:第十八話「どうしようもなく悪い人と、どうしようもなく信じちゃう人」

実った恋は熟しても鳥には食べられない。

[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]

:第十八話「どうしようもなく悪い人と、どうしようもなく信じちゃう人」


…………………………


  −こゝろ無き、まぐわいの快楽に、溺れる未来の人の足を掴む、溺れた人。


 どうして、役場という施設は平日午後五時までしかやっていないのか。そんなに早く閉じてしまっては、この多種多様な働き方が求められている現代社会において、取り残される人が出てくるのではないだろうか。学校を「大変だーっ大変だーっ!遠い親戚のいとこのおばあちゃんの弟が亡くなりました!帰りますっ!」という嘘で早退してきた。迫真の演技に『遠い親戚のいとこのおばあちゃんの弟』という存在が、もはや他人である事に、誰も気付いていないようだった。しかし、昨日、公園で華子に頭突きの仕返しとして“ぐー”で殴られた頭の、たんこぶが一晩を越えても痛い。


「税務……課、税務課。ええと税の申告は、こちらの階段を………別館?別館なんてあったんだ?え、渡り廊下で二階から入る??」


 役場に来る度に思う事がある。どうして、こんなにややこしい造りなのか。受け付けと実務の場所を分ければ、こんな無駄に長い廊下や階段を上がったり下がったりしなくて良いのではないかと思うのだけれど。


「扱っていませんね」

「っえ?」


 税金って、役場が取るんじゃないの?国税と地方税って何だよ?とにかく、わたしが知りたいのは“はなか”さんのモデルになった家だ。


「個人情報保護の観点から話せません」

「いや、まだ何も言ってま…」

「個人情報保護の観点から話せません」

「いや、百年以じょ…」

「個人情報保護の観点から話せません」


 ぐ、おっ。これが役場対応というヤツか!意外と脚に来るな。辛うじてカウンターにしがみ付き、膝が折れかかったがダウンは免れた。


「わたしは!歴史を調べていて!史料として!当時の納付額を………っ!!」

「それなら、郷土資料館に……」


 わたしが振った右パンチが回り回って、自分の頬に当たった感覚がした。脳が揺れる、そして、次にしがみついた物が“ボールペン立て”であった事から、虚しくボールペン立てを握りながら床に膝を着いた。「そ……すか。ありがとうございました」と、ぐぐっと立ち上がるも、足がふらつく。こんな所でカウントを取られるなんて、恋の名に恥じる。10カウントはまだだ!ひとまず、市役所員にファイティングポーズを見せてから、役場を飛び出し、多知川さんのいる郷土資料館へと走る。


「りっ、り、臨時………休館っ!?」


 ファイティングポーズを取った束の間、臨時休館というガードの間から抜けてくる縦に拳を入れたアッパーをまともに顎に受け、さすがに膝が折れた。「おかあさーん、おねえちゃんが座ってるー」「シッ。青春っていうのよ」という親子の会話が耳から入ってきた気がする。空が光り、隣にはブービエ・デ・フランダースという大型犬が寄り添い、天使が降りてきたような感じがしたから顔を両手で叩いた。よし!幻覚だ!折れかかった心が思い出す、貴方の意地悪な目付き。


「なんとしてでも!貴方の居場所をっ!」


 そうは言っても、わたしに出来る事など、もう無かった。とぼとぼと新町にある駅前までやってきて、気が付いた。ん……………財布、落としたっぽい。今日という日は、なんて日だ………。陽が暮れ、途方にも暮れる。だから、街をとぼとぼとスニーカーを引きずり歩く。


「なんだか、雑踏って濁っているよなあ」


 きらびやかな街の光。艶っぽく華やいた人々に作り出された雑踏。人間も彼岸の獣も関係なくごちゃ混ぜで、みんな欲求を満たそうと、ぎらぎらと光る艶かしい入り口や挨拶の声量で競うお店に吸い込まれていく。わたしは何やってんだ、こんな所で。


 貴方がいない、行きつけの本屋さんである『Enfent』開いていない。それだけなんだよ。たったそれだけ。低く落ち着いた声でかけられる「いらっしゃい。とくに声はかけない、ゆっくり見ていってくれ」という愛想がない言葉を並べる、やさしくあろうとする声も、目つきの悪い目で姿を確認される事も、すぐに視線を落として、ごつごつした大きな手に収まる本を読む姿も、わたしの手が届かない高い棚にある本を背中越しに取ってくれる事も、その時に身体のどこにも触れないよう配慮してくれる事も。


