:第十一話「消えた獣と消えぬ恋」
実った恋は熟しても鳥には食べられない。
[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]
:第十一話「消えた獣と消えぬ恋」
…………………………
−知る時には消え、痛みを知った時には無いものを、大切と呼ぶ。
古都に抜ける旧街道の森の中に、睡蓮が浮かぶ美しい池がある。睡蓮の花言葉には「純真な心」「清浄」「信仰」「信頼」があり、どれも心からくる感情を表すものだ。その池に静かに浮かぶ美しさは、描く事を止めない程、愛した画家がいるほどである。
その畔に一軒の白く塗られた本屋さんがあって、本屋に入るなり主人は、必ず、こう言う。
「いらっしゃい。声はかけない、ゆっくり見ていってくれ」
愛想がない言葉を並べ、やさしく鳴ろうとする声は、彼の生い立ちがそうさせたものなのだろうか。彼は……、
彼岸の獣。
つまり、この世の生き物ではない。
そして、わたしは彼に恋をしている。
あの後、気まずい雰囲気の中、三人でルイボスティーを飲みながら本を読んだ。普段、華子は新聞しか読まない。その理由は本の多くが『終わりに、答えが出ている』というのが、苦手なんだとか。新聞には十年、百年とかけて終わりに向かうものが記されている事もある。しかも、物語としては無駄とも思える仕掛けや、どんでん返しもあり、次の一手がどう来るのかを思考し、想像する。それが、楽しくて、楽しくて、仕方が無いらしい。わたしには分からん。ただ社会にある困ったなあのアレコレを、ほくそ笑んで楽しんでいる性悪にしか思えないのだ。こっ、こっ、こっ、と壁掛け時間の針が進んでいく静寂がうるさい。華子は、こういう雰囲気が苦手だったな。悪い事をしたと思っている。反省している。申し訳ない。許してくれたまえ。すめん。
「閉店時間だ」
今日も貴方の愛想の無い言葉とやさしくあろうと鳴る声で“帰ってくれ”と遠回しに伝えられた。お店から出る時、棚に収められた本たちを撫でながら外に出る。ここに並んだ本たちには、貴方が美しいと言った人間が綴った世界の、ひとつひとつが平行宇宙で存在している。それを愛して、一冊でも多くの本と読者の架け橋になりたいと言った貴方と人間との間には隔たりがあるんだ。貴方は、その隔たりを克服して、人間の女性と結婚すらした。………いや、克服したり、超えたのではなくて、その事が貴方の中で隔たりを生む原因になったのだとしたら…………、
「気を付けて帰りなさい」
「はい。ありがとうございます」
空から差す光が弱々しくなっていて、茜色に向かう準備をしていた。やわらかくキラキラと樹々の間から光が差し込む旧街道を、とぼとぼと華子と歩く。華子が「いや……本当に、ごめん。こんなつもりじゃなかったんだ」と言うから「何が?」と言って、微笑んだ。本当に何が“ごめん”なのか分からない。遅かれ早かれ、ああなるっていう事が早くなっただけだ。
「これはりんごの恋でさ………」
「うん」
「りんごは恋という感情の重さを理解していない」
「うん?」
「華子くん、それはお昼に聞いたよ」
「そっか、覚えてはいたか」
何故か、華子の表情が寂しそうだった。そうだよ、これはわたしの恋で華子の恋じゃない。だから、邪魔、しないで。
夕食に出されたのは、たこ焼きとうどんだった。おかしいな、大好きな炭水化物の味が、いつもと何か違わないか?口の中で溶けたたこ焼きの出汁で舌が火傷をしようとも、すすった麺の蒸気で咽せて、鼻から麺が出るという古典喜劇の定番ながら爆笑必死の展開があったのに、何事も無かったように麺を吸い込んだ。何も感じないんだ。また、今日も枕に埋もれた瞬間に泣き喚くのかなあ?そう思って部屋の灯りを消し、ベッドに入る。………あれ?普通に眠れそー?どうしてだろー?こんなにも辛いのになー。本当に辛い出来事があったのになあ。何かが……何かが違わないか?うーん…………?
