淡く咲きて宴を待つ

 私が全部しますから、先生はそのままでいらしてください。小さな温泉旅館で、彼女はそう言って私の浴衣の前をはぐった。すべてを彼女に任せてしまった旅で、私がしたのは電車の車窓から外を眺めることくらいだった。駅まで迎えに来た旅館の車に乗り込めば、せせらぎの音の聞こえる部屋に通されて、外を歩いたのは窓から見えた川まで降りてみただけだ。毎日の勤め先のほうが、まだ動いているような気がする。それでも長い距離を移動するのは疲れるものだ。失礼するよと断って、二つ折りの座布団を枕に横になる。お湯三昧しますと彼女は笑い、私がウトウトしている間に大浴場に行ったようだ。部屋に運んでもらった夕食を差し向かいで摂り、ふたりで二本のビールを飲んだ。胃が小さくなったからか、私はすぐに酔ってしまい、仲居さんが布団を敷きに来たときには窓辺の椅子でまたウトウトしていた。

「意外に傷は小さいんですね」

 もう瘡蓋のはがれた傷をなぞり、彼女が言う。あばらの出てしまった胸に唇を寄せ、浴衣の前を開いた彼女は手早く避妊具の準備をした。女の官能を見せつけるような仕草は、彼女が結婚の経験があることを思わせる。性の楽しみを知っていて、それを自分の中に取り込む術を心得ている。


 何も知らぬ娘ではなく、年齢なりに過ごしてきた女なのだ。その中には確かに他人が経験しないことも含まれていて、それが彼女を日常生活から少々遠ざけてはいるが、いずれ本来の自分を取り戻すだろう。おそらくとても魅力的に。

 彼女の白い肌や目蓋の美しさ、細い指先が唇よりも饒舌に語ること、今にそれに気がつく男が出てくる。いや、もう存在しているのかも知れない。彼女の日常は会話の中でしか知らないから、おとなしい勤め先と習い事以外には話し相手があるのかも知らない。


 馬鹿な元結婚相手は、長い手紙を送ってきたらしい。近所の誤解の責任を追及するとあったそうだが、そもそも誤解ではないから弁護士さんに渡しましたと笑っていた。

「これが笑えるようになったんだな、と嬉しくなりました。以前なら言い募られたりすると、自分に非があったのではないかと考え込んでいましたから」

 それでもまだ外出するときは左右を確認しながらだと、溜息を吐く。物理的に傷つけられたくはないから、早く落ち着くべき場所を見定めて欲しいと言う。子供がいるのだから新しい家庭生活に目が向けば、彼の主張は意味のないものになるのに、と。

「介護生活で薄い近所づきあいでも、近所が友好的であるかどうかって重要なんです。戸建てだとゴミ当番や回覧板はあるものですから、マンション住まいと違う。自分でそれをしないものだから、彼の頭の中でそれは、無いものなんです。自分で家のことをすれば気がつくはずなのに、おそらく奥さんが出て行ってからも地域を無視しているんでしょう。どちらにしろ住み続けることなんか、できないのに」

 私には少し、男の気持ちが理解できる。父親が退職金で建てた家だというくらいだから、男は賃貸の住宅で育ったのだろう。それが裕福でなかったからか転勤族だったからかは知らないが、育ってきた過程の中で持ち家に憧れていたに違いない。だから手に入れたものに執着しているのだろう。でもそれはあくまでも両親の持ち物で、本人のものではない。母を捨てた時点で両親のものも捨てたのだと、男には覚悟がなかったのだ。

 理解できてしまうこと自体が、私の破綻させた結婚生活を物語っているではないか。共棲みしているという理由だけで、私はどれだけ妻を搾取していたろう。


 術後二度目の検査で、腫瘍マーカーの値が上がっていた。これが再発を確定するものではないし、内視鏡での異常は見当たらないのだが、盆に痩せこけた姿を突然見せるのも、ということで、姉から母に私の病状を告げてもらった。自分で報告しないのは、母の反応が怖いからだった。私は父によく似ており、父もまた老人になる前に亡くなっているので、重ねて考えられることはわかっている。あまり心配させたり泣かせたりしたくはない。この不肖の息子は、それでなくとも生活の面で心配をかけているのだ。


