なまえだけ

 りゅうを倒すにはお金がかかる。追い払うのはそれより、安価で済む。

 だから、竜払いという仕事がある。



 幅の狭い道だった。左右は緑の苔の生した岩と、土の壁になっている。

 西へ向かっていた。西にも大きな海があるらしい。それから、大きな都があると聞いていた。それを、見に行く旅だった。

 このあたり町はなかった。まる二日、歩きつづけ、他者の姿を見ていないし、言葉も声も聞いていない。

いままだ、選んだ孤独のなかにいる気分だった。

 細い道を進んでいると、前方に、馬車が道をふさぐように停車していた。馬車は上質なつくり外観をしている。かなり、高そうである。

 どうしたものかと思って立ち止まる。すると、馬車の後部についている窓から、女性がこちらを見て来た。四十歳くらいの女性だった。色が白く、あきらかに上流階級の装いをしている。

 こんな何もない場所に、豪奢なつくりの馬車が通る。しかも、ちょっとした祝宴になら参加できそうな装いの女性がのっている。

ここには、道はあるが、道以外は、なにもない。岩と草と、小動物ばかりである。

 ふしぎな遭遇だった。とりあえず、おれは馬車へ向かって、頭をさげた。

 そのとき、竜を感じた。

 竜がちかくにいる。

 すると、馬車の御者が地面に降り立った。三十代ほどの、髭を生やした、たくましい男だった。濃い茶色の瞳をしている。

彼は、こちらを睨んだ。わかりやすく不審者を見る眼差しだった。おれは彼へも、あたまをさげた。けれど、彼からは警戒は消えなかった。

「ヨルといいます」おれは名乗り、それから馬車の先へ視線を向けて「竜ですか」と、訊ねた。

彼は、少し驚き、馬車にのっている女性の方を見た。女性の方は、おれを見て、そして、彼を一瞥した。

「おれは竜払いです」

かさねてこちらから素性を解放する。

 すると、彼は警戒をそのままに「この先に」といって、視線を外した。「いる、竜が出た」

「おれも、この道を行きます」と、伝えた。「竜は馬車の前にいますね、羊くらいの大きさですかね、きっと」

 彼はまた、少し驚き「え、ああ」と、ぶっきらぼうに答えた。「竜を恐がって、馬が動かない」

 そうだろう。

それに、この馬車の大きさに、この道に幅だと、引き返すことも難しそうだった。

「そちらへ行きます。馬車を横切ります」

 宣言し、おれは馬車へと歩みよった。彼はひどく警戒していた。

そのまま進み、馬車の真横を通るとき、女性の視線は感じた。けれど、こちらには目を向けなかった。誤解を生産する確率を、少しでも減らすためだった。

 彼へ、小さく頭をさげつつ、隣を横切る。馬車をひいていた二頭の馬がいて、動けなくなっていた。

 見ると、道の先に、羊ほどの大きさの竜がいる。

 おれなら、竜を払わずとも、そっと、竜の横を通り抜けることも出来た。けれど、この道幅で、この馬車はとうてい無理だった。

 外套の下にたずさえた、竜の骨で出来た短剣を手にする。

 短剣で竜を払うのは、まだ、慣れていない。だから、竜払いの数をこなす必要もあった。

 やがて、竜を払った。

 馬が動けるようになると、彼がおれへ言った。

「おい、奥さまが、お礼をしたいとおっしゃっている、だから、この道の終わりまで送る」そこまでは、投げやり気味に言った。そして「奥さまの申し出だ、断るな、頼む」と、切実そうに言った。

 そこには見逃しづらい感情があるようにみえた。

「いいから、馬車に乗れ、竜払い」と、彼はおれの目を見ていった。「早く乗れ、奥さまを待たせるな。靴の泥は払ってから乗れよ、奥さまに粗相のないように、隣に座るな、対面で、斜めに座れ」

 そう言われながら、おれは馬車へ乗車した。靴の土も払った。

 会釈をしあった。まもなく、走り出す。

車内はながく、静かだった。

「わたくしたちは」

 そして、先に静寂を解いたのは彼女だった。

「塩を扱っております」

 塩。ここは海から遠い内陸部だ。

けれど、塩を扱っている。

「代々、この土地で岩塩を、事業として」

 岩塩か。なるほど。

 海から遠いぶん、塩の供給を担うことは、この土地では、たしかな事業になりえるのかもしれない。

「わたしも、ずっと、この土地で生まれ、育ちました」

 と、彼女はいった。

「ヨルさま、と、おっしゃりましたね」そこで、はじめて、彼女はおれの目を見た。「あなたは、竜を払い、そとの世界を、たくさん、見ていらしましたか」

 問われて、少し考えた。

「なんというか」で、けっきょく、考えながら話していた。「竜を払うことは、この世界の秘密と関わることに似ています」

どこか、けむにまく言い方になった。

 彼女は、数秒して「それは、よいですね」といった。

 それから会話はしばらく途絶えた。彼女は、名を名乗ることもなかった。

 やがて、ふたたび彼女が口を開いた。「これから、どこへ」と、訊ねられた。

「ずっと西へ、西の海を、まだ見たことがないので、見たこと無い海を見に行きます」

「そうですか、遠くまで、行かれるのですね」

「はい、徒歩で」

「ここから、歩くの、ですか?」

「はい」

 おれはうなずいた。

「いえ、旅の方法に、徒歩を選んだことを、濃厚に後悔する日々です。一歩ごとに後悔です。後悔するために、歩いているのか、歩くことに後悔しているのか、もう、混ざって、完全にじぶんを見失う旅をしています」

 そう言うと、彼女は目を丸くし、それから少し笑った。

 やがて、馬車は止まる。道は終わった。

「馬車へ乗せていただき、ありがとうございます。では、これで」

 おれは馬車を降りる。

「あの」その際、おれは彼女へ声をかけた。「失礼でなければ、あなたのお名前を教えてください」

「わたしの、名前ですか?」

「はい、もし、西の海についたら、海へ、あなたの名前をつぶやきます。名前だけ、西の海まで連れてゆく感じになりますが、あ、いや、この申し出に、不自然な気持ちで、なければですが」

 我ながら、奇妙な提案だった。

 けれど、彼女は微笑み、名前を言った。

「ハツナです」

 と。

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