萎みて落つる名残の紅

 パソコンの前に座っても集中力が続かず、食事が済むと眠くなってしまうのを、体力が落ちているせいだと思っていた。どんなに寝ても朝に倦怠感を残る日が、何日も続いている。考えたくなかったことが現実に迫って来た日、自分の濁った白目を鏡に認めた。

 予約よりも早いがと病院に電話を入れ、医師と直接話すことができた。翌週の検査を決め、勤務先の上司にもそれとなく話した。長々と迷惑を掛けているのは承知しているが、どうしようもない。

 胃を切ったときは、自覚症状はなかった。自覚症状があるということは、それだけ重症だということなのか。まだ検査もしていないのに、あれもこれも考えて、全身が疲れているのに眠れない。驚くほど身体を動かすことが辛くて、駅の階段は手すりに縋って上った。


 こうなる前に母に顔を見せられたのは幸いだった。とても痩せたけど、思ったより色艶は悪くないから早く治るね、と母なりの言葉で労ってくれた。休薬していたので母の手料理を食べても腹は下さず、吐き気も来なかった。縁側から眺める道は子供のころより車の通りは多くなったが、近所の家が古くなっただけの変化で、庭には母が丹精している花が咲いていた。育った家の古い匂いと、学生時代に使っていた学習机の傷が、ここが自分の原点なのだと改めて自覚させる。

 そして大きく育ち過ぎた芙蓉の木が、花の盛りを迎えていた。

「通りの邪魔になるから、少し切っておこうか」

「そうねえ。母さんじゃ手が届かないのよ、浩ちゃんなら大丈夫かな」

 どうせなら花瓶に活けて玄関に飾ると言うので、水揚げをするために茎の皮を剥くのも手伝った。母と隣り合って作業をすることなど、ついぞなかったことで、丸まった背中が小さくなったと思った。散々心配させてきた不肖の息子は、母が小さく丸まった晩年になってさえ心配させている。せめてできることならば、これ以上この人が気に病むようなことはしたくない。

 そう思っていたのに。


 姉には検査前に連絡をした。どんな些細なことでも報告が欲しいと言われていたのは、私がひとり暮らしで回りに頼る人がいないからなのは知っている。

「離婚なんてしなけりゃ良かったのよ。どんなに仲の悪い夫婦だって、倒れている人を放ってはおけないんだから」

 姉はそう言って溜息を吐いた。

「できるだけの手伝いはするから、頑張ってちょうだい。まだ人生の半ばなんだからね」

 言葉尻は厳しいが、姉はずっと私の身体を気にかけ、折々に連絡をくれる。実家にもひと月に一度は顔を出し、母の様子を常に気にしている。これが産む性、育てる性の特性であるのか、姉の性格に拠るものなのかは知らない。

 姉との電話を終えたあと、少し考えたあとにすぐに連絡をしてしまうことに決めた。早くしなければ、彼女は動き出してしまう。


 こちらに転居する計画を延期して欲しい、と言った。

「何かあったのですか」

「僕があなたを迎える準備が、できないのです」

「先生は、何もなさる必要はないのに」

「母の介護が必要になりそうで。僕が転居する可能性が出てきました」

 これくらいの嘘は許されるだろう。実際、母の家は昔のように整ってはいなかった。身体を動かすのが億劫になった証拠だ。

「お勤めはどうなるんですか」

「通勤時間が少々長くなりますけど、一時間程度ですから」

 想定できる範囲の問答で、彼女は会話を終える。これで納得してくれたとは思えないが、手遅れになるよりマシだ。彼女に馴染みのない場所まで連れ出しておいて、梯子を外すようなことはしたくない。

 悲観的に考えているつもりではなくとも、彼女にだけ負担を強いるようなことはしたくなかった。可能性だけで考えれば、私が数年後に健康を取り戻すことよりも、彼女が生活力のある男と巡り会うほうが大きいのだ。彼女がどんなに残念に思ってくれたとしても、私に考えられる現在の最善の策を進めよう。


 彼女が部屋に訪れたとき、私はまた寝ていた。朝はいつも通りに目覚めたのだが、どうにも怠くて横になっていたのだ。

「お加減が悪いのですか。どうぞ寝ていてください」

 お言葉に甘えて横になり、彼女が台所で何やらしているのを見ていた。その後ろ姿の健康さに、羨望が湧く。本当ならば彼女を座らせて、私がお茶を振舞うべきだ。彼女の好きな菓子を買い求めておいて、喜ぶ顔を楽しみにするものだ。それを何事もない顔でやすやすとこなしていく彼女の、柔らかさの中にしなやかさを秘めた肉体は、現在の私がいくら切望しても得られない。

