宴にて静寂を歌う

 彼女の話に『同級生の花屋さん』が増えたのは、喜ばしいことなのだろうか。住まいが近所であるとか習い事が一緒だとか、今まで会社の人間関係や習い事の知り合いの話など滅多にしなかったのに、その男のことにだけ私は詳しくなった。父親のわからぬ子供を産んだ姉が精神を病んで死んだこと、両親と共にその子供を育てるために実家に戻ったこと、店舗を広げて扱い品を増やしたがっていること。知らぬはずの男の顔が、自分の中に出来上がってしまう。それは健康で生命力に溢れた、働き盛りの男の姿だ。自分の境遇にウンザリしつつも何も諦めず、新たな道を模索して進む意力のある男。彼女の同級生ならば十分に若く、これから家庭を築くことも考えているはずだ。その相手に彼女を選んでも、不思議でも何でもない。

 彼女が幸福な新しい恋を得るのだとすれば、喜んで手を振ってやらなくてはならない。理性だけが、私に向かって囁く。何もない男に望めるものは、何もないのだと。


 私が何か残せるものがあるとすれば、それはこの頭の中にある物語かも知れない。狭い世間の中で生きてきた私だが、文字によって他人と触れ合えた実績がある。

 せめて、一作。三文文士と読み捨てられず、誰かの中に残せる何かを、本棚の中でボロボロになっても手放せない何かを。良くも善くもなくとも、好い作品だと記憶に留めてもらえる何かを。

 このタイミングで、私のそんな欲は目覚めた。そうして体力のなさに苛つきながら、夜毎にパソコンに向かう。売れっ子作家の急病の穴埋めに、三万字程度の原稿を隠していないかと打診されたことが追い風になり、提出するあてもなくストックになっていたプロットが通ったと同時に、私の欲は加速した。穴埋めであるからスピードが求められ、すでに書き上がったものの手直しだけのつもりが納得がいかず、夢中になっているうちに窓の外がすっかり明るくなっていることに気がついたのが、日曜日の朝だった。彼女が来るまで休もうと布団に入ったが、頭の中に文章が渦巻いて興奮し、熟睡できなかった気がする。

 インターフォンで彼女に起こされ、夜中の勢いで書いたものを下読みしてもらうつもりでパソコンを開けた。


 彼女が集中して読んでいることに満足して、淹れてもらったお茶を啜った途端、目の前が暗くなった。睡眠不足による貧血かと失礼して横になると、冷や汗が出た。まあ横になっていれば回復するだろう、せっかく読んでくれているのだから、集中を乱すよりも濃い感想が聞きたい。これも欲の為せる感情だろう。そうこうしているうちに身体の末端に痺れが来て、これはまずいと思っていると彼女の声が聞こえた。水の中から聞こえてくるような問いかけに返事をしたつもりだったが、彼女には意味を成した言葉に聞こえなかったらしい。

 口の中に甘いものを放り込まれ、背を起されて温くて甘いものを流し込まれた。それが白砂糖と砂糖湯だと知ったのは、頭がはっきりしてからだ。この状態が低血糖だというのも、この年になってはじめて経験した。

「命にかかわるんです」

 彼女は泣きそうに怒りながら、私の冷たくなった足をさすった。

「私、休みの前日の晩から来てはいけませんか」

 そんなことを願うのは、自分に禁じている。この優しい人は、もう十分に他人を気遣って生活してきたのだ。これ以上私のために、時間も神経も使わせてはならない。

「離れているのが不安なんです」

 彼女の瞳が燃えているような気がした。この炎が私に燃え移れば、待っているのは彼女の人生の破綻だと思う。美しくなった彼女は、もう欲しいだけ幸福な生活を望めるのだ。


 もう来てはいけないと言い出せないのは、私の弱さだ。私自身が彼女の佇まいや息遣いを求めて、姿を思い描くだけで眠れぬ日があることを、彼女は知らない。手の中に封じ込めないでいることが精一杯で、本当に彼女に必要だと思われることを、実行してやれない情けない男が窓ガラスに映る。それは痩せこけて貧相な、整わない白髪頭の姿だ。



 祖母が亡くなった。父が朝声を掛けに行くと、もう呼吸をしていなかったそうだ。苦しんだ様子もなく、眠るような最期だったらしい。私が知らされたときには検死も終わり、家に駆けつけると着替えさせられた祖母の枕もとには、線香が焚かれていた。

