このまちでは(5/5)

 人間側の大前提の知識として、竜は泳げない。

 竜は自身の足が届かない深さの水中へ入れば、沈むのみ。

 けれど、その竜は泳いでいた。大きさにして、二階建ての家くらいの竜が、水を蹴散らすように川を泳ぎ、そして、街の橋へ激突した。しかも、破壊して、なお泳ぎ続け、次の橋へ向かい、それも破壊した。

 街の橋が次々に爆ぜるよう壊されてゆく。

 おれはその光景を馬に乗りながら見ていた。正確には、ルイーズが手綱をにぎる馬だった、後ろへ同乗している。

 川の流れにそって進んでゆく緑黒い背びれを追い駆ける。馬の方がはやい。

 たしかに竜だった、竜を感じる。まちがいなかった。

 ただ、まちがいであってほしかった。竜は泳げないはずなのに、泳いでいる竜がいる。

「どうすれば」

 いったのはルイーズだった。

 詰所から馬へ飛び乗り、川を向かい、竜影を並走して追っている。目の前にある光景は紛れもない現実だった。それでも、受け入れがたい。

 馬は竜に怯えていた。けれど、彼女が手綱を握ることで、狂わずにいるらしい、信頼関係があるとみえる。

「ヨル」彼女は街の中を駆けながら問いかけてくる。「どうすればいい」

 水を泳ぐ竜が実在した時点で、おれも、ひどく動揺していた。ただ、自分より遥かに動揺するルイーズや、竜が泳げる、泳がない以前に、街の中に、大きな竜が現れた状況に、はげしく混乱する街の人々を見ていると、まだ、動揺は弱い方らしい。

 この街には、三百年間、竜に滅ぼされなかった。ましてや、あんな大きな竜の出現は、非情事態にちがいない。

「ヨル」

 ルイーズは速度を落とすことなく馬を走らせながら、呼びかけてくる。手綱さばきは正確だし、声も落ち着いている。けれど、近すぎて内心は濃くあせっているのが、どうしてもわかってしまう。

 まいった。

 これまで、おれは泳がない竜なら幾度となく払って来た。けれど、泳ぐ竜は払ったことがない。そして、さっきの決闘で心臓付近と、右手をひどく負傷している。やはり、どう考えて、もう入院していい状態だった。こうして彼女と馬に同乗しているだけでも、かなり、きつい。気絶していいなら、一瞬で出来る。

 そのとき、竜が新たな橋へと接近した。橋脚にぶつかる瞬間、水面から飛び跳ねた。膨大な川の水をひきずって、竜が橋の上を飛び越える。一瞬だったが、もはや見間違えることは不可能だった、竜だ。

 かたちはこれまで見て来た竜と変わらない。全身が黒っぽい緑で、首がながく翼を閉じていた。後ろ足もあるし、しっぽも長い。

 けれど、竜は橋を飛び越えきれず、しっぽを橋にぶつけて着水した。しっぽに弾かれた橋の部分が吹き飛ぶ。

 橋の上に人はいなかった。他の竜払いが人を誘導していたらしい、橋を越えると、竜はさらに川を泳いでゆく。

 泳ぐ竜を確実に視認してしまったぞ、なんだ、進化でもしたのか、竜は。

 これは、こまった。

 心の中で嘆いていると、ルイーズがいった。「アニエスが」

 どうして、彼女の名前がここで出る。

「子どもの頃、森で弱っていた小さな竜をみつけて、家へ持ち帰り、世話していた。あの子は、竜を恐がりながら、それでも世話をした。その竜は飛べなかった。だから、水槽に水を入れて育てた、彼女は竜へ泳ぎ方を教えた。竜が泳げないなんて、子どもだったから知らなかったんだ」

 竜に、泳ぎを教えた。

 いや、まてまて。

「竜は回復した後で、他の竜と同じように川から船で遠くへ送った。わたしも覚えている、彼女の水槽の中で泳ぐ小さな竜を一緒に見た。あれは、あのときの竜だ。アニエスのもとへ来たんだ」