 ふと思う。彼女に性欲はないのだろうか? そんなわけはない。はじめて身体を繋いだ日も、退院してからの旅行も、彼女はしっかりと女だった。ではその欲望を今は抑えているのか? 健康な男であれば満たしてやれるものを、自分の肩を抱えながら待っているのだろうか。

 私もまた、彼女の肌に触れたい。あのしっとりと表面の冷たい肌に触れ、柔らかな肉を食み、私を受け入れて震える肩を引き寄せ、昇りつめていく唇を唇で塞ぎたい。それができない私は、男として価値がないように思う。

「芙由さん」

 彼女の後姿に声をかける。振り向く笑顔は、今まで見た誰よりも美しい。こんなに美しい人を、これまで見たことがない。


 私が横になっている隣に彼女も寝転がり、一緒にゴロゴロする。冷房は入れてあるが、カーテン越しの日差しが思いの外強くて、並んだ皮膚にうっすらと汗をかいた。彼女は私の胸に耳をつけ、心臓の音を聞く。艶のある髪が、私の顎をくすぐった。

「こうしていることが、とても幸せなんです」

 その言葉の健気さに、平伏したくなる。

 手紙をもらったからといって、会いになど行かなければ良かった。彼女が弱っていた日、歩きながらスマートフォンを耳に当てている彼女を想像しなければ良かった。梅を観に行った日に、家まで送らなければ。家まで来てくれた日に、姉を引き留めて同席させれば。がんであることを、打ち明けなければ。旅行に出た日、彼女と同衾したことも。

 ああ、やはり恋になどしなければ良かったのだ。着衣の上から彼女の身体を確認し、髪の香りを吸い込む。こんなに愛しいものに悲しい思いをさせるくらいなら、恋にしてはいけなかった。

 まだ検査もしていないのに、もう先が見えている気がする。五年生存率を検索し、ただ予感に怯えている。死にたくないと思うのは、生きるものとしての本能か。


 それでも本が出版されたのは、良いニュースだと思う。出版社が力を入れてくれたのか、私が使う駅の本屋でも平積みにされていて、久しぶりに表現者の矜持を感じる。ネットの書評は覗かないと自分を戒め、それでも気になって仕方がない。

「先生、とても評判が良いです。この調子で次に行きませんか」

 担当編集者から連絡が入り、雑誌への短編の依頼を受けた。短編のストックはあることだしと依頼を受け、そのまま提出する。少なくなった所得を、これで補填できる。

 たとえば離婚せずに、妻の所得に寄りかかって生活を続けていたとしたら、こんな心配は必要なかった。けれどあの飼われているような気持ちが金銭や住居の心配を凌駕して、あの生活から抜け出したのだ。思えば元の妻には、無駄に時間と金を使わせたものだ。


 検査の日が翌日になっても腹は括れず、身体の中の全てに死への恐怖が渦を巻く。まだ診断も下されていないのに、末期患者のブログばかりを読み漁る。食事療法、温熱療法、非科学的な参拝や、奇跡的に寛解した話。

 まだ書いていない小説があり、慈しみたい人がいて、母や姉への感謝だってこれからしようと思っていたんだ。還暦を過ぎてからの生き方なんて考えたこともなかったのに、自分は当然老人になるつもりでいた。

 死にたくない、死にたくないんだ。そう叫ぶ自分とは裏腹に、いいじゃないかと自棄的な声もする。どうせ何も持っていないのだから、少し早まっただけさ。子を残したわけじゃないし、くだらない三文小説を書くしか能のなかった男が、何を今更惜しがることがある?

 身体は怠いのに上手く眠ることができず、朝を迎える。きっと私が目覚めなくとも、朝は変わらず来るのだろう。


 あっさりとしたものだった。

「肝臓への転移があります。今のところ肺や大腸には転移していないようですが、膵臓に一か所と肝臓に二か所、これの成長が早い」

 若い医師が言う。

「肝臓自体は再生能力があるので、切除することもできます。でもその前に、薬で叩いて小さくしたいところです。それから少し黄疸が出ていますから、早急に胆汁をドレナージ」

