第2話

 梓警察署の中は意外なほどのんびりとした雰囲気が漂っていた。日差しが暖かいせいもあるのかもしれない。一階の窓口で免許証の更新のために並んでいる市民も、皆一様に眠そうな顔をしている。


 尊が相談室を訪れた石川から話を聞き、やはり警察に行きましょう、という話になったのがつい先ほどのことであった。それで石川からできれば同行してほしい、と言われ、着いてきたのである。警察署なんて行ったら、私緊張してうまく説明できないと思うんです、というのがその理由だった。


 署の中に入ると尊は手近な窓口へ近づき、職員に声をかけた。


「すみません、恐喝とか脅迫みたいな事件の相談は刑事課ですか」

「具体的な内容にもよりますが、通常はそうですね。二階の向こうの端にありますよ」


 窓口にいた中年の女が、だいぶ怠そうな口調で案内をしてくれた。いでたちからすると臨時雇いの職員だろうか。尊は石川を伴って示された方にある階段へと向かった。窓のない階段室に入ると先ほどより多少ひんやりとしているように感じられた。


 警察署には何度か来たことがあるが、刑事課は初めてである。普段は生活安全課や会計課などに出向くことが多いため、尊は少しわくわくしていた。やはり自分よりも数段いかつい男が出てくるのだろうか。刑事ものの小説やドラマが好きでよく見ているだけに、実際の刑事とはどんなものだろうか、と階段を登りながらあれこれ想像をした。


 刑事課の窓口はすぐにわかった。何人ものスーツ姿の男たちがパソコンに向かったり電話をしたりしている。ただ、思ったほど殺伐とした雰囲気でもない。大きな事件が起きていないということかな、と尊は一人で納得し、すみません、と手近にいる刑事に言った。


「ヒキ、窓口にお客さん。対応頼めるか」


 尊の声を聞いた中年の男が部下らしき刑事に声をかける。


「あ、わかりました」


 そう答えて奥からやってきたのは、女性の刑事だった。しかもかなり若い。新卒で採用されたばかりだろうか。大きな目がくりくりとしてなかなか可愛らしい顔立ちだった。言われなければ刑事だとは思わないだろう。


「こんにちは。今日はどうされました」


 ヒキと呼ばれた女性刑事が窓口まで来たところで、尊はワイシャツの首元に下げている名札を手で持ち上げ、


「お世話になっております、梓市役所ワンストップ相談室の杏です」


 と名乗った。


 相手も、刑事課のヒキです、と自己紹介をする。ヒキというのはあだ名などではなく本名ということらしい。尊は頭の中でいくつか字を思い浮かべ、「日岐」か「日置」かな、と見当をつけた。どちらも市内に何軒かある苗字で、何かの折に見かけた覚えがあった。


「お忙しいところすみません。この方、石川さんとおっしゃる方で、うちに相談に見えたんですが、内容からして警察にご相談いただいた方がよいかと思いましてね」


 挨拶が済むと早速尊は説明を始めた。


「ではあちらの部屋へどうぞ」


 刑事はそれだけ聞くと別室に尊たちを促した。それから手帳とペンをデスクから取り、尊たちの後について相談室と掲げられた部屋に入った。

 狭い室内で並んだ二人の前に机を挟んで女性刑事が腰を下ろした。席に着いて手帳を広げたのを見て、尊は説明を始めた。


「こちらの石川さんですが、最近脅迫のように取れる不審な電話を受けたということで、市のよろず相談室にお見えになったんです。内容を聞くと警察に相談した方がよさそうだったんで、お連れしたような訳です。よろず相談室では紹介先の機関へ同行する伴走支援ということをやってるもんですから、ご本人に確認したところお願いしたいということだったので私も同席しています」

「なるほど、そうですか。ではまず石川さん、お名前をフルネームで教えていただけますか。それからご住所とご連絡先」


 刑事が石川に尋ねると、石川は少し迷った後で、石川登紀子です、と名乗り、続けて住所も伝えた。


「ありがとうございました。この住所からすると……東小の近くのあたりですね。それで、電話というのはどういう内容でした?」

「そうですね、細かいところまでは覚えていないのですけど」


 と石川は再び迷いながらも言葉を続けた。


「私の家、私の父が若いころに建てたもので大分古いんですが、まだしっかりしていますしできる限り綺麗にしているつもりです。ですが電話の人は、『そんなボロ家にいつまで住んでいるつもりだ』とか『さっさと土地ごと売り払った方がいい』とか言うんです。それから『早く手放さないと火事でも起きたらどうするんだ』とも。あと『瓦が落ちて人に当たったりしたら損害賠償になる』みたいなことも言っていました」