翌朝、目を開いた瞬間に驚いた事はふたつ。ひとつ目は快眠であった事、もうひとつは華子の言った『りんごは恋の感情の重さを理解していない』だ。あ、あと、華子に揉みしだかれた胸がちょっと痛い。驚いた事はみっつだな。
恋は盲目。
そうだよ、これはわたしの恋であって、貴方の恋じゃない。バタバタとパジャマから制服に着替えるのだけど、何故か、今日に限ってスカートの前後ろを間違って、くるくる、くるくると回して、回して上手く履けない。靴下の上下を間違えて、足の甲に変な山が現れる。しかも、両脚とも。首にかけてボタンで留めるだけのリボンが、上手く……「ああっ!もうっ!」と言葉もバタバタしだす。髪の毛もボサボサ、顔も洗っていない、癖っ毛で跳ねた髪の毛がいつもよりひどくたって、そんなのは本当に微々たるもので、一秒でも早く、貴方に言わなきゃいけない言葉がある。
午前七時の古都に繋がる大きな森を従えた町を走る。その森に貴方は何百年前から住んでいて、何百年そこからこの町を見てきたのだろう。貴方は人間が好きだ。人間と結婚もした。それなのに、どうして森なんかに住むのか。一緒に町を歩いた日に『私はこっち、森の中。君はたぶんあっち、人の町。ここまでだ』と、人間と貴方が隔てられているって言っていただろう。貴方が森に住まないといけない理由は何?いつも、華子が『りんごは恋の感情の重さを理解していない』と言っていた。わたしは馬鹿だ。本当に恋という感情も、華子の言葉すらも、貴方の事も、“恋”をする事で脳が出す麻薬の快楽だけに浸かって、ちゃんと理解しようとしなかった。朝に白んだアスファルトの道から、樹々に頭を覆われる石畳の青い光に包まれた道を走る。石畳には薄らと苔が付いているから、走ったら危ないなんて分かっている。だけど、今は一秒でも早く。
深い森に続く道の途中に、睡蓮が浮かぶ美しい池があって、その畔に一軒の本屋さんがある。所々、剥がれている白いペンキで塗られた木造の古い家屋を何十年か前に改装し、一部を店舗としたらしい。小さな頃、大人に「あそこには行くな」と口酸っぱく言われた本屋さん。その本屋さんの主人は店に入るなり、必ず、こう言う、
「いらっしゃい。“とくに”声はかけない、ゆっくり見ていってくれ」
愛想がない言葉を並べるやさしく鳴る声は、彼の生い立ちがそうさせたものなのだろうか。彼は……、
彼岸の獣。
わたしは貴方が“とくに”と言った意味も考えなかった。わたしは、最初から貴方の事をこの世の生き物ではないのだからと接してきた。この世の物では無い異形だから差別や偏見に合うのだと。だから、やさしさが必要、思いやりの心が必要……とか違うでしょ。貴方はわたしと同じ、この世界の生き物だ。貴方は“とくに”と言って、話したがっていたでしょ。お得意の遠回しな文句で『話したい』って言っていたんでしょ。
本屋さんの戸が閉まっていたから、住居の方に回り玄関の扉を叩く。
「おはようございますっ!!りんごです!!」
何度ノックしても、呼び掛けても、反応は無い。どれくらいそれを続けたのだろう、ノックを続けた右手の指、第二関節が真っ赤になっていた。胸がざわざわしだして、何故か「大人なんだから夜に出掛けて、朝にいない時もあるよねっ」なんて考えて、それしか頭に浮かばないように溺れようとした。左脚の紐が解けたスニーカーを引きずって小走りに、生えた芝を剃るように、また本屋さんの入り口に戻る。いつかの小さな手書きの札が掛かっているのを見つけた。
『誠に勝手ながら、しばらく町を離れる為、お休みとします。来店ありがとうございました』
痛い、痛い。指も、心も、身体の全部が痛い。この間、華子の低反発お胸を借りて泣いた時の比じゃないくらいに痛いから「痛いっ、痛いよう!!」と、何度も叫び、泣き喚いた。
…………………………
実った恋は熟しても鳥には食べられない。
[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]
:第十一話「消えた獣と消えぬ恋」おわり。
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