3
バレエを辞める。
辞めたいと考えた事は何度もある。
それはもう、数え切れないくらい何度も。
その度に浮かんだのは母の顔だ。
一度も笑顔にしてあげられなかったな…と。
頑張っていればいつか、あの人を笑顔に出来るんじゃないかと思っていたのかもしれない。
「アヤノさん…私、バレエ辞めていいのかな?
辞めて、他に何が残るのかな…。」
「カノンは好きな物や興味のある事はないの?」
バレエもピアノも「やりなさい」と言われてやってきたし、殆どの時間を費やしてきたから他の「何か」を聞かれても今更何も思いつかない。
「そうだ!チェロは?」
アヤノさんの提案に顔を上げると、彼女は優しく微笑んだ。
「チェロ…ですか?」
「そうよ!
だってカノン、チェロ好きじゃない。」
「でも、チェロは趣味っていうか、息抜き程度でしかやってないし…今から本格的にレッスンしたとしても同年代のプレイヤーには追いつけませんよ…」
自身なさげに告げると、
あら?とアヤノさんは首を傾げた。
「プロにならなきゃ好きな楽器もやってはいけない?そんなバカな話はないわよ。
音楽なんて所詮娯楽なんだから、好きに自由にやっていいの。
その自由な感性は誰の評価も受けなくていい、全てあなたの思う通りにしていいのよ?」
音楽は確かに娯楽だけど、クラシックは娯楽では済ませられないものなのに…あっけらかんと他でもないアヤノさんがいうのだから凄い。
思いがけない言葉に吹き出してしまう。
「ふふ。今の台詞、ショウジが聞いたらきっとひっくり返りますね!」
「あの子もね、技術的には申し分無いのだけど…もうちょっと気楽に弾けばいいのにと思うのよねぇ。
だって、楽譜通りってつまらないじゃない。」
「はは…その楽譜通りに弾けるって事がもの凄い事なんですよ?」
そうかしらねぇ?と困ったように腕を組むアヤノさんは、一人の名プレイヤーというより息子に音楽を心から楽しんで欲しいと願う母親の顔だった。
「ショウジは幸せですね、お母さんがアヤノさんで。
羨ましいです。」
「あら、あなただって私の娘よ。
あなたのオムツ替えて、離乳食だって食べさせてショウジと一緒にお風呂だって…」
「わぁぁぁっ!
そ、そこまで!その先は分かってるから言わないでっ!!」
私は恥ずかしさから慌ててアヤノさんの口を塞ぐ。
例え赤ちゃんの頃の話だとしても、思い浮かぶのは最近のショウジの姿なのだ。
「ンガッ、ごめん、ごめん、カノン!
そんなに恥ずかしがるとは思わなかったからつい…うふふ。」
アヤノさんは私の手を離すと赤面する私を揶揄うような悪戯な笑みで謝る。
まったく悪びれてないのがバレバレだ。
もう、アヤノさんってば!
あ!そうだ、最近のショウジと言えば!!
此処へ来た本来の目的を忘れていた、危ない、危ない。
「そういえば、アヤノさん。」
「ん?なあに?」
「この間出てた雑誌にショウジの写真と一緒に写ってた男の人って誰だか知ってます?」
私の問いにアヤノさんは「うーむ」と心当たりを見つけようと目を閉じて考えている。
そして何か思い出したみたいにパッと目を開いた。
「分かった、クラシック情報誌のやつね!
あの写真、上手く盛れてない?
ショウジがイヤイヤ写真を撮らせるから、どれも仏頂面だったのに、あはは…って、違うまた脱線しちゃったわね。
えぇと、彼はショウジの伴奏者をお願いしているヒロユキ君。
通称、ヒロね。」
「伴奏者…なるほど。」
ヴァイオリンのコンクールにはピアノの伴奏者が必要になる。
そうか、だから一緒に写り込んでたんだ。
「あら。
カノン、彼に興味がある?
そうよね〜、ヒロはハンサムだもんね!
分かるわぁー、私もあと30ぐらい若かったら彼に惚れてたかもしれないと思うの。
いやぁ〜残念ねぇ。」
私がふむふむと納得している間に、アヤノさんは違う方向で一人盛り上がっていた。
そして、聞いてもいないのに勝手に伴奏者の彼の話しを続ける。
「ヒロはね、スウェーデン出身なの。
6フィート1.62(187cm)の長身でスタイルよくてお顔もあの通り涼し気で色気漂うイケメンだし、性格はまぁ…アレだけど、とにかくクールで素敵な16歳、ショウジのルームメイトでもあるのよ!」
「へぇ、す…凄い人なのね。
ちらっとしか見てないけど、もっと年上かと思ってたから…」
本当にお気に入りなのか、鼻息荒くキラキラした目で語るアヤノさんに呆気に取られながらも知りたい情報が全て得られて良かった。
まぁ…性格はアレっていうのが気になるところではあるけど、我がクラスの女王へ報告するには充分だろう。
ヒロユキ…日本人ハーフなのかな?
かなり北欧とかドイツっぽい雰囲気だったと思ったけど。
「そうねぇ、百聞は一見にしかずだし!
一度、彼に会ってみなさい。
はい、って訳でコレどうぞ!」
「え?」
ウィンクと共に手渡されたソレはお願いしようとしていたチケット其の物だった。
「ショウジや彼が参加する訳じゃないけど、あの子たちは全員くるから、あなたも一緒に来なさい。」
あの子達とは、レインやルイ…そしてカナタの事を指しているのだろう。
そうか、よく考えたら皆んな来るよね。
その中に私が入れる訳ないじゃない。
幸いもらったチケットは1枚。
「ありがとう、アヤノさん。」
このチケットで素晴らしい演奏を浴びるのは私じゃないけど、これで少しは女王様も手加減してくれるはずだから助かるわ。
「どう致しまして。
それより、何か食べましょう。
ダイエットはもうお終いね!」
アヤノさんの親切を棒に振ってしまうのが辛くて、私はその後に出された食事を残さずに全て平らげた。
家に帰ったら吐いてしまうかもと不安だったけど、不思議と過食嘔吐の症状もなく無事に消化された。
そんな事は何年振りだろう。
大抵はまともに食べた物は吐いてしまうのに。
ベッドに入ってもお腹はほんのり温かくて満足感に満たされた。
それはきっと、私の中にある決意があったからだろう。
案外、呪いを解くのは難しくないのかもしれない。
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