結実した種は芽吹けど
ここまで来たと聞いてしまえば逃げ回ることもできなくなり、結局はもう一度会うことになる。週末には抜けられない予定があるから有休休暇を取ると言って、週の半ばに彼女の家との中間地点で会った。私はニット帽をかぶっており、それを見た彼女の視線が私の顔と頭部を行き来して、説明をせざるを得なかった。
「脱毛してしまったのですよ。眉も薄くなっているでしょう」
「今までのお薬では、大丈夫だったのに」
「仕方ないんです。活発な細胞を抑える薬ですし、人間の細胞の中で活発なのは毛根なんですから」
一瞬唇を噛んだ彼女は小さく溜息を吐き、こちらですと小さなビジネスホテルに私を導いた。
「疲れたら横になれますから、コーヒーを出すところより良いかと思いまして」
そこまで体力が落ちている気はしていなかったのだが、彼女からはそう見えるらしい。つい数日前に点滴の治療は一段落したので、副作用の手足の痺れさえ気にしなければ、少し休憩して勤めに出るつもりでいたのだ。それまでに、依頼の来ている文章を書けるだけ書くつもりで。
部屋に入ると、彼女は温かいお茶を淹れてくれた。
「ティーパッグを持ってきましたが、コーヒーのほうが良かったでしょうか」
時折しぶる腹とカフェインの相性は、実はあまり良くない。けれどそれを言ったら、彼女を傷つける気がした。
「どちらでも大丈夫ですよ。ありがとう」
ツインのベッドに向かい合って座り、彼女が口を開くのを待った。卑怯と言えば卑怯な対峙だ。
「再発されたのですか」
もう嘘を吐くことも適わない。
「そうです。正確に言うと、原発と違う場所に転移があった。それの治療が始まったわけです」
「先日、旅行に行ったときには、もう健常に近いと。嘘だったのですね」
「そう思いたかったんです。実際はあのとき、診断が下りていましたが」
なるべく正直に答えて、そのうえで理解してもらおうと思った。ばれてしまったのだから、それ以外に何の手立ても考えられない。
「では、実家に戻られたのは」
「母が心配なのは、本当です。不肖の息子でも、電球を変えたり風呂の掃除をすることくらいはできますから」
実際のところ、それはそんなに遠くに住まっているのではない姉と甥が、ずいぶんと手伝ってくれているのだが。
「何故、病状を私に教えてくださらなかったのですか」
これだけは、正直に真摯に答えなくてはならないだろう。そのうえで、私の決断を話さなくてはならぬ。現在よりも、数ヶ月、数年あとの話を。
「はじめの手術のとき、私のステージはすでに高かったのです。けれどまだ、転移は可能性だけだった。それがはっきりしたのが、夏に入ったころだ。一生懸命私の部屋に通ってくるあなたに、それは言えなかった」
「何故?」
「自惚れでなければ、あなたに悲しい思いをさせるから。その前に、僕から離れてくれれば良かったのに」
「私が悲しんだとしても、それは私の感情です。先生は私を必要となさっていない?」
「芙由さん。僕はあなたに、何も差し出すことができない。あるのは危うげな未来だけなんだ」
唇を強く噛んだ彼女が、向かいのベッドから立ち上がって私の腰に縋った。
「苦しいとか悲しいとか、そんなものは先送りにできます。私は今が欲しいんです」
「一瞬先も未来なんですよ」
そう言って私は、彼女ごとベッドに転がった。
「先生は、何もわかっていらっしゃらない」
腕の中で彼女の、くぐもった声が聞こえる。
「現在の私が、どれだけ先生を必要としているのかなんて、考えてくださってもいない」
こんなに慕ってくれる彼女を、私の人生から切り離す必要が、本当にあるのか。激しく煩悶しながら、彼女の髪を撫でる。そして彼女を抱き留めた腕に浮き出た血管や、手の甲に浮かぶシミを目にするのだ。こんな腕で抱き寄せたとて、それ以外の何ができよう。彼女の気持ちに応える材料は、ひとつもない。
「芙由さん、僕はあなたにこれからの僕を見せたくない」