 仏間に使っている部屋に効き過ぎた冷房と、白い敷布の布団。母が施したらしい化粧は、祖母がいつも使っていた色味だった。入退院の繰り返しで何か月も使っていなかった化粧品は、最後の役目を終えた。

 まだ両親はバタバタと親戚への連絡や葬儀社との打ち合わせに追われており、葬儀はのこされたものに悲しむ時間を与えないためのものではないかと、改めて思う。雑多な用事を次々こなしているうちは、自分の心と直接向き合わずに済む。そして片付いたころに、自覚するのだ。ああ、いなくなってしまったのだ、と。

 それなのに私が一番先に頭に思い浮かべたのは、今週は彼の顔を見に行くことができないということだった。また低血糖を起しているのではないかとか、薬の副作用が突然強く出て動けなくなっているのではないかとか、不安な想像だけが頭に浮かび、メールの返事が遅いとそればかり気になった。


 祖母の部屋はもうあらかた片付いており、身の回りの品がわずかにあるだけで、ずいぶん前から彼女が旅立つ支度を進めていたことがわかる。両親も知らなかったようだけれど、形見分けのリストまで作っていた。見事な別れだった。


 葬儀の翌々日に、祖母から譲られた小さな真珠の付いたペンダントと、塗りの文箱を抱えて自分のアパートに帰った。それをキッチンのテーブルに置いて寝室で着替え、お茶を沸かした。そして文箱をどこに置こうかと考え、祖母はこれに手紙を入れていたなと思い出したときに、はじめて祖母の死が現実のものとして迫ってきた。

 もう実家に行って、祖母を散歩に連れ出すことはないのだ。祖母の部屋の防虫剤ともカビとも言えない匂い、居間の隅に小さく座ってテレビを眺めている姿、病院のベッドでは看護師さんに何度も礼を言っていた。あれはもうないのだ。

 呆然とテーブルの前に座り、ビロウドの袋に入ったペンダントを目の前に提げた。祖母が祖父から買ってもらったと言っていた、真珠のペンダント。もうくすんでしまった真珠は、私が子供のころに祖母に何度もねだったものだ。

 実家から出ずに、最後まで介護に参加すれば良かった。せめてもう少し、散歩に連れ出したり手足のマッサージをしたりしていれば、私はもう大丈夫だと祖母に伝えられたのではないだろうか。実家に行くたびに、祖母は私の生活ばかりを気遣っていた。身体も心も今は辛くないよ、だからこんなに健康になったでしょう。祖母が安心するように、何度も繰り返せば良かった。

 遅れて来た悲しみを飲み下しながら、翌日の出勤の準備をする。これが生活をするということだ。


 疲れてしまって、週末に彼の部屋に行くことができなかった。とても会いたかったはずなのに、身体が動かし難い。葬儀のあとは疲れるものだから、ゆっくり身体を休めなさいと、彼からのメールがあった。

 来て欲しいと言ってくれれば、どんなに疲れていても行くのに。会いたいと言ってくれれば、私を必要だと言ってくれれば、自分を奮い立たせて動かすことができるのに、彼はそうは言わない。僕のために無理をせずに、芙由さんが気が向いたときに来てくれれば良い、と言う。彼がこちらに来るのは難しいのに。

 求められたいと思っては、いけないのだろうか。私がまわりをウロウロしていることを容認されているだけで、彼がどう思っているのか知らない。愛の言葉もなくはじまった私たちは、何かの約束はなく未来すら見えない。彼が自分の身体のことに精一杯で、私のことなど考えられないのならば、私が勝手に彼を心配しているだけだ。


 もう祖母を心配しなくても良いのだという安堵と、今虚脱感を感じているだろう両親の顔と、ひとりの部屋で卵おじやが主食の彼と。実家に線香を上げに行くこともできないまま、ベッドの上で寝返りを打つ。

 こんなとき、心情を打ち明けられる相手がいないのは辛い。明日は花を買って、実家に行こう。暑くなってきたこの時期、あげ花はいくら水を変えても傷むのが早い。今日は寝て、明日の仕事に行く顔を整えるのだ。そうして来週は彼に会いに行く。もしもそれまでに梅雨が明ければ、近所の散歩くらいはできるかも知れない。あの公園に、芙蓉の木はあったろうか。



 雷の鳴る日が何日か続いたあと、からりとした晴天が来た。子供のころより高くなった気温が、じわじわと体力を奪っていく。尤も筋肉が落ちて冷えがちな身体には、この気温は有り難いと言えないこともない。七月に入ってから何日か過ぎ、休みの日には公園の噴水で子供たちが遊んでいる。