 今までの経口の抗がん剤でなく、肝臓に直接注入するらしい。治療に関しては、医師の方針にお任せするしかない。こちらは門外漢の、俎板の上の鯉だ。

「効果は、どれくらいでハッキリするのでしょう」

「治療を終えて一ヶ月後に、もう一度検査をします。そこで効果を見ながら方向を考えましょう」

 そして付け足したように言った。

「寛解まで持って行くのは時間が掛かるでしょうが、可能性はあります。その中でクォリティオブライフを上げていくこともできます。一緒に頑張りましょう」

 いくつかの日程を決め、頭を下げて診察室を出た。

 事務的なやりとりで、救われた。少なくとも余後の話などなかったし、治療をすれば或いはと希望を持たせてくれた。クォリティオブライフというのは、面白い言葉だなと思う。生の質。少なくとも私の生活は、高品質じゃない。


 こんな、いつまで掛かるのかどう終わるのか、先が見えず終わりの保証のないことに、彼女をいつまでもつきあわせてはいけない。私が彼女を大切に思うならば、もっと前に決断しなくてはならなかった。わかっていて、どうしようもなくなるまで曖昧な態度をとってきたのだ。年上の私が、事情を抱える私が決定するしかない。

 今度の入院をきっかけにしよう。どちらにしろしばらく休職しなくてはならず、実家には戻ることにしよう。見えない場所を心配するより、家で世話を焼きたいと母も言っていたことだし、買い物などは姉に頼めるだろう。

 彼女の白い顔が、脳裏でふわりと揺れる。できることなら、もっと笑顔を見たかった。心配させるためではなく、癒すための存在でありたかった。大切にしてやり、飛び立つのを笑顔で見送りたかった。


「遠いところには行けませんし、贅沢もできませんが、花の美しい寺にでも行ってみませんか」

 私の言葉に、彼女は訝し気な顔をした。胆汁を抜いてもらったあとで幾分体調は良く、夏の日差しの中を歩いても耐えられそうな気がする。盆よりも少し後で、観光地の宿泊施設はいっぱいだが、近場でひっそりとした旅ならばできそうだ。

「お身体は、大丈夫なのですか」

「副作用も落ち着いてきましたし、ずっと籠っていたので羽根を伸ばしたいところです」

 彼女の何か問いたそうな視線は、あえて見ないことにした。彼女はもう、私が何を考えているのか知っていると思う。いつも通り駅まで送って改札口で手を振ると、何度も何度も振り返りながらホームへの階段を下りて行った。


 今度の旅を終えたら、一週間おきに三日ずつ入院を四度繰り返し、その後体力回復のために二週間自宅療養をする。それからどうなるのかは、私にも医師にもわからない。わかっているのは、血液に乗った細胞が次にどこかで大きくなる可能性が高いということと、五年後に私が生きている可能性が極めて低いということだ。治療を繰り返して細々と命を繋いでいても、寛解して健康を取り戻していても、五年は五年だから、どんな日々を過ごして五年後の日を迎えるのか、それとも迎えることができないのか。

 先の保証の何もない日々を、彼女と共有したくない。金銭的に生活が不安なだけでなく、検査の結果に一喜一憂するような不安さを、与えることはできないのだ。あの優しい人は、必死に寄り添おうとしてしまう。もう十分に、そんな生活をしたというのに。

「会えなくなるのか」

 ぽつりと口からこぼれた途端、血液が冷えた気がした。告げなければ、ずっとこのまま彼女を引き留めておける。彼女の提案通り近所に住まって、休みの日にも夜にも好きなときに会い、互いの体調や生活を気遣いあいながら……一方的に気遣ってもらうのは、私のほうだ。そしてそんな生活を続ければ、私は完全に彼女を自分の中に取り込みたくなるだろう。


 未来ではなく今の幸福が欲しいと、彼女は言った。けれど不安含みの未来が目の前に見えていて、曇りのない幸福などあろうはずがないのだ。せめて穏やかな優しい日々の見える日常を、彼女に得て欲しい。それが叶うのならば、私の寂しさなど飲み込んでみせる。


 盆の休暇中に実家に帰り、母にも転移のあったことを告げた。めっきり老いた母の目尻に、小さく涙が見えた。

「今は治療も多様化してるから、すぐにどうこうってわけでもないんだ。ただ給料保証が少ないからさ、ちょっと勤めが遠くなるけどしばらく住ませてよ」

「浩ちゃんがいれば、電球とか変えてもらうのに便利よ。母さんだって話し相手ができるじゃないの」

 姉が一緒に座っていた。

「もっと早くに戻ってくれば良かったのに。母さんだって、まだ洗濯や炊事くらいはできるんだから」

 腰が悪いくせに、母はまだ私の身の回りを整えようとしている。申し訳なくて、手を合わせたいくらいだ。いつ引っ越してくるのかと訊かれ、実はもう手配をしてしまっているのだと答えたら、溜息を吐かれた。できれば入院前に、すべて済ませておきたい。