「わかりません」
「理解してくれなくても、転移する前からぼんやりとは考えていたことです。あなたは僕以外の何かを見るべきだ」
「そんなものはいらない。今ここで人生が終わるなら、それが一番いい」
私の薄い胸に顔を寄せて、彼女はいやいやと首を振る。けれど私は、彼女を苦痛の道連れにすることだけは、どうしてもしてはいけないのだ。
「あなたの人生が続いてもらわなくては、困るんですよ。僕は最初のときから、あなたを覆っている気鬱を取り払って欲しいと思っていた。あなたは若くて健康で、綺麗なんです。そしてもっと綺麗になることができる。それを見るのが楽しみだったんです」
自分が口から出した言葉が、すでに過去形だということに気がつく。大丈夫だ、私の方向はぶれていない。彼女が納得しようがしまいが、私から線引きをするより外ない。
「私はそんなに強くありません。先生にもっと寄り添って、先生と言葉を交わして」
「いつまで可能かは、わからないのですよ」
彼女は小さく息を飲んだ。私もこれを言うつもりは、なかったのだ。
「諦めているわけではないと、先に言っておきます。だから必要な治療は受けますし、仕事だってします。まだ書きたいものがあり、見ておきたいものもあるんです」
そう言って彼女の横から起き上がり、ベッドのヘッドボードに寄りかかった。
「可能性の問題です。ここから先、僕の完全治癒は難しい。身体の中に小さな爆弾をいくつも抱えて、それが着火しないようにするだけなんです。そして考えたくないことですが、数年後に着火していない可能性は、十パーセントにも満たない。僕はそれに怯えて、オロオロハラハラするでしょう。そんな僕を見て、あなたが心を傷めないはずがない。だからこれ以上、近くならないほうが良いのです。あなただけではなく、苦痛を強いている僕も不幸になる。そんなのはごめんだ」
最後の言葉だけ、我にもなく強くなった。
「心配してはいけませんか。痛みに寄り添いたいと思っては」
なおも言い募る彼女に、これ以上強い言葉は使いたくない。
「僕の痛みは、僕のものにだけしておきたいんです。僕は欲張りなので、自分のものを他人に分け与えたくない」
彼女はしばらく仰臥したまま、何か言葉を探していた。そして起き上がり、私と向かい合うように座り直した。
「先生は、私がこれからどうすれば良いとお考えですか」
これについてのイメージは、私の中にある。
「僕とあなたの関係を、梅を観に行った前に戻すだけです。もうあなたを脅かす男は大人しくなったのだし、ゆっくり習い事を楽しんだり話題の本を読んだり、もともとあなたが時間を割いていたことがあるでしょう。それにほら、昔馴染の人に仕事を手伝ってくれと言われたんでしょう? きっと忙しくなりますよ」
そうやって何もない日々を平穏に、微笑んで生きてくれることこそが私の望みなのだから。
「電話したら、受けてくださいますか」
「今まで通りです。受けられないことが多々あります。メールの返信も、遅いです」
「どうしても会いたくなったら、どうしたら良いのですか」
「呼んでください。ただ僕は、厄介な病気の他に毎日の勤めがあって、しかも文章を捻り出す仕事もあります。ですから、それほど多くの時間はありません」
目をぎゅっと閉じ、唇を噛んで下を向く彼女を見ていた。うっかりとその肩に手を伸ばし、本当はまだ同じ時間を過ごしたいのだと言いたくなる。こんな表情をしていても、彼女は綺麗だと思った。
「治療の甲斐あって、先生の身体から悪い細胞が消えたら」
声が潤んでいることに、気がつかないふりをした。
「そうしたら、あなたにこんな話をしたことを後悔して、地団太踏んで悔しがります。今更遅い、ざまあみろと笑ってください。それから闘病記でも書きましょうか」
上目づかいで私の顔を睨んでいた彼女は、ふと視線を外した。窓の外は、そろそろ日が落ちる時間の色になっていた。
「先に出てください。僕がチェックアウトして帰ります」
