雨を浴びながら伸びる枝
高熱を発しているときは疲れたが、入院生活は退屈だ。朝早くに検診がまわれば、あとは特に何もない。胃の三分の二を切除したことでもたらされる身体の不都合のため、食事にはおそろしく時間がかかるが、あとは血栓予防のため院内を歩き回り、同じ病室の人と世間話をし、ベッドでひたすら体力の回復を待つ。やけに目が疲れると頭に手をやったら頭皮がひどく固くて、慌てて髪の中に指を突っ込んでマッサージしたりする。
持ち込んだ小型のパソコンは、暇潰しに役に立った。プロットを文章にしていくのだが、依頼があって書いているものではないため、フリースタイルで思い付きで話が転んだりする。入院前に書きはじめた小説を書き上げ、次は何を書こうかなと思ったところで、やっとシャワーを浴びる許可が出た。
彼女との連絡は、すべてメールだ。私が電話をできる時間は彼女が仕事中だし、彼女が電話をできる時間は私が病室に入っている。ときどきスマートフォンで撮影した写真が送られてくる。ちょうど八重桜が見頃だ。来年は一緒に、とある。
退院が近いだろう日曜日に、彼女は電車を乗り継いでやって来た。
「少し痩せられましたね」
「食事がね、元の通りに摂れるようにはならないから」
「でももう、悪いところは取ってしまったんでしょう? 体力さえ回復すれば」
胃を三分の二切除して終わりではないのだ。食事に関してもリハビリが必要で、一日中少しずつ食べ続けている。
「とりあえず、早く退院したいよ。病院の生活リズムには、慣れないね。朝も夜も早すぎて」
姉が忙しい中、寝巻や下着の洗濯をしてくれている。今までそんなに濃い姉弟関係ではなかったのに、有難いことだ。人間はやはり、ひとりでは生き難いようにできているらしい。
白いカーテンで区切られたスペースの中、彼女は私の唇に唇を寄せた。
「次にお会いするのは、病院の外ですね」
「そうですね。散歩にでもつきあってもらいましょうか」
「近所を一周だけですよ」
そんな言葉だけで、ツツジの咲く公園を彼女と歩く光景が浮かんでしまう。
退院するより前に、病理の結果が出た。モニターに映された画像を見ながら、説明を聞く。
「思いの外深くて、血管への浸潤があります」
予測ステージよりも少し良くない状態で、血液に乗って転移する可能性があるという。現在は見られないが、予防的に抗がん剤を使うか検診で様子を見ながら生活するか、次の検診まで考えてくれと言う。再発の可能性としてのパーセンテージは大きく思えないが、医師に言わせると充分に大きな数字だそうだ。
「次の検診までに決めてください。試しに使ってみて、副作用が強ければ薬を変えることもできます」
入院して点滴を打つのかと思ったら、錠剤を飲むだけで、仕事をしながら治療できるらしい。私の知識はずいぶん古いようだ。
長生きしようとは思っていないが、不肖の息子でも心配する母がいる。せめて母を送ってからと思うのは、自然な感情ではないか? 五月の連休には母の家を訪れて、手が届かないと言っている風呂の天井掃除をするつもりだった。たった二週間ほどでは、食事のリハビリも間に合わない。
門柱の横の芙蓉の木は、もう青い葉を広げはじめているだろう。明るい色の枝には、まだ蕾は見えない。光を浴びて広がる葉が力を蓄え、梅雨を迎えて水を蓄えると、暑い夏に次々と花を咲かせる。夜に萎んでポトリと落ちた花は、緋桃の中に青を宿した色をしている。
あの花の下で、彼女を見つけたのだ。生涯の中で最後の恋になりそうな予感のする、彼女を。
生きなくてはならない。たとえ彼女が外の場所で違う恋をするとしても、私の恋が終わるわけじゃない。人の死というのは、好意を持たない相手ですら悲しい記憶だ。彼女にもう、そんな思いをさせたくないのならば、今の私は生きていなくてはならない。
次の検診の医師への返事は、迷うこともなく決まっていた。
