:第九話「獣と生きる幾千の世界」
実った恋は熟しても鳥には食べられない。
[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]
:第九話「獣と生きる幾千の世界」
…………………………
−言葉という雨粒の、跳ねる音が綴り綴られ、会話となり、人生という本に成る。
わたしの恋。彼岸の獣と呼ばれる貴方にした恋。それは、まだこの社会で生きにくい恋。そして、まだこの社会で生きにくいはずの彼岸の獣である貴方。昨日、貴方にしてしまった事に胸が苦しくなって、華子の平らなお胸に甘えていたのだけど、『甘えるな』のひと言と共に頭頂部と顎に、それぞれ、一発ずつ華子の硬い拳が着弾した。わたしが「いきなり、何だよう!」と苦情を入れても、全く気になど止めていないご様子だ。そんな、華子が手すりに両腕を掛けて顔を埋め、初代校長の胸像を眺めながら「いつまでも甘えているんじゃない。りんごの恋だろう?」と彼女の長い髪が風に揺れる。そうだよっ、わたしの恋だけど!?それが、何かっ!!?
うん、わたしの恋だ。
うん?わたしの恋……だ?
これは、わたしの恋だから華子に泣き喚いても、わたしの感情が慰められるだけ……だ。結局、貴方にしてしまった事は変わらず、何の解決にもなっていない。
「りんごは恋という感情の重さを理解してるの?」
そう言って、華子がわたしを見る。
「“自分”だけじゃなく、相手の事も考えなさい」
華子の長い髪が風にさらわれ、顔を隠す。その奥にある表情が妙に大人びていたから、その美しさに小さなため息が漏れてしまった。華子のくせに、と、思っていたら、今度は“ぐー”の形にした拳を額に入れられた。よく分からない拳の連打に「さっきから、ガンガンっ、ガンガンっ!痛いよっ!!!なんなんだいっ、華子くんっ!!?」と訴えるも「私の胸に顔押し付けて喚いていた時!『うわあ、相変わらず華子胸無ェ!全っ然、柔らかく無ェ!』って思ってたでしょっ!!?」と詰められた。わたしは口を一文字に一瞬固まり、ゆっくりと初代校長の胸像に視線を移しながら「ソンナコト、ナイデスヨー?」と棒読みの抑揚で音符を再生するだけの蓄音機と成り果てる。華子が「やっぱり!思ってたんだなアァああアッ!!」と叫ぶや否や、わたしの育ち過ぎたお胸を鷲掴みにし、揉みしだきやがりました。
とぼとぼと旧街道の竹林を歩く。頭頂部と顎、額、そして、お胸が…………痛い。くそぅ、お胸が平らい組の華子は短気なんだから困る………。
今日も森の中にぽっかりと大きなひだまりがあって、そのあたたかい世界にお邪魔した。睡蓮が浮かぶ美しい池の畔を、水の中を覗くようにベンチの所にまで歩き、振り返って白く塗られた本屋さんを見る。竹や木、草花、土と水を上手に縫ってここまでやって来た風が、やさしく頰を撫でた。和洋折衷建築で建てられた家屋に塗られたペンキは剥がれた所もあるが、それが古い家屋を改装して出来た『Enfent』という本屋さんを語っている。池の畔からお店に向けて二十数歩、大きく開いた入り口へ三段、とんとんとんっ、と跳ね上がり、光が招き入れられる古いインクと紙、糊、木と貴方の匂いがする店内に一歩入る。すると、ここの主人は、必ず、こう言う。
「いらっしゃい。“とくに”声はかけない、ゆっくり見ていってくれ」
どうやら、“とくに”という言葉は常連客の中で、わたしだけに向けられているようだ。相変わらず、愛想がない言葉が、なるべくやさしく鳴るようにする声。わたしは貴方の人生という本に綴られる一ページ、いや、一行でもいいから多く記されたいと強く願っている。だから、行儀が悪いと分かっていても、貴方の本には土足で踏み込むからね。
