かくかくしかしか
りゅうを倒すにはお金がかかる。追い払うのはそれより、安価で済む。
だから、竜払いという仕事がある。
かつて、この林を抜けると、麦畑が広がり、その先に町が見えた。
けれど、いまはない、すべて潰えていた。取り残された家々も、かなり綻んでいる。どれも誰かが住んでいる気配はなかった。
この大陸の空は、今日も灰色だった。この灰色の空は雨が降ると、夜のように暗くなる。そこだけが、変わっていない。
そこに立って見渡すと、星のちからが弱まっているよう気分になる、おげさだけど、この光景の中にいると、そんなふうに思えてきた。
これまで竜にやられた町は何度も目にしてきた。けれど、ここは竜に滅ぼされたわけじゃない。人がいなくなり、手入れされず、されど急速に自然に戻ることもなく。
とにかく。ここにも何もない。収穫できた情報はそれのみだった。
調査を見切り、引き上げるとしよう。
そのとき、ふと、林の奥から気配を感じた。ふたつほど。
獣か。そこそこ、大きい。
あと、人だ。
やがて林の奥が、がざ、と音がし、それが現れた。一頭の鹿である。
やはり、そこそこ、大きい。栗色に、流線形の入った毛並みである。雌だろうか。つぶらな瞳である。
すると、今度は同じ林の別の場所が、がざごそ、と雑な音がした。林の中から。六十代くらいの女性が現れた。全体的に、ふっくらした人で、いかにも、ふだんは町に住んでいる人が、戯れに森、および林へ入るときのような、そんな清潔感と、活発感のある服装をしている。
「あらー、まー、こんにちはー」
彼女はあいさつしてきた。じつに、きさくである。
そこで、おれも「こんにちは」と、あいさつした。
「あ、わかったわよー」女性はこちらが何か言葉を発する前にいった。「あなたも、鹿なのね」
「いえ、人間です」
すさまじい言いがかりを訂正した。
「うふ、あなたも鹿が好きなのね」
いって彼女は、ふふ、と微笑んだ。
鹿の話だったのか。おれが鹿だという因縁ではなく。
そうか。
おれは「鹿については」と、いって、林の奥に現れた鹿を見ていった。「ふつうの距離感の感情しか持ち合わせていません」
「わたしはねー」
彼女はおれの話を聞いていないような様子でしゃべった。
「鹿好事家よ」
「しかこうずか」
「鹿が好きなの」
その発表により、おれの中に発生した感情の変化は、零である。「そうか」と、最小限の生体反応だけ、示しておいた。
「今日も鹿に会いにね、この林に来たのよ。このあたりに人がいなくなってから、鹿がよく出るようになったのよね、穴場なのっ! 鹿好事家にとって、ここはね」
なるほど、だから、ここにいたおれも、おなじ鹿好事家だと思い、声をかけてきたのか。
「んー、でもね」彼女は続けた。「ひとくくりに、鹿好きっていっても、たくさん種類があるのよ、あなたご存じ? あのね、たとえば、鹿を見るだけなのが好きな人、それからー、鹿の生息地を調べるのが好きな人、あとあと、自分はこの鹿だけ、って感じで、一頭の鹿に決めて込んで好事活動に勤しむ人もいる、わー、けー」
わー、けー、の部分で、彼女は、おれの右肩を、たん、たん、と二度叩いた。
「で、わたしは、鳴き声専門」胸に片手を添えつつ、自己を情報を開示する。「通称、しかなき。鹿の鳴き声を聞くのが、す、き、な、のっ!」
今度は、四回肩を叩かれた。
そのとき、林の奥から、きゅん、と、ひどく甲高い声がきこえた。
そこにいた鹿が鳴いた。視線を向けると、さらに、きゅん、と鳴いた。
この人は、鹿のこういう鳴き声が好きなのだろうか。
と、思いつつ、彼女の方を見ると、彼女は立ったまま帳面を広げ、瞳孔が完全に開いたような目で、なにかを書き込んでいる。そして、きゅん、きゅん、という鹿の鳴き声を、筆を走らせ、文字起こしていた。
「いいよぉ、いいじゃないのさ…………」
興奮の兆候がみられる。
たのしいのか、それ。
おれがそう思っている至近距離で、彼女は、ふたたび鹿が、きゅん、と鳴いた文字起こししてゆく。さらに、きゅんきゅん、きゅきゅん、と放たれた鳴き声も書いてゆく。
で、鹿は、きゅん、きゅん、きゅん、きゅん、と絶えず泣き続ける。
おれは鹿の生態に詳しいわけじゃない。
きっと、それは鹿が怯えて鳴いている気がしてやまない。鹿がいったいなに怯えているのか。その心当たりがあることが、少し悲しい。
いっぽうで、彼女は、きゅんきゅん、という鹿の鳴き声を書き続けている。鹿は微塵も見ていない。
そこでためしに、おれも「きゅん」といってみた。
すると、彼女は気づかず、それも記録した。
「こらっ」
で、気づいて、しかられた。
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