 ああ、まただ。

 その設定も、きいていない。

「アニエスの夫は身勝手に苛立つとアニエスへ手をあげるようだ」

 今度はなんの話だ。しかも、深刻な内容だ。

「竜は、あの子の危機を感じて、この街へ戻ったのかもしれない」

 ああ、しまった、決闘する前に聞けばよかった、その話。

 竜が人を助けにやってくる、という話なので聞いても、すぐには信じなかった可能性は高いが。

「昨日の夜、アニエスは壊れた橋の近くにいた、彼女は夫と一緒だった。わたしは見てたんだ、昨日の夜、数年ぶりに彼女を、あの橋で」

 繊細な手綱さばきを維持して、ルイーズが話す。

「きっと、また夫がアニエスを。だからあの竜は、ああして」

 話している間に、竜はあらたな橋を飛び越える。今度も、しっぽがぶつかって、橋が壊れた。

 そして竜が泳いでゆく方向には、たしかかアニエスの家がある。

 あの竜は、飛べないのか。けれど、泳ぎを泳げる。そして、怯えたアニエスの危機を察知し、この川を泳いで街までやってきた。

 竜が泳ぐことも、竜が人へ懐くこともしない前提の生命、だった。

 それが違ったとなると、竜以外の生命には極めてきびしい現実だった。

「ヨル」

 ルイーズが名を呼んだ。彼女は前を見ているので、表情はわからない。ただ、彼女の不安は、はっきりわかる。

「どうすれば、この街を守れる」

 問われて、おれはいった。「最悪なやり方ならある」それから続けた。「あの橋まで先回りを」

 進行方向にひときわ大きな橋があった。

 竜は水中を進み、続けている。

 ルイーズが「わかった」といって、馬の速度をあげる。馬は川を進む竜と並走し、じりじりと、追いあげ、追い抜く。おれは剣を抜き、痛んだ右手と柄を布で撒いて固定した。やがて、竜よりも先に橋へ到着する。

 おれはルイーズへ「そのまま橋を渡り切れ!」と、告げて馬から橋へ飛び降りた。馳せて、欄干へ飛び乗り、川へ飛び込む。

 落下する最中、川を泳ぐ竜の頭部が、ぐんぐん、近づいてくる。竜の両目が見えた。眉間を狙い、白い刃を叩きつける。手応えを得る寸前、竜が大きく跳ねた。爆心地で爆破をくらったような衝撃後、橋が壊れ、全身強烈な水圧に襲われる。瓦礫と共に吹き飛びそうになり、反射的に左手で竜の突起を掴んだ。直後、もったりとした浮遊感に襲われる。竜が跳ねて、空中にいた。橋を飛び越えようとしている。けれど、しくじったのか、竜は橋の上へ落下した。大きく丈夫な橋だったので、壊れはしなかった。竜にまとわりついていた川の水が雨のように近い空から降った。衝撃に耐えきれず、おれは手を放していた。川の水が雨のように降る中を、身体が吹き飛んでゆく。ひどく高く飛ばされた、勢いも鋭い。飛ばされた身体は、そのまま橋の近くに建っていた高層住宅の二階の窓へぶつかった。

 窓硝子を割って、身体は部屋の中へ転がり込む。部屋の中の家具もいくつか壊した。

 尋常じゃない体験にしては、身体に致命的な損傷はなかった。瓦礫の中から這い上がる。全身から水のしずくと、割れた硝子の欠片が、ばらばらと落ちた。

 ふと、気づく。家の中にいた、老夫婦が、唖然としてみていた。

 窓も家具も壊してしまったので、おれは懐から宝石の入った袋を取り出し近くの台へ置き「修理代です」と告げて、割れた窓から身を乗り出す。

 二階の窓から見下ろす。風につつまれ、全身が濡れているので、ひどく冷たく感じる。

 見ると、竜が橋の上で目をつぶり、倒れていた。竜の足には水かきのようなものがあるように、見えなくもない。けれど、基本的には、他の竜と変わらない、翼もある。

 すると、竜の目があいた。むくりと、身を起こす。とたん、野次馬をしていた街の 人々が悲鳴をあげた。

 竜が橋の上で身体を持ち上げる。

 川の中へ戻る気か。

 かと思ったけど、ちがった。竜は二本の足で立ち上がり、そして、走り出した。

にわとりのように。

 街の中を、駆け出す。どんどんと、街の大通りを踏み鳴らしながら、おれの眼前を通り過ぎた。

「走るなよ」

そう願った。

 願いは叶わず、竜が街中を走り続ける、そこら中、街の人々の悲鳴だらけだった。しかも、竜は走りに安定感がなかった。生まれたてたいに、ふらふらし、頭部、胴体、しっぽを、街のあらゆる建物にぶつけ、踏み、破壊して進んでゆく。

