:第二十六話「わたしの初めてでした」

実った恋は熟しても鳥には食べられない。

[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]

:第二十六話「わたしの初めてでした」


…………………………


  ───実った恋は春に染まり、夏を迎え、秋になり、冬に還る。


 寒さに麻痺するのは、人間が持つ感覚だけではなくて街も一緒だ。そして、春になって暖かくなると麻痺していた事は“無かった事”になる。暑い夏は街中に積まれた室外機のせいで、いくつかの大型台風が過ぎる度に環境破壊を謳い文句に新製品が売れる。買い替えで出た廃棄物で新しい島が出来るし、そこに新製品の売上げで工場が建てられる。秋が訪れると異常気象に直面した事も“無かった事”になり、また“無かった事”になっていた異常なまでの冬の寒さに麻痺をする。数センチの積雪で交通が麻痺した事は“無かった事”になっているから、同じ不便や理不尽、不利益を被っても誰も文句を言わない。駅から追い出された人間も彼岸の獣も、皆、同じようにタクシーを奪い合いをする。“無かった事”になった冬が、春になり、桜前線が天気予報と共に伝えられると、とっくにわたしは大学を卒業していた。一度目の予備試験には落ち、二度目に向けて勉強を続けている。


 相変わらず、向井法律事務所でこき使われる毎日を猛進中。今日着ている服が洗濯した服か、脱ぎ捨てた服かは分からないけれど、床から拾い上げて着たのは四日前だ。大学を卒業すれば、少しは楽になるのかと思ったのだけれど、現実は『大学に取られていた時間の分、仕事をする』だけで、忙しさは増す人生。この街に来て五年目。実家にすら一度も帰っていない。自分のアパートに帰るだけでも大変なのに、ここから新幹線で三時間と在来線に乗り換えて一時間、駅から歩いて数十分の家になんて帰れる距離な訳がない。


 たった四時間と数十分だと思っていたのが間違いだった。


 街灯に虫が群がる真夜中のファミレスで、誰かさんが好きなオレンジジュースの入る細長いコップがかいた汗の雫が流れ落ちた。「“チェリオ”とか“タラタラしてんじゃねーよ”って何だよ!」と笑って、存在を知らないと言った彼に腹が立ち、嫌がらせとして大量に両方をプレゼントとしてやったのに「やっぱり、りんごは楽しいね」とキスをしてくれた彼が、初めて聞く言葉を使う。


「別れよう」


 その言葉に何も感じる事はなく、一度だけ首を縦に振って、何か言ったかもしれないし、何も言っていないかもしれない。その辺りは覚えていないし、覚える必要も無かったんだろう。煮えきった脳で、何も、無かった事に、そう……無かった事にすればいいのさ。

 大切な話がある、と聞いていたから事務所に仕事を残して抜けてきたので、大切な話が終わったからファミレスを出る。幾つかの言葉が背中に投げられた気もするし、そうではなかった気もする。一度も振り返らず、立ち止まったりなんかせず、事務所に向けて、真夜中を、ぽつん、ぽつん、と照らす街路灯の次、また次、と歩いた。


 今は懐かしい貴方の思い出せない背中や、やさしかったはずの言葉と声は遠く。初めて出来た恋人と呼ばれる関係で経験した想い出も無かった事にすればいい。


 ……………案外、“何も無かった”と干渉しない、この街では人間も彼岸の獣も苦しんでいない。そもそも困っている姿を見せやしないし、それに気付くのは手遅れになっていた時か、運が良くて、かなりマズイ状態になってから。それもそのはず、困っていても見えないようにカバーをかけるのだから助けようもない。


「わたしは、誰を助けるって……?」


 わたしが鼻息荒く、こんな街にまでやってきて叶えようとしてきた事が馬鹿馬鹿しい。


 ぽつ、ぽつ、と街路灯が暗闇に作る丸から丸へと歩いていた。このまま事務所に戻って何になるんだろう。弁護士はお金をもらって人を助ける仕事。この国の長期間に及ぶ裁判制度で、お金が無い人は?明らかに加害者である人を守る理由は?……………どちらも最初の最初に心得として、法に従順、真摯に向き合う者の基本として教わる事なのだけど、今になってこんな事を考えるわたしは何だ?中二病か?思春期か?小説書いている誰かさんか!?