 彼女は土曜日に訪れ、また冷蔵庫にいろいろ詰め込んでいった。

「僕も料理はできるんですよ、芙由さん」

「でも先生、先生は基本的に食に無関心ですよね。卵おじやと袋入りの煮豆だけじゃ、栄養は足りません」

 勤めがあるとなかなか一日に五食摂るのは難しく、勤め先の私のデスクには補助食用のゼリーやシリアルバーが入っているが、ともすれば忘れがちになる。彼女が言うように酵素を含む野菜や消化の良い肉を考えて用意しなくとも、コンビニエンスストアで買い求められる手軽なものを口に入れることは確かに多い。

「僕はあなたにあまり、身の回りのことをして欲しくないんです」

「それは私が、余計なことをしていると仰っているのですか」

 彼女は傷ついた顔で訊き返した。

「かいがいしく世話を焼いてもらうほど、僕はあなたに何もしてやれない」

「見返りは先生の回復です。私がしたくてしていることなんです。それともご迷惑ですか」

「迷惑なはずがない、心苦しいほど感謝しています」

「では、このまま好きにさせてください。私の気が済むまで」

 このままで良いはずなどないのに、彼女の言葉に頷いてしまう。


 もう来るなと言えば良いのだ。彼女が一生懸命になってくれればくれるほど、彼女をこれ以上振り回してはいけないと思う。彼女は誰かに守られて、穏やかな憂いのない生活をすべき人だ。私のような者に時間を割かせてはいけない。そんなことはとうに承知なのに、私の口は動かない。

 習い事が一緒の男やクラスメイトだったという男が、ただ羨ましく妬ましく、私が若く力と生活力のある男ならと何度思ったろう。けれど現実の私は、若くもなければ嵩む医療費を心配する卑小な男に過ぎない。

 せめて彼女が目を見開いて、自分を安定した生活に導いてくれる男を見つけてくれれば。そして私の見えないところで、幸福になってくれれば良いのに。

 綺麗事だ、と心の中の私が言う。本当は彼女を生活ごと欲しくてたまらないくせに、彼女が来ない週末には会いに行ってしまおうかと考えるほど、彼女の声を必要としているのに。実際に彼女が別の男に心を奪われたら、必死になって引き留めてしまいそうな自分が、実に醜悪に感じる。何も与えてやれないくせに、何か与えてもらえると思っているのか。前の妻のように。それが苦しくて別れたんじゃないのか。


「明日は実家で、親戚の相手をしなくてはなりません。近所のかたも焼香しに来てくださるので、祖母は慕われていたのだなと感心します」

「話を聞いただけでも素敵な人だと思うよ。四十九日までは用事も多いだろう」

「それが過ぎたら、両親は旅行に行くそうです。何年も家を留守にできなかったので」

 家に要介護者がいるということは、そういうことなのか。自分の母親を、ふと思い出す。そろそろひとりで置いておくのは良くないと思いながら、大丈夫だよという言葉に甘えている。

「芙由さんも一緒に行って、孝行するといい」

「うちの両親はこれまで、ふたりきりの生活をしたことがないんです。母はまだ父の弟のいる家に嫁に入ったんだもの。祖母はきっちりした人だったから、窮屈なことも多かったと思います。まず父に、母の慰労をしてもらわなくては」

 それから小さく溜息を吐いた。

「私は、回復した先生と旅行に行きます。あまり待たせないでくださいね」

 微笑んだ彼女に、咄嗟に返事ができなかった。その日が来れば良いという希望と、そこまでこの関係が続くのかという疑念と。

「どこか綺麗な場所で、美味しいものをたくさん食べましょうね」

「そうだね。どこに行こうか」

 私の答えを、彼女は鮮やかな笑顔で受け止めた。その顔を見て、遅ればせながら私自身の執着を自覚する。この笑顔を外の男に向けさせたくない。


 座卓に肘をついている彼女を、抱き寄せた。

「先生?」

 委ねられた身体を撫でさすりながら、目を閉じる。

「あなたが誰のものにも、ならないといい」

「そんなこと、はじめて言ってくださった」

 彼女の腕が私の背にまわった。伝わってくる鼓動は、生の証のようだ。

 身体を繋ぐより強いその体温の交流に、私たちは長いこと動かずにいた。



 駅の改札で手を振ってくれた彼を思い出しながら、ウトウトしながら電車に揺られて帰る。よそよそしさを感じるのは、彼の生活のすべてを知らないからだろうか。旅行などではわからない、普段の彼の顔。