「先生、もう寝てしまわれましたか」

 隣の布団で、彼女はこちら向けに寝返りを打った。

「いいえ。ここは静かな宿ですね。静寂が空気になって、部屋に満ちているようだ」

「あまりに静かだと、不安になります。人間は意外に、気配の中で生きているものなのですね」

「今、芙由さんの気配を感じていますよ」

「私も先生の気配を感じます」

 彼女はそれきり黙って、しばらくすると規則正しい寝息になった。目を閉じてそれを聴いていると、世界は闇の中にふたりきりしかいないような錯覚を起こす。


 旅行から戻った翌週にはまた投薬がはじまり、休薬期間に少々蓄えた体力と皮下脂肪は、あっという間に消耗していった。食事に対するリハビリはほぼ済んでいるが、結局生きるためだけの栄養補給と舌の楽しみが一致しない。酒もタンパク質も許可されているのだが、その後のことを考えれば手が伸びにくい。抗がん剤を止めたら楽になるのだと考えると、いっそのこと効果があるのかどうか自分では見えない治療など、中止してしまおうかと思ったりする。どうせ養う人間もいない、大した仕事もできない男なのだと、自棄になりたくなる日もある。 


 ほぼ元通りの勤務になり、家に帰って簡単な食事を済ませると動けなくなる日々が続いたある日、しばらく沙汰の無かった出版社から連絡が来た。

「会議、通りました」

 言われた意味がわからなくて、訊き返した。

「先日いただいた原稿、書下ろしで出してみようということで。話題としてもタイムリーですし、読書サイトで先生の本は細々とですがレビューがアップされています。えっと、つまり旧作を拾って読んでいる人が一定数いるみたいです」

「はあ」

 送っただけで、すっかり忘れていた。思い出す余裕がなかったと言ったほうが正しいかも知れない。すでに原稿への朱入れがはじまっているらしく、近々送られてくるという。

「悪いけど、ちょっと時間をもらっていいかな。平日は難しくて」

「お仕事が忙しいんですか。この勢いで次も、と張り切っているんですが」

「身体の問題でね」

 しばらく顔を見ていない担当者に今の状態を説明すると、さすがに驚かれた。

「ではあまり無理をなさらないように、と言いたいところですが、先生のことだから一生懸命やっちゃうんですよね」

「まあ、鉛筆を握ったまま寝ないように気をつけるよ」

 書下ろしなんて、ここ何年もなかった。細々と雑誌の連載や短編しか書かせてもらえなかったのに、渡したことも忘れていた原稿が動き出す。久しぶりに身体の中で何かが動き出し、淀んでいた水が一筋流れたような気がする。

 やっぱり私は、文章を生業として生きていたいのだ。自分の満足のためにパソコンに打ち込んで、それはそれで満足だったのだが、価値をつけて市場に送り出せる喜びは、自分の肯定感を底上げする。さあ、やるぞ。そんな気になるのが、自分でもおかしい。

 死にたくない。私はまだ、代表作と言われるものを持っていない。


 珍しく彼女が訪れなかった週末、前夜に夜中まで作業をして、起き出したのは昼過ぎだった。食パンをトーストしてインスタントのスープに浸して食べ、久しぶりに母に電話した。

「ガンだったんだって?」

 あらかじめ姉に伝えてもらった通り、手術は成功したが胃が小さくなったので痩せたとだけ話した。休薬を盆の期間にするつもりなので、実家に行く間は幾分まともに飲み食いできるはずで、母を安心させたいと思う。本当なら彼女の家よりずっと近い自分の実家が、やけに遠い。母の心配する顔を見たくなくて、どうしても足が向かないのだ。姉が同じ県内に住んでいるのを幸いにして、母の様子だけを知らせてもらっている。

