、いつものように飼主をぐいぐいと引っ張りながらそこかしこを嗅ぎまわっていた。ところが六合橋のところまで来たとき、不意に引っ張るのをやめ、橋の下を見つめるように立ち止まった。
「最初は薄暗かったで、でかいゴミだと思っただいね。だけんどもしばらく見てたらありゃあ人じゃないかと思い直して、道路の際まで行ってみただ。そしたらあの死体ずら。まあず、おどけちまったわ。ほいで慌てて家戻って、警察に電話したってわけせ」
と老人は皺だらけの顔をもっとしわくちゃにしながら話してくれた。
「昨日はあのあたりを散歩しましたか」
「したじ。シロが散歩に連れてけって吠えるもんだで、えれえ雨だったけどひとっきら回ってきたわ。おかげでずぶ濡れせ」
「その時は死体はなかったんですね」
希実の問いかけに老人は頷いた。
「少なくとも散歩に出た朝のときには見なんだな。まあ気にして見てたわけじゃねえで、もしかしたら気づかなかっただけかも知らんけど。でもあんなもん浮いてりゃわかるずら。シロも吠えなんだし、なかったじゃないかね」
鑑識係や機動捜査隊によってもたらされた情報は芳しいものではなかった。増水した川へ流されたのか、元々なかったのか、死体が引っかかっていた周囲には手掛かりになりそうなものは何も残されていなかった。こうなるとあとは解剖の結果を待つより他にない。署に帰ってぐっしょりと濡れた靴下を履きかえた希実は、それから午後の間中、抱えていた別件の報告書を作成しながら次の展開を待った。
外を見るとようやく雨が止んだようだった。とはいえまだ空には厚い雲がかかっている。まるで事件の行く末を暗示しているかのようで、希実の気分もまた陰鬱なものであった。
秋の短い日が沈もうとする頃になって、待ちくたびれた希実の元に依田がやってきた。
「日岐、捜査本部が設置されることになった。行くぞ」
「捜査本部?やはり他殺ですか」
「詳しいことは捜査会議で聞けるだろうが、普通に考えりゃ自殺や事故で素っ裸にはならんだろう」
「それはそうですね」
日岐も応じ、筆記具と手帳を掴むと三階の会議室へ向かう依田の後を追った。
会議室には既に捜査員たちが集まり始めていた。普段見かけない顔もちらほらと見える。県警本部から来た者たちであろう。管理官が既に陣取っている前の机の横には大きなホワイトボードが並べられていた。希実も依田と並んで部屋の真ん中あたりの席に腰かけた。
やがて捜査員が皆席に着くと捜査会議が始まった。最初に梓署の刑事課長が事件の概要を説明していく。死体発見は本日十一月二日、朝六時半頃。付近を犬の散歩で通りかかった高橋という老人が発見し警察へ通報した。死体の身元は現在のところ不明、四十代前後くらいの男性、身長百七十センチくらいでやや太り気味。発見時衣服は何も身に着けていなかった……。このあたりまでは希実も承知している内容である。
続いて検死の報告、と促され、少し前の方に座っていた飯森が立ち上がった。
「先ほど解剖の結果が届きましたので報告します。死体は死後二日程度経っているものと思われますが、その間水に浸かっていたらしく、正確なところは不明です。十月三十日から昨日十一月一日の午前中くらいまでは死亡推定時刻の範囲に含んでよいと思われます。それで死因ですが、直接の死因は窒息死ということでした。ただ、水を飲んだ形跡はなく、溺死ではありません。また、首のあたりにいくつか掻き毟った跡のような傷跡がありました。これは自分で苦しがってつけたもののように思われます」
飯森はここで少し言葉を切ると小さく咳払いした。会議室の中が微かにざわつく。
「つまり、断定はできませんが何者かに殺された可能性が高いということです。死体が衣服を身に着けていなかった点も殺害されたことを意味していると考えられます」
ざわつきが少し大きくなった。やはり、とかだろうな、といった声が聞こえる。それを静まらせるように、前に座っていた署長が、他には、と尋ねた。
「はい。他に目立つ特徴として、全身に細かい裂傷、擦過傷の類が見られます。これはある程度の距離を流されてきたためにできたものと思われます。首の傷跡を除いて、いずれも生活反応はないということです。それとは別に、右手の甲の小指側にいくつか歯形のような形に傷が残っていました。こちらは既にふさがっており、死亡する数日前にできた傷だと思われます」
希実は飯森の説明をメモしながら思考を巡らせた。可能性のありそうなのは犬だろうか。犬に咬まれれば通常は医者に行くだろうから、そちらも手掛かりになるかもしれない。
「あとは身元を特定する手がかりになりそうな点はあまりありません。強いて言えば、上の前歯、門歯というんですか、一番前の右側ですね、これが抜けていました。どうやら差し歯になっていたようで、それが無くなっているようです。口の中にも傷があるので、転んでぶつけて抜けたのか、加害者と争っているときに殴られたか、あるいは単に流されている間に取れてしまったか、いずれとも判断つきません」
飯森は報告を終えると席に座り、満足げに椅子に背中をもたせかけた。続いて別の鑑識係から遺留品等の捜査の報告がされたが、こちらは希実も聞いていたように芳しいものではなかった。
「……発見現場から下流へ三キロメートルほど、川岸を捜査しましたが、衣服等の目立った発見はありませんでした。川の中は未だ流れが速く、何かあったとしても発見は不可能に近いと思われます」
依田からも聞き込みの結果が上がらなかった旨が報告され、一通りの情報が出そろったようだった。捜査員は本部長の指示により捜査を割り振られた。主に焦点が当てられたのは歯医者である。差し歯を含めた歯の治療痕について、市内を中心に医者をしらみつぶしに当たるのだ。
希実たちは川沿いに再度地取り捜査をし、今度は不審な車等の目撃情報を当たることとなった。これは人を運んで来て衣服を脱がせ、それを川へ流すなら車が必要であろうという推測によるものである。役割を当てられた刑事たちはそれぞれに打ち合わせをしながら会議室を後にしていった。
時刻を見ると七時を少し回っていた。希実はそろそろ最初の警報を鳴らしそうになっているお腹をなんとか誤魔化しながら、依田と共に会議室から出た。今夜のうちに差し当たり現場付近だけ再度聞き込みをするぞ、と依田が言った。希実はわかりました、と答えながら、頭の片隅でデスクにゼリー飲料が残っていたかを考えていた。
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