幕間1

「なあ、ユウタはミステリ小説好きだったよな」

「うん、好きだよ。それがどうかした?」

「例えばの話だけどさ、人を殺すとしたらどういうやり方が一番簡単でばれにくいのかな」


 僕の言葉に、ユウタはしばし考え込んだようだった。僕は努めて冷静を装ったが、あまり意味はなかったのかもしれない。


「何をもって簡単というかは難しいね。ばれにくいというなら、何らかの方法で殺した後は海の沖の方へ捨てるのが一番いいだろうな。別に詳しいわけじゃないけど、陸に流れ着くまでには誰の死体かわからなくなってるだろうし、殺人の証拠もだいぶ消えてしまうと思う。水の中に長時間浸かっていた死体は検死とかでも細かいことがわかりにくいって確かなんかの本で見た覚えがある。まあでも結局死体が発見されないのがベストなんじゃないか」

「そうか、死体が見つからなければそもそも殺人があったということすらわからないからね。でも人を一人完全に消し去るのって考えてみれば難しいな、船なんて持ってる人は漁師くらいだ」

「それはそうだな。だから世の中じゃ死体を山に埋めて、それで動物が掘り起こしたりして発見されたりってことは結構あるみたいだね」

「いずれにしても車は必要か……」


 僕が考え込むと、ユウタはあからさまに不審そうな顔をした。


「何を考えてるんだ?」

「いや、なんでもないよ。ちょっと……ミステリ小説とか書いてみたいなって思ってさ」


 僕は咄嗟に出まかせを言った。


「それならいいけど……」

「まさか僕が誰かを殺そうとしてるって?そんなバカな」


 と僕は無理やりに笑う。


 実際のところ、サヤカの話を聞いたあの日から、僕は起きている間中彼女の父を殺す方法を考えていた。


 僕が捕まることを覚悟すれば、それは容易いように思えた。泥酔したところを包丁で一突き。あるいは硬いもので殴りつける。だが僕にはこれからも彼女を守るという使命がある。捕まるわけにはいかなかった。


「事故や自殺に見せかけるのは?」

「そうだな、うまくやれば可能かもしれない。例えば相手がまったく意識がないくらい泥酔しているとか、睡眠薬を飲んでるような状態で、首を吊らせるとか。それで被害者の生活が自殺してもおかしくないような状況なら、警察は自殺として処理するんじゃないかな」


 なるほど、確かにいい方法に聞こえる。相手の意識がなければ、という点もちょうどいい。だがサヤカの父は幾分太り気味で筋肉質だと聞いていた。その体重を自分一人で持ち上げられる自信はあまりなかった。


 僕は少し焦ってもいた。少なくとも今月中には決行しなければならない。こうしている間にもサヤカは毎晩のように虐待を受けている筈だ。


 あまりいいアイデアが浮かばないまま日は経っていった。僕は毎日人を殺すことだけを考えていた。


 部活は家の都合でしばらく休部させてほしい、と言って行かなくなっていた。学校の授業にもほとんど身が入らなかった。先生の話は右から左へ抜け、僕の目は社会科の資料集にある偉人が殺害されたエピソードや、理科の教科書の薬品の説明ばかりを追っていた。


 ある秋晴れの日の午後のことだった。その日の生物の授業は昼休みが終わった後の特に眠たくなる時間で、実際教室中のあちこちから寝息が聞こえるような退屈なものだった。授業が面白いかどうかは、教科というより教師の進め方による気がする。そういう意味ではこの生物教師は最悪の部類に入る。淡々と教科書を読み上げ、通り一遍の問題を解かせる。実験の授業ですら、何が目的で何をすべきかわからず、実験補助の教師に質問が集中する有様だった。


「……であるから、生物の細胞は酸素が血液に乗って運ばれてくるのを用いて活動しているというわけだ。窒息したりすると細胞、特に脳の細胞が活動できなくなり、それで死んでしまうということだな。逆に言えば、酸素さえ血液に取り入れることができれば呼吸そのものをしていなくても生きることができ、……」