退院の一週間後に、職場に顔を出した。上司と復職の相談をし、健康保険から支給される傷病手当金の申請書を渡される。これと民間の医療保険で、生活はそんなに困窮しない。有難いことだ。体力が回復するまで休んで良いと言われたが、実はこれから先にもっと、体力を要することがあるのだと言ったら絶句された。くれぐれも無理はしないようにと念を押されて、出勤日を決める。前例があるらしく、意外にスムーズに話が通った。
食事の量や質を調整するのが難しく、コンビニエンスストアのおにぎりを三回に分けて食べてみる。もともと太らない質ではあったが、筋肉が落ちてアバラが浮いた。空腹は感じるのに食べることのできないジレンマで、好物を腹いっぱい食べる夢を見る。
診断確定されたときには、胃を切除することの大変な意味を知らなかった気がする。いずれ普通に食事ができるようになるというが、とにかく今は不自由しかない。
週末に彼女が訪れたが、やけに冷たい雨が降っており、散歩はできなかった。その代わり、入院中に書き上げた原稿を読んでもらった。私にとっては少し挑戦した内容だったが、彼女はこれを書籍で読みたいと言ってくれた。もともとは彼女に読ませたくて書いたものなので、充分に満足はしたのだが、欲を出して出版社の担当編集に送ってみた。しばらく連絡をとっていなかったのだが、会議にかけてみてくれると言う。
彼女は米を炊き、小さなおにぎりをフリーザーにたくさん並べた。これならば食べかけを取っておかなくとも、必要な時に温めて食べられると笑いながら。けんちん汁を鍋一杯に作り、持参した小さめの密閉容器に小分けして冷蔵庫に並べてくれる。こういうことが、女の人の知恵なのだなあと思う。
翌日は仕事だからと帰る彼女を駅まで見送る。
「来週は、土曜日も休みです。伺っても良いでしょうか」
「あなたが来て悪いことなんて、あるはずがありません」
「お疲れになりませんか」
「あなたが退屈ではありませんか。外に食事に出ることもできず、近場の散歩くらいしか」
「自分のアパートでは、ひとりでその状態です。こちらに来れば、先生とお話ができる」
「遠いし、交通費もかかるでしょう」
私がそう言うと、彼女は子供じみた顔をしてみせた。
「ご迷惑なら、来ません」
「それは困ります。もうすでに、来てもらうつもりになってしまった」
慌てて答え、言葉の矛盾に笑ってしまった。彼女もまた笑い、改札口で別れた。
恋にはしないつもりだったのに。持っていたものはすべて手から離れ、細々と生きていくだけの未来しかないと思っていたのに。今更になって、朝に目覚める楽しみを持つことになるなんて、思いもしなかった。
たとえ彼女が私から離れて行っても、彼女の記憶が私に幸福を与えてくれるだろう。芙蓉の下で私を見上げた目も、梅林の中で枝を仰いだ横顔も、公園で桜を確認しながら振り向いた笑顔も、覚えていられるだけ覚えていよう。
のめりこんでしまいそうな不安はある。私よりもはるかに年下の彼女の未来まで、縛ってはならないのだ。再婚して子供を産むことを、阻害してはならないと思う。それによって傷ついた彼女は。そういう幸福こそを得るべきだ。身体に喪失感を抱えたまま、生きて言って欲しいわけではない。それを満たすには、私は不十分に過ぎる。それだけは、自分に諄々と言い聞かせておけ。
嫉妬や執着をねじ伏せる術を、身に着けていたろうか。
仕事帰りに実家に寄った。祖母は早々に寝室に引き上げてしまい、両親とお茶を啜った。
「最近、休みの日は忙しいのね。前は必ず来てたのに」
「習い事も楽しいし、新しいお友達が増えたの。おばあちゃん、ちゃんと散歩してる?」
「芙由が来ないと億劫がってねえ。やっぱり家だと管理が難しいからって、来月はまた入院したほうが良いって言われたわ。少しずつ弱っていくのね」
年老いても頑健な人も、確かにいる。でも大抵の人は、そうやって立木が枯れるように静かに力を失ってゆくのだ。
では、彼は? 手術は終わったのに、これからも治療が続くという。それは彼の身体の中に、まだ良くないものが残っているということなのだろうか。もともと痩せ型の彼は、退院後にますます痩せていた。訪ねたときに、今日は調子が良いからと言って口にした揚げ物を、何の前触れもなく吐き、申し訳なさそうな顔をした。食べることにすらリハビリが必要だなんて知らなかった私は、驚いて見ているだけだった。
