第16話 エステルハージ侯爵の災難
「担保の鷹は返さないけれど……この間のカードゲームの貸し、なしにしてあげるから、わたくしのちょっとしたお願いごとを、聞いてくださらないかしら?」
「よろこんで!」
ふたつ返事が返ってくる。それはそうだろうと、マリア・テレジアは思った。
彼女は内緒で弓や剣の練習をするために、時々、侯爵の祖父と深い親交のあるオイゲン公に連れられて、エステルハージ宮殿ウィーン別館に出入りしていた。そんな時、お茶の時間に、カードゲームを、何度も持ちかけられ、その結果として彼女は、侯爵からウィーンの『エステルハージ宮殿、ウィーン別館』の権利証を手に入れていたのである。(※実は鷹は担保であった。)
こんな二十歳そこそこの若者との、カードゲームと言う名の心理戦、精神年齢が軽く千を超える彼女に、若き侯爵は敵にもなっていなかった。
一方の侯爵は、まだまだ死にそうも……いや、壮健で、未だに故郷のハンガリーでは、真のマジャールの王と呼ばれる祖父の先代、エステルハージ大侯爵(尊称)に、どういい訳したものかと、大いに悩んでいたので、子供の願いなど、たかがしれていると、大公女殿下の話に聞き入る。
その後、彼は、どこからか連れてこられた線の細い、男装した少女にしか見えない『ガレッリ』と呼ばれる青年と、『ガレッリの取説』、なにより気がかりだった『エステルハージ宮殿、ウィーン別館』の権利証を持って、嬉しそうな顔で、部屋をあとにしようとした。
しかしながら手招きをされて、かがんだ自分の耳元に入ってきた、大公女殿下のヒソヒソ声に、世の中にうまい話なんて、ひとつもないんだなぁと、大いに顔をしかめながら、心配そうな自分の騎士たちと、マリア・テレジアに、なにかささやかれて無表情な顔に、少し笑みを浮かべ、またすぐに元の顔に戻ったガレッリを連れて、エステルハージ宮殿、ウィーン別館に戻る。
「わたしが女大公になった未来、『金羊毛騎士団(Order of the Golden Fleece/ゴールデン・フリース騎士団)』の『
それが、大公女殿下の内緒話であった。
「……かわいそうで、くそったれの自分に乾杯……」
オイゲン公と親しい祖父に、うっすらと存在は聞いていた『金羊毛騎士団(Order of the Golden Fleece/ゴールデン・フリース騎士団)』の『
このマジャールの王の地位は、自分の誇りであり、手放すくらいなら、死んだ方がマシというものだ。
彼は、自分がまだ
「もう、解散したと聞いていたのに……大公女、あの年でやり手過ぎるだろ?……本当に6歳か? あれが男なら、ハプスブルクは、天よりも高く駆け上がっていただろうに……いやいや、ウチまでのみ込まれそうな気が……まだ、女でよかった?」
しかし、この話は聞いた以上、断れば『死』しかない。つまり大公女の手のひらの上にいる、かわいそうな子羊の自分は、彼女の意思で、
「多分、オイゲン公の甥あたりが、明日にでも、抜き身の剣を振り上げ現れて……」
『忠義一筋』
ハプスブルク家の人間が、カラスが白いと言えば、心から白いと思うであろう、あの男、『鉄血将校』こと、エマヌエル・トーマス・フォン・ザヴォイエンの顔が、脳裏に浮かんだ。
『金羊毛騎士団(Order of the Golden Fleece/ゴールデン・フリース騎士団)』の騎士でもあり、実質的には、あの男が団長のようなものだ。
「だめだ、あれを相手には、あと十年は、まともに勝てる気が……戦場で、どさくさに紛れてやってしまうか?……いや、次々と新手が湧いてくるな、どうやっても数で負ける……トルコの相手もあるし……」
彼は空のグラスを、雑にテーブルの上に置くと、豪華な椅子に身を投げ出して、頭を抱えてしまう。
「なにか、おっしゃいましたか? 聞きましたぞ! まったく、この宮殿を賭けに使うなど! 大公女さまが、小言だけでお返しくださったとか! あの方が慈悲深い方で、本当によろしゅうございました! 寿命が縮みましたぞ!」