彼女の目が、問うように動く。
「見送られるより、見送るほうが寂しいものです。僕はもう少しこの部屋で休憩してから帰ります」
私の言葉に、彼女は大きく顔を歪めた。
「そうやって、先生は先回りして私の感情を決めてしまう。それが優しさだと、知ってはいました」
けれど泣き出すことはせずに、彼女はバッグを持って会釈し、部屋から出て行った。
ヘッドボードに寄りかかったまま、しばらく暮れていく街を見ていた。そして頭に手をやり、ニット帽の位置を直す。おそらくこれで、正しいのだ。
こぼれ種で芽吹いた芙蓉を抜いてしまうのが可哀想な気がして、庭の隅に転がっていた鉢に上げてみた。まだ弱々しい枝が、何とはなしに彼女を思い出させる。この枝が逞しく育って、花をつける様子を見たいと思う。
医師との相談で肝臓は切除せずに、薬を組み合わせながらの治療を選んだ。組み合わせによっては効果が期待でき、今は隠れている細胞を抑えることができるかも知れないとのことだった。ただし、医師は言い切りの形では話さない。
少し距離は長くなったが勤めにも復帰し、気遣われながらも業務をこなしている。オフィスのために綿素材の地味なニット帽を買い、客の相手をする仕事でもないしと許可をもらった。相変わらず腹はしぶるし手足は痺れるが、時間をかければ普通の食事もできる。低値安定ではあるが、生活は落ち着いてきて、このままどこまでも続いて行くような気がした。
彼女からの電話は、三度に一度くらいしか取らなかった。時折こっそり彼女のSNSを覗いて、映りこむ指先や影で満足しようと自戒する。美しく活けた花や外食のテーブル、歩きながら見る夕方の景色、そして最近加わった店舗の店先がある。週末に私の部屋に来る習慣がなくなったことで、彼女の生活範囲は幾分広がっているように感じ、私はそれに満足するべきだ。抱えていた何かが腕をすり抜けて行った感覚は、お門違いというものなのだ。けれどときどき、どうしても彼女の面影を見てしまう。木を仰ぎ見る顎の線や少し撫で肩の後姿や色白の小さな顔が、ただひたすらに愛しくて、会いに行くべきだと内なる自分の声がする。
いいじゃないか。どうせ死んでしまうんだから、それまで彼女を振り回したって。きっと彼女は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるし、私の不安定さも飲み込んでくれる。
そんなわけにいかないと、また別の強い声が言う。彼女はそうやって自分を壊すほど、振り回されたことがあるじゃないか。それをまた私が繰り返そうというのか。絶対に、それだけは絶対にいけない。あの窶れた姿を覚えていて、そんなことができるわけがない。
秋の台風で、古い家が揺れる。自分の部屋の畳の上に置いた学習机に頬杖をつき、雨の音を聴いた。あの日の雨は、もっと激しかった気がする。ひどく暑い日で、彼女を部屋に導いたときにすら、あんなことになるとは思わなかった。呼吸音と私の背に食い込む指の力が、まるでつい数分前のことのように私の中に蘇ってくる。ここで死にたいと言った彼女の声すら、まだ部屋の中に漂っている。
忘れようとも消化しようとも、思ったことはない。これをすべて抱えたまま、生きていくのだ。そんな覚悟はこの家に戻ったときにで来ていたはずなのだが、芙蓉の花の下に彼女を探す習慣を、どうしたら止めることができるのか。
編集者に渡したプロットは、地味ですねと感想があってから通った。書下ろしの形になることが決まって、原稿はできつつある。先日出版したものが賞にノミネートされたらしいが、だからと言って私の生活が急激に変わるわけじゃない。キーボードを打つ手はこれまでにないほど動き、頭の中でイメージが舞う。こんな感覚は久しぶりだ。平日は体力が続かず、パソコンを枕に寝てしまうこともしばしばで、やめてしまえと母に言われた。体力が回復してから仕事を受ければいい、今書く必要はないじゃないかと。母は、創作にもタイミングと波があることを理解しない。時間があるから書けるわけではなく、筆の乗っているときに他の用事で途切れると、浮かんだ表現が消えてしまうと説明しても、それをメモしておけば良いと譲らない。こういうときは、元の妻を思い出す。あれは私が自室に籠っている間は、けして邪魔しなかった。
