まえがりのぴろろん
りゅうを倒すにはお金がかかる。追い払うのはそれより、安価で済む。
だから、竜払いという仕事がある。
その酒場の西側には古びた大型の鍵盤楽器があった。壁にそって置かれている。そこは店内でも、もっとも光のあたらない場所だった。
夜、訪れた店内の席は多くの客で埋まり、ほどほどに、にぎわっていた。外は寒いけど、店の中はあたたかい。客の中には冷えた身体を刺激的にほぐすため、つよい酒を飲む者は多かった。
おれが座ったのは店の西側に位置する席だった。鍵盤楽器のすぐそばである。そこしか、席があいてなかった。
この店に入るのは三度目である。夜晩くでも、ちゃんとした食事が食べられる店だった。他の酒場でも食べられないこともないけど、ここの料理は味がいい。麺麭も煉瓦みたいにかたくない。
三度訪れて、わかってきたことは、この店を切り盛りしているのは、一人の女性であるということだった。他にも数人店員がいるけど、彼女がこの店の主らしい。彼女は三十代後半あたりで、金色の髪をまとめ、目鼻立ちがはっきした人だった。眉毛は太い。店内での動きは無駄がないけど、どこか、つねに虚ろな表情をしていた。
おれはいつも、この西側の鍵盤楽器のそばの席に座る。ここは、いつも誰も座っていないから、すぐに座れた。にぎわっているのは、だいたい店の南側だった。
鍵盤楽器の付近の席に座ると、必ず、店の主人である彼女が注文を取りに来た。声が小さい人だった。注文すると、彼女が料理も運んでくる。
料理が運ばれてくるのを待ちながら、おれは大型の鍵盤楽器を眺めた。こういった大きな楽器は陸路で運ぶのが大変なので、内陸部で見かけるのはめずらしい。いっぽうで、港町ではよく見かけた。代わりに内陸部では、運搬が安易な楽器を見かけることが多い。
ここに置いているということは、店内で演奏したりすることがあるのだろうか。
そこで、店主の彼女が料理を運んで出来た際、聞いてみた。
「あの、この鍵盤は」
視線を鍵盤楽器へ向けつつ、問いかけた瞬間、彼女の表情が変わった。そして、運んできた汁椀を床に落とした。液体の一部はこちらの靴へかかった。
そして、彼女は虚ろな眼差しで、じっと、おれを見下ろす。
やがて、彼女は「…………ごめんなさい」と、小さな声を発した。「………すぐに、あたらしいものを………すぐに………」
床にしゃがみ、手早く片付けて、厨房へ戻ってゆく。
いまの反応はいったい。鍵盤について、訊ねたことが彼女を動揺させたようにも見える。なにか、まずいことを聞いたのだろうか。
そう考えていると、彼女があたらしい料理を持って、戻って来た。
さっきのことがあったし、もう聞くのはよそう。そう決めて、黙っているおれの前へ、彼女が料理を置く。
すると、彼女がふたたび、汁をこぼした。おれの靴にかかる。
いや、今回は、なにも聞いていないはず。
見返すと、彼女は「ごめんなさい………すぐに、あたらしいものを………すぐに………すぐに………」と、告げ、ひき返してゆく。
聞いたら、こぼすし、聞き直さないくても、こぼすのか。
なら、どうすれば、彼女が汁をこぼさずに済むんだ。
おれは考え、そして。
鍵盤楽器を弾いてみた。弾けないけど、弾いてみた。ぴろろん、ぽろろん、と。言葉が無力、そして、無言もまた無力かもしれない、けれど、音楽なら、乗り越えられるかもしれない。ぴろろん、ぽろろんろん。
彼女が三度料理を持ってやってきて、言った。
「ああ、それ………呪いの楽器なんです………弾いたら………ちょっとした不幸になります………」
うん。
言われたら人類の大半が困るしかなにことを言われた。
で、おれは「いや、だとすると、すでに汁を二回こぼされ、不幸のまえがりしたので、だいじょう」と、言い返した。
すると、ふらっと身体を揺らした彼女から、汁は三度こぼされる。
しまった、まえがりでは足りなかった、か。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます