戻り霜の降りる枝
スマートフォンの液晶を表示して、彼の電話番号を確認した。この椅子に座っていたのが夢のように思え、何度も名前と番号を見返す。
私と彼は、どんな関係なのだろう。行きずりのように一度だけ身体を重ね、その記憶だけで昨日の再開に繋がった人。私はこれから、彼とどんな会話がしたくて連絡先を尋ねたのか。自分に問いを投げたって、答えなんかないのは知っている。私にできるのは、彼が書いた小説に感想を言うことくらいだろうか。
別れた夫は、その後実家に現れてはいないようだが、夜に知らない車が道路に停まっていると近所の人が言っているそうだ。それが誰のものなのかわからないけれど、警戒するに越したことはないと両親が言う。離婚のときに弁護士を通じてやりとりした父は、直接話したわけでもないのに、あれは知らない男に変わってしまったと言っていたのだ。迂闊に近づくなと。まだ呆けたままの私が膝を抱えていた間、父は私の代わりにたくさんの手続きをしてくれた。私がしたのは離婚届に記名することと、銀行口座を旧姓に戻したことだけだ。夫の顔を見ることもなしに、すべて済んでしまった。考えてみれば慰謝料は受け取ったが、謝罪の言葉ひとつ聞いていない。それなのに、私が悪い噂を広めたんですって。それで奥さんが逃げたんですって。違約金を払ってまで接近禁止を破るほどの情熱を、私が持ち合わせていると思っているのか。
なんてバカバカしい。私にとっての自分の価値が、以前と同じだと思っているのだろうか。
仕事中にスマートフォンが鳴った。珍しいことに大家さんからの電話だった。
「芙由ちゃん、高橋って人を知っているかい?」
「元の夫の姓ですが、何かありましたか」
「あんたの名前で契約者がいないかって、管理会社に電話があったらしい。今時プライバシーを答えるような、馬鹿な会社なんかないのにね」
「田舎だからと侮ったんだと思います。そういう人なので」
「外には気をつけてるけど、用心しとくれよ。お母さんが言うには、ずいぶんおかしくなっているようだから」
「ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしまして」
「あんたみたいな良い子に親御さんまで看させて、本当に人間じゃないみたいな男だね」
「気をつけて帰ります。本当にありがとうございました」
まだ話し続けそうな大家さんの電話を、途中で切った。仕事中なのだから、ここで長電話はできない。
私にはもう、何の関係もない。新しい奥さんの名前も知らず、ましてやあの土地になんか近づいていないのに。私の責任にして、どうしたいのだろうか。慰謝料? 私に慰謝料を払ったから、夫の貯蓄はゼロどころかマイナスになっているだろう。もしかすると、あの家を担保に借金したのかも知れない。新しい奥さんにしてみれば、独身だったはずの恋人は既婚者で、子供ができたからとドタバタ結婚した挙句に、大きな会社の社員だったのに勝手に離職した。そして連れて来られた土地では近所に人に冷たくされ、頼りの男は借金の理由を自分と一緒になるための代償だったと言う。あの人のことだから、転職先に不満があれば家では平気で不機嫌な顔をしているに違いない。今の私なら、そんな男には耐えられない。おそらく奥さんもそうなのではないだろうか。
祖母がまた入院になったと、母から連絡が来た。少しずつ弱っていく祖母を元気づけたくて、見舞に行った帰りだった。バス停でバスを待っていた私の目の前に、乗用車が停まった。通院患者を送ってくる車がそこに停めるのは珍しいことではなく、私はぼんやりそれを見ていた。運転席から降りてきた男の顔を見て、知っている人に似ている程度にしか感じなかった。
「探してたんだ。話があるから、乗ってくれないか」
そう言った男の顔は、知っているけれど知らない顔だった。顔かたちは記憶にあっても、こんな表情は知らない。口許だけは穏やかに動いているが、目は私を見ていないし、何よりも私の腕に伸びた手が怖い。じりっと後退りして、掴もうとしていた手を避けた。
「何故探していたのか知らないけれど、あなたの話を聞く義務はないの」
私の声は震えていたと思う。
「おまえには、責任を取ってもらわなくては」
「責任なんて、何もない。私たち、もう他人なんだから」
足が竦んで、逃げられない。せめてもうひとり、バス停に誰かいてくれれば。
「俺の生活を台無しにして、復讐か」
「私は何もしてない。復讐なんてしてない」
掴まれた腕を剥がそうと揉み合っているうちに、バスのクラクションが聞こえた。それなのに夫はまだ、私の腕を掴んでいる。
「バス停に車を停めるのは、道路交通法違反です。すぐに移動してください」
バスの車外スピーカーから、運転手の声がする。夫がまだ腕を引く。
