いるかなくなる

 りゅうを倒すにはお金がかかる。追い払うのはそれより、安価で済む。

 だから、竜払いという仕事がある。



 海辺を歩いていたときのことだった。

 ささやかな風の吹く日だった。誰もいない砂浜の光景をにして歩いていた。このまま海の沿って進めばたどり着けると教えられたが、いまだに町の輪郭も見えてこなかった。。

 波は、絶えず、よせては返す。海は、かたちをとどめることをせず、空の青さと、違う青さを保っていた。

 むかし、海の青さは空の青さをうつしているのだと聞いた。誰からおしえてもらったのかは覚えていない。聞いたのは覚えているのは、ずいぶん、遠い記憶というぐらいだった。

 砂浜を眺めながら歩き続ける。

 と、そのとき、砂浜に何か異物なる存在感をおぼえた。見ると、波打ち際に、つぶれた灰色の筒のようなものがある。

 漂着物だろうか。

 すると、背後から誰かが駆け寄って来る気配がした。雑な足運びから察するに、ある種の使い手でもなさそうだった。

「もし、そこのお方!」

 甲高い声で呼び止められる。髪の長い、白いひと繋ぎの服を着た少女だった。いや、少女にみえたが、大人の女性だった。

 彼女は必死な表情をしていた。おれはまず「はい」と、返事する。

「どうか、ご助力を!」

 なんだろうか。

 賊に襲わているような気配はない。「どうかしましたか」と、訊ねた。

「海豚さんが、海豚さんが、浜辺に打ち上げられてしまい」

「いるか、さん」

「ほらそこに!」彼女が砂浜を指を差す。あの灰色の物体だった。

 あれは海豚なのか。何度か船に乗っている時にみたことがある。けれど、陸にいる状態は初めて見た。

「海豚さんが、浜辺に打ち上げられて、海へ帰れなくなってしまったのです! どうか、わたしと一緒に海豚さんを海へ押し返すのを手伝っていただけませんか!」

 胸に手を当て、おれへ訴えてくる。

 そういうことなのか。おれは「はい」と答えた。

「さあ、いきましょう!」彼女は指さす。「駆け足で!」

 告げて、彼女は身につけたひと繋ぎの裾を両手でつまんで、走り出す。砂浜は足をとられて走りにくいはずなのに、なかなかの速度だった。

 助けたい気持ちが強いのだろう。思って、おれも後に続く。

 そして、彼女と並走していると聞こえてきた。

「げへへ」

 その口から、濁音まじりの笑い声がきこえた。よくみると、口の端から、かすかに透明な粒がこぼれている。

「さわれる、げへへ、海豚さんにさわれる、げへへへ、助ける名目で合法的に海豚しゃんに、さ、さわれるぅぅ、しゃぁしゃぁわれる、げ、げへへ、ぐひひ、ごぎぎ、い、い、いるかさん、いるさぁんにぃい、の、ごののののぉ、ひ、ひとりだとこわいけど、い、いぎぎぎ、で、で、でも、この人がいるかさぁん気をひいるうちに、ねりねりさわれる、うぐぐぐぐ、さ、さわっれるううぉ」

 聞いてはいけないとしか思えない彼女の心の声が口から出てしまっている。どぼどぼ出てしまっている

 彼女はこれまでどういう生涯だったのだろう。どういう人生経験の果て、そういう状態に仕上がるというのだろうか、人は。

 走りながらそう思っていると、やがて、いるかのそばまでやって来た。間近で見ると、いるかの表面は妙にぬらぬらし、あまり、柔らかそうな感じがしない。

 彼女はいるかに最接近すると、両手をいるかへ伸ばした。ほぼ邪悪な手つきだった。

 すると、いるかは、ぴちぴちと跳ねて砂浜を進み、力で海へ戻って行った。そして、またたく間に遠ざかり、海面をひとつ飛び彼方へと消えてゆく。

 彼女の邪心が、いるかに生きる力を与えた。

 どこか、いたたまれない物語の誕生である。

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