好き勝手に過ぎた人生を送ってきたから、現在があるのだ。夢に見たような老後など諦めたつもりだったのに、彼女に会ってまたぞろ憧れが顔を出してしまった。いけないぞと自分を戒めながら、うかうかと脳裏に花を咲かせた。
木枯らし一番が吹くころに、彼女と待ち合わせて銀杏並木を歩いた。冬のコートを着た彼女は、とても綺麗だった。銀杏並木が輝いて見え、立ち寄ったカフェのカップですら美しく、世の中はこんなに美しいもので溢れているのかと、ただキラキラと輝く人の営みに目を瞠った。彼女は新しい仕事が楽しいと言い、生き生きした顔で笑ってみせた。私が見たかったのは、この顔だった。
別れ際に見せたせつない表情は、彼女もまた何かを堪えているのだと饒舌に語っていた。
「また、お会いできますか」
「予定が合うときを探しましょう」
腫瘍マーカーの値は、ゆるやかに上昇していた。
一度だけ、彼女の住む場所まで行ってしまったことがある。休みながら数時間運転して、彼女のSNSで見たフローリストナガオの店舗まで行った。車の窓から、黙って接客する彼女の笑顔を見ていた。店主と思われる若い男は、誠実そうに見える。傍から見れば、仲の良い夫婦に見えるだろう。停まったままの車に気がついた彼女が怪訝そうな顔で運転席を見、私に気がついて驚いて走り寄ってきた。
運転席から降りて、持ってきた新刊の本と鉢に上げた酔芙蓉を渡した。
「いやだ先生、言ってくだされば」
「あなたの普段の顔が見たかったのです」
発進した車のバックミラーに、エプロンを握りしめた彼女が見えた。笑顔で日常を過ごすことができている。それを確認できたことがとても嬉しくて、ハンドルを握りながら彼女の笑顔を何度も反芻する。彼女は、世界はとても美しい。
ビジネスホテルの部屋で駄々をこねながら、私もまた終わりなのだと感じていた。寄り添った彼の身体からは、知らない匂いがした。おそらく病気と薬の影響で、彼の持つ身体の匂いが変わったのだ。
どんなに一緒にいたいと叫んでも、彼は私を突き放すだろう。彼はもう決心してしまっていて、覆すことなど到底できないのだ。私が駄々をこねればこねるほど、彼は傷ついていく。あれ以上彼の心を煩わせたくなかった。彼を部屋に残して駅まで歩いた道で、涙は出なかった。その代わりにどうしようもない寂寞と虚脱感が、私の身体を重くした。
恋が終わらない。言葉や物理的な距離だけでは、私の恋が終わらない。終わったのはこれ以上の関係を築こうとする部分だけで、それ以外の彼を恋しく思う気持ちが止まないのだ。
もう私を腕に抱いた彼の息遣いを聞くことはできない。狭い部屋の中で、寝転ぶ彼の横に座ってお喋りすることもない。そんなことはとうにわかっていたはずなのに、まだいつか再び訪れる日だと思っていた。
今が欲しいだけのはずが、本当は未来を欲しがっていた。いつか、いずれ。彼の身体が回復し、ふたりで散歩をしたり一緒に昼寝したり、彼の新しい小説のプランを話してもらったり。ああそうか、夢見ていたのは未来だったのか。
それでも僅かな繋がりを求めて、彼の絶版になった本を古本屋で取り寄せてみたり、夜に電話をしてみたりする。声の調子が良ければ、少し長話もした。外に出ませんかという誘いに乗ってくれたのは、たった一度だけだ。昼食を一緒に摂り、短い時間の散歩をした。
「このごろ、いろいろなものが綺麗に見えてしかたないんですよ。何を見ても綺麗でね、この銀杏並木なんて眩しいくらいだ」
そんなふうに言い、通りを眺めていた。以前と顔色は変わらず、あれ以上痩せた様子もなかったのだが、この言葉が彼の病状を物語っていた。快方に向かっているのではないと。