なんて馬鹿な人なの。その言葉が浮かんだ瞬間、急に頭がクリアになった気がする。そうだ、この男は私と義母を裏切った挙句、今頃になって見通しの甘さの代償を払わなくてはならなくなっているんじゃないの。それを認めることもできない情けない男なのだ。
「離しなさい!」
私の声から出たのは、怒声だった。瞬間、驚いた夫の手が緩み、私は腕を引き抜いた。
「あなたが今、幸か不幸かなんて知らない。寄らないで、汚らわしい。身から出た錆を、こちらに擦り付けないで」
おそらく夫は、はじめて私の怒りの表情を見たのだと思う。捕まれていた腕が、じんじんと痛い。
「痣になっていたら、被害届も出すから」
「おまえが生意気だから」
怯みながら、夫はまだ私を見ている。バス待ちの人が歩いてくるのを目の端で捉え、それが私の勇気になった。
「自分の親を人に押しつけて、女を妊娠させることに一生懸命だったんでしょう? 状況より下半身優先の男が」
私が言いかけたとき、バスのスピーカーから今度は大きな声が聞こえた。
「そこの車、移動しないと通報します。さっさと道を開けなさい」
夫は舌打ちをして、自分の車に戻った。私は怒りに震えていた。ともすれば一緒に車に乗って大声で罵倒したいくらい、頭の中に言葉が溢れて高揚した。自分の呼吸が荒いのがわかる。
夫の車が発進したあと、目の前に停まったバスにも乗らず、私は駅と逆方向に歩きはじめた。停車する場所がなかったのか夫の車は戻って来ず、駅で待たれても私はそちらに行かない。どちらにしろ、今日はもう会わないだろうと歩き出す。
すっかり頭に血が上っており、私の足音は大きくなっていた。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。慰謝料は確かに受け取ったけれど、私は謝罪の言葉ひとつ受けてはいない。義母を悼みもせずに葬儀の翌日に、女の元へ帰ったくせに。未婚だと嘘を吐いて、女と共棲みしていたくせに。義母が夫を忘れたのは、病気のせいだけじゃない。顔も見せずやさしい言葉ひとつ掛けず、終いには存在すら認めようとしなかった人間を、どう覚えろというのだ。自分が気にならないのだから他人も気にならないだろうと、要らぬと捨てた女が残したものを軽く見ていた。それが新しく選び取った女や子供に影響するなんて、考えもせずに。馬鹿だ、馬鹿なんだろう。
ああ、罵倒したい。面と向かって罵倒して、いい気味だと嘲笑いたい。
一時間も歩いただろうか。逆側の駅に歩きつくころ、今まで怒りの感情が湧いていなかったことに気がついた。ただ閉じてしまっていただけで、夫に対しての感情はうすぼんやりとしていたのだ。こんなに時間を経ての怒りに戸惑い、それでも私の中に夫を罵る言葉が渦を巻く。治まらない怒りに翻弄され、気が狂いそうだ。耳を塞ぎ、大きく息を吐いてみる。こんな状態でひとりの部屋は耐えられない。もう少し歩いてみようと、夕暮れが近くなった国道を歩き出した。
私に何の関係もなく走り去っていく車たちの音は単調で、私を宥める囁きのようだ。今更怒ったって、どうしようもないじゃないの。夫が言った通り、復讐をしようとでもいうの? そんなことはしたくない。ただ膨れ上がってしまった感情の出口がなくて、苦しいだけ。暗くなり始めた国道を歩く人は少なく、人影の見えない瞬間すらある。ここで叫ぼうか。そうすれば少しは気が晴れるかも知れない。足を止めて、車道に顔を向けてみる。けれど言葉は浮かばずに、大きく息を吐いただけだった。
寒い。そろそろ帰らなければ。思った瞬間身体がぶるりと震え、上着の襟を締め直した。いつの間にか、日がとっぷりと暮れていた。
スマートフォンで地図を表示すると、自分が思っているよりも線路から逸れて歩いていたようだ。怒りに任せて、ずいぶん無茶に歩いてしまった。車の行き交う国道に空のタクシーなど通るわけもなく、正気に戻りつつある足が急に重くなる。
馬鹿は、私も同じだ。夫が私を使い捨てようとしているなんて、少し考えればわかることだった。介護義務のない人にかまけて、自分を蔑ろにすることが正しいと思っていた。その結果自分の生まれた家に手間と心配をかけ、更にまだ別れた夫によって迷惑をかけている。呆けていたときも今も、守られているだけで満足している。だから夫は私を弱いものと認識し、攻撃対象にしようと思ったのだろう。自分が悪くなくとも、責めれば自分を曲げるだろうと。ずっとそんなふうに認識させて放っておいた馬鹿は、私だ。
そのとき、手の中でスマートフォンが震えた。液晶に表示されたのは、彼の名前だった。
「もしもし、北岡さんですか」
「先生、ですか」
「先生と呼ばれるような人間ではないですね。須々木です」
相手の声は淡々としている。国道を走るトラックが、ガタガタと大きな音を立てた。
「外にいらっしゃるのですか。用事があるわけではないので、また今度に」
彼の言葉を遮った。
「先生、何か話していただけませんか」