「ちょっと待ってくださいね。電話を掛けてきていきなりそう言ってきたんですか」


 刑事が確認する。どうも警察に来るので不安でいっぱいになっているせいか、石川の話の脈絡が掴みにくかったらしい。確かに尊が聞いていても、市役所に来た時よりも話がごちゃごちゃとしていた。


 もっとも普通に生活している人間が警察の、しかも刑事課に相談に来るというのは人生で何度もあることではないから、それも無理からぬことだろうな、と尊は二人のやりとりを聞きながら思った。


「いえ、最初は『あなたの住んでいる土地と建物を売ってほしい』という感じでした。私はやはり亡くなった父の思い出の家でもあるし、売る気はありません、と断ったんですがしつこくて。それでしばらくやり取りしているうちに……」

「さっきのようなことを言われた、と」


 刑事が引き継ぐ。石川は頷いて更に続けた。話しているうちに少しずつ緊張がほぐれてきたようだった。


「最後には、『このままだとどういうことになるか楽しみにしていろ』と言われました。私、両親は亡くなっていて夫とは恥ずかしい話ですが離婚して独り身です。子供も名古屋の方へ嫁に行きましたので中々相談もし辛くて」

「それで市の方へ問い合わせたということでした」


 今度は尊が話を継いだ。それから石川の話とあわせて、市道の拡張計画についても説明する。拡張工事が想定される周囲の土地の所有者から、何件か地上げ行為のような不審な電話などの問い合わせが市に寄せられている、というような内容をかいつまんで説明し、


「最初は警察と市役所と迷ったそうですが、なんといいますか、その、警察署は少し行き辛いようでしたので……」


 と少し語尾を濁して話を締めくくった。多少失礼かな、とも思ったが、うまい言い方が思いつかなかったのだ。


「いや、それはそうでしょうね。皆さんそうですからお気になさらず」


 刑事はにこやかに石川に言った。一通りの説明が終わったからか、それで石川も肩の力が抜けたようだった。あるいは小動物のような女性刑事の笑顔に癒されたのかもしれない。


「とにかくお話はわかりました。ええと石川さん、電話があった時間は覚えていますか」

「一昨日の夜八時過ぎだったと思います。ドラマが始まってしばらくしてからだから、八時十分とかそのくらい」

「相手は男の声でしたか。何か声の特徴とかは」

「男です。特徴は……そうですねえよくあるような声でしたけど……少し掠れていたような気もします。私と同じくらいか、もう少し若いような感じでした」

「方言とかはどうです?」


 刑事は手帳にメモを取りながら更に続けた。


「特にわからなかったです。標準語だと思います」

「ご自宅の電話にかかってきたということですよね」

「そうです。でも非通知と画面には出ていました」


 これはナンバーディスプレイのことだな、と尊は頭の中で情報を補完した。当然相手もそれくらいは想定しているだろうから、それは手掛かりにはならないだろう。刑事は手帳から顔をあげ、今度は尊たち二人の顔を交互に見ながら言った。


「状況はわかりました。悪戯の可能性もなくはないですが、やはり脅迫事案と考えていいと思います。ただ、大変申し上げにくいんですが、この状態だと警察で捜査しても犯人にたどり着くのは非常に難しいです。当面の対応として、石川さんのお宅の周辺のパトロールを強化するよう交番に伝えておくようにしますが、もし石川さんがそれでも、ということであれば被害届を提出していただいて捜査することもできますけど、どうされますか」

「いえ、そこまでは大丈夫です。パトロールしていただければ、とりあえずはそれで」


 と石川が答えた。


「わかりました。可能であれば、電話の表示が非通知や知らない番号の時は一切取らない、というのも手だと思います。これは今回の件だけじゃなくて特殊詐欺なんかにも有効です。あるいは常に留守番電話に設定しておいて、メッセージを確認してから石川さんの方から折り返すようにする、とかですね」

「ああ、そうですねえ、そうしてみます」

「あとはご自宅の周辺で不審な人を見かけたり、また同じような電話がかかってきたら迷わず警察に相談してください。怖いところじゃありませんので」


 刑事はそう言ってもう一度微笑んで見せた。つられて尊も少し笑った。友人などからは、お前は黙ってるとヤクザだが笑うと地蔵みたいな顔になるな、とよくからかわれたものである。ただ、少なくともヤクザ風の印象のまま初対面を終えるのは避けたかった。