 方角からして、やはり、アニエスの家だった。

 竜が通った後の地上は、大混乱だった。竜は破壊を生産してゆく。

 おれは部屋を出て、階段をかけあがった。外瘻は川の水を含んでいて重かった、大量の雫がしたたる。

 四階まで、一気に階段を上り切り、屋上の扉をあけ、外に出る。

 ふたたび風につつまれる。

 見ると、街の中を竜が走ってゆく姿があった。

 水を含んだ外套を脱ぎ棄て、走って隣の建物の屋根へ飛び移る。落ちれば絶命が約束される高さだった。けれどいま、その恐怖と向き合っている贅沢な時間はない。隣へ移ると、その隣の屋上へ、そして、次の屋根へと連続で飛び移る。

 街には多くの高層建築が存在する。ゆえに、竜にとっては、迷路のなかにいるようなものらしい。しかも、真っすぐ進んでは、一度、建物にぶつかってから、方向を変える。破壊力はあるけど、おかげで移動速度はたいしたことがない。

そのため、屋根から屋根へ飛んで移動しているうちに、竜へ追いつけた。

 おれはよき場所を見つけ、竜の上へ飛び移る。

 竜の背中へ着地して、駆けあがる、走る竜の背はひどく左右に揺れた、けれど、たえて頭部を目指す。

 いや、まて。

 と、考え直して、駆け上がった背中を引き返す。

 そして、右の翼の付け根までくると、剣を両手で握り叩いた。

 手応えはあった。

 その刺激で、竜が叫んで、右の翼だけが大きく開いた。

 次に反対側、左の翼の付け根を剣で叩く。

 左の翼も開いた。

 とたん、両翼を羽ばたかせる。

 水を泳いでいたとはいえ、見たところ身体つきは、他の竜とほぼかわらない。

 なら、飛べるはず。

 やがて、竜は空を飛んだ、上昇する。

 青空へ吸い寄せられるように、地上から離れゆく。街から竜が、上へ上へと剥がれてゆく。

 おれを乗せたままだった。

 しまった、竜の背から降り損じた、そして、もうかなり高い。

 これはもはや、川に飛び込むしかない。

 と、思っていると、竜は街でも一番たかい塔へ足をぶつけた。

 その反動で、おれは竜の背中からこぼれ落ちた。



 その日、大勢の街中の人々が、空へ竜が還ってゆくのを見送ったという。

 そして街の建物が壊れただけで、人的被害はなかったらしい。この街の竜払いたちが、事前に、人々を誘導して、避難させた功績が大きそうだった。街の人々は、この街の竜払いたちを信じている。だから、避難の指示も、速やかに聞いたらしい。

 壊れた場所の修復は、翌日からはじまっていた。いくつかの橋は壊滅的だったけど、橋はまだまだたくさんある。人々は、多少の遠回りしつつ、暮らしを続けた。

 竜が現れ、竜に一部破壊されたこの街が、この後どういう政策をたてるのかは、わからない。建物の損害は多数だけど、負傷者が出ていないことが影響しているようで、街の人々は落ち着いているようだった。

 おれはだけ竜にやられているけど、負傷者として、人的被害の数え漏れをされていた。

 けれど、しかたがない。おれは、この街の正式な竜払いでもないのに、竜を払った。勝手な行動だったし、それが問題になる前に、よろよろ宿にしている本屋へ戻ったし。

 翌日になると、痛みがとてつもなく成長していた。ルイーズとの無用だった決闘で打たれた胸は痛むし、右手の怪我も痛む。それでも、店番をする本屋に出入りする猫は、朝の餌をねだった。痛む右手で、皿に猫の餌を入れる。

 店を開ける前に、エマの家へ向かった。おれへあの本屋の店番を紹介したのは彼女だった。だから、まず、彼女へ「おはよう」と、あいさつして、続けざまに問いかけた。「あの、おれはいつまで店番をすればいいだろうか」

