第3話

 長野県は周囲を山に囲まれており、それは季節ごとに実に様々な景観を見せてくれる。そしてまた同時に、この山脈は信州の大地を守る物理的な壁としての役割をも果たしていた。


 北から来る雪を一身に受け止め、南から列島を駆け上る台風を食い止める頑強な壁である。昨日まで梓市にも雨をもたらしていた台風も、北アルプスが防いだうちのひとつと言えるだろう。県内を横断すると予想されていたが、結局いつもの秋雨が少し強くなった程度で済んでしまった。そして昨日までの防壁も今は台風一過で晴れた秋空の下に、色づいた葉も艶やかに鎮座していた。


 あれから尊は何度か希実とメールのやり取りをした。と言っても、それほど大した用があったわけではない。希実に頼まれた地図の他は、尊からは色々と世話になった礼を送った程度だ。希実からも簡潔に、こちらこそお世話になりました、というような内容が何度か来た程度である。


 ただその中に、『こちらに転勤してきて年の近い人があまりいないので嬉しかったです。またぜひよろしくお願いします』という文面が含まれていた。メールではお互いに敬語だった。


 送られてきたメールを見ながら尊は希実の顔を思い出していた。小動物を思わせるような、大きな目をした可愛い子だった。仲良くなっておいて損はないだろう。


 その日尊が昼食を食べに行き、近くの食堂から戻ると、二階のエレベーターの前で庁内の案内看板とにらめっこをしている女性がいた。三十代くらいと見える、ややぽっちゃりとした体形の女だ。尊は、


「よろしければご案内しましょうか」


 と後ろから近づきながら声を掛けた。


「ああ、すみません。よろず相談室というのは左の方でいいんでしょうか」


 と女が答える。


「ええ、と言いますか私がよろず相談室の職員です。こちらへどうぞ」

「あら丁度よかった、ありがとうございます」


 女は少し笑いながら尊の後に付いてきた。相談室に着くと尊は女を中へ案内し、相談ブースへ座らせると、女の向かいに腰を下ろした。


「自己紹介が遅れました。私、よろず相談室の杏と申します」

「カラモモさん?珍しい苗字ですね」


 女が尊の名札を見ようと少し身を乗り出したので、尊は名札を手に取り見えやすいように掲げた。


「ああ、アンさんって書くんですね。確か忍野の方に何軒かありましたね」

「よくご存じですね。あの辺の杏姓は全てうちの親戚筋です」

「そうですか。あ、私は山﨑由美と申します」

「山﨑さんですね、よろしくお願いします。それでご用件は?」


 尊はメモの一番上に十月二十六日、と日付を入れ、隣に『山﨑様』と書いてから尋ねた。


「はい、実は空家、というか廃屋のことで相談に来たんです。私の家は瀬田区なんですけど、家の裏手に昔から廃屋状態になってる小屋があるんです」

「ちょっとお待ちくださいね、今地図をお持ちしますので」


 そう言うと尊は立ち上がり、書棚から市内の住宅地図を引っ張り出した。昨年度改定の新しい版の物だが、既に表紙などはボロボロである。それだけ使用頻度が高いのだ。尊は市の全体図のページから大体のあたりを付けるとページを捲った。


「ええと、ここが瀬田区の公民館ですね。こっちが駅につながる市道で、こっちへ行くと新しい工場団地があります。株式会社HDSとか、タナテックとかがある」

 尊がいくつか目標物を挙げながら地図を示す。


「ああそうするとこの道沿いで……えっとここが丁字路になって……丸山さんの家で、あ、あった。ここです。ここ。勇樹はうちの旦那です」


 山﨑が指で示したところには確かに『山﨑勇樹』と表記された家があった。尊がそこに鉛筆で丸を付ける。それからその周囲を探すと、山﨑邸の奥、道とは反対側に、建物を現す小さな四角形がすぐにわかった。枠内には誰の名前も記載されていない。これが問題の廃屋ということだろう。


 尊はそれを鉛筆の先で指しながら尋ねた。


「すると廃屋というのはこれですね」

「そうです。これです。ここ、私たちが家を建てたのが五年ほど前なんですけど、元の土地の売り主からももう何十年も廃屋になってるって聞いてます。それで、まあそちら側は家の裏手になるので景観にも影響しないし、別段不気味というほどでもなかったので気にせずに土地を買ったんですけど、こないだの台風の時に少し風があったでしょう。多分その風で屋根のトタンみたいな板がうちの方へ飛んできたんです。元々だいぶ剥がれてきていたんだと思うんですけど」