 もうじき到着という頃合いで、長尾君に声を掛けられた。

「こんな遅い時間に、何やってんだ」

「長尾君こそ、明日もお店じゃないの?」

「そうでーす。六時にはチビに起こされて、メシ食ったら花に水やって、七時に店開けて。問屋から納品が来たら水揚げして、茎が短くなっちゃったのはお買い得品に仕立てて、レストランとかには十時前に納品、その前に公民館もあった気がするなあ」

「忙しいんじゃないの」

「だから閉店後に、映画のレイトショーに行くくらいは許されるだろ」

 実家を継ぐという腹を括ったら、却って動きやすくなったと長尾君は笑った。

「まだ勤め人に戻れるなんて考えてると、やってみたいことが思いつかないんだ。これしかないと思ったら、親父と喧嘩してでも新しいことができる」

 それを開き直った、と受け取る人もいるだろうけれど、長尾君はパワフルに見える。

「逞しいね」

「北岡だって独身なんだから、何だってできるさ。話し合いが必要な相手もいないんだから、余計自分の好きにできる」

「親の心配とか」

「ありゃ勝手に心配してんだ。上手くやってれば上手くやってるで、次にコケたときの心配する」

 元の夫とのバタバタで親に迷惑をかけまくった私は、素直に頷くことはできないけれども、勝手に心配しているという言葉は肩を軽くする。

「明日、上げ花を買いに行くね。サービスして」

「おう、スプレーマム一本余計に入れてやるわ」


 長尾君との勢いのある会話で、彼の言葉が鮮やかになった。誰のものにもなって欲しくない、と彼は言った。彼が私を繋ぎとめようとしていないことは知っている。お互いの状況とか年齢とか、これから価値観を擦り合わせるために費やす時間を、彼は怖がっている。そしてそれは私も同じで、たとえば恋人だと名乗ってしまえば、両親が期待するような未来は遠くなっていく。

 気の合う夫と仲良く暮らして子供を儲け、穏やかな老後を夢見るような生活。それがあるべき価値だと思っていた私を、私自身が捨てられない。けれど元の夫と結婚するときに、そう思っていたのではないか? 私の両親も義理の両親も、疑いもせずにそうなると思っていた。

 保証なんて、誰とでもないのだ。幸福の絶頂に、交通事故で死ぬかも知れない。生まれた子供だって、何かのはずみで事件に巻き込まれるかも知れない。すべてのことに、可能性はゼロじゃない。問題は何に向かって歩いていくかだ。

 私は彼を心配したい。また彼と散歩し、花の名前を言いあい、続かない会話の間の沈黙を楽しみたい。あの湿気た畳の上のように、彼を取り込み背にしがみつき、そして。

 そのまま駅に引き返そうとして、その時間ではどこにも行けないことに気がついた。すぐに会いたいと思っても、物理的な距離が大きすぎる。せめて駅ふたつみっつの距離ならば、必死で自転車を漕ぐこともできるのに。


 惑っていてはいけない。迷っている時間分のロスが出る。とても考えたくないことだけれど、祖母を送ったばかりの今なら、考えるまでもなく何が後悔か知っているはずだ。精一杯した義母の介護にはなかった後悔が、祖母には強く残ったじゃないか。

 彼の回復を疑っているわけではなく、彼と一緒に戦わなければ、勝利を一緒に喜べない気がする。

 迷惑だとは思っていないと、その言葉だけを頼りにして良いのだろうか。それすらもわからないけれど、この感情が恋であるなら、私はそれに忠実になりたい。

 まだ呆けていたときの、父の言葉が蘇る。失敗したくてする失敗なんて、あるものじゃないんだよ。芙由が人間に誠実であれば、また新しい人生があるからね。


 行こう。彼の傍に行って、できる限りの努力をしよう。それが自分のぼんやりと夢見ていた未来とは違っても、自分の知らない幸福の形を作れば良い。私の知らない場所で、ひとりで苦しむ彼の姿を想像したくなんてないのだ。