その日は一昨日買った名作長編小説『獣の後悔と罪・上巻』を鞄から取り出して、レジカウンターの横にある小さな丸椅子で読む事にした。もう本を選ぶフリをして、貴方を盗み見るだけの時間が勿体ない。必ず貴方の視界に入る距離にいたい。わたしの視界いっぱいに入る距離に貴方が欲しい。貴方はチラッとわたしを確認してから、その大きな手に収まる本に目を落としたっきりだ。
華子が“相手の事を知るところから……”と言っていた。恋は想いを伝えるだけが、恋ではないのだと殴られた。だから、その凶暴な目が眼鏡越しに見る印刷された文字たちが「今日は、どんな本を読んでいるんですか?」と貴方に聞けばいいよって、教えてくれたのだ。いつも遠くから盗み見ていた貴方の目が、しっかりとわたしに向けられる。そして、再び、本に落とされ、栞が挟まれると、やさしく、ぱたん、と、本が閉じられたのだ。
「お茶を淹れよう。話はそれからだ」
今日はルイボスティーというお茶だった。紅くて甘い不思議なお茶。透明のグラスに入ったルイボスティーに光が入り抜けて、カウンターに落ちる綺麗な紅の光の球がゆらゆらと揺れる。それから貴方と本の話をした。貴方は古今東西、ジャンルを問わず様々な本が好きで、わたしたちの感覚で言う“むかし、むかし”から、ずっと読んできたのだと言った。
「本という物が素晴らしいと思った。たった数百頁の中にひとつの世界が広がっている。それが幾千万、幾億冊と存在している」
初めて貴方の声を聞いた気がした。貴方が本を好きな理由のひとつが、わたしと同じだったのが嬉しいなあ、とも、幸せだなあ、とも感じ、身体が痺れる。もうひとつ貴方が挙げたのは、文学という文化を持つ人間への敬意だ。わたしたちは貴方をはじめ彼岸の獣を差別し、“約束”を楯に社会で生きにくく、人間のいいように使っている。それをもってして「こんな文化を築いてきた人間は美しい」と言うのだから、心の糸が、きゅっ、と、締められる。
ぽつぽつと落ちてくる雨のように鼓膜を揺らす声が、次第に止みそうになっていくから、今度はわたしが言葉の雨を降らせて、会話という花に潤いを与えていく事にした。
「貴方が人間は美しいと言えるのが………わたしには分かりません。多くの痛みを与えているのに、どうして、そう思えるのか……」
貴方が目を細めた。
「だから、知りたいんです。わたしは貴方の事が好きで、大好きで仕方がないから……貴方を知る為に、貴方を取り巻く痛みを知りたいんです」
「私の話は聞いて気持ちのいい話じゃない。………それに君はまだ子どもだ」
「どうして……………わたしを遠ざけるんですか?」
「君が近付き過ぎたんだよ」
わたしは、
わたしは貴方の事が好きで、べた惚れで、大好きで、一目惚れで、近付くだけでも心臓が壊れそうになるのに、貴方は視界に入れようともしないから平気なんでしょう。だけど、わたしは……、
「わたしは貴方の人生に一文字でもいいから記されたい。出来れば、何百というページで最期まで綴られたい!」
「でもっ、そんなんじゃ、足りなくてっ!もっと!もっと!欲を言えばっ!!貴方と綴る本としてっ、一冊のっ………」
「こんちはーっ、友だちから聞いて来たんですけどーっ」
だんッッ!!!!左手にルイボスティーの入ったグラス。右手を“ぐー”の形にして、カウンターに振り下ろしていた。
「………あれ?今日、りんご来てないと思ったのに」
は、はっ!!!はああっ!なぁああああっ!!こおおおおおおおおお!!!!!
「華子くんッッ!!!!君はアッ!!君ってやつぁああアアっっ!!!!!!」
「えっ!えっ??何っ!?何で、りんご怒ってんの!??」と理解できないまま慌てふためく華子に乙女の鉄槌右ストレートを。
…………………………
実った恋は熟しても鳥には食べられない。
[Many fruits on the tree are fruits to be found by you.]
:第九話「獣と生きる幾千の世界」おわり。
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