 彼女とは小旅行を最後に、会わない覚悟を決めた。そのためにもあの部屋は、早々に引き払わなくてはならない。荷物は多くないので、引っ越し用のパックで十分間に合う。その後の不動産屋への引き渡しは、姉に面倒をかけることになる。


 出掛けたのは、近県の小さな観光地だ。静かな古い道と、点在する古い寺以外は何もない。ハイキングか何かのルートになっているらしく、スニーカーにリュックサックの人たちが駅で地図をもらっている。宿に荷物を置かせてもらい、陽射しの強い道を歩く。照り付ける太陽は容赦ないが、木々を抜けた風は爽やかだ。

「先生、疲れませんか」

「年寄扱いしないでください。普段はちゃんと会社員をしているのですよ」

「そんなことは言っていません」

「切った個所のリハビリも終わりました。身体も慣れてきています。健常者に近いんです」

 転移のことは、言わないと決めた。私は私の都合で実家に戻り、執筆活動の都合で彼女と連絡し難くなる予定だ。突き放して嫌われる覚悟ができないのは、私の弱さだ。

 静かな神社の鎮守の森で、木に寄りかかって空を見上げる彼女の白い顔に、ぼんやりと見蕩れた。この顔が疲労に窶れていたことも、悲しみと憤りで歪んでいたことも知っている。そして今の優しい表情が、本来の彼女であることも。

 抱き寄せて離したくない衝動が、背筋を走る。それを押しとどめるのは、自分の現状を把握しているからに他ならない。


 もしも一緒にいるのが元の妻であったなら、私は立場に甘えて、最後まで看取ってくれることを望んだろう。不安定になっていく精神を、宥めてくれることが当たり前だと思ったかも知れない。元の妻は私にとって、常に強い人だった。そうでないことを知ったのは、離婚の話し合いが終盤になったころだ。あのとき私は、一緒に暮らしてきた人を知ろうともしなかった自分の薄情さに、はじめて気がついたのだった。

 私の現在の貧しさや、これからの生活の寂しさは、言うなれば自業自得だ。こんな年齢になってもなお、母や姉の手を煩わせなくてはならず、私は一体意味のある人生を送っているのかと自問するしかない。


「こちらで座りませんか」

 訪れる人のない神社の石段に並んで腰かけると、彼女は私の肩に頭を乗せた。

「風が気持ち良いです。こんな場所に座っていると、ふたりだけ世界から隔離されているみたい」

 木々を抜ける風の音と、蝉の声しか聞こえない。

「こうしているときに、たとえば大木が倒れてきて、先生と一緒に潰されるとか」

「物騒な人だね、あなたは。僕はまだ、書いていない小説があるんです。そうそう死にませんよ」

「あら」

 彼女の不満そうな顔がおかしくて、声を出して笑った。芙由さん、僕はあなたにクォリティオブライフの高い生活をして欲しいんです。それを口に出すことは、ないだろうけれど。


 静かな宿の小さに部屋で、彼女の浴衣の衿を開いた。しっとりと汗ばんで、深い呼吸にあわせて上下する白い胸が、ただただ愛おしく懐かしく、何度も何度も頬をつけた。

 もしも願うことが叶うならば、彼女の胸に抱かれる赤子になり、その優しい眼差しと声に慰められたい。そうしている彼女を見るだけでもいい。胸に抱いている赤子が、自分の子供ではなくとも。彼女が満ち足りた顔で何かを愛おしむ様子が見たかった。



 彼が旅に出ようと言ったときに、何かの予感はあった。けれど旅先での彼は以前よりもずっと元気そうで、ただ近隣に住まうと決めた私の予定が狂ったので、それへの詫びの旅行なのかと、途中からは思っていた。だから乗換駅で一緒に降りて途中まで送ると言われたときには、こんなことを言ってくれるほど回復したのだと嬉しかった。それだから、ターミナル駅の構内のファストフード店でコーヒーを飲み、彼が微笑みを浮かべながら言った言葉は、駄々をこねることもできなかった。

「先月出版したものの評判が良くてね、執筆依頼が来たんだ。以前のようなスピードでは書けないから、休日はそれに当てたい。今までのように連絡も取れなくなると思う」

 評判が良いのは知っていた。ネットでの書評を目にしたし、私の家の近所の本屋のポップには、たちまち重版と赤い文字で書かれていた。彼の作家としての矜持が保たれることは単純に嬉しく、それによって彼の生活が変化することには思い至らなかった。