 彼女がこちらに越して来ると言ったとき、私はどんな顔をしていたろう。

「先生の責任にはしません。私が勝手にこちらで、就職先を見つけようと思っているだけです」

「わざわざ厄介な人間に近づくなんて」

「厄介かどうかは、私が考えることです。先生は今と同じ生活をなさればいい」

 彼女はきっぱりと言う。

「あなたは若くて健康だ。それに女性としても素敵な人なのだから、いくらでも幸せを求められるのに」

「私の幸せは、私が決めます。両親があてがってくれたアパートや、たまたま求人が目に入った勤め先よりも、私が考える幸せはここにあるんです」

 言い切る彼女は頼もしく、しかし怖ろしい。私が望むことではないにしろ、私が彼女の人生を曲げてしまうのではないかと、自分にそんな価値を置かない私には、心底怖ろしい。

「僕のためならば」

「言いましたでしょう? 先生のためではなく、私のためです。先生がどう仰っても、決めたんです」

 思いの外頑固な言葉に、決意の固さが見えた。


 相変わらず腫瘍マーカーの値は落ちず、浸潤した血管から血液に乗ってどこかに転移していると考えられる、と医師は言った。

「お仕事もなさっていることですから、お盆休みにでもじっくり検査しましょう。もちろんそれまでに、今のお薬がよく効いてくれればそれに越したことはありません」

 盆休みは心配している母の家を訪ねるつもりだったので、休薬の期間を調整して七月の連休に行くことになった。母に会うときに少しでも顔色良く見えれば、それで良い。彼女にそう言うと、とても懐かしそうな顔をした。

「あのお家へ行くのですね。酔芙蓉のたくさん咲くお庭と、古い縁側のある」

「花の下であなたは、座り込んでいましたね。細い腕で、血の気のない顔をして」

「遠い昔のようです」

 彼女は目を閉じて、しばらく何かを思い出しているようだった。それは過酷な介護生活だったり、手酷い裏切りを行った元のご主人のことかも知れなかった。

「もう一度あのお家へ、訪ねてみたい気がします」

「お招きしましょうか」

 私もまた、芙蓉の横に立つ彼女を見たい気がした。

「今はまだ、あの場所に近付く元気はありません。でも、いつか」

 窓に寄りかかって外の風を受けながら、彼女の佇まいは優しげだ。

「陽射しが少し和らぎましたね。散歩に出ましょうか」

 連れ立って出れば、もう彼女の帰る時間になる。この部屋にいるよりも移動時間の長い彼女は、ゆっくりと立ち上がる。スカートを整えて鞄を持つ彼女に、どれだけ帰るなと言いたいことか。


 駅まで歩く途中の公園は、早くもアジサイの色が褪せ始めている。

「先生は私の未来を、心配してくださってる」

 散歩途中のベンチに腰掛け、家から持って出たポットのお茶を飲んだ。

「僕は狡いんです」

「私も狡いです。先生は良い顔をしなくても、私が来てしまったら拒んだりしないって確信してる」

「違いないですね。結局僕たちは、面倒な繋がりばかり持ちたがる」

 西の空が色付き、太陽を隠した雲が光って見える。もう子供の声のしない公園の中、初老も過ぎて貧相な男と、共にいたいと言ってくれる酔狂な女は、ひっそりと口づけをする。

 あの畳の部屋から、どれくらい経ったのだろう。そうしてこれから先、どうなっていくのか。

 どうして避けてやれなかったのか、どうして自分から離れなかったのか。考えても考えても悪手を打っているとしか思えないのに、もう彼女の行動を拒むことは考えられない。物理的にも心情的にも近くなるこの道は、けして舗装されてはいないのに。



 逸る気持ちはあっても、生活を変えるのが簡単ではないことくらい、私も知っている。住まいも仕事も探すのには時間が必要だ。目標を九月に定め、インターネットなどで情報収集をする。私の住む場所よりも幾分物価は高く、しかし給料はそんなに変わらない地域だ。つまり、住居費と生活費は余計にかかるのに、実入りが少ない。これではフラワーアレンジメントを続けていくことは難しい。せっかくクラスが上がり、生花だけでなくドライフラワーのアレンジなどもはじまったばかりなのに。それに両親に、なんと報告しよう。

 考えることは山積みにあっても、計画を中止する気はない。無駄なことをしたと後悔する日は、あるかも知れない。どちらかがどちらかに失望する日があったり、この恋は勘違いだったと思う日はきっとある。そのときに私は、やっと落ち着いた生活を手放したことを、嘆くだろう。