しばらく戸惑っていた長尾君の店の手伝いは、慣れてくると楽しいものになった。自分が玄関やリビングに飾りたいとカタログから選んでディスプレイしたものを、客が楽し気に買っていく。インテリアに溶け込む花瓶やバスケット、庭仕事あとに庭に置きっぱなしでも目障りでない道具類。
「やっぱり女の視点だよなあ」
そう言って褒めてくれる長尾君は結構忙しくて、彼が配達などに出なくてはならないときは、お母さんが店にいるらしい。ふたつの店舗を家族で回すのは、思ったよりも大変だとぼやく。空いた時間に小物を選んだりディスプレイを手伝ったりするだけの予定だった私は、わりと早い時期に、日曜祝日の朝の開店準備まで手伝うようになっていた。もう少し売り上げが上がってアルバイトを雇えるようになるまで、と長尾君は私に頭を下げた。新しい住民たちが求めるものの少ない場所で、長尾君の目論見は当たり、早くも固定客を掴みはじめた。世間話の中で情報を仕入れる手腕は、彼が都会で有能なビジネスマンだったのではないかと感じる。
「なんかさ、隠れ家カフェっていうの? そんなのができたんだって。店閉めたら行かない?」
「そんな小洒落た店、この辺で需要があるのかな」
「結構流行ってるらしいよ。オジサンひとりで、そんなとこ行けないし」
「やめてよ、長尾君がオジサンってことは、私はオバサンじゃないの」
「三十路過ぎよ、俺たち。まあ田舎にもニューウェーブが来たってことだよ」
同級生同士の気楽さで、ときどき一緒に行動する。個人的な話をするような人間関係は、今まで彼以外と築きたいとも思わなかったものだ。
彼が電話を受けてくれる回数はますます減り、その代わりのように文芸誌に連載がはじまった。それを何度も読み、感想をメールにしてみたりしたが、とても短い礼の返事があるだけだった。冬の間に彼について知ったことは、体重は変わっていないということと、庭の椿の木の花の色くらいだ。仕事には行っていると言うけれど、体調については一切話してもらえない。
何度も会いに行こうと靴を履き、そのたびに彼の決意の深さを思った。彼は、これからの僕を見せたくないと言ったではないか。見せたくないものを無理に見に行って、どうしようというのか。
フローリストナガオの店頭にいると、奥さんと呼びかけられることが多くなった。違いますよと何度も訂正することも億劫になり、常連客以外には返事をしてしまう。ときどき長尾君の甥が、小さい子向けのサッカー教室の帰りなんかに寄っていく。長尾君のお母さんは、もう就学間近になった子供の相手が疲れるらしく、かと言ってひとりにしておける大きさでもないので、どうしても長尾君の負担が大きくなるのだ。
「まあ、姉ちゃんがあんなことになったとき、手伝ってくれって言われたのはそういうことだから。それを俺が勝手に商売広げたんだし、忙しいのは仕方ないなあ」
飄々と言いながら、客がいない時間に通りでサッカーのドリブルにつきあっている。帰ってくるまでは、聞いたことのある会社の営業マンだったらしい。
「結婚しようかって女もいたんだけどね。田舎に帰って花屋をやるって言ったら、じゃあねってさ」
軽く言葉にはしても、彼にだってたくさんの葛藤があって、眠れない夜を幾晩も過ごしただろう。辛い経験をしたのは、私だけじゃない。心に何か抱えている人間なんて、珍しくないのだ。他人の不幸を願っているわけではなくとも、自分だけが重い荷物を持っているのではないと安心する。
冷たい風の中に梅が咲く。去年梅園を歩いたとき、もう彼の胃の中では、良くないものが育っていたのか。そうだ、彼はしきりに胃の辺りに手をやっていた。なんてことだろう。彼の病と私の恋は、同時進行だったのだ。そうしたら、私が恋を諦めれば、彼の細胞も諦めてくれるのか。自分の思いつきが正しいことのように思えて、口を押さえた。それならば、どんな手段を使ったって彼を忘れてみせる。それで彼が助かるのならば。馬鹿なことを、と自分で思う。宗教に頼るひとの気持ちがわかる。溺れているときに目の前に浮いているものがあれば、藁だって掴みたくなる。