「ひとりでいるから不摂生になるのよ。やっぱり離婚なんて、良くないねえ」

「不摂生は否定しないけど、結婚してたって病気にはなると思うよ」

 それから年寄りの説教がましい話を静聴し、世話に来るというのを断った。もう足腰の弱った母に、駅の階段を使わせたくない。大丈夫だからと念を押し、夏になる前に一度行くからと約束した。考えてみれば正月から顔を出していなかった。こちらに戻ってからは、三月に一度程度は顔を出していたのに。


 朱の入った原稿が送られてきて、優秀な校閲さんに揺さぶられながら、小さな推敲と改稿を繰り返した。自分の文章の粗は自分では見えにくく、頭を切り替えるために他人の書いたものを読んでみたりする。そして他人の表現力に殴られたり、ストーリー展開の秀逸さに嫉妬したりする。身体を使うわけでもないのに体力を消耗し、出版社の定めた期限のころにはヘトヘトになっていた。

 抗がん剤の副作用は、前回とそれほど変わらない。痩せてしまった尻に木の椅子が痛くて、台所の椅子に座布団を乗せた。それを見た彼女が、体重を分散すると言う座布団を買って来てくれた。

 最近彼女は、以前よりもよく笑う。習い事のクラスが上がったら仲の良い友達ができて、写真投稿のSNSをはじめたと、スマートフォンを見せてくれた。楽し気な表情を見るのは嬉しいが、それは私から離れていく前段階にならないだろうか。

 厄介な病気を抱えた年上の、金も将来もない男。この恋には、期限がある。もう若くない男には、過剰な期待は毒になる。


 二週続けて彼女が来なかったのは、手術以来はじめてだ。私は私で原稿があったので手持ち無沙汰になったわけではないが、妙な焦燥感がある。習い事のイベントがあると言った翌週に、今度は祖母が入院したと言った。隔週で土曜日の休みがあるはずだが、弁護士との面会があるという。

 抗がん剤の前クール中に、一度彼女の家まで車を走らせたことがある。普段長距離を運転することがないので、緊張で胃に負担がかかり、帰宅してから動けなくなった。それを思えば、こちらから会いに行くことも躊躇われる。

「寂しいです」

 彼女は言ったが、私のために無理をしてくれとは言えない。

「たまにはそんなタイミングもありますよ。私が動ければ良いのですが」

「先生は療養に専念してください。早く元気になっていただかなくては」

 お互いに仕事があるし、それでなくとも私は身体の件で勤め先に迷惑をかけているので、平日に休みを合わせることもできない。


 ほんの思いつきで、彼女のSNSを覗いてみた。美しく飾られた花の写真が大半だが、ときどきカフェや服飾小物などが混ざっている。その中の一枚が、目に留まった。

 テーブルの上のケーキと紅茶があるが、向かい側に写りこんでいる手がやけに骨ばっている。これは男の手ではないのかと思うと、胸がざわめいた。彼女の職場が女ばかりでないことは知っているし、自分の育った地域ならば幼馴染と会っていても道理だ。若い女なのだから、カフェに入れば甘いものくらい頼むだろう。写っているのは撮り手に向かったセッティングなのだから、何人かでひとつのテーブルについているのかも知れない。

 プライベートの話し相手の中に異性がいるなんて、私は聞いていない。こう考えてから、自分の愚かさを思う。彼女を独占できているつもりか、この無価値の男が。彼女は自由だ。会いたい人間に会い、恋をしたい相手と恋をすることができる。恋人の名乗りを上げもせず、ただただ顔を見せに来てくれることを待つ男には、彼女の行動を縛る権利なんかない。