「でも、ときどきは外出なさるでしょう?」

「勤めがあるからね、外出は毎日しますよ」

 私に会うための外出とは言わなかった。

「おうちに伺ってはいけませんか」

「僕の家ではなく、母の家なんです。それに芙由さんは、あの町に行きたくないでしょう」

 これは別れを告げられているのだろうか。彼の言葉の意味が把握できない。


「芙由さん」

 彼は微笑みを浮かべたまま、私の名を呼ぶ。

「もっと身勝手になってください。僕はあなたに、自由に生きて欲しい」

「私は自由です」

「もっとです。あなたは自分にたくさんの枷をつけている。自分のことだけ考えて、居心地の良い場所を探してください」

 私の居心地の良い場所は、彼の隣だと言いたかった。けれど今の彼の言葉は、それを否定している。

「お忙しい予定は、いつまでですか」

 彼は大きく笑う。

「続くように祈っていてください。私が作家だと胸を張れるように」

 何も言えなかった。

「でも、ときどきはお話したり、散歩したりできますね?」

「そうですね。時間が合えば」

 否定されないことが救いで、ただ思い詰めた顔を見せないようにと、ここで泣き喚いて困らせないようにと、そればかりを考えた。どうやって家に帰ったのかは、あまり覚えていない。


 あれは実質的に別れの言葉だったのだろうか。恋人だと名乗りあってもいない私たちは、はっきりとした決別もない。彼はずっと未来の話を避けていたし、私を生活の中に入れようとしなかった。あれは彼の優しさなのだろうか?

 いつも通り家に到着したと電話すれば、穏やかな声で返事がある。では本当に忙しくなるだけなのか。彼が私を愛してくれていると、思っていて良いのか。

 愛? 私たちは、愛の言葉なんて交わしていない。数ヶ月の間週末の短い時間を共にしたことと、何度か身体を繋げたこと、それしかないじゃないか。今更ながら、なんと淡い繋がりであることかと思う。

 夏の強い日射しの中で、芙蓉の花が咲く。強い雨が打ち付ける屋根の音、風に揺れる古い窓ガラス、湿度だけの高い部屋。緋桃に色付く芙蓉の花が、閉じた目の中に揺れている。

 これが私の中から消えることがあるものか。あの日の面影は何ひとつ薄くなっていないのに、消えることなんて有り得ない。

 恋は私の中だけでも続いていくのだ。今までのように彼と頻繁に会えなくなるとしたって、あの日から何年も会わなかったことに較べれば、短い日々だ。彼は二度と会わないとは言っていない。狡い言い回しの私を遠ざける言葉を逆手に取り、僅かな望みを繋ぐ。何も気がつかぬふりをして、無邪気に連絡しよう。

 先生、お加減はいかがですか。お忙しくなさっていますか。たまには気分転換に、散歩をしに出てみえませんか、と。


 電話は繋がったり繋がらなかったりした。メールの返事は、滞りがちだ。迷惑気な声ではないけれど、時折明らかに眠っていたなという気配があって、時間を測るのが難しい。体力を失っている人が、外で働きながら家でも別の作業をしていて、疲れないはずがない。体調不良で倒れても気がつく人がいるだけ安心だけれど、本当は実際の顔色を見たり食事の様子を確認したいと思うのは、余計なお世話か。

 毎週末の訪問先がなくなり、ぽかんと空いてしまった時間に膝を抱える。以前は何をして休日を過ごしていただろう? 気がつけば、まだ冬物をクリーニングに出していない。風呂場の隅が赤くカビになっていたり、食器棚のガラスが汚れていたりした。それを見ると、生活を蔑ろにして彼ばかり気にしていたことがわかる。

 何か、勘違いしていたかも知れない。自分自身は意外に冷静な性質で、あまりムキになったり激しく憤ったりしないものだと思っていたけれど、こんな風に暮らしが荒れていることにも気がつかないほど、彼に向かっていたのか。

 ふと、義母の可憐な歌声が耳に蘇った。怒っちゃいけない、悲しんじゃいけない、彼女は自分の意志で認知症になったわけじゃない。私しか頼るものがないのだから、手を離したらこの人は生きていけない。言葉でそう考えたわけではなくても、きっと私はそう思っていた。

 彼が言った、もっと身勝手になれという言葉について考える。義母とふたりの生活が、苦痛だと叫べば良かったのか。自分ひとりでは無理だから、夫が帰らないのなら逃げると宣言しても良かったのか。そうしたら、何か変わっていた?