あの手と、あの声と。彼と生活してみたいと思っているわけでもないのに、離れた途端に体温を感じたくなる。
恋人というほど甘やかではなく、情人というほど身体を求めているわけでもない。彼の何に呼ばれているのか、自分でもわからない。未来を託せる相手ではなく、彼を支えて生きてゆくほど私は強くない。何故という問いに、私の中では答えが出ている。おそらくこれは、ひとつの恋の形なのだ。何も知らずに過ごしていたころの浮き立つような甘やかさでなく、別れの予感に恐怖して眠れなくなるような激しい感情でもなく、ひたすらに彼の横にいるだけの時間が愛しい。
彼が私に読ませるために書いたという物語を読み、書いた本人を目の前に溜息を吐いた。LGBTを主題に持ってきたのは意外だったけれど、愛のお話だった。彼が紡ぐ物語はいつも、どこか悲しく生き難い人たちが出てくる。あれが彼の人間を観察する目なのかと、少し不思議になる。誰でも日常生活の中で得る情報は大きく変わらないのに、見え方は大きく違うのだなと思う。何をクローズアップして受け取るのか決めるのは自分自身だから、彼はおそらく人間の営みに興味があるのだ。その視点が、とても優しい。
私はまだ、人間を優しい目で見ることができない。元の夫の死すら願い、自分だけが解放されたい。ましてやその奥さんが辛い思いをしていることなんて、本音を言えばザマアミロと思っているのだ。彼女に罪がないことは知っている。独身だと思っている男と同棲していただけだ。その男が既婚者だと知ったときにはもう引き返せない場所まで来ていて、どうしようもなかったろう。
私が彼女の立場なら、結婚しないという選択肢はあったろうか? おまえと一緒になるために慰謝料を払ったと言われ、家を持っているからそこに住むのだと決められたら、ついて行くしかなかっただろう。かつてそこに暮らしていたのが見捨てた母と妻だとは、あの男でも言えなかったに違いない。考えれば考えるほど気の毒だとは思うが、やはり私は、ふたりの不幸を願ってしまう。
これをどうでもいいと思える日が、早く来ればいい。まったく無関係な人のように、道ですれ違っても気がつきもしないようになりたい。
彼は別れた奥さんの話はまったくしないけれども、離婚の原因については生活感の違いだと言っていた。僕がね、甘やかされた立場にあまんじてしまっていたのですよ。自立した男女じゃなかった。庇護することに執着する女と、庇護されることに疑問を抱かない男だったんです。詳しく聞くことはなくとも、彼があの年になってから就職したのは、おそらく奥さんの所得がメインの生活をしていたからだろう。
そう考えれば本当に、未来を共にする男じゃないことはわかる。私は配偶者を抱えこめるほど、生活力があるわけじゃない。でも今は、彼と一緒にいたい。それがいつまでと期限はないのだけれど。
「芙由は良い人が見つかりそう?」
母が唐突に言う。
「おい、それは本人に任せると言った。それにまだ、片付いていないだろう」
父が諫めるのを、母が不満げに見る。
「だってね、怖いのよ。芙由が寂しく年をとっていっても、私たちは助けてあげられないんだから。旦那さまがいなくても、子供がいればまだいいわ。だけど両方いないっていうのはね」
母が言っていることは理解できるけれど、それに返事することはできない。誰かと共棲みして生活を作り上げることは体力を使う。それは恋愛のモチベーションとは別のことなのだ。
恋はおそらく、している。欲しいのは彼だけれど、生活基盤の中に欲しいわけじゃない。