 編集部と何度か往復があり、入稿の終わった翌日にやっと彼女の顔を見た。

「やっと来られました。先生、お加減は」

「悪くも良くもないよ。来週は休薬になるから、少しまた回復する」

「治療のためのお薬で消耗するって、本末転倒な気がします」

「生きている細胞を攻撃するわけだからね、必要な細胞まで被害に遭う」

「被害って」

 コロコロと笑う彼女の顔が、以前よりもふくよかに美しくなった気がする。これは生活が充実してきたからなのか。イベントの写真だと、スマートフォンで画像を見せてもらう。

「これ、私が活けたものなんです。バラは高いのでトルコキキョウでアレンジしたら、少し地味になってしまいました」

「いや、この色合いが芙由さんらしい。綺麗だね」

 次々と捲っていくと、数人で写っている写真があった。同じクラスのメンバーと、記念写真を撮ったらしい。

「男の人もいるの?」

 花を習うのは、女性と決め込んでいた。考えてみれば花屋にも男性はいるし、有名な華道家も男性だ。

「この人はね、お料理をする人なんです。和食の大家が自分の店の花を自分で活けるって聞いて、じゃあ洋食ならフラワーアレンジだと思ったって。勉強熱心な人ですよ。上のクラスには、ただ花が好きだっていう中年男性もいます」

 自分の頭の固さを思う。創造する側の人間が、固定概念にとらわれていてどうするのだ。そしてSNSで見たあの写真の手の持ち主は、やはり男なのか。


「元夫は、どうもお金がないみたいです。義母は既往症があって小さい保険にしか入れなかったのに、死亡保障が入ってくると思っていたらしいの。だから義父からの遺産相続を私への慰謝料に使ってしまったら、残ったのは家だけ。転職してお給料が下がって、何も知らない奥さんには働けって言えなくて、それで私からお金を返して欲しいんですって。弁護士さんがやっと話を整理してくれて、念書が取れそうです」

 彼女は少しだけほっとした口調で言う。

「これであたりをキョロキョロ見回さなくても、歩けるようになります。疲れました」

 外はもう梅雨の時期になっている。抱けるような体調でもないくせに、彼女の肩を引き寄せる。それ以上自由にならないでくれとは言えない。彼女が快適に生活をして、楽しい人間関係を構築することを手放しで喜んでやることができないのだ。

 私は卑小で情けない男だ。守ることも寄り添うこともできずにいるのに、彼女の未来が怖い。



 彼の新しい本が出るらしい。私は以前読ませてもらったけれど、それが本の形になって書店に並ぶのならば、とても嬉しいことだ。これで外で稼がなくても良くなるのではないかと思ったら、そんなことにはならないらしい。私には本を売ってお金になる仕組みはよくわからないのだけれど、彼が言うところによれば、文筆だけで食べて行けるなんてひと握りしかいないと。あの細い身体で栄養ゼリーを啜りながら、毎日電車に乗っているのだと思うと、たまらなくなる。けれど私には、どうすることもできない。


 弁護士さんから、念書は取れたという連絡が来た。それでもまだ納得しきれてはいないようだから、直接の連絡を禁止するときっちり言い聞かせたとのこと。

「今度何かあったら、私から奥さんに連絡して、全部の事情を話してやります」

「おっと、接触禁止は守ってくれよ」

 結局あの家を売って、奥さんの実家近くにアパートを借りることになるようだ。そうなると、もうあの庭はなくなるのか。私が花の手入れをしていると、幼児に戻った義母はそのときだけおとなしく、それを見ていた。

 赤いお花、黄色いお花、トミちゃんは春が好きよ。トミちゃんのお庭に蝶々が遊びに来てね、ひらひら、ひらひら……

 夜中に何度も起され、粗相の後始末をし、どこで汚してきたのかわからない服を脱がせる。デイで入浴してきてくれるのは有り難かったけれど、歯磨きを嫌がるので口臭がひどかった。家の中でも迷子になり、テレビ番組が気に入らないと癇癪を起し、鍵のついた冷蔵庫の前で開かないと泣いた。元気なころに気に入ってよく着ていた服に、鋏を入れたこともあった。