「うるさい……もう、部屋に帰って寝ろ、年なんだから……」
乳母の代わりに、フサールとして参加する戦場で、幼い頃から自分の面倒をみていた、年で引退し、この『エステルハージ宮殿、ウィーン別館』の執事に落ち着いている、何も知らない『じいや』は、「
「……引き受けるしかないかぁ……まあ、あの大公女殿下なら大丈夫か? トルコのこともあるし、どうせ、この先は運命共同体ってか?」
彼は、そう言いながら渋い顔で、また、新しいワインを開けていた。
そう、確かにカール6世の『
マリア・テレジアの見つけた本にも、そう記され、名前が記載されていたらしきページは、切り取られていた。彼女はがっかりしたが、同時にひらめいていたのである。
『では、次期女大公のわたしが、新たに作ればよいのでは?!』
「いい判断よね」
侯爵がぶつくさ言っていた同時刻、マリア・テレジアは、深夜にもかかわらず、『打倒ポテチ計画』に向けて、様々な問題に密かに取り組みながら、そう自画自賛した。
それに、収穫がまるっきりなかったわけでもない。彼女は『鉛筆』の先祖、そんな黒鉛の筆記具で、切り取られたページの次のページを、慎重になぞると、その古典的な方法は成功し、紙が受けていた筆圧によって、そこには白く文字が浮かびあがる。
「これは今度、侯爵に相談ね。あと、わたしが女という絶対的な不利を、根底からひっくり返すためには、もっともっと敬われる……絶対的な神格化も必要……」
1713年、未来を見通したような、国事詔書(Pragmatische Sanktion、プラグマーティッシェ・ザンクツィオーン)は、発行されている。それにより法律上は、自分が、父であるカール6世の後を継ぐことに問題はない。しかし、それはあくまで、紙切れの上の話だというのも分かっている。
「フランツが戦争に向いていないのが、痛すぎるけれど、そこは仕方ないわね。その分は、わたしがなんとかしてしまえば、ポテチや周りを相手にするための軍資金は、とりあえず心配しなくてよくなりそう……結構やるわねフランツ、事実は史実より奇なり、見直したわ……」
当然ではあるが、カール6世は中継ぎの娘、つまり、跡取り男子を産んでくれる予定のマリア・テレジアが、政治どころか、まさか戦場の最前線まで、みずから参加するつもりだとは、まったく気づいていなかったし、彼女は彼女で、フランツの素晴らしさも、まだ全然、分かっていなかった。
「まだ子供だから、体力が限界……もう寝よう……フランツが一目ぼれしてくれて助かった……」
彼女は、やっぱり島国っていいわよね、起きたらオーストリアだけ、島国になっていないかしら? そんな、しょうもないことを考えながら、また暖炉の前で丸くなって眠る。
カトリック史上、最高の相思相愛のカップルになるはずのフランツとマリア・テレジアであったが、いまのところ、彼女にとって彼は、自分の大切な
それでも、そんなことは、彼女にとって大切なことではなかった。『源氏物語』では、幼い頃より女御として、后妃教育を受けて、国家と家の事情で入内(輿入れ)することに、なんの疑問もなく、次に生まれた現代においても、家の事情で婿を物色していた彼女は、そもそも『恋愛』なんて、絵物語の世界だと割り切っているので、なんら問題ないと考えていた。
彼女は白馬の王子様が、自分のところにやってこなければ、首に縄をかけて、自力で引きずってくる性格であり、いまのところ転生先でも恋なんて、現実の話ではなかった。
*
〈その頃、帝室財務府の壊された扉がある出入口〉
壊れた出入口には、マリア・テレジアに、一目で恋に落ちた、フランツのダメ出しの大声が、だだもれていた。
このために用意した、一番、長くて分厚いマントである。
「……この婚約、考えた方がいいよな」
「俺もそう思う……」
出入口を警備している大公女の騎士たちは、交代のたびに、そんなうわさをしていた。
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