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「本当に久しぶりね。

急にメールくれたものだから驚いたけど、会えて嬉しいわ。」


呼び出された部屋に入ると、アヤノさんはそう言って私を優しくハグした。

懐かしいゲランのミュゲがふわりと鼻腔を掠める。

アヤノさんはショウジの実母で、私の育ての母みたいな人でもある。


音楽から逃げている後ろめたさから勝手に彼女とも距離を置いていたから、連絡をするのにも緊張した。

アヤノさんは私を責めない人だと分かっていたのに殻に閉じ籠り過ぎたのか、近い人ですら信じられなくなってしまったのか。


アヤノさんの変わらないが香りに安心して、強張った肩の力が抜けたみたい。

そのままそっと彼女の背中へと腕をまわしてハグを返した。


「私も…会えて、嬉しい。

ごめんなさい、ずっと連絡を返さなくて…」


小さな子供をあやすみたいに背中を撫でる柔らかな手に、胸が締め付けられて涙が溢れそうになる。


「いいのよ。

こうして呼んだら、ちゃんと来てくれたでしょ?

それよりカノン、あなた少し痩せ過ぎじゃない?」


そう言って頬に触れながらアヤノさんは私の顔を覗き込んで心配そうに眉を下げた。


「あぁ…今、ダイエット中で…」

「はぁ?!」

「…え?っ、ちょ…っ!」


ダイエットというと、アヤノさんはすかさず私の腰を掴んで深く溜息を吐いた。


「あのね、ダイエットっていうのはこんなに痩せ細るまでする事じゃないの!

あなた身長いくつ?!

きっと、5フィート6.14(168cm)はあるわね…だとしたら136ポンド(62Kg)くらいないといけないのに、全然ないでしょ!!」


「…そんなに体重があったらバレエで跳べないよ。」


「だったら、バレエなんて、さっさと辞めちゃいなさいっ!

あなたの健康に支障がでるくらいならやらなくていいわよ…!」


「………」

その指摘に思わず俯いてしまえば、アヤノさんはそっと彼女の手を取って伺う様に肩を寄せてくれた。


「あなたがバレエを好きで続けているのなら、私だって応援するわ。

だけど…カノン、本当はあなた、バレエが嫌なのでしょう?

あなたはエレノアじゃないの。

だから、彼女の夢に囚われなくてもいいのよ。」


エレノアは私の母親の名前。

アヤノさんとエレノアは学生時代からの親友だ。

夫同士も学園の先輩後輩で同業だった為、私達が生まれる前から家族ぐるみの親交があった。

エレノアが産んだ子供のうち、自身にそっくりな娘の方に愛情が注がれていないのを不憫に思ったアヤノさんがその娘の面倒を買って出て自分の子どもと同じ様に愛情を注いで育てた。

それが私だ。


エレノアは若き美しいロシアの最高峰バレエ団のプリマだったが、そこで将来を約束された天才指揮者の青年と出会い恋をした。

女としても自信に溢れていたエレノアだったが、青年は彼女に靡かない。

躍起になったエレノアがどんな手を使って彼を落としたのかは分からないが次期に身籠り、見事青年との結婚を果たした。


子どもは夫が望んだ通りの男児だったが、誤算もあった。

産まれたのは双子、しかも、もう一人は女児だった。

双子は二卵性で男児は父親似、女児は母のエレノアに似ていた。

子どもは一人のみ、という夫の言い付けだが、妊娠中に双子と知らされたエレノアは出産までその事実を黙っていた。

知らせれば例えもう一人が男児だとしても、夫はエレノアに中絶を勧めただろうし結婚もしなかっただろうから。


それに、双子なら良く似た二人の子供を可愛がってくれるのでは?という淡い期待もあったのだろう。

そんな期待も虚しく、夫から蔑まされた哀れなエレノアは出産の負担が祟ったのかバレエも思うように踊れなくなってしまう。

プリマでなければ意味がないとバレエもやめて、代わりに息子を溺愛した。


息子は愛する夫に似た容姿と、音楽の才能を受け継ぎエレノアの理想通りに成長し続けた。

その子がいるから辛うじて妻の座に居られるのだと。


一方で娘は夫の関心を全く受けなかった。

元々、クラシック音楽界での女性飛躍は難しく期待値も低い。

息子のみを望んだのはそのせいでも在る。


自分と同じか、それ以上の才能が有れば娘だって認めらたであろうが残念ながら娘に音楽の才能は無かった。

人より少し出来るというくらいでは駄目なのだ。

他者との圧倒的な差が無ければ到底認められない、それがあの冷酷な夫の考えなのだから。


エレノアは持て余した娘が自身の容姿に良く似ている事から唯一、夫に認めさせることが出来るのがバレエだと思いつく。


それはいつしか、バレエを諦めた自身の身代わりとなり娘に英才教育を受けさせた。

本来、ヨーロッパでは幼児にトゥシューズは履かせない。

成長過程での足の負担をかけさせない為だ。

しかし、エレノアは早くから娘にトゥシューズを履かせてレッスンをさせていた。


毎日、何時間もレッスンさせど娘はプリマの開花を見せない。

目指すはロシアの最高峰、其処こそが世界一のバレエダンサーとして名を馳せる場所。


その域に達しないと分かったのは娘が9歳になった時だ。

早すぎる見切りだと思うか?

いや、人生をバレエに捧げて死にものぐるいでレッスンを受けたエレノアなら分かる。


娘には、その情熱がない。

母親に言われたから、叱られなくないから、一人になりなくないからバレエをやる。

娘が痛みに耐えてバレエをやっている理由がそんなくだらない事なのだと。


それからエレノアは疲れ切ったと言わんばかりに輪を掛けて娘に無頓着になり、レッスンですら他人に任せるようになった。


それが、私とエレノア…母の記憶だ。

父との馴れ初めや、産まれた経緯は酒に酔って母が絡む様に私に伝えた事柄だ。

父は最初から母を愛して無かったのだと子どもながらに思ったっけ。


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