 相談室を出ると、石川は来た時よりも軽そうな足取りで、では私はこれで、と帰っていった。思えば女性の一人暮らしで、あのような電話を受ければ恐怖を感じて当然だろう。相談できる相手も身近にいないのなら尚更である。だからこうやって話を聞いてもらっただけでも少し安心したに違いない。


「では私もこれで。どうもありがとうございました」


 尊もそう言って帰ろうとした。名残惜しい気もしたが、長居しても仕方がない。しかし刑事にあの、と呼び止められた。


「一つお願いがあるんですが、ええと……」


 そこで刑事は少し言葉に詰まった。ちょっと困ったような顔をして尊の胸元あたりを見ている。それで尊は事態を察した。自分の苗字ゆえにこういう反応は慣れている。


 名札入れを開けてそこから名刺を取り出して渡す。相手が受け取ると、


「いや、名刺もお渡しせず大変失礼しました。ワンストップ相談室の杏です」


 と二度目の自己紹介をした。渡した名刺にはきちんと振り仮名も振ってある。それで少し相手もほっとしたような表情を見せた。


「あ、いえ、私の方こそ失礼しました。えっと、カラモモ……さん?珍しいお名前ですね」

「よく言われます。読めない、とも」


 尊は笑いながら言って、少し頭を掻いた。刑事も少し慌てたように手帳を開き、何枚か挟んであった名刺を一枚渡してきた。


「刑事課刑事第一係、巡査の日岐希実ひきのぞみです。私の方もよく、珍しい苗字だと言われます」

「ああ、でも市内で何軒か見かけたことあるな。出身はこちらですか?」


 尊は先ほど思ったことを口にした。漢字は予想通りである。


「いえ、北信の方です。でも祖父の代までは隣のM市に住んでいました」

「ああ、なるほど」


 尊は名刺と希実の顔を見比べながら頷いた。


「ところでお願いというのは」

「あ、ごめんなさい。えっと、さっき杏さん、他にも何件か同じような相談があったって言ってましたよね」

「ああそうですね。二、三件あったって聞いてますよ」

「それ、詳しい情報とかいただけませんか。相談者の住所だけでもいいです。パトロール強化に当たって参考にしたいので」

「わかりました。個人名や番地まで出せるかはちょっと上に確認してみますが、少なくともおおよそどのあたり、という程度なら問題ないです。メールでいいですか?」

「それで大丈夫です。よろしくお願いします」


 希実はそう言って頭を下げる。


「しかし女性の刑事さんというのは珍しいですね」

「うーんそうですね……まあ他にもいるにはいますけどね。確かに少ないです」

「しかもこれだけ若い方は初めて見ましたよ」


 刑事というのはある程度経験を積んだベテランがなるものだとなんとなく先入観で思っていた。新人の刑事というのもいるということか。見た目だけなら高校生と言われても信じてしまいそうである。


「あの、失礼ですが、杏さんておいくつなんですか」


 尊が色々と考えを巡らせていると、希実も同じようなことを考えていたらしく、そう尋ねてきた。


「私ですか?今年で二十八です。見た目は三十五くらいに見えますよね」


 尊は自嘲してみせた。実際、市役所に入庁して最初の年から、新人には見えないとか中途採用かなどとしょっちゅう聞かれたものである。自分でも歳よりは老けて見えるな、というのは嫌でも自覚していた。

 しかし希実から返ってきたのは実に意外な言葉だった。


「えっ、じゃあ同い年だ」


 それを聞いて尊は思わず敬語を忘れて聞き返した。


「あれっ日岐さんも二十八?」

「正確にはまだ二十七だけど、あとちょっとで二十八です。同学年ってことだよね?」

「そういうことになるね。でも日岐さんは逆に新卒って言われても違和感ないな」

「ああ、幼く見えるっていうのはよく言われる。杏さんは……なんていうか、落ち着いてるので年上かと思いました」


 尊は希実が敬語を使うべきか使わなくてもいいものか迷った挙句ごちゃ混ぜになっているのに気づき、可笑しくなった。


「またお世話になると思うけど、よろしくね」


 と希実が言い、尊は、


「あんまり警察絡みの案件ばっかりだとこちらも困っちゃうけどね」


 と笑うと、じゃあ、と言って今度こそ振り返って歩き出した。


 警察署の中に昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。早く戻らないと昼飯を食い損ねるな、と思い、尊は少し早足になりながら階段を下りた。ロビーの片隅では優良運転者講習のビデオが流れているらしく、独特なナレーションが聞こえてくる。そういえば俺の免許はいつが期限だったかな、と考えながら尊は署を後にした。

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