 それでもどうしても、私は彼の元へ行かなくてはならない。使命感にも似た感情に、私は背筋を伸ばして目を閉じる。


 彼は今日は、実家に行っているはずだ。あの古い縁側に座って、庭を眺めているだろう。筋肉の削げている今、身体が冷えるからとエアコンの風を嫌がり、家の中で靴下を穿いている彼のことだから、植物を抜けた風は気持ち良いだろう。お母さまの腰が悪いからと仰っていたけれど、母親ならば馴染みの懐かしい料理を用意しているのではないかしら。そしてあの畳の部屋で眠るのだ。古い文庫本でぎっしりの本棚と、傷だらけの学習机がある部屋は、一度しか入ったことがないのに、こんなにクリアに思い出せる。あの芙蓉の咲く庭は、そろそろ花盛りになる時期だ。


 義母と過ごした家が、どうなっているのか見に行きたい気はする。義母が植えた木は、処分されてしまったろうか。バス停から家までの曲がり角の家は、いつも優しく声をかけてくれた。デイサービスの職員さんやケアマネさんにも恵まれていた。必死で駆け抜けた日々を懐かしく思い出すほど時間は経っているのに、あの土地を歩くと思うと途端に背筋が凍る。あの男と会うかも知れない。今どこで生活しているのかは知らないが、理不尽につけられた傷はまだ、瘡蓋すら乾いていないのだ。


 夢を見ようと思う。彼が健康を取り戻し、もうじき出版される本が評価されて、小説家として再度認められるようになる。そうして顔色を取り戻した彼と一緒に、花を求めてあちらこちら散歩をするのだ。寒椿の紅、冷たい風の中に凛と咲く梅、頭上いっぱいの桜。迷路のような躑躅の植え込み、雨模様の空と紫陽花。彼は口数少なに花の佇まいを眺め、私の足元を気遣ってくれる。その花の色を、彼は文章にするだろう。随筆になるかも知れない。

 これを叶えるために、彼の手助けをしたいと思っているの? 自分に問う。違う、私が彼との時間を欲しがっているからだ、と自答する。どれだけ考えても私の感情は、彼に向かっていく。不都合な現実を自分に言い聞かせたのちに、なお彼の痩せた肩が浮かぶ。数年後にどうなっているかよりも、私を突き動かすものがあるのだ。


 仕事の予定が少しずれこんだ日、習い事に間に合わずに振替レッスンを希望したら、教室の中に長尾君がいた。講師のアレンジを熱心に写真に撮り、ノートに詳細なメモを取っている。私には気楽な習い事だけれど、彼にすれば人生の中の一部なのだ。

「なんだ、今日は振替?」

「熱心だね。授業態度、感心したわ」

 頼んで見せてもらったノートは、張り付けた写真と共に花の種類からオアシスの隠し方までびっしりだ。

「見直したか? 惚れてもいいぞ」

「ノートにだけ惚れる」

「まあ、いいさ。自営で両親と甥っ子まで同居とか、嫁が来るわけないし」

「いい男なのにね」

 これだけは本心で言った。巡りあわせの悪い人間は確実にいて、長尾君も私もその中のひとりだ。家の都合を考えて都会の生活を畳んだ長尾君は、拒否することもできたろう。夫から頼まれて介護生活をした私だって、事前に断ることができたはずだ。そのときにベストだと思った答えが、その後どう変わっていくか見える人はいない。


 両親にだけは、住まいを変えることを考えていると言った。理由は訊かれたが、本当のところを答えられるはずもなく、ただいろいろとリセットしたいのだとだけ言った。

「大人が決めることなんだから、他人様の迷惑にさえならなければいい。決まったら教えてくれ」

 母は何か言いたそうだったが、父は頷いてくれた。


 憂うことは数々あっても、後悔はしたくない。あの湿気た畳の部屋で彼は、一緒に来ませんかと言っていたじゃないか。あのときの彼には、私を連れ出してどうするなんて余裕があったわけではなく、身体を重ねた貧相な女が憐れに見えただけだったのだろうとは思う。けれどあの日には、私たちの真実があったと思う。手を差し出した男と、その手を取った女。ずいぶんなタイムラグはあって、状況は確かに変化したのだけれど、私を現在引き留めるものはない。そして彼だって、受け入れることを拒否する理由なんてないはずだ。

 酔芙蓉は、白く咲いたあとに夕に向けて紅を染めていく。彼が今座っているだろう縁側で白く咲いた恋は今、緋桃に染まるのを待ちながら、黄色いシベを誇らしげに突き出している。

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