「それは危ないですね。どこかにぶつかったんですか」

「はい、勝手口の照明のところに当たって、電球のカバーが割れました。夕方食事の支度をしていたら外で結構大きい音がして、勝手口から出てみたら……」

「そういう状態だった、と」

「それで、まあその修理費用自体は数千円くらいのものだったんですけど、やはり所有者に支払ってもらうのが筋かなと思ったのと、今後もこういうことがあるとタイミングが悪ければケガをすることもありますから、なんか対応してもらいたいな、と思ったんです」

「なるほど、わかりました」


 尊は言いながらペンを走らせた。つまり、金額的には大したことがないから払う払わないで揉めたくはないが、最低限同様のことが起こらないように修繕なり解体なりしてほしい、ということであろう。それにしても、また問題の市道沿いの案件だ、と尊は思った。もっとも今回の内容としては拡幅とは関係のない話ではある。


 空家の対応となると、通常は建築指導課の担当業務だ。ただ、尊はこのワンストップ相談室に異動になる前にその建築指導課で空家対策の担当をしていたことがある。その頃の知識はまだ引っ張り出すことができそうだったので、担当課に繋ぐ前に概要だけでも説明しておくことにした。


 国が空家対策法を制定してから十年以上が経っているが、いまだに、というより以前にも増して空家問題は全国どの自治体でも悩みの種となっていた。そもそもが所有者不明だったり、判明していても指導に時間がかかったり、というように危険な空家を一軒処分するにも多くの労力と時間が必要である。

 ただでさえなかなか片付かないところに、少子高齢化や核家族化の進行による空家そのものの増加が拍車をかけた。梓市も例に漏れず空家問題に苦心している市町村であり、今回のケースもすぐに片付く確率は低いと言わざるを得なかった。


「廃屋の所有者の情報は、山﨑さんの方で何かご存じだったりはしませんか」

「いえ、まったく何もわかりません。ご近所で何軒か聞いてみたり、うちが土地を買った人にも問い合わせてみましたけど、みんな知りませんでした」

「そうすると、市としては登記情報や課税情報から所有者を探して、適正な管理を依頼する通知を出すことになりますが、正直言って解消されるケースはあまり多くないんです」


 と尊は渋面を作りながら説明した。


「そうなんですか」

「ええ、実は私、二年前まではまさにこの空家対策の担当をしてたもんですから大体のことはわかるんですが、所有者が判明して通知を出しても、なんのリアクションもないことが少なくないんです。まあ今回は実際に被害が発生していますので、民事訴訟を起こしてでもなんとか対応させる、という選択肢もありますが」

「そこまではちょっと……したくないですね」


 山﨑も渋い顔になった。それはそうだろう。一般市民にとっては訴訟というのはあまりにもハードルが高すぎる。いや、実際にやる気になれば決して難しくはないのだろうが、心理的なところで踏み切るには至らないのが普通だ。尊はいくつも相談を受けている中でそれを実感していた。


「それからもう一つ、そもそもこの廃屋が空家と見なせるかどうかの問題もあります」

「どういうことですか」

「国の法律の中で、空家の定義は『概ね一年以上、居住その他の使用がされていないこと』とあるんです。で、通常の住宅ならば『住んでいない』ことをもって空家と言えるんですが、今回のものがもし倉庫だとすると、中に物が入っていれば『倉庫として使用している』と見なされる可能性があるんです」

「うーん、確かに倉庫だとは思います。でも人の出入りはずっとないですよ。それって放置されてるってことじゃないんですか」

「その辺りは個別の事情にもよりますので何とも言えないですが……。それで、空家じゃないとすると、市としてもあくまで所有者に対処を『お願いする』にとどまらざるを得ないんです。空家であれば法律に基づいて行政勧告や命令、場合によっては代執行までありうるんですけど、たとえどんなにボロボロでも、結局個人の財産になるわけですので」


 実はこのことは、空家対策がなかなか進まない問題の本質ともいえるのではないかと尊は思っていた。空家とはたとえどんな状態でも不動産であり、財産である。個人の財産権を公共の福祉のために制限することは、当然慎重な判断が求められる。そのため空家ならば片っ端から公権力でなんとかしてしまう、という方針は難しく、個別の案件ごとに所有者と折衝するところから始めざるを得ないのだ。

 時間がかかるのも当たり前だった。

 