 僕は教科書の末尾にある元素の周期表を眺めながら、どうせ説明するなら生きる方法じゃなくて死ぬ方法にしてくれ、と考えていた。相変わらずいい手は思い浮かばない。事故に見せかける――あるいは病気に?心臓を止める方法があれば心臓麻痺だと思わせられるだろうか。それとも――。その時、不意に教師の言葉が耳に入ってきた。


「例えば実験動物を安楽死させる際などはこの炭酸ガスを使う。これは苦痛を与えずにできる限り速やかに死なせるためだ。解剖用のラットなんかがこれだな、素早く窒息死させて実験に使用するわけだ。確かこの実験動物を安楽死させる時には不要な苦痛を与えないことというのは法律に定められとったはずだ。では次に細胞に酸素が取り入れられたときに細胞の中でどういう反応が起きているのか、だ。教科書は四十五ページ……」


 僕はハッとして顔を上げた。


 今なんと言った?炭酸ガスはできる限り速やかに死なせるために使われる――?


 その時僕の頭の中で急速に殺害計画が組みあがっていった。炭酸ガスはつまり二酸化炭素のことだ。二酸化炭素はドライアイスを気体にすればいくらでも手に入る。そしてそれを吸い込ませた時の死因は窒息死ということになるのか。ならば……。


 その日の放課後、僕は学校の図書室にいた。生物の参考書や理科年表を引っ張り出して読み漁る。司書の先生が時々こちらを見ていたが、生物の勉強をする熱心な生徒としか思われなかっただろう。しかしそこから得られる情報だけでは不足だった。本当は犯罪捜査や医学関係の資料が必要だったが、流石に高校の図書室ではそんな本は置いていなかった。そこで学校を出て、市立図書館へと向かうことにした。こちらならもう少し蔵書が充実しているはずだし、インターネットが使えるパソコンもある。


 クラスの友人の中には既に自分用のパソコンを持っている者も何人かいたが、僕はまだ買ってもらえてはいなかった。かといって殺人のための調べものをリビングにある家族共用のパソコンでこそこそとやるのも憚られた。


 ここのところ、日中はわりと暖かい日が続いていた。それでも時折吹く風は間違いなく秋特有のそれで、僕の火照った脳までもクールダウンさせてくれるようだった。グラウンドの方から部活動に勤しむ生徒たちの声が聞こえてくる。一瞬、何も心配のない平和な日常を過ごしている彼らが少しだけ羨ましくなった。


 市立図書館に着いたころには日も傾きかけ、昼間の熱は少しずつ失われつつあった。少し遅くなりそうだ、と思い、母にメールをしておくことにした。必要そうな本を借りていくという選択肢もあったが帰り道の荷物が相当に重くなるし、インターネットで調べる必要もある。何より借りた本のラインナップを記録に残したくなかったので、できる限りその場で閲覧して情報を集めたかった。今日はやらなければならない課題をやってから帰るので遅くなる、と送ると、母からは「あら珍しい、しっかり頑張りなさい」という返事がすぐに返ってきた。


 やらなければならない課題、か、と母からのメールを見ながら思った。少なくとも嘘は言っていない。まさにその通りだ。何としてもやり抜かなければならない。


 平日の夕方ということもあり、館内の利用者はまばらだった。早速僕はパソコンのコーナーへと向かい、空いている端末で調べ物を開始した。流石に殺人の方法まで調べるのは無理があったが、医学系のホームページをいくつか確認する。特にどこかの大学の法医学のページは参考になった。ただ、インターネットの特性ゆえか、サイトによって書いてあることの内容が若干違っているのが気になる。一番信頼のおけそうなサイトの内容をメモにとり、それから書籍のほうも調べてみることにした。


 関係しそうな書棚を歩き、目についた本を抜き出しては閲覧用の机へ運んだ。「法医学入門」、「読んで面白い気体のはなし」、「科学と犯罪の歴史」、「動物福祉の最前線から」、「実践介護講座」、「世界の偉人たち~その死の謎に迫る~」といったタイトルが机の上に積みあがると、僕は必要な部分を目次から拾い出して読み、その都度メモをとった。


