:第二十五話「こいびと」

実った恋は熟しても鳥には食べられない。

[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]

:第二十五話「こいびと」


…………………………


  ───冬には実らずの初恋が、実った恋に春に染まる。


 大学の授業は大変だったけれど、少しでも勉強を兼ねようと、小さな、小さな弁護士事務所でアルバイトをする事にした。その仕事もまた大変で、睡眠時間が二時間や三時間という日も当たり前になっていく。一人暮らしに重要な家事というものが回らず、洗濯物は畳むのが面倒だからと、取り込んだ衣服を床に散らかしたままで、そこから拾って着るようになっている。でも、最近、アパートに帰ると出迎えてくれるやつもいたりするのだ。


 カビで緑色に飾ったみかんよ、お前はいつわたしに買われてきたんだい?


 平日の夕方五時までに時間を見つけては事務所を抜け出し、貴方や悲願の獣の歴史を追い国立国会図書館や博物館、郷土資料館、史跡に行き、史料や行政官報、歴史書を片っ端から読み漁った。常にふらふらする頭………脳が煮えている感覚にはもう慣れた。くたくたになってアパートに帰ると、階段を登る音でわたしだと分かるらしく、一階に住む管理人のおばあさんが呼び止めてくれるのだ。


「りんごちゃん、久しぶり……に帰ってきたね。ちゃんとご飯食べてる?」


 いつも、そう心配させてばっかりだから、今日は家で食事を摂ろうと激安のスーパーで買った大量のカップラーメンが入る袋を両手に持っている。ご心配無用です!……という奇行。


「管理人さン、お湯……オ湯借りテいイデすか?三分と五分なんで、すぐデ………す」

「りんごちゃん、とりあえず三分のラーメンを食べてから二杯目を決めましょう。それとロールキャベツで良かったらお裾分けできますよ。あと言語が」


 その日、カップラーメンの三分と五分のやつを順番に二杯、ロールキャベツを三個食べた後の記憶が無い。さらにある日、目を覚ますと知らない部屋の天井と窓から差し込む光、家具も部屋の匂いも違う、しかも知らないお布団の上で寝ている事があったのだ。


 もしかして、わたしはついにやってしまったのか。


恐る恐るお布団の中を覗き込み、着衣を確認。


「おはよう、りんごちゃん」


 声がした瞬間、ビックッッと体が反応した。とりあえず、落ち着いて、一晩だけの情事的な事も覚悟する。でも、今までそんな事は無くて、灯りのついた方から微笑むのは管理人さんのおばあさんだ。話によると昨夜、夕食の肉じゃがを飲み込み、手を合わせ、ごちそうさ……とまで言って、そのお地蔵さんスタイルで眠ってしまったらしい。その日が大学の休講日で良かったと思う。アルバイトは完全に遅刻だけど。


 わたしの恋は熟しているけれど、鳥にすら食べられないくらい甘ったるく実が熟している。


「りんごちゃんさ、死なないの?」

「案外、頑丈ですから死にませんね。それに死ぬ予定も無いです。朝からハラスメント発言ですか?労働基準監督署とか然るべき所に行きますよ」


 この人は天然だから、よく色々と言葉が抜ける。その誤解を生む言葉の紡ぎで心配をしてくれたのは、雇い主である弁護士の向井さんだ。はっはっは、と、豪快に笑い、失敬、失敬、めんご、めんご。許してちょんまげ、と、おじさんそのものの言葉遣いである美人の彼女は、三十歳にして大手法律事務所から独立し、小さい……本っ当に小さいながらも、自らの事務所を構えてしまった敏腕弁護士及び経営者。案件に対する着眼点は針に糸を通すような鋭さを持ち、法廷での丁寧でいて大胆な指摘や噛み付き方、その眼光から『メドゥーサ向井(芸人ではない)』という芸人さんのような異名をも持つ。まさか…………法廷の外でメドゥーサ向井(芸名ではない)が、こんな残念な感じだとは知るまい。


「いやはや。君を雇って一年半になるけれど、休んでいないよね?」

「休んでいないですね」

「程よい休息もデキる大人の条件だぞー?」

「向井さんは司法を受ける前、悠長に休んでいましたか?そして、この事務所は休める程に人材の余裕はありますか?」


 あー……休んでないわ、そして、シフトを考えるだけでも頭痛いわ、と歯切れ悪く、法の下で働く者として、この国はやっばいと思うよー、人権無視も人権無視、りんごちゃん、しっかりと給料計算してる?よく調べてみたら最低を切ってなん……う、ウチは大丈夫だからね!全く、社会を支える戦士の一人として情けなくなるよ、と、おじさんみたいな愚痴を言った後、さらにうつむく角度を深く、司法試験に向けて勉強漬けだった頃は思い出したくもないと、しょぼしょぼになってしまった。


「でも、まあ一日くらいなら何とかなるから休みなさい」

「じゃあ、わたしと身体を入れ替わって勉強をして下さい」


 こんな感じで雇い主に対して言い返せるくらいに、この街に生き、ここで働いて、わたしも少しだけ強くなっていた。そんな労働者の小さな犯行に向井さんはというと、コーヒーを飲み終えたカップを持ったまま天井を見上げて……、