 山﨑は尊の説明に、少し残念そうにため息をついた。


「そうなんですか……。わかりました。でもとにかく、所有者を探してお願いするところまではやってもらえるってことでいいんですね」

「はい、それは大丈夫です。なので所有者がきちんと対応してくれるようなら、案外すぐに片付く可能性も勿論あります」

「それじゃそのようにお願いします。またしばらく様子を見てみて、変化がないようなら改めて相談に来ます」

「承知しました。もし何かありましたらご連絡ください」

 尊は名刺を取り出すと山﨑に渡し、それから思い出したように付け加えた。

「そうだ、山﨑さん、念のため所有者について山﨑さんの方で聞き込みされた方だけ教えてもらえますか。こちらで調査するときの参考にしますので」


 山﨑は頷くと、もう一度地図を広げ、何軒かの名前に丸を付けていった。


「ああ、お隣も聞かれたんですね。廃屋の位置からすると一番知ってそうなところですけど、ダメでしたか」

「そうなんですよ。私も最初お隣の持ち物かと思ってたくらいで、最初に聞いたんです。ヒグチさんって方ですけど、その方もうちが家を建てる前の年にやっぱり引っ越してきたそうで。昔のことはわからないみたいでした」


 尊が地図を覗き込むと、山﨑勇樹の名前の隣にヒグチマサト、と記載された家があった。名前がカタカナなのは表札がローマ字表記だったりするからだろう。この住宅地図ではわりとよくあるケースだ。山﨑に尋ねると、苗字は樋口と表記するらしい。下の名前はそもそも知らない、とのことだった。地図をよく見ると樋口の家は、母屋らしき建物を取り囲むように小さな四角がいくつか描かれていた。それを見て尊はおや、と思った。


 この樋口邸のような形式は市内に昔からある農家住宅でよく見られる。母屋の他に農機具倉庫や作物貯蔵庫、外トイレといった細かな建物が広い敷地内に配されている形だ。当然このような場所に住んでいるのは、昔からそこに住んでいる家系の者が大半だった。


「最近引っ越してきたんですか?ここ、いわゆる農家住宅ですよね」


 尊が尋ねると、山﨑は少し首を傾げた。


「そうなんですか?私はあんまりわからないですけど……でもそうですね、確かに敷地も広いし、昔からある農家って感じですね」


 とはいえ、例えばそこに住んでいた高齢者が亡くなり、跡取りがいなかったので近い親戚の者が住むことにした、というケースも考えられる。いずれにしても最近来た者であれば、廃屋が実は自分の敷地にあることを知らなかった、という可能性もありうるだろう。


 尊は樋口の名前を地図上でもう一度丸く囲った。まずは土地の境界を確認するところから始めた方がよいか、と考える。


「それではいずれにしても、一度現地を確認させていただいて、それから調査を進めます。場合によっては建築指導課に空家対策として引き継ぐかもしれませんがよろしいですか」

「はい、わかりました。よろしくお願いします。あ、進捗の報告とかは特に必要ないです。お忙しいでしょうし、また様子を見てこちらから連絡します」


 そう言うと山﨑は席を立ち、一礼して相談室を後にした。どうやら同行も必要ないから、あとはいいようにやってくれ、ということらしい。何にしても一度現場を見に行って、方針はそれから決めよう、と尊は思った。

 


 翌日の午後、尊は公用車で山﨑の言っていた廃屋に向かうことにした。地図上での廃屋の位置の再確認と写真撮影が主な目的である。このところ色々な相談者を運んでくる市道を走っていると、時折大型のトラックとすれ違う。センターラインのない幅の道路なのでその度に少し緊張した。これだとトラック同士がすれ違うには徐行する必要があるだろう。子供も通る道でこれは確かに危ないな、と尊は運転しながら思った。


 現場は池川町との境になっている山に入ってすぐの、坂の途中にあった。このあたりはリンゴ畑が多く、それを所有していると思われる農家もいくつも残っている。その大半はかなり古ぼけており、中には空家となっているのだろうか、庭草が伸び放題のところや、壁が剥がれて落ちているようなものもあった。


 山﨑の家はすぐにわかった。周辺では珍しい、北欧風の洒落た造りの新しい家で、屋根から薪ストーブのものらしい煙突が覗いている。今通ってきた市道沿いも宅地開発が進みつつあるあたりでは何軒か見かけたが、坂道を登り始めてからこういう家を見たのは最初である。


 山﨑邸の庭に公用の軽自動車を停める。事前に山﨑の携帯に電話を入れ敷地に入る許可をもらっていた。山﨑夫妻はどちらも外出しており留守だが勝手に入ってくれて構わない、とのことであった。


