えはがき
りゅうを倒すにはお金がかかる。追い払うのはそれより、安価で済む。
だから、竜払いという仕事がある。
鏡のような水面をもつ湖畔のほとりへ立ち、景色を眺めていた。
雲はなく、空の青さがそのまま湖の色になっている。周囲にはなだらかな山があった。その麓には緑色の木々が生えている。無風のため、視界に入るのものすべてが静止しているようだった。時間が消えたような感覚がある、心臓はよく音がきこえた。
ある瞬間、思った、背中に背負った剣が重い。いつも背負っているので、そう感じたことはなかった。けれど、重く感じる。この静止した景色の中へ身を置くことで、どこかでほころんでしまった感覚が修正されたのだろうか。そうだ、剣は重いものだった。
はじめて剣を手にした日とき、そう思った記憶が蘇る。
時折、自身が竜を払いはじめた頃の年齢と、同じ年齢の少年を目にすると、気絶しそうになることがある。ああ、こんな子どもで、竜を払っていたのかと。
そして、その頃、まだ見えていなかった未来へ、いまこうして立っている。
気づけば、想像していなかった未来にいる。
と、絶景にまかせて、独り、ほとんど、起きてみる夢みたいなことに脳を使っていた。すると、気配がした。竜ではない。
人だった。がさごそ、と草を踏みながら近づいて来る。やがて「あの……」と、存在感の希薄な感じの声をかけられる。
振り返ると、二十代前後で、銀髪のひとつむすびにおさげを身体の前面へ、手には画材道具、肩には鞄をかけている女性がいた。
どこか自信さなそうな人だった。猫背のせいで、上目遣いのようになって、おれを見る。
声をかけられた、なんだろうか。と思いつつ、彼女の出方を待つ。けれど、向こうからは、後続の発言はこない。
もしかして、この場所で絵を描きたいから、どいてほしいのか。
そう考え、おれはとりあえず「こんにちは」と、あいさつし、次に一礼して、脅威を与えないように、彼女から大きく迂回するかたちで、その場を去った。
「あ、まま、まって………まって………くださいますか」
で、呼び止められた。
「はい」
で、待ってみた。
「あの……」
「はい」
「え……絵葉書」
「えはがき」
「買っていただけませんか………」そういって、彼女は画材を地面へ置き、肩にかけていた鞄から、葉書の束を取り出。束ごと差し出して来た。「これ………です………」
その手がぶるぶる震えている。
絵葉書の訪問販売なのか。いや、訪問じゃないから、路上販売。
まて、ここが路上でもないから、いわば突然販売、とでもいうべきか。いずれにしろ、彼女も勇気を発動させて、声をかけていたのだろう。
おれはなるべく彼女に刺激を与えないよう「拝見します」と、告げて、絵葉書の束を受け取った。
絵葉書には、この湖の景色が描かれていた。手描きである、絵の具の凹凸がある。
おれは絵にかんしては素人でしかない、ただ、ここに景色を眺めているときの感覚が、この一枚の絵に再現されている気がした。絵に生命力を感じる。
他の絵葉書も見てみると、どれもこの湖の絵だった。一枚一枚、少しずつちがっていて、同じ絵は一枚もない。
「これを、あなたが描いたのですか」
問いかけると、彼女は猫背で目を合わせなないまま、じんわりと、うなづいた。
そうか。
いい絵な気がした。
「では、これを買わせてください」
おれはとある絵葉書の一枚を掲げ、購入希望を告げた。
「あ」彼女は顔をあげ、声を漏らした。「その絵は……」
つぎに、悲痛な表情をする。
どうした。
「その絵は……とても………とてもうまく描けたんです…………はじめて………じぶんでもはじめて……………うまく描けた…………その記憶……………これまでずっと………ずっと………うまく描けなかったわたしが………………ありとあらゆることに負けていたわたしが……………わたしが………ようやく描けた…………いい絵…………ついに………わたしの魂の可視化に成功した………絵………」
よし、ほかのにしよう。
心の中で言い放ち、おれは「やはり、こちらの葉書にします」と、べつの絵葉書を掲げた。
「そ………の絵は」と、彼女はまた顔を上げた。「い………色使い………が………うまくいった絵………絵の具の使い方がずっと………生まれたころからずっと………わからなくって…………でも…………その絵で………その………絵で………わたし……わたしは………まるで世界のすべてを………手に………入れたような………」
「ごめんなさい、やはり、この葉書を買います」
「お買い上げ………ありがとうございます………」
ああ、正解がこれだったのか。
うん、そうか。これの絵が正解か。
そうか、そうか。
うん。
すなわち。
きみの絵の正解が、不正解。
そうか。
不正解は最初から、あれしておいてくれまいか、きみ。
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