「入れ替わるのかー……そうだなあ…………」

「いや、向井さん。考えても答えは出ないですよ。科学を通り越して無理ですから」

「勉強よりも……まず、そのお胸で色々すっかな」

「“色々”って何すかっ」


「いや……旦那にさ、こう…………」


「やめて下さい聞きたくないです仕草すら見たくないです許して下さいわたしが聞いたのが悪かったです別に向井さんにはお胸が無いとか言いた……」

「わあっ!!りんごちゃんが壊れたっ!!誰かっ!水と氷を!!後、リングに投げ込むタオルをっ!!!」


 現行の法律では法科大学院卒業後、五年以内に司法試験に合格するか、大学院を卒業していないなら予備試験に合格後、司法試験に三回以内で合格する事が弁護士になる最初の条件だ。わたしは大学院には進まないので予備試験をまず受けなければならない。


「寒………っ」


 ずびびっ、と、鼻をすする。誰もいなくなった事務所の片隅にある机で、残った書類を処理していると室温が急に冷え込み震えた。まさか、なにかこのよのものではないなにかがいるとかでさむくなったんじゃないだろうな………………?くそぅ、わたしはいつまで経っても幽れ……ゴースト的なニューヨークの幻的な恋人的なモノであっても苦手なものは苦手なままだ。だから、集中して、気を逸らして、さっさと仕事を終わらせて、アパートに帰…………帰るの一週間ぶりだなあ。

 この事務という紙との戦いをしていると、全く何をやっているのだろうかと考えてしまう。一日、一日が長いようで短く、時間が日によって二十四時間を基準とし、数時間という単位で増減があるようにも思える。そして、時計の針が音を立てて進む度に、貴方の声や目付きの悪い瞳や大きな背中が、ぼんやりと分からなくなっていた。ずびっ、それにしても冷える。もう一台の石油ストーブに火を入れるついでに覗いた窓の外で雪が降っていた。これは仕事が終わる頃には数センチ積もる降り方だ。たかが、それくらいの積雪で何もかもが麻痺する街。それを毎年、毎年、繰り返しているのに何も対策をしない街。“何も無かった事”にして麻痺をする街。仕事が終わって、駅に行って、運行中止を知って、タクシーの取り合いなんか面倒だから、もう今夜は事務所に泊まって始発でアパートに帰って………あれ?わたし、どれくらいお風呂に入っていない?この服、何日目だ?着替えられる服、いや、下着…………洗濯していたっけな。


「会いたいなー」


 今、貴方はどこで何をしているのだろう。やさしくあろうとする声や不器用な言葉遣いや、さりげない気遣いは、今、誰に向けられているだろう。もう少ししたら、わたし、忘れちゃうよ?貴方の声は頭の中で再生しすぎて掠れ切れてきたから、聞こえなくなってきてるんだよ。大きな背中が、どれくらい大きかったか、よく見ようと光に当て過ぎた写真のように美しい輪郭だけ残して、色が薄れていっているんだ。


「何やってんだか…………わたし」


 その時、事務所の扉のくせに開くのが下手くそな板が、がこっ、と、開く音がしたから「ひっ」とマンガみたいな声を上げて身を固めた。い、いいっ、いつもみたく向井さんが忘れ物を取りに帰ってきたんだ、と願う。でも、何だか室温が下が……っ?あ、あいつらがいらっしゃる前は急激に寒くなるって、聞いた事がアルヨ!?そろり、そろりとパーティションから顔を覗かせると「あっ!やっぱり、まだいた!」と同じ大学、同じ法学部の堤くんがスーパーの袋を持って立っていた。


「……ド、ドウシた?忘レ物か?」

「いやっ、忘れ物とかじゃなく!りんご先輩を見に来たんですよっ」


 わたしに向けられる貴方とは違う直線的な言葉と気遣い。彼もまた、自宅までの路線が雪で遅延し、二時間近く待っても動く気配が無かったので運行中止を見越して、わたしが残業でいるはずの事務所に戻ってきたらしい。彼が買ってきてくれた缶のホットミルクティーを受け取ると、手の中に刺さるような熱さを感じ、馴染んでいく。


「りんごせんぱーい。出来ましたよーっと」


 事務所の小さな給湯室から鍋を持ってくる堤くん。それは彼が作った鶏肉が少ない鶏鍋で、スーパーで買ってきた半額投げ売りの鶏肉と大量の野菜を大まかに切り塩で味を整えたもの。たったそれだけなのに、わたしには涙が出るくらいに温かいものだった。


「な、鍋なんて………いつ食べたか思い出せないや」

「……事情は知っています。学部でも有名だから。でも、りんご先輩さ?」


 人を泣かせて、いつ鍋を食べたのかも分からなくさせるような人って、どうなんですか。そんな人を追いかけるのって、どうなんですか。


 今日という日に限って、脊椎反射で反論してきた言葉たちに何も言い返せなくてね。貴方に恋をしたあの日から、今夜初めて、貴方の事を忘れた日になったんだよ。


…………………………


実った恋は熟しても鳥には食べられない。

[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]

:第二十五話「こいびと」おわり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る