 車を降りると涼しい風が吹いてきて、尊は思わずズボンのポケットに手を突っ込んだ。それから家の裏手に向かって歩を進める。ふと隣を見ると、そこもやはり昔ながらの農家住宅だった。ここが樋口邸ということになる。地図を見ながら想像した通り、広い敷地に母屋と農機具庫や外便所が点在している。


 ただ一つ意外だったのは母屋がきれいだったことだ。最近改修をしたのか、本棟造りの立派な日本家屋といった風情である。リンゴ農家というのもきちんとやれば儲かるのだろうか。将来退職したら農業をやるというのも悪くないな、と尊は考えながら山﨑邸の脇を通り過ぎ勝手口に出た。


 顔を上げると目の前には一目見てわかるような廃屋が建っていた。なるほどトタン板が飛んできたというのも頷ける。なにしろ屋根はあちこち剥がれて一部は穴が開いており、ささやかな秋風が吹くたびに辛うじて屋根に残ったトタン板がパタパタと音を立てて揺れている有様だった。


 壁面には掃き出し窓のような背の高い窓が並んでいるが、あちこちひび割れており、中の一枚は穴が開いている。さらに躯体が歪んでいる影響か、サッシそのものの上下にも隙間が空いており、もはや壁の用をなしていない状態だった。


 よく見ると窓ガラスの向こうには埃を被ったリンゴ箱がいくつも積まれているのが分かる。内部の壁際には脚立や剪定ばさみのような道具類が立てかけてあった。尊は外観や窓から見える範囲を何枚もカメラに収めながら、これだと「倉庫として使っている」と主張されれば空家として指導するのは難しいかもしれないな、と舌打ちした。


 それから地面に境界となりそうな構造物を探した。境界杭は流石に見当たらなかったが、山﨑邸との間には細い水路が流れていた。古いものだが一応コンクリートのU字溝が並んでいる。一方で樋口邸との境と見られるあたりは、樋口の敷地の生垣が周囲を囲っている他は何も見当たらなかった。生垣が恐らく境になっているのだろうが、何しろ生垣は生物である。正確な境界は公図を見てみないことにはなんとも言えなかった。


 続いて背後の山﨑の家の勝手口を観察する。勝手口の上についている電灯のカバーは、新しい家にあっても特に新品であることが尊にもわかった。これが割れたという電灯だろう。勝手口の横には今回の相談の原因となったらしいトタン板が横たえてあり、飛ばないように大きめの石が載せられていた。一応、証拠物品というつもりらしい。


 一通り調査を終えた尊は、帰る前に念のため樋口の家を訪ねてみることにした。おそらく山﨑が聞いた以上の情報は得られまいが、それでも何かヒントがあるかもしれない。


 山﨑邸の敷地を出て、市道を生垣沿いに少し進む。大きめの庭石が入り口の両脇に据えられて尊を出迎えてくれた。中に足を踏み入れると、広い敷地にも関わらずきれいに手入れがされているのが目に入った。入って左手の奥の方には広い空間が開いている。土に付いている微かな轍の跡から見てそこが駐車スペースのようだったが、あいにく車は停まっていなかった。


 これは留守かな、と思いながらも尊は母屋の玄関を目指す。尊が予想した通り、母屋の表札にはHiguchi Masatoとローマ字で住人の名が書かれていた。どうやら昔からある表札の上に手作りで貼り付けたらしい。立派な日本家屋とアルファベットのアンバランスが面白い。もしかすると宅内はいわゆる和モダンのような様式に改装されているのかもしれないな、と尊は想像した。


 玄関チャイムを二度鳴らしたが、やはり樋口は不在のようだった。諦めて引き返し、敷地から出たところで突然声を掛けられた。


「おたく、樋口さんのご家族?」


 尊が顔を上げると、サングラスをしたやや小太りの男がこちらを見ている。


「いえ、違います。私も樋口さんを訪ねてきたんですが、お留守のようで」

「そうですか。これは大変失礼しました」


 男はやけに慇懃に謝り、そのまま入り口を通り過ぎて行った。尊の前を通り過ぎるとき、饐えたような臭いが漂った。男は短髪に刈った頭を少し掻きながらそのまま去っていった。


 どうも胡散臭い男だったな、と尊は思いながら今度こそ公用車に乗り込みエンジンをかけた。もっとも、自分も名札を下げていなかったら周りからどう見られているか、怪しいものである。尊は、以前名札を忘れたときに現場でやくざに間違われたことを思い出しながら車を発進させた。

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