 SNSの写真投稿もしばらく見る気になれず、レッスンの記録を取るためだけのものになっていたけれど、長尾君からメッセージが来た。花のプロになる気はあるのかなんて、私から見れば唐突な質問だった。長尾君はお仕事でフラワーアレンジを習っているけれど、私自身は趣味の範囲だと返事をすると、時間があるときに話せないかとメッセージが来た。日曜の昼にでも行くと返事して、溜息を吐く。今週の日曜日は埋まった。来週の土曜と日曜は? 実家にでも行こうかと思い、もう散歩に連れ出す祖母もいないのだと考え直す。

 抑えていないと走り出して電車に乗りそうな自分を持て余し、会社帰りにカフェに寄ることも覚えた。スマートフォンを眺め、夢中になってパソコンに文章を打ち込んでいるのだとか、仕事への往復で疲れているのだとか、彼から連絡のない理由ばかり並べたてる夜を短くしたかった。私からばかり連絡したがって、受け取ってもらえない苦しさに、自分の肩を抱く。

 こんな苦しい恋は捨ててしまえば良いのだ。彼だってそれを望んでいるのだと知っているのに、私にはどうしても捨てられない。彼が私を嫌ったり鬱陶しがったりして、そう望んでいるのではないことはわかる。彼の視線も仕草も、私をとても大切に考えていてくれるのだと、自惚れているだけではないと思う。ただ彼は、私の未来を怖がっていた。彼の年齢や生活力が、私に苦しい思いをさせるのではないかと、そればかりを恐れていた。明日のことなんて、誰にも保証はないのに。


 フローリストナガオに顔を出すと、長尾君は店の奥に声を掛けて、私をチェーンのコーヒーショップに誘った。

「悪いな、わざわざ来てもらって」

「暇だもん、散歩ついでだよ」

「しばらく暇? 結婚とか出産とかの予定は?」

「何なのよ、プライバシーだよ」

「いやさ、休みの日の時間だけでも借りられると嬉しいなーって」

 長尾君は新しい店舗を考えているらしい。お父さんのお店は昔ながらの花屋で、卸の他には店売りの切り花がメインだけれど、街に行くと若い人向けの花屋がいくつもあり、それをやりたいのだと言う。確かにフローリストナガオの店頭は、今風だとは言い難い。

「最近宅地分譲が増えたからさ、若い世帯が流れ込んできた。そういう客は流行の花とかイベントごとのディスプレイを見るから、親父の店は時代遅れだ。だけど固定客はいるから、ガラッと変えるわけにも行かないんだよ」

「頑張るねえ。でも私、そこに就職はできないよ」

「そんないきなり、他人様の生活預かるほどの給料は出せないよ」

 長尾君は笑った。

「北岡の空いた時間に、ちょっと店の整理したり小物を選んだりして欲しいだけ。若い世帯が庭に飾りたがりそうなヤツ、俺よりも知ってそうだから」

 何故私なのかと問うと、教室の知り合いは客にしたいから声を掛け難いと笑う。

「そんなことでいいんなら、引き受けるよ」

「助かるよ。来月末にはオープンだから、近いうちに打ち合わせさせて」

 こんなにタイムリーに週末の予定が決まっていく。こうして時間を潰しているうちに、彼と間遠なことに慣れていくだろうか。電話は、今日も繋がらない。


 彼に会わない一ヶ月の空洞を、どうにか遣り過ごす。長尾君と労働形態の確認をしたり、両親と食事に出たり、やることがなかったわけじゃない。けれど休みが終わろうという夜になると、何かとても無為な時間を過ごしているような疲労感があって、翌日が来なければ良いのにと思う。それでも朝は来て、私は職場で熱心にでもなく仕事をする。生きているのなら当然のルーティーンが億劫になり、少しだけ痩せた。

「北岡さん、少し痩せた?」

「今頃になって夏バテが来たみたいです」

 社長夫人との簡単なやりとりさえ、面倒になる。

 ときどきだけ繋がる電話での彼の声は、やはり穏やかだ。プロットが通って書きはじめた話が上手く進まないと言われても、私にクリエイティブな話はわからない。決まった時間にオフィスに行く仕事しか知らない私は、生み出すことの大変さを想像するしかない。