 悼むことより先に、電池が切れた。記憶が途切れ途切れのあの期間に、私は義母や家を思い出したことがあったろうか? 自分がひどく冷たい人間に思え、唇を噛む。

 あの家で私は、何をしていたのだろう。結婚相手の母だというだけの、病気を抱えた痴呆老人の介護をするために、私は何を犠牲にした? そして得た大金は、何に対する慰謝なの? 口座のお金は触れることすら厭わしく、実家の金庫に通帳だけがある。

 終わったことだ、もう全部私には無関係なのだ。義母の可愛らしい声だけが、ときどき愛しく耳の中だけに囁く。お母さん、ありがとね。


 休薬の期間だからと、彼と一緒に電車に乗って出掛ける。美術館を一回りして、ベンチで休憩した。もうコーヒーだって飲めるんだよ、と嬉しそうに缶のアイスコーヒーを傾ける彼の首は、筋が浮き出ている。ガラス窓に流れる梅雨の雨を眺め、黙って隣に座っていることが、こんなに満ち足りた気持ちになるなんて、想像もしなかった。

 湿度の高い畳の部屋、外の強い雨の音。彼への気持ちの帰着点はそこだと思っていたのに、それ以上に重要なことがあるような気がする。

 元夫と結婚する前は、どうだったろう? 言葉もない時間が重要だなんて考えたことがあった? それでも結婚したときに、彼を好きだったことには変わりはないのだけれど、少なくとも彼が単身赴任したころにだって、黙って座っていても満足しているかどうかなんて、気にもしていなかったように思う。キラキラした恋の時間は、楽しく一緒に笑えることばかりを考えていた。もちろん外見も大切で、一緒に歩くときのお互いの服装が場面にそぐうものかどうかとか、知り合いと顔を合わせたときに馬鹿にされないかとか、そんなことも考えた。


 彼は今、骨の上に皮が張り付いているかのように痩せてしまって、それでなくとも差のある年齢よりも更に離れて見えるだろう。外から見れば私と彼は、一緒に歩いて似合いの間柄ではなく、共通の話題は、そんなに多くない。それにもかかわらず、彼の隣に座っていたいと思う。

 これはやはり、恋だ。知っている恋と形は違うけれど、愛欲や情ではなくて恋なのだ。

 帰りの電車の中で、彼がウトウトと目を閉じる。乗り換え駅近くになり、ここで別れなくてはならないのが惜しくて、彼の横顔をしばらく見ていた。

「先生、そろそろ到着ですよ」

 声を掛けて起こすと、彼は目をしばたいて背筋を伸ばした。

「お疲れになりましたか。家まで大丈夫ですか」

「少しウトウトしましたね。ああ、今日は楽しかった」

 私の乗換駅はもう少し先なので、窓越しに手を振った。顔まで痩せて眼鏡の幅が合わなくなったと、スポーツ用の眼鏡ストラップをつけた髪に、白髪が目立った。ここまで白髪の多い人だったのか、それとも最近増えたのか。痛々しい顔をしてみせてはいけない。不安なのは彼なのだから。


 フラワーアレンジメント教室に花を納入しているのは、高校のクラスメイトだった人だ。搬入が遅くなったと運び込まれたとき、私はちょうど教室のドアを開けるところだった。ドアをおさえて台車が通るのを待つと、もしかしたらと声をかけられた。

「北岡?」

「長尾君?」

 営業用だからフォローして、と写真投稿SNSのアカウントを教えられた。実家の花屋で、自分が管理していると言う。私も同じサービスを使っているので、その日のうちにフォローすると、あちらからもフォローがあった。そしてダイレクトメッセージで、短いやりとりをした。それだけで、特に何か話したわけじゃない。ただそんなふうに互いの日常を覗くことができると、身近に感じることが多くなる。だから部屋に観葉植物を置きたくなったときに、その店に行くのは自然な感情だった。