ひとりでいると彼のことばかり考えてしまうので、フラワーアレンジメントの他にチケット制の料理教室を見つけて、申し込んだ。アウトドアな趣味でもあれば違った楽しみがあるかと、調べたりもする。それなのにベッドに入った瞬間に、彼の実家の芙蓉の木が頭に再現されるのだ。あの枝が張り出した門柱の横に座れば、また彼が見つけてくれるかも知れない。
パンジーや雛菊が店頭に並ぶころ、店の前に見覚えのある車が停まっているのが見えた。別に珍しい車種ではないし、花の苗を車で買いに来る人も珍しくはなく、通りの多い道でもないのだが、運転手はいつまでも車から降りて来なかった。それなのに、顔はこちらを向いているようだ。おかしな髪型だと思い、それが黒っぽいニット帽だと認識したときに、私は小走りに走り寄っていた。
ウインドウをゆっくり下げて、彼は微笑んだ。
「元気な顔が、見たかっただけです。笑顔が見られて良かった」
「いやだ先生、言ってくだされば、いつでも私から伺うのに」
「あなたの普段の顔が見たかったのです。それに、渡したいものがあった」
渡されたのは、少しだけ育った芙蓉の苗と新刊の本だ。
「庭の芙蓉が、こぼれ種で発芽したものです。こちらは連載中に感想をいただいていたものを、纏めた本」
受け取りながら、助手席に何か乗っているのが見えた。あれはパルスオキシメーターと、酸素吸入器だ。頭をガンと殴られたようだった。
「仕事中にお邪魔して、悪かったね」
先生の車が角を曲がるのを、立ったまま見送った。
私が動けないでいるのを見て、長尾君が寄ってきた。
「すごい顔色だぞ。なんだ今の、知り合いか?」
そのときの私は、何も見ていないような顔をしていたらしい。
「あのひと、死んじゃう」
これはあとから、長尾君に聞いたことだ。
「死んじゃうの。自分でも知ってるの」
無表情で繰り返す私が、とても怖かったと長尾君は言う。バックヤードに座らされた記憶は、うっすらとある。気がついたら私のアパートのベランダには、鉢植えの芙蓉が置かれていた。
彼から電話が来たのは、もうすっかり桜が咲くころだ。
「先生から電話をくださるなんて」
「あなたと桜を見たことは、なかったなと思って」
記憶より、声が細い。
「行きましょう、桜を見に」
彼は少しだけ笑ったようだった。
「この部屋から、細い桜の木が見えます。少し離れた場所にも、何本かあるようだ。咲くのが楽しみです」
呼吸音に雑音が混じる。何の音かわからないが、ひどく耳障りに感じた。
「ご自宅に桜が?」
この質問に答えはなく、それが自宅でないことを語っていた。
「先生、一緒に桜を見ましょう。そちらに伺いますから」
「またいつもの、短い入院です。どういうわけか、今晩はあなたの声が聞きたくなってしまった。消灯の時間になってしまいました。おやすみなさい」
唐突に切れた電話で、時計を確認した。二十一時ちょうどだった。
その後彼との連絡は途絶えたままだった。電話をしても、自動音声で電源が入っていないとメッセージが流れ、メールの返事もない。入院先は知らず、彼に繋がる人の連絡先も知らない。悶々と桜の時期が過ぎ、いっそのこと彼の自宅をもう一度訪ねようかと決心したころ、朝一番に開いたスマートフォンのネットニュースが目に飛び込んできた。
ペンネームのあとに、本名が続いた。かねてより闘病中だったけれど、一週間前にに息を引き取った、とあった。短いプロフィールと、今年の文学賞の最有力候補と言われていることが記載されていた。
何度読んでも意味がわからず、文字だけを追う。同じ名前の誰かかも知れないと思い、逆に時が来たのだと思い、もう一度記事を読む。
あの電話が最後だったのだ。あの短い会話が!