 残暑は九月末になっても和らがず、ひどい台風のあとに真夏日が続く。内装に時間がかかり、長尾君の店のオープンが一週間延びて、今週の土曜日はどうしようかとテーブルに肘をついた。


 明け方に、畳の部屋の夢を見た。汗ばんだ肌を重ねて目を閉じた自分を、天井から覗く。これは夢だと思ったところで目覚めると、強い雨が窓を打っていた。この音のせいだったのかと納得して、冴えた目を閉じようとして、失敗した。

 あの芙蓉の咲く家に、彼はいるのだ。あの畳の部屋で寝起きして、目が疲れたら古い縁側に胡坐をかいているに違いない。

 衝動にどうしても抗えなかった。着替えて外に出ると激しい雨は嘘のように止んでおり、むせ返るように湿った空気が身体にまとわりつく。この空気を知っている。いや、あのときの空気はもっと濃かった。梨の入ったビニール袋を提げて、急ぎ足で歩く自分の後姿を見ている気がする。あれはまだ、八月の終わりだったか。世界の中心にいるのは義母で、自分が何を考えているのかすら希薄だった私の、ひとつだけの鮮明な記憶。あの時間だけは、私は私のものだった。

 何かに背を押されるように道を歩き、電車に乗った。歓迎なんかされなくていい。受話器越しではなくて、私に向ける言葉を耳朶に直接感じたい。彼が唇を動かして、話すさまが見たい。


 三時間以上掛けて到着した駅は、変わっていなかった。もっと緊張するものかと思っていたけれど、見覚えのある道を歩いてもさほど心は動かない自分に安心して、歩を進めた。それよりも、彼に近くなっているという興奮のほうが、はるかに大きい。駅前の交差点を通ってこの路地を右に、そうして曲がった道の家並みを目にした途端、私の身体に異変が訪れた。

 あの男が一緒に暮らしていた僅かな期間、一緒に歩いた道だ。義母もまだひとりで留守番くらいはできていて、買い物帰りにコーヒーを飲むだけの余裕はあった。あのとき、私は確かに幸福だと思っていたはずだ。ふらふらと歩きながら、脳裏に浮かんでは消える過去たちを追い払おうと必死になった。息が苦しくて、風景がぼやけて見える。

 早く帰宅しなくては。義母がまた、私を探して泣いているかも知れない。粗相をして部屋の中を汚しているかも。そんなことがあるはずはないのに、思考が勝手に暴走する。否定している自分が間違っているような混乱の中、いつも梨を買い求めていた農家の前に出た。もう販売は終わっているらしく、幟旗は立っていなかった。

 違うの、あれから何年も経っていて、私は今自由でいるの。彼に会いに来たのよ、あの日連れ出そうとしてくれた彼に。


 よく知った道に出て、門柱の陰から咲いている白い花を見たとき、自分の膝から力が抜けたのを感じた。目の前が暗くて、立ち上がることができない。寄りかかった門柱の冷たい感触が、腕に気持ちいい。冷や汗を堪えて立ち上がろうとした刹那、上から声がした。

「どうかなさいましたか」

 まるで数年前の出来事をなぞるように、私は顔を上げた。

 導かれた縁側で、以前と同じように氷水の入ったコップを差し出される。ただ差し出してくれたのは、彼ではなくて彼のお母さんだった。目が開いてくると、うろ覚えの庭の風景が現実のものとして認識できるようになった。まだ芙蓉の花は白い。