 もう梅雨も終わりかけ、仕事帰りでも外は明るい。

「あれ、来てくれたの? 家、近いんだ?」

「ここから自転車で、十五分はかからないと思う。いつも駅の逆側に降りるから、ここが長尾君の家なんて知らなかった」

「ああ、去年帰って来たんだわ。ちょっと訳ありで」

 手入れのしやすい小さな鉢を選んでもらい、新聞紙に包れたものを受け取った。そのときに入ってきた幼稚園くらいの子供と年配の夫人が、長尾君と一緒に頭を下げた。長尾君のお母さんとお子さんかなと思いながら、私も曖昧に頭を下げた。


 不思議なもので一度顔を合わせると、そのあとに会う機会が多くなる。色々な場所でフローリストナガオのペイントがあるバンを見たし、朝のコンビニエンスストアで子供にパンを選ばせている場所にも行き合わせた。そのたびに小さく手を振って挨拶する。こんなふうに昔の自分を知る人と、蟠りなく会えるようになるとは思わなかった。屈託のないころに会話した人たちとは、元のように会話できないと思っていた。

 母の日の花を長尾君の店で買い、今度は父の日の花を買おうと訪れたときだ。

「北岡って独身なの?」

「に、なった。いろいろと事情がございまして」

「まあこの年になりゃ、よんどころない事情のひとつふたつ、誰でもあるよなあ」

 長尾君は苦笑して、器用にヒマワリのアレンジメントを包んだ。

「これ、長尾君が差すの?」

「北岡が通ってる教室、俺も違う曜日に習ってんの。生活かかってっからさ、いろいろやってるよ」

「家庭持ちは大変だねえ」

「自営は厚生年金なんてもんがないからね、老い行く両親を養わなくちゃならんわけよ。まあ、身軽で良かったわ」

 身軽? 子供がいるのに? 店先で立ち入ったことも訊けずに、配達があると言う長尾君に挨拶して、店を出た。


 そうか。この年になれば、よんどころない事情のひとつふたつ、誰でも持っているものなのか。そう頭の中で繰り返すと、やけに気楽になった。自分以外の誰もが、似合いの相手と結婚したり身に合った職業を持って、希望通りの生活をしているような気がしていた。自分だけが不幸だと思っていたわけじゃないのに、話しちゃいけない事情を抱えているような気になって。みんな、何かを抱えているのか。

 やけにすっきりした気分で、実家に花を届けた。そして入院中の祖母の話をし、父に送られてアパートに帰る。

「おばあちゃんも、いつ何があってもおかしくない。覚悟しておきなさい」

「はい」

 心臓が弱って身体中に浮腫みを持って、歩くことさえ億劫になっている祖母は、自分の部屋を綺麗に片付けている。少しずつ身仕舞をする美しさは、彼女が送りに抵抗していない証拠なのだろう。結局ジタバタするのは送る側だけで、送られる側は覚悟ができているにしろそうでないにしろ、黙って送られていくしかない。送る側に残るのは、悼みか後悔か看取った満足か、縁の薄い人ならば一瞬であるだろうものが、どれだけ尾を引くのか。

 私は義母に対して、どうなのだ。私にできることは、あれ以上なかった。大丈夫だ、悔いはない。だからただ悼んで構わないのだ。


 彼は病気について、私にはほとんど言わない。私が知っているのは、一年間強い薬を飲まなくてはならないことだけだ。手術を受けたすべての患者がそうであるのかどうか、私には知識がない。調べてみようかと思ったが、怖くてできなかった。

 彼の身体の中にあった悪い細胞は、親を取り去ったはずでも子をどこかに生している可能性があって、もしもそれがまた子を生すとしたら。私の心は一体、どこに向かったら良いのだ。彼と共に病と闘う覚悟はあるのか。それとも彼の言うことだけを信じて、このまま恋人とも情人とも言えない立場で彼のまわりを賑わしていれば良いのか。