 丸と丸の間で足を止めて、暗い車道を挟んだ反対側の歩道に電話ボックスが煌々と浮かんでいるのを見つけた。


 ヤラシイ広告のシールがベタベタと貼られた扉に手を掛ける。まるで欲の吐口への扉を開くみたいだなと思った時、扉が、ぎゅ、と小さく鳴いたから言い返してやる。お、驚いてなんかいねーですよ、という弱虫で、怖がりで、強がりさんの独り言。シールに写るお姉さんたちに「確かにわたしの大きなお胸も、彼に“色々”と出来たし喜ばれたよね」という恥ずかしい体験を暴露し、物理的にパーソナルスペースが守られた小さな部屋に立てこもる事にした。立てこもりの犯人はわたし、人質もわたしだ。今から人質を解放する条件を伝えるから耳をかっぽじって聞け。その要求に応えなければいけないのもわたしだ。


『今、わたしを人質に取った。わたしが酷い目に遭いたくなければ、わたしの要求を聞け!』

『待てわたし!要求はわたしが聞く!ひとまず、わたしは無事なんだな!?』

『わたしはわたしに構わず逃げて!!わたしによろしくって伝えて!!』


 ………と頭の中で三人のわたしに演技をさせながら小銭入れを覗いた。買い物をする時に数えるのが面倒だから、お札で払う癖の付いた証拠である、じゃらじゃらと鳴る大量の十円玉と百円玉。そのありったけを緑色の公衆電話の上に積んでいき、低身長組のわたしには大きくて重たい受話器を取り、わたしに“人質解放交渉”並び“人質解放条件”を伝える為、空に浮かべた番号を押した。ぷ、ぴ、ぷ……ぷ、ぴ、ぽ、ぷぷ、ぴ……耳元で鳴る電子音の羅列。鼓膜をくすぐる呼び出し音、腕時計を見ると午前一時前だ。非常識。非常識な大人。でも…………この番号は自宅じゃなくて、お店の方だから、こんな時間に鳴るなんて間違い電話だ、って言って取られないから………とか、繋がらなかった時のそれらしい言い訳を考え始めた時、かちゃん、十円玉が公衆電話の集金箱に落ちた。


『…………はい?もしもし?』

「……っあ。えと、その………っ、あ。ま、間違……」

『りんご?』


 どうして、こんな時に華子はわたしの声なんか分かるんだよ。忙しさや面倒くささにかまけて、もう何年も手紙や葉書の返信すらしていなくて、電話をかける事すら億劫だったのに………。ただ、初めて出来た恋人ととの別れや、それだけで揺らいでしまう自分の歩いている道、その重たさに潰されそうだったから、気を紛らわせたかっただけの最低なわたしの声なんか………どうして、覚えているんだよお。


『はっはっは。親友の声を忘れる訳ないだろう!?私を甘く見ないでくれたまえ!!』

「華子は…………………変わらないね」

『変わらない?いいや?私たちは変わり続けているんだよ、りんご』


 生きている限り、ずっとね。普遍や永遠なんか、どこにも、誰にも、何にも無いよ。


 それから公衆電話の上に積んだ硬貨が無くなるまで話し続けた。初めての彼氏にさっきフラれたとか、初めての彼氏はひとつ年下だったとか、華子の言った通り大きなお胸は役に立ったぜとか、とてもやさしい彼氏でデートはこの街から少しでも離れるように、色んな所に連れ出してくれたんだとか………人を好きになって別れる事は、やっぱり心が痛いよ、とか、一方的に痛みや苦しさを全部吐き出して、その間ずっと華子は「うん、うん」って、やさしく聞いていてくれていたから、わたしはわたしに対して脅迫や解放条件を要求する事をやめて、無事に電話ボックス立てこもり事件の現場から解放されたのだ。


 暗闇の中に“刺す”ような光を感じ目を開けると、そこにしゃがみ込んで、わたしを不審物扱いするかのように懐中電灯で照らし、覗き見る向井さんがいた。「前途有望な若人がこのような姿とは」と嘆く。その姿のまま細い細いストローの刺さったリポDのような爽やかなラベルでは無い、仰々しいギンギンのラベルの栄養ドリンクを、ずごごごごっ、と、一気飲みをする。そんなおっさんで美人な大人の女性である彼女なのだが「………朝イチから一本千円台の栄養ドリンクを飲む人に言われたくないのと、おパンツ見えてるっす」と、やっぱり何か足りない所を指摘し、目を擦って欠伸をして机の下から這い出た。わたしの机の位置は、ここで働き始めた時より出世し窓際では無くなったが、まだまだ仮眠に使っている部屋や仮眠が取れるソファは先輩たちが使っているし、何となく臭いから使いたくない。だから、机の下がわたしの仮眠室だ。……まあ、低身長組、ちびっ子クラブのわたしには丁度良い。


「りんごちゃん。歯を磨いて、顔を洗って、朝食を摂って、私とりんごちゃんの“今日の占い”を確認したら、私のデスク前に出頭。以上!」


 珍しく、あの向井さんがキリッとしているな。何だろうか…………あの最高級栄養ドリンクは、そんなに効くのか。商品名を控えておこう。えっと、どのゴミ箱に捨てた?


 ゴミ箱をあさるのも、一本千円台の栄養ドリンクも初めてだ。


…………………………


実った恋は熟しても鳥には食べられない。

[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]

:第二十六話「わたしの初めてでした」おわり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る