第5話 プレリュード

雨は嫌い。

靴に水が入ると爪が剥れた親指の傷にしみて痛いから。


足を引き摺りながら街灯もない細くて薄暗い路地裏を抜けると、古い煉瓦造りのアパートメントに急ぐ。

一刻も早くこの湿った靴下を脱いで怪我の手当てをしたい。

錆び付いた手摺りを頼りに階段を上がり、私しか住んでいないアパートメントの部屋のドアを開けた。


真っ暗で静まり返る部屋に、ドサッとバレエ道具の入ったバッグを放り投げる音だけが響く。

「ただいま」なんて独り言でもいわない。

壁伝いに電気スイッチを探って部屋に明かりを点けると溜め息を吐いてダイニングの椅子に腰掛けた。


テーブルの上には使ったお皿やコップと一緒に救急箱も放置されている。

ずっと置きっぱなしになっている救急箱を引き寄せると中から消毒液と包帯を取り出した。

痛みを最小限にしようと恐る恐る靴下を脱いで、グロい親指を見た。

バレエを初めて13年、足はボロボロになった指先だけじゃなく骨格までも変形して醜くなっている。

爪なんてどの指も黒くなって殆ど死んでいるのではないだろうか。

それなのに、無理して負った怪我の痛みだけはいつまで経っても慣れないものだ。


(あなたはバレエの才能もないのね。)


消毒液がしみる痛みに顔を歪めれば、いつか言われた言葉が頭の中に過った。

私はグッと唇を噛み締めて足に包帯を巻いていく。

一粒でも涙を流してしまえばあの人が私に言った言葉を次々と思い出してしまいそうで怖い。


あの人は8年前に私を捨てて他の男の元へと行ってしまった。

手に入らなかった夫の愛情と娘の才能。

正しい家庭を築く為に犠牲にした最愛の息子を心残りにして手に入れた新しい息子は6歳になったと聞いた。


さぞ可愛いでしょうね。

貴女が溺愛していると、彼は困った様な笑みを浮かべて私に話してくれたわ。

こうして目を瞑ると浮かんでくる。

陽射しがたっぷりと注ぐ木の下で貴女は貴女の愛する息子二人に挟まれて幸せそうに笑っているのが。

貴女の中に私はいない。


それでもバレエを続けているのは何故なのかと自分でも疑問に思う。

言い付け通りの味気ない食事を摂り続けて数グラム単位ですら太らない様に気をつけているのは一体何の為なのか。


誰も褒めてくれないピアノを練習しているのは?

必死に好きじゃない勉強をしているのは?

全ては家の為だと植え付けられた呪いのせいじゃないか。


父も母もとっくの昔に私に見切りを付けてロンドンの片隅に追いやって捨てたのに。

まだ、私に血の滲む努力を求める。

それすら出来ないのなら「死ね」と言われるみたいに。


ラジオを付けると明日も雨だと天気予報が伝える。

うんざりして他チャンネルにすれば、ヴァイオリン協奏曲ニ長調が聴こえてきた。


交響楽団の紹介と父の名前が耳に届く前にラジオのスイッチをOFFにしてベッドに倒れ込んだ。

雨と汗に塗れた身体で眠ってしまえば寝具が汚れてしまうけど、どちらにせよ元から散らかった汚い部屋なのだから今更気にしてもしょうがない。


昔の嫌な記憶が浮かんだのだって心身共に疲れているからなのだ。

今夜はこのまま眠って、朝にシャワーを浴びればいい。

そうしたら、またいつもの自分に戻るはず。


そう、"能天気馬鹿のカノン"に…。

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