 彼の部屋を訪れると、まだ眠っていたらしい。ほんのわずかな時間を共有するために、朝早くに家を出てくるのだ。眠そうな顔でドアを開けるよりも、歓迎して欲しいと思う私は傲慢なのかも知れない。週末ごとに来いと強制されているわけではなく、言うなれば私が勝手に来ているだけだ。

 勝手の知れた場所でお茶を淹れていると、やっと着替えた彼が座卓の前に座った。

「昨晩夜更かししてしまってね。芙由さんが来るまでに少し眠ろうと思ったら、寝過ごしてしまった」

「少しって、何時ごろお休みになったんですか」

「六時くらいかな、外がすっかり明るかったから」

「それは夜更かしではなくて、徹夜です。身体は大丈夫なんですか」

「手を止めたら、頭の中のものが逃げていくような気がしてね」

 その言葉で、彼が小説を書いていたことを知る。仕事の邪魔にならないように、趣味に留めておくんだと自嘲的に笑っていたのは、まだ彼に再会したばかりのころだったと思う。

「久しぶりに原稿の依頼があったから、はりきってしまった。ストックに手を入れたら、何か違うような気がして書き直して……」

 疲れた顔の中に、輝いた瞳があった。そこだけが妙に若々しく、危ういバランスに見える。

「読ませていただいても?」

「感想を聞かせてくれると助かる」

 まだ画面の中にあるものを、パソコンの前でそのまま読んだ。液晶で横書きされたものと紙に縦に印刷されたものでは、きっと受け取りかたは違うだろう。けれど引き込まれてしまい、気がつくと小一時間読み続けていた。


 パソコンの前で余韻を楽しみ、やっと彼の部屋の中だと思い出す。

「どこか物悲しいのに、開けた世界が見えるような」

 振り向きながら彼に向かって話しかけたけれど、返事はなかった。眠ってしまっているのだろうか。座卓の前で身体を横たえ、目を閉じている。

「先生?」

 声を掛けると薄く目を開いたが、顔は蒼白で、汗を浮かべている。

「お加減が悪いのですか、救急車を呼びますか」

 そう声をかけながら、この症状を知っていると思った。インスリン注射の部位を変えたときの、義母と同じだ。急いで台所で湯に砂糖を溶き、彼の背を支えてゆっくり飲ませた。驚くほど骨ばっている背は、骨が私の腕に直接当たっているようだ。

「低血糖を起されたんですね。夜の間、何も食べずに頭を使っていたんでしょう」

「そうか、食べなくちゃいけないっていうのを忘れていた。芙由さんが来ていなかったら、どうなっていたかな」

「普通の身体じゃないんですから、無理しないでください」

 彼の迂闊さに怒りながら、泣けてきた。今日私が来ていなかったら、彼はあのまま昏倒していたかも知れなかった。

「済まなかったね。今度は手の届くところに、氷砂糖か何かを置いておくことにするよ」

「置いておくだけではダメです。口に入れてください」

 深夜にパソコンに向かい、夢中になって打ち込む彼を想像する。人は夢中になっているとき、糖分や水分を摂ることに思い至るだろうか?


「私、休みの前日の晩から来てはいけませんか」

 今まで彼の部屋に泊ったことはないけれど、せめて私の時間があるときは、彼が悪くなったり無茶をしたりを止めたいと思った。

「いけませんよ。それでなくとも、僕に費やさせる時間が多いと思っているんです」

 まだ少し白い顔を横に振り、彼は言う。

「あなたはもっと開放されるべきだ。治療は進んでいるのだし、僕が気をつけていれば良いことです」

「そうではなくて、私が先生の心配をしたいんです。離れているのが不安なんです」

 彼は困ったように顎を撫で、それでも私が週末ごとに泊るという案には頷かなかった。

「梅雨が明ければ、夏の花が一斉に咲きます。芙由さんは花を習っているのでしょう? 花屋の花は綺麗ですが、路地に咲く花の逞しさは良いものです。散歩が楽しみですね」

 迷惑ですかと言い募る私を悲しい顔で見て、彼は話題を変えた。

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