彼は抗がん剤の治療が始まったらしく、少し回復したかに見えた体重がまた減っている。よく耳にする、全身の毛が抜けるような副作用はあらわれていないようだけれど、常に吐き気と下痢があるらしい。うんざりしたように、これが一年続くんですよ、と言った。身体の中にあるのかどうか見えないものに、一年間の苦行がある。しかもそれで確実に細胞がなくなる保証はない。確率が下がるだけ。本当に大変な病を得たのだと思う。それでも服薬を休む期間があるからと、慌てて日を決めて近い場所への旅行を決めた。観光旅行ではなく、ゆったりと部屋と食事を楽しむような場所ならば負担にならないだろうと、私が勝手に段取りを組んだ。
彼は私と行動することに、ひどく慎重だ。それは私と会うことが億劫だとか、この中途半端な関係が面倒だとかいうわけでもないらしい。最初のころ、私が彼の生活に重いのだと思っていたが、あの体力で車を運転して顔を見に来たことで、考えは一転した。隣の大家さんの目がうるさいので外に出たのだが、こんな田舎で身体を休めるところを探すのに、隣の市まで行かなくてはならなかった。
それなのに、次の予定を決めたり翌年の話をしたりするたびに、彼の返事は気弱になる。まるで今日までの関係であるかのように。
元の夫の奥さんは、まだ実家にいるらしい。浮気するのならまるで違うタイプを選べばいいのにと、面会のあとに弁護士さんが溜息を吐いた。近所の人の打ち解けない態度が腑に落ちなくて、夫に何度訴えても話に乗ってもらえずに、ノイローゼになりかけたところで実家に連れ戻されたそうだ。
「芙由さんと違って子供がいたから、両親が孫の顔を見たくて頻繁に顔を出していてね。彼は面倒見が良くて責任感の強い人が、お好みのようだね」
「本人は我慢もせず、責任感も持たず、ですね」
「本人は両方とも、できてると思ってるんだよ。だからそれ以外は、全部他人のせいになる。
接近禁止命令の効力は半年だけれど、それによって本人の行動が規制されるわけじゃない。たまたま出先で顔を合わせても、注意の対象にはならない。だから向こうの夫婦が上手く再構築してくれないと、まったく安心ができない。
「家を売ったり貸したりしたくないらしいんだよ。彼の中では、持ち家はステイタスみたいだ」
「あれは義父の退職金で購入したもので、ヤツの努力なんて、何ひとつ入っていないのに」
「おや、ヤツなんて言ったね。芙由さんらしくない」
弁護士さんは笑って、今度離婚すると慰謝料の上に養育費が発生するよと言ってくれたらしい。
「こんな楽な調停なら、私が奥さんの代理人に名乗りを上げると言ったら、かなり怯えた顔をしていたよ。まあ、そっちのほうが楽だけど、そうするとますます芙由さんに逆恨みが行きそうだし」
「お気遣い、ありがとうございます。私が強くならなくてはなりませんね」
弁護士さんに頭を下げて、面談が終わる。父の伝手を使って見つけていただいた人だから、殊更に親切にしてもらっている気がする。
仕事が終わって、お疲れさまと会社を出た。主な業務は電話の受付とアウトプットした伝票を行き先ごとに振り分けることだから、あまり疲れることはない。まだ外は明るくて、梅雨間近だというのに空気がさわやかだ。
「北岡さん、仕事あがったの?」
戻ってきたドライバーさんが、声を掛けてくる。お先に失礼しますと挨拶すると、重ねるように話が続いた。
「今週の会社のバーベキュー、欠席だって? 何か用事?」
日曜日に、会社の駐車場でバーベキューを楽しむ企画があった。
「北岡さんって謎の人だからさ、みんな話したがってるのに」
「謎って、何もないですよ。アラサーの独身、趣味はインドアです」
「あやしいあやしい。家に年下の彼氏が待ってたりして」
「この会社のお給料で、そんな甲斐性があるもんですか」
笑ってその場を離れようとすると、彼は少しだけ顔を緊張させて言った。
「今度さ、一緒に飲みに行かない? 飲めないんなら、メシでも」
「大食らいですよ、私。破産させちゃうかも」
「いいね、たくさん食べる女は好きなんだ」
そう言った彼の笑顔は、思いの外すがすがしい。社内の人の顔まで見ていなかったのかと、改めて思う。
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