 僕は作業に集中しながらも、ふとした拍子に頭をもたげる心の声を聴くまいとした。しかしその声はともすれば簡単に思考を支配しようとする。


「できるわけがない、こんなこと上手くいく筈がない、すぐに捕まるのがオチだ――」


 もしかすると無意識のうちに呟いていたのかもしれない。近くで何やら分厚い本を読んでいた男性が、こちらをしばらく眺めた後に席を立ち、書棚の方へと去って行った。だが僕は気にせずに作業を続けた。濃度の高い二酸化炭素を吸い込むと速やかに意識を失い、そのまま窒息により死に至る……教師の言っていたとおりだ――窒息死の場合、死体にはチアノーゼの所見が見られ……これはさっきホームページで見かけた――彼の死因は睡眠薬と酒の過剰摂取により――動物の場合はその半分程度の濃度の――。



 ふと気づくと閉館の時間が近づいていた。慌てて本を元の場所に戻して歩き回る。館内のスピーカーからは蛍の光が流れ始めた。そういえば、この曲は本当は蛍の光ではないと聞いた覚えがある。閉館や閉店を知らせるメロディーは三拍子で、蛍の光は四拍子だそうだ。だがこちらの曲名はなんというのだろうか。そもそも誰に聞いたのだったか、ユウタだったかな……。そんなことを考えながら本を全て元に戻し終えると、作り上げたメモを大事に鞄の一番奥にしまい込み、僕は図書館を後にした。


 ユウタにはやはりもう一度相談した方がいいかもしれない。この計画に穴があるかどうか、第三者の視点が必要だ。それから事前に一度でいいから試さなければ。サヤカにあれを頼んでおかなければならないし、必要なものを買いそろえなければならない。何日か学校をサボる必要があるな。僕は暗くなった道を自転車で走りながら考えた。時間はあまり残っていない。まずは明日、午後の授業を早退してホームセンターに行こうと思った。



 僕が考えた計画を話すとユウタは称賛してくれた。


「いや、これ面白いよ。この方法なら確かに事故に見せかけられる。ただこれで小説を一本書くとするとちょっとインパクトが弱いかな。もう一つか二つ、面白いトリックを合わせられればちょうどいいんじゃないか」

「そっか、ありがとう。あんまり穴はないかな」

「そうだなあ。強いて言えば、死体を解剖されるとやっぱり五分五分くらいになりそうな気がする。まあ俺もその辺は全然詳しくないんだけどさ。肺や気管の状態は当然調べるだろうから。だから解剖には回されないで済んだような展開にしちゃうのがいいのかもね」

「なるほどね、そうしてみるよ」


 僕はユウタの言葉を聞きながら、修正すべきポイントを頭の中でチェックした。


 もう何日もよく眠れない日々が続いていた。気づけばいつも計画のことを考えている。決行すると決めた日は三日後に迫っていた。勿論サヤカの父がイレギュラーな行動を起こすかもしれない。なのでその日が難しければ翌日か翌々日に実行する。


 必要なものは全て買い揃えてあった。ドライアイスは、学校で実験に使うから、と言い訳し、冷凍庫に多めに入れてあった。スーパーでアイスクリームをこまめに買って貯めたものだ。サヤカからは念のために家の鍵を借り、合鍵を作ってあった。


 鍵を借りるにあたって、僕は計画を打ち明けるべきか悩んだ。本音を言えば彼女には全てを知っていてほしかった。僕のすることを英雄視してほしい、という低俗な欲望もないとは言わないが、それ以上に何か想定外のことが起きたときに手助けが必要になる可能性を考えたのだ。だが結局全貌を明かすのは思いとどまり、彼女に最低限お願いしておかなければならないことだけを伝えた。鍵のこと、父親にできるだけ沢山酒を飲ませること、夕食のメニューと時間、父が寝たら古い方の家に行き出てこないようにすること、そしていつもと父の行動が違っていたら玄関先に目印として白い紙を貼り付けておいてほしい、そのくらいだった。そして家の中の間取りと父親のいつもの行動パターンを教えてもらい、あとは何を聞かれても「知らない方がいい」で押し通した。