「え」と、エマは朝食らしい麵麭を齧りながらいった。「あー、じゃあ、わたしがする」

 かるくそういい、さらに続けた。

「というか、いらんなら、わたしがあの本屋もらうよ。わたしさ、まだ竜払いになるには、けーっこう、時間かかりそうだし、副業がほしいし」

 じつに、さらりと。

 こうして、本屋はエマへ譲渡された。

 それで、その日のうちに、おれは街中を歩き、様々な人々へ会った。特別な言葉をかわしてまわった。

 そして、準備した。準備といっても、ほとんどやることはない。荷物なんて、はじめからあまりなかった。

 次の日、おれは猫に最後の餌を与えて、本屋を出た。扉の前で、エマとジンケン、それから猫が見送ってくれた。猫にいたっては、自分の首輪をはずし、それをおれへ差し出して来た。餞別にくれようとしたのかもしてない。けれど「それは一番きみに似合っているから」と、いって断わった。そして「さばら、友よ」と告げた。

 朝陽の方へ向かって歩く、店から遠ざかる。エマたちは手をふった。おれも手をふった。やがて、それも見えなくなる。

 街はいつも通りの朝だった、麵麭屋が麺麭を焼き、荷物を積んだ馬車が行き交う。散歩する老人がいる。森の中で祈る人がいる、別の森では結婚式の準備している、他の森では葬儀の準備をしている。竜に破壊された建物の修復もはじまっていた。橋の再建もはじまっている。この街の竜払いたちの姿もあった。

 歩いてゆく。腰に吊るした剣を、揺らし。

 この街から、自分を少しずつ剥がしてゆく。

 この街に来た時、はじめに渡った橋までやってきた。

 来たと時とは、反対から渡る。

 すると、後方から黒い馬が馳せて来た。騎乗していたのはルイーズだった。銀色の長い髪を輝かせ、こちらへ向かって来る。

 はじめて見たときから、褪せず、高貴な存在感だった。あの人と同じ馬にのっていたのかと思うと、現実だったのに、現実身がいまでもない。

 橋の真ん中あたりを歩いていたとき、彼女はおれに追いついた。

 こちらも立ち止まる。

 ルイーズは馬から降りた。

「行くのか」

 と、聞いた。

「行きます」

「どこへ」

「東です」

「東」

「へんな竜が出てきたし」言いながら、川を見る。「水を泳ぐ竜です、あんな竜は遭遇したことがない、このまま見逃せない。あいつは東へ飛んでいったので、追いかけます」

「追いかけるのか」

「追いかけて、追いついて、ふたたびこの街にこないように、可能な限り遠くへ払います」

 そう話すとルイーズは、少し時間をあけてから「うん」と、うなずいた。

 泳ぐ竜の騒ぎから、ルイーズとは会っていなかった。けっきょく、ルイーズとアニエスの間に、かつてどんな物語があったのかは知らないし、どうなったのかも聞いていない。けれど、それは彼女たちの物語だった。

それに、きっとルイーズなら、良き物語を目指すだろう。

 そのとき、ふと思い出す。

「あ、そうだ、店で頼まれていた小説がまだ」

「わたしが頼んでいた、大恋愛小説のことか」

「はい」

「冗談だった」

 え、そうなのか。

印象では、本気で頼んでいたような。

 すると、彼女はいった。

「ここで笑えば、あれは冗談だったことにしてやれる。だったら、わたしとの約束をやぶったことにならなくなる」

 なるほど。

下手だな、強引だ。

 けれど、その不器用さが、本当に面白く感じ、おれは笑った。

「ひさしぶりに、誰か笑顔にさせた」

 彼女はそういって、自身の頬を、おれの頬を近づけた。

 ああ、この街では、これがお別れのあいさつ、なのか。

 頬が離れ、顔を見る。ルイーズの銀色の髪が、朝の陽の光をあびて、川の煌めきとともに輝いている。

 おれは頭をさげて、歩き出す。途中、腰に吊り下げて剣を、背中へ背負い直した。

 橋を渡り切り、振り返ると、彼女は馬のそばに立っていた。彼女の後ろには、朝の光の中にある、この街が広がっていた。

 そして、ルイーズは街の光の中から、小さく手をふった。

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