「近所の人かね。おうちが近いなら、家族の人に迎えに来てもらう?」

「もう大丈夫です。お世話になって、申し訳ありません」

 答えたところで、庭に人が入ってきた。縁側に座っている私を認めて、もの珍しそうに挨拶をする。

「あら、あなた、会ったことがあるわね」

 彼のお姉さんだった。


「浩ちゃんねえ、熱が出たから今日は帰って来られないって」

 彼のお母さんが、お姉さんに話しかける。

「あら、そう? 着替えとか持って行かなくて大丈夫かしら」

「借りられるからって言ってたよ。熱があるなら、向こうにいるほうが安心だわねえ」 

 母子の会話で、彼がここにいないことを知る。途端に居心地が悪くなり、縁側から立ち上がった。

「ありがとうございました。このままで申し訳ありませんが、失礼いたします」

 そう言って頭を下げると、お姉さんに引き留められて、小声で質問された。

「あなた、浩則に会いに来たんでしょう?」

「ええ、いいえ。お約束していたのではありませんし、先生のお加減が気になっただけで」

 門のほうに向かおうとすると、お姉さんは声を大きくして、家の中に声をかける。

「お母さん、この子の顔色が悪いから、ちょっと送ってくるわ」

 了承の返事があり、並んで道に出た。


「ごめんね、でもあの場所で話すと、お母さんが気にするから。いい年のしょぼくれた男でも、お母さんから見れば若くて魅力のある息子なの」

 お姉さんは肩を竦めた。

「著名な小説家ですものね」

「著名なら食い詰めたりしないでしょ」

 お姉さんは苦笑いして、それから真面目な顔になった。

「あなたは浩則の恋人?」

「おそらく、そうだと思います。でも確信はありません」

 駅までの道を辿りながら、私たちの関係には名前がないのだと改めて思う。

「先生は、入院されているのですか」

 迷ったような沈黙のあと、お姉さんは溜息を吐いた。

「浩則が自分の状態をあなたに、どう教えているのかを知らないから。確かに今は入院してるわ。それしか言えない」

「どうして」

「教えたくないから言わないものを、答えるわけにはいかないの。誤解しないでね、危険な状態だから入院してるんじゃないわよ」

 ほっとしたところで、駅に続く道に出た。送ってもらった礼を言って、お姉さんと別れる。どこか切なそうな表情が、彼とよく似ていた。


 彼は私に、知らせたくなかったのだ。治療が進んで回復に向かっていると思わせたかった。だから最後に旅行に誘って、自分はもう心配ないのだと私に見せた。何故。何故そんなふうに見せる必要があったのか。

 本当は、そうでないから。回復どころかもっと酷い状態になっていると言えば、私が余計に彼にしがみつくのを恐れていたのだ。だから彼は、私から大きく距離を置くことにした。そう考えれば、納得できる。

 実際のところ、所得を得ずに彼の傍にいることは、数年ならばできそうな気がする。手をつけずに残っている慰謝料と財産分与、そして出歩くことの少なかったここ数年の預金で、充分とは言えないけれど蓄えはある。私が勝手に動いてしまえば、可能なのだ。

 けれど彼は、そんなことは望んでいない。彼が望んでいるのは、続く平凡な日常を歩くだけの私だ。


 そんなこと、知ってた。そう呟いて、電車のシートに凭れて唇を噛む。彼が私に望んでいるものと、私が彼に望んで欲しいものは、違うのだ。どこまでも一緒にいて欲しいと望まれたかったのに、決してそうは言ってくれない。もしも私の年齢がもう少し上で、彼が小説家としてもう少し所得があれば、言ってくれたろうか。一緒に来ませんかと言ってくれたあの日に、彼の手を握り返していたら、今日は違う日になっていたのか。

 もしもなんて話は、何の役にも立ちはしない。だから私にできることは、彼の望む私になるのか、それともまだ彼を困らせ続けるのかの二択しかないのだ。

 彼に未来があるかどうかなんて、わからないんだよ。自分の中の冷たい囁きが、私を凍りつかせる。本当に未来はいらないと思ってる? 私だって明日は交通事故に遭うかも知れないけど、遭わない確率の方が高いじゃない。そうやって明日を迎えて、いつか来るかも知れない未来を夢見ないでいられるつもり? 自分の中で聞こえる冷静で冷酷な声は、打ち消そうとしてもなかなか消えなかった。


 翌日の晩、珍しく彼のほうから電話が来た。

「昨日、家まで来てくれたんだって? 留守してて、申し訳ないことをした」

「いいえ。勝手に伺って、申し訳ありませんでした」

 彼はくすりと笑って、陽気な口調で続けた。

「酔芙蓉の下で、貧血を起こして座ってたんだって? 同じことを繰り返す人だ」

「不覚でした。あんなに何年も前のことで、フラッシュバックを起すとは思っていませんでした」

「僕は思っていましたよ。だから来るはずなんてないと、まあ高を括っていたわけだ」

「そうですね、ご迷惑でした」

 短い沈黙のあと、小さな溜息が聞こえた。

「姉から、どこまで聞きました? あの人、お喋りだから」

「何も教えてくださってはいません。駅まで送っていただいただけです」

「でもあなたは、何かに気がついてしまった。そうでしょう?」

 今度は私が溜息を吐く番だった。

「先生に騙されたことに気がついただけです」

 これ以上、電話で重要な話をしたくない。身勝手になれと言ったのは彼なのだから、もう一度くらい押しかけても良いと思う。

「先生のお顔を拝見してからお話を伺います」

 今度は受話器の中から、盛大な溜息が聞こえた。

「意外に強情ですね」


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