 サヤカはきっと僕が何をしようとしているかをわかっていたと思う。いや、これだけのことを言われたら嫌でもわかった筈だ。それでもはっきりと聞かないことで、後で警察から事情を聴かれた時にも知らない、わからないで通せる確率が上がると僕は考えた。サヤカも僕の意図を汲んだのだろう、それ以上はしつこく尋ねずに、とにかく気を付けてね、無茶はしないで、と弱々しく言い、あわせて僕の依頼を確実にこなすことを約束してくれた。



 決行当日、永遠に続くかと思われた国語の授業が終わり、放課後になると、僕は保健室に向かった。僕を家に招いたあの日以降、サヤカは中学校までのように保健室にいることが多くなっていた。決行日の確認の意味もあったが、何より夜になる前に彼女の顔を一度見ておきたかった。


 サヤカはいつものように窓側のベッドで横になっていた。


 僕が見舞いであることを養護の先生に告げると、先生は短時間で済ませるようにと言って、それでも少し気を利かせてくれたのだろう、お手洗いに行ってくるから、と教室を出て行った。僕が声を掛けてカーテンの中に入ると、サヤカは起き上がって僕を見つめた。


「今夜、よろしくね」

「うん、わかってる」


 僕たちの会話はそれだけだった。それから短いキスを交わして、僕は保健室を出た。廊下を昇降口に向かって歩いていると、トイレから戻ってくる養護の先生とすれ違った。すれ違いざま、先生は、


「何を思い詰めてるかわからないけど、リラックスしなさいな」


 と僕に声を掛けた。


 僕は無言で会釈をし、そのまま歩き続けた。リラックス、そうだリラックスしないと。帰り道の間中、自分にそう言い聞かせた。大丈夫、きっとうまくいく。



 家に帰ると母は買い物に出たらしく、家の中は無人だった。きっと僕がリクエストしたハンバーグとキノコのスープの材料を買いに行ったのだろう。僕は部屋に鞄を置くと持ち物をひとつずつ確認した。それから肝心のドライアイスをチェックするため、台所に行き冷凍庫を開けたところで心臓が止まりそうになった。


 ドライアイスがない――。


 僕の頭は混乱した。ドライアイスはビニール袋にいっぱいに詰めて何日か前からストックしてあった筈だ。それが今、冷凍庫にはほとんど空になった袋が横たわっているきりで、袋を持ち上げてみると僅かな欠片がいくつか入っているだけだった。


 どういうことだ。誰が使ってしまったのだ、父か母か――そこで自分の失敗に気付いた。


 そうだ、ドライアイスはマイナス八十度とかそのくらいで気化すると本で読んだ覚えがある。家庭用の冷凍庫はそこまでは冷えないだろうから、徐々に気化してしまったのか……。


 やっぱり無理だ、止めよう、と心が叫んでいた。これは何か得体のしれない大きな力がもう止めろと言っているんだ。


 しかし僕はその気持ちを理屈で強引にねじ伏せた。大丈夫、まだこれからドライアイスは入手できる。今の時間に確認したのは正解だったじゃないか。これが決行直前ならどうにもならなかった。今気づいたということは、今日はうまくいく日だ。そうに決まってる。


 これまでに回ったうちで、一番ドライアイスを沢山サービスしてくれるスーパーを選び、僕は自転車でそこに向かった。一緒に小さな発砲スチロールの箱も購入することにした。今度は失敗できない。できる限りドライアイスを長持ちさせる必要があった。


 夕方の風は涼しくて、今夜の気温が下がりそうなことを予感させた。これも僕に味方している。サヤカ、待っていてくれ。僕が今夜、君を解放するから。


 僕は全力で自転車を漕いだ。もはや朝から続いた緊張感は薄らいでいた。

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