かろうじて、会社に休暇の連絡はしたらしい。したらしいというのは、自分自身が覚えていないからだ。ふらふらと外に出て、駅に向かう途中で長尾君に掴まったらしい。これも実は、あとから聞いたことだった。
覚えているのは、山ほどの花と一緒にフローリストナガオの車に揺られ、県境を超えたことだけだ。
この辺りかと確認されて、見知った道を彼の家まで案内した。長尾君が玄関の引き戸を叩き、出てきた彼のお姉さんに挨拶しているのを、門柱の横から他人事のように見ているだけだった。芙蓉はまだ蕾もなく、ただ初夏の柔らかな葉が枝を美しく見せていた。ぐっと背中を押され、お姉さんの前に出されたことは覚えている。
長尾君が車から積んできた花を下ろし、飾らせていただきますと、家の中の案内を乞う。そのときになって、やっと彼の祭壇がここにあるのだと気がついて、悲鳴を上げた。
「いやだ、どこに花を飾ろうっていうの? 何のために?」
大きな声に驚いたお母さんが玄関に出てきて、サンダルを履こうとする。慌ててお姉さんが走り寄って、お母さんを押し戻した。
「お母さん、まだ寝ていなくちゃダメ!」
その言葉で、目が覚めた。他人の家の庭先で大声を出し、泣き喚こうとしている女がここにいる。
落ち着いた私を確認して、お姉さんが家の中に導いてくれる。そこには真新しい祭壇と、一番上に乗せられた穏やかな笑みの彼の写真があった。お姉さんがお茶を出してくれ、私をここに運んできた長尾君といえば、普段の仕事と同じように祭壇に手を合わせてから、持ってきた花で祭壇を飾っていた。バックヤードに私を座らせて、ありったけの店の在庫をオアシスに挿してきたものだったそうだけれど、それを知ったのは私が再度店に出られるようになってからだ。思えば彼には、友情以上の世話になった。
連絡を差し上げようかと思ったのだけれど、と申し訳なさそうにお姉さんは言った。
「浩則から見舞に呼んで欲しいと言わない限り、私たちも勝手ができなくて」
「春先に、お電話をいただきました。短い入院だと仰って」
また嘘だった。あのとき彼はすでに、緩和ケア病棟に入っていた。生き延びるための治療ではなく、苦痛を取り除くためのケアをしてもらいながらも、目が覚めているときは小さなパソコンに文字を打ち込んでいたと。
「それがねえ、こんなになっては書けないわね」
お姉さんが白い布に包まれた四角い箱をポンと叩く。それが今の彼の姿だった。
憔悴した顔のお母さんが床から出てきて、挨拶をしてくれる。
「どういうわけか、あの子は毎日門柱まで出て行ってね、芙蓉の木を眺めていたんですよ。若いころはそんなに好きな花だと思わなかったんだけれど、好みが変わったんでしょうかねえ」
訥々とした言葉と同時に、私の手は箱に伸びた。祭壇に置かれたそれを、失礼にも胸に抱え込み、耳をつける。
「探していてくださったのですか?」
質問に答えはない。
「ねえ、先生。私を探してくださったのでしょう?」
何度質問しても、箱から声は聞こえなかった。
長尾君に促されて車の助手席に乗った。はじまった夕焼けが、白い雲を紅に染め始めていた。まるで芙蓉の花が、夕に向けて染まっていくように。
fin.
芙蓉の宴 春野きいろ @tanpopo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます