とくべつなあさ(2/5)
この大陸を去る、カルの決断は突然だった。
それを告げた後は、笑顔だった。宿へ戻ると世話になった宿屋の主であるリンジー、彼女へもそれを伝えた。
リンジーは慌てず、やがて微笑んで「わかりました」と、いった。落ち着いていた。宿を
営んでいるし、人と別れることは彼女の生き方に組み込まれているからかもしれない。おれの方は、かなり動揺していた。
とはいえ、その動揺は表に出さないようにたえていた。
ただ、あまりに別れは突然で、しかも、もう夕方だったためか、リンジーは「ごめ んなさい、あした行ってしまうのに、急だから特別なお料理も用意できなくて」と、いった。けれど、すぐに「じゃあ、あした、特別な朝ごはんを用意しますね」と続けた。
「ありがとう、リンジーさん」
カルはお礼を述べて笑顔でリンジーを見上げた。
その様子をそばで眺めながら、いっぽうで、おれは思い出していた。カルの姉、アサの腕にみえた、火傷のような跡。
あれはいったい。
そして、夫と紹介された、オオムという楯を背負った男。あの男は、竜払いだった。まっとうな竜払いなら、相手が竜払いかはわかる。
ふたりは夫婦。
あのふたりが。
「ヨルさん」カルに話かけられ、我に返る。「ぼく、部屋にもどって、帰る準備をします」
おれは「そうか」と、うなずいた。
その場から宿屋の階段をあがるカルを見送る。
同じように見送っていたリンジーが「そうそう、ヨルさん」と、いった。「お客さん、来てますよ」
「客、ですか」
「はい、うちの隣の酒場にいるそうです」
「客」
竜払いの依頼か。けれど、それならリンジーもそう教えてくれるはず。なのに、客という漠然と言い方をした。だとすると誰だろう。と、思い当たるふしを探しつつ、 リンジーへ「ありがとうございます」と伝えた。
リンジーは微笑んで「はい」と、いった。
そして、なぜか、そのまま微笑で、ずっと見て来るので、なんとんなく、こちらも見返す。
しばらくして、おれは「あ、ちょっと行ってみます」と、伝え、剣を背負い直しつつ、宿を出た。
外はもう、夕方が終わり、暗くなっている。おれは歩いて宿屋の近くの酒場へ向かった。酒場へ着き、店内へ入る。客はほとんどいなかった。適当な席について、飲み物を頼むと、やがて誰かが近づいて来る気配を感じた。
見ると、傷んだ黒い背広を着た男だった。三十代くらいか、背が高く、細く、異様に手足が長い。
顔色も妙に悪く、太陽光を浴びていない気配のある、不健康そうな男だった。
「あ、あ、その」男はおれに近づき、しゃべりかけようとしてきた。けれど、人と接するのが苦手なのか「あ、あの、あお、そ、その………あお………」と、放つべき言葉が定まらないらしい、視線もあちこちへ向ける。ただ、おれとだけ、絶対に目が合わせようとしない。
なんだろうか。
「ああ、あの、あお、あお、あおー………」
男は、荒々しく自身の髪をかき乱す。
「ギリアーム………」と、いった。「ギリアーム………です、あの、俺は、ギリアーム…………ギリアーム、あ、あお………なまえ、俺の名前………ギリアーム」
名を聞いてもおぼえがなかった。
彼に流れをゆだねると、時間がかかりそうなので、こちらら仕掛けてみよう。
「………ギリアーム、さん?」
おれが名前を呼ぶと、男は少し喜んだ。「お、おっと、は、うん、そう、あお………そう、俺は、ギリアーム………です、ギリアーム、です。あ、あなたは、ヨルさん、ヨルさんですよね………」
「ええ」おれは肯定した。「そりゃあもう」
「あ、ま、そうですよね、あの、あお………ヨルさんだ、ヨルさん、うん」
「で、なにか、おれに要件が」
「いえ、あの、あお………」男は顔を左右にふって、それから右手を頭の後ろへ添えながらいった。「と………とりあえず………とりあえずのところ、は………いまは……顔………俺の顔だけ覚えておいてもらおうと………それがいいかなと」
顔だけ、覚えておいてもらおうと。
狙いはなんだ。
いや、男には殺気はない。
ないんだけど。
「………あの、あお………あまり、その、したことがないんです………こー………こういの。じゃ、あの、そういうことで、ね………そういうことで………はい、あー、では」
ふわふわしたことを言い、男はもっさりとした動きで頭をさげ、行ってしまった。酒場も出ていった。
はて、あの男は、いったい。
酒場から、宿屋へ短い帰路を歩く。
完全に夜になっていた。見上げても、星は見えず、円となった月の紅い輪郭だけが、にじんだように見えた。
あした、カルはこの大陸から去る。だから、最後の夜だ。
宿の扉の前には、光源が吊るされていた。この暗い町で、唯一のほっとする光だった。リンジーが夜になると、いつも吊るしている光りだった。
その明かりが今夜は消えている。
そして、扉の前に、男がいた。背はおれと同じくらい。
歳も同じくらい、二十四、五か。
腰には剣、そして、正面からでもわかる、背中には背負った楯が見える。
オオム。
カルの姉、アサの夫と紹介された男だった。口を閉じて、そこから、おれを見ている。ただ、見ている。感情の読み取る余地を微塵も与えない顔をしていた。
オオムは無言のまま右手で剣を抜いた、刃が白い。
その剣は竜払いが竜を払う時に握る、特別な剣。
背中の楯はそのままだった。
遭遇してから、約十秒後だった。オオムはいった。
「目が気に食わない」
棒読みだった。
直後、刃が来る。上から下へ。
おれは反応した。
ただ、反応しただけだった、向こうの一振りは鋭く、はやい。ふつうに切られた。右から肩から左の腹へ、刃が、流れて行く感触があった。直後に、背中から凄まじい勢いで地面へ倒れ―――
かと思った。
突如、おれは何かに外套の襟首をひっぱられ、強い力で押し倒される。そのため、オオムの刃は身体までは届かない、斬られたのは外套の生地のみだった。
不意の出来事に、茫然とした。けれど、次の間には、身体は動いた。すぐに立ちあがり、間合いをとる。
おれは剣を背負っている。けれど、これは竜を払うための剣だった、対人戦闘のための剣じゃない。
とにかく、間合いをとる。
オオムは右手に剣を持っている。奴の持っているその剣も、竜払いの剣。
おれは相手と向かい合って、心の底から思った。この生命と、会話できる気がしない。
いまさっき、後ろへ倒されなければおれは終わっていた。
すると、オオムは剣を鞘へおさめた。それから背中から楯を外し、左手に構えた。
黒い楯。そして、わかった。その楯は竜の骨でつくられた楯だった。
楯を構えた奴が向かって来きて、楯でおれの身体をはじく。避けられなかった。暴れ馬にでも激突された感じだった。弾き飛ばされた先で、受け身をとり、立ち上がる。オオムは間合いを詰めていて、また楯ではじかれる。それを二回くりかえされた。
一回目は激痛だった、二回目以降は痛覚が機能することを放棄して、あまり何も感じない。しかも、世界がゆっくりと動いているように思える。
まずい兆候だった。身体が意識を手放しかけている。よくない流れだった。
いやまて。
まてまてまて。
こんなもん、竜に激突された時の方が、遥かに上だ。
と、最悪の経験がここで生命維持の装置として機能しやがる。
五度目の楯攻撃を回避した。すると、オオムは宿屋の扉に吊るされた明りのついていない光源を握り、おれへ向かって投げた。
おれはそれを右手で受け止めた。指の骨が粉々になったかと思った、けれど、粉々にはなっていない。
それから、平気な顔をしてみせた。
かくじつに、もうおれの外見はぼろぼろだった。
奴は動かなない。それだけの身体能力があるんだし、いつでも、どの瞬間でもおれを仕留められるだろうに、動かない。
力の差はとことん歴然だった。
ただ、ここで屈するのは無しだ。
顔をあげて、笑え、おれ。
それが出来ていたかはわからない。その直後、上からオオムへ何かが降って来た。
人型だった。奴を踏みつけに来た、オオムはそれを楯ではじく。
それは地面へ転がり「あ、あお、あっ!」と、あわてた声をあげた。
見覚えがある男だった。さっき酒場で会った、たしか、ギリアーム。
「しま、あ、不意打ち、が………あれ?」
ギリアームは立ち上がり、頭をかいた。
「あ、やっぱ、あお………あれかな? さいしょの…………たすけので………さ………さっち? かんづか………でも、あ、しりあっちゃったから………」
彼はこの場でなにかしらの葛藤とたたかいだす。
ふと、オオムが後ろへさがった。そして、闇が息を吸い込むように消えた。
「あ、しま、いなく、あ、あ、あ………」
オオムが消え、ギリアームはまいっているようだった。
「あ、かお………この顔? あお……」
そして、なにかをうったえかけてくる。
そこへ新しい気配がした。誰かが走って来る。
「やあああ!」と、声を上げて迫って来る。女性の声だった。「やあああちまってんじゃあああかあああ!」
二十歳くらいの小柄な女性で、頭に布をまいていた。
見知らぬ女性だった。わかることは、すごい元気だという程度だった。
ギリアームは彼女を見て「あ、あお………ソラべ」といった。
「逃がしたな、ギリアームぁ!」
彼女は彼の前へ立つと、犬歯をむきだしにして叱咤する。
「ソラ………ソラベ……あの、あお………」
彼女は「ふがああああ!」と、口から小山が噴火するような音を発した。わかりやすく憤慨している。
おれはというと、とりあえず、手にしていた光源を、扉の前へ吊るし直した。
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