「たったそれだけなのになあ………」


 “たった、それだけ”が無い。それらがあまりにも多くて、わたしを困らせる。煌々と光が照らしているのに、どこか仄暗い雑踏を、ぼうっと眺めていた一瞬。あの大きな背中が見えた……気がしたんだ。「ちょっ…………待ってっ!!」って、口から言葉が出る前に気持ちが身体を動かして、二歩も前に踏み出していた。でも、歩き慣れない夜の雑踏は上手く人を縫う事が出来ずに背中は消え、わたしは人の波に飲まれた。何故、世の中いる人たちは、こんなにも身長が高いのか。いや、わたしが低いだけか。進みたい方向に進めない、揉まれる流れに息が出来ない。溺れる時は誰かが水底に引っ張っているような感じがすると聞いた事があるけれど、まるでそれみたい。わたしは、自分で泳ぐことも、息を吸う事も出来なかったんだ。


「んー?……んと、獣の本屋?」

「知りませんかっ?旧街道の森で彼岸の獣が本屋さんをしていて……っ!」


 多分、雑踏から抜け出した事くらいで、水面に顔を出せただなんて思っていたからバタバタと足掻き、考える余裕すら無くなっていたんだと思う。だから「………ああ、あいつか。知ってるよ、居場所まで案内しようか?」という警戒すべき言葉に「本当ですかっ、お願いしますっ!」と言って、また水を飲む。どんどん肺に水が溜まっていって、血中の酸素が無くなり、余計に思考できなくなっていく。


 気付いた時には、もう水面遠く、浮かぶ事が出来ない深さにまで引きずり込まれていた。


「あのー……ぅ?ここはー……?」


 妙に明るく、とてもハイセンスとは言い難い色で塗られた建物の入口。そこにある案内の看板には、ご休憩一時間四千円から(三時間以降は20%オフ)、ご宿泊一万円。各室、カラオケ、ゲーム、レーザーディスク完備と書かれていた。レーザーディスクって何だっ?ディスク……板、フリスビーの類か?とか思いながら、そう表記されているこのハイセンスではない建物は、まごう事なき“そういう事をする建物”だった。


「ん?来た事ないの?ラブホ」

「ら……………っあ……ここはっ。ちょっと、わたし、用事が………帰りますっ!!」

「ここまで案内させておいて?」

「そ……、それは感謝します!やっ、でもっ、その!ここじゃないくないっ!?」


 わたしが案内して欲しかったのは、こんな欲望の塊が各部屋で行われている………あ、辺りを見渡すと、ここは“そういう事をする建物”が立ち並ぶ、あまり治安が良くない場所と聞かされていた通りだった。だから、わたしみたいな……………は近寄ってはいけないと、口酸っぱく言われていた所だ。


「まあまあ。その?用事とやらに?間に合うようにサクッと、さ?」

「そっ……そういうっ、問題じゃなっ!ひっ!!!人っ!人っ!!呼びますよっ!!?」

「ん?どうぞ。俺より悪い人集まるだけだけど」


 世の中には、どうしようもなく悪い奴が………人間、彼岸の獣に関係無くいるのだと言った貴方の顔が浮かんだ。


「気をつけなさい」


 目つきの悪い貴方の目が、少し怒ったように細くなった、あの時の木漏れ日。悪い大人も、悪い人間も、悪い彼岸の獣も、君が思っているよりいるんだ、と、辛そうに言った貴方の声。


 嫌だな、と思う事がある。それはわたしの見た目だ。無駄に胸が大きいのに背が小さくて、童顔。子どもみたいに声が高くて、好きじゃない。だから、背が高くて、声が大人っぽくて、すらっとしている華子が羨ましかった。華子が気にしている小さな胸を『お胸平ら組』だとか言って馬鹿にしていたけれど、わたしのは大き過ぎて目立つから、いつも視線を感じて、大っ嫌いだ。


「お嬢さん、すぐ終わらせるしさ。ね?」


 どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。この人が言ったように、この通りにいる人たち全員が悪い人に見える。もし、わたしが叫んだりしたら、これからされる事よりも、もっと酷い事をされるかもしれない。わたしって………本当に馬鹿だな。貴方に世の中には人間だろうが、彼岸の獣だろうが、どうしようもなく悪い人がいると教わり、華子や親にも、ただでさえもボケっとしているんだから気を付けなさいと言われてきたのに。


「あんたが読む本みたいに、世の中には王子様なんていないのよ」


…………………………


実った恋は熟しても鳥には食べられない。

[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]

:第十八話「どうしようもなく悪い人と、どうしようもなく信じちゃう人」おわり。


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