べらぼうに美しい男が女を囲い込む話

日蝕

第1話

少し話があるから十時になったら居間に来いと言われていたのを直前になって思い出し、沙知子は家の長い廊下をやや足早に歩いていた。


沙知子の住む離れから居間のある母屋までにそれほどの距離はない。だが異様に長く、右へ左へキョロキョロと曲がった廊下を通らねばならんので大層時間がかかるのであった。居間に来いと言われた際には離れと母屋を繋ぐ渡り廊下を利用するのが通常であるが、母からの呼び出しによく遅れるきらいのある沙知子は庭を突っ切ればかなりの近道であることを知っていた。


離れの縁側に投げるように置いてあった草履をつっかけて、母屋の玄関を目指した。これで遅れることはないだろうと歩を緩めた矢先、奥の茂みの方からなにやらカサっカササっと葉が擦れる音がする。


泥棒かしらん。と茂みの辺りをしばし見つめていると、いま一度ユサユサと葉が揺れる。

--人にしては控えめな物音だわ


きっと鼠か、大きくても狸くらいのものであろうと沙知子は胸を撫で下ろした。そうしてほんのちょっぴりの警戒心を携えて--それでもやっぱり大半は好奇心から--茂みの方へと近付いていった。沙知子が注意深く目を凝らし、あと数歩で茂みに膝先が触れるというところで突然真っ黒の蛇が茂みの中から飛び出した。


沙知子は突然目の前に洗われた蛇にきゃあ、と思わず声を上げて後ずさりした。

「わ、わ」

叫んで助けを呼ぼうとしても意味を持つような言葉は出てこず、ただ振動が喉を数回鳴らしただけである。時間にしてみればほんの一瞬、それでも沙知子には永遠のように感じたが、ほんの一瞬だけ黒蛇と沙知子は互いを見つめた。


黒蛇は茂みから顔を出して今まで微動だにしない。鱗は模様1つ見当たらないほど真っ黒で、瞳は瞳孔まで紅に染まっている。沙知子はやっとの思いで、息を吐き出すように呟いた。


「わ、私。行かなくちゃ」


それが目の前の黒蛇に向けたものなのか、自らを奮い立たせる為かは分からなかったが、纏まった言葉を発することで全身強ばっていたのが少し緩んでいくようだった。


沙知子は黒蛇に背を向けて歩きだした。沙知子が歩き出してからも、黒蛇からは沙知子の背中をじっと睨めつけているようなじっとりとした視線を感じた。


不気味な蛇だわ、と沙知子は思った。美しい蛇ね、と沙知子は感じた。

美しいけれど不気味。

不気味だけれども美しい。

黒蛇の目の紅さだけがいやに頭にこびり付いていた。



玄関に着くと磨りガラス越しに男の背中がぼやけて映っていた。おおよそ母が応対しているのだろう。沙知子の母親は男に対する警戒心が非常に強く、父が連れてきた客人にも射抜くような目を向けるような人である。客人と2人きりにしたらまずいかしらんと沙知子が歩を早めたとき、母がカラカラと笑っているのが聞こえてきた。


ガラガラと立て付けの悪い玄関扉を開けると、沙知子を見て眉をしかめた母とハンチング帽を被った男の背中が視界に入った。


「まあ、沙知子。貴方また庭を通ってきたわね。朝露で着物が濡れるから止めなさいと、いつも言ってるでしょう」

「どなた」

沙知子は母の小言には耳を貸さず、ただじっと、目の前の男を見ていた。上等な絹の羽織と洋風なハンチング帽が妙に似合う背中であった。

「こちら、湊人さんよ」

湊人と呼ばれた男は沙知子を見やると薄く笑い「どうも」と言った。沙知子もはあ、とかはい、とか返した。ひょろりと細くて色白な男であった。


沙知子の家は古い和風建築の為、玄関は上がり框の造りである。玄関口の近くに立つ客人よりも一段高い場所で出迎える家の者の方が視線が高くなるようになっているのである。


出迎えた母からは男の顔が見えているのであろうが、男と同じように玄関口から入ってきた沙知子には背の高い湊人の目元は帽の影に隠れてしまってあまり見えなかった。薄く笑った口元と口の下の方にあるほくろだけが浮かび上がる様子はいささか不気味に見えたが、それでもかなりの美青年であることは察せられた。


「沙知子、あなた湊人さんを居間に案内なさい。母さんは茶菓子を用意するから」

母はそう言ったきり、台所の方へと消えていった。


突然に見知らぬ男と2人きりになったことに気まずさを覚えながら沙知子は「帽子を」とハンチング帽を受け取った。帽子を脱いだ湊人の顔を沙知子は改めて見やるとその美貌に思わず息を呑みそうになった。


儚げに伏せられた長い睫毛だとか、病気と見紛うほどの青白い肌であるとか、そういった細やかなパーツがピッタリと噛み合って、この世のものとは思えない程の美青年が目の前に立っていた。


「ご案内いただけますか」

沙知子がものも言えないでいると、湊人はにこりと、綺麗な笑みを浮かべて沙知子に問うた。


「え、えぇ。ごめんなさい。すぐにご案内させて頂きます」

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