道路の案内標識に、駅の方向が示されていた。この場所からたっぷり三十分は歩くはずで、その間に自分をもう少し宥めておきたくて、他人の力を借りられればと思った。
「どちらにおられるのですか」
「知らない道です。感情に任せて歩いてきてしまって、軽く迷子です」
「こんなに寒いのに」
彼の低く笑う声は、夏の縁側を思い出させた。
「家の近所に、梅畑があるのですよ。もうちらほらと咲きはじめていたので、春が近いのだなあと」
「今通り過ぎた庭にも、白いものが見えました。梅なのですね」
「春に先駆けて咲いて、実でも人間を楽しませてくれる。非常に有難い樹木です」
「梅のジャムが好きです、私」
長閑な会話が、私を戻していく。こんなに何もない日常会話に、救われている。実家に戻ってからも人付き合いをしようとしなかった私には、用もなく連絡をする相手もいなかったのだ。
建物が混みはじめ、駅が近づいてきたことを知る。
「もうじき駅です、先生。すっかり気持ちが落ち着きました。ありがとうございます」
「何かあったのですか」
「いつかお話するときが、あるかも知れません」
そこで話が途切れた。
「先生?」
思い浮かんだ言葉を、スマートフォンに向かって発してみた。
「私も梅畑が見たいです。白い花と紅い花、両方咲いているような」
「尾形光琳の屏風みたいですねえ。どこかに出かけますか」
「ご一緒させてください」
住宅地を抜けると商店が増え、ここがこの土地のメインストリートらしい。
「もう、駅に到着するようです。今度はこちらからお電話します」
では、と通話を終えた。自分の表面に出ていた怒りの感情が、何層か下に畳まれた気がする。その代わりのように浮かんできたのは、彼の腕だった。
桜よりも梅の花が好きだ。冬の冷たい空気の中に凛と咲く花を見ると、背筋を伸ばさなくてはならないような気がする。ひとりの食卓を整えるための買い物の量は、そう多くない。平日には出来合いを買ってしまったり外食したりで、休みの日くらいはと腰を上げた結果だ。家の中の仕事は、妻がいたころに慣れていたつもりだったが、自分だけのこととなると妙に億劫だ。朝からビールを飲みながら洗濯と掃除をやっつけ、気温が下がらないうちにとスーパーマーケットまで出た帰りに、少し横道に逸れた場所に梅畑があった。住宅の並んでいる地域にぽっかり出現したような、綺麗な並びの木々の枝には、小さな丸い蕾が並んでいる。梅か、こうまで並んでいたら満開には見事だろうと見回すと、枝の先にいくつか白いものが見えた。もう咲いているのか。
強い北風の中に咲く花に、彼女を思い浮かべたのは何故なのか。彼女が辛い思いをしたことは察していても、詳しい話など知らない。再会した彼女は健康そうに見えたし、勤めも持っているという。私は彼女に触れようとする異物で、彼女の人生にはまるで関わりのない人間なのに、ことあるごとに彼女の面影が浮かぶ。
女性には、きっと私は魅力的ではない。過去に少々名前が出た程度の、所得の少ない中年男。美しい容姿もなく、言葉巧みに他人とコミュニケートする能力もない。唯一の武器だと思っていた書く能力は、今の世間に必要とされていないらしい。
少し変わった形の茶飲み友達で、良いではないか。性的な事柄を入れず、季節のことや雲の形、映画の感想を語り合うような間柄の男女であれば、年齢も職業も気にする必要はない。少なくとも彼女は私の書いたものを丁寧に読み、詳細な感想を記してくれた、得難い私の読者なのだ。
夕暮れが終わったころに、彼女のスマートフォンを呼んだ。外出していないのであれば、夕方の家事の少し前の時間だと思う。
「はい」
短く答えた声の後ろから、強い風が通るような音が聞こえた。
「もしもし、北岡さんですか」
数度しか会ったことはないが、彼女の話す調子が少しおかしいと感じた。どことなく上滑りなのに語気が強い気がする。感情に任せて歩いたと言うからには、腹を立てているのかも知れない。それは何か、彼女にひどくそぐわないように感じる。微笑みながら大粒の涙を流したときも、私が突然訪ねたときも、抑制の利いた人に見えた。私が知らない彼女のほうが多いのだけれど、人の印象は意外と当てになるものだ。
「何かあったのですか」
「いつかお話するときが、あるかも知れません」
今は話せない事柄なのだと残念に思いながら、込み入った話をするほどの間柄ではないことを思う。しかし彼女は、私と一緒に梅を見に行きたいと言ってくれた。どこか梅の名所はあったろうかと思いながら、電話を終えた。
勤め先の半日ドックの胃の検診を胃カメラで希望したのは、ただバリウムが苦手だという理由だった。健康診断など就業前に一度簡単なものを受けただけだが、特に身体に不具合は感じていない。二週間ほどで結果が来るからと言われ、駅でたまたま見たフリーペーパーの花見情報を持って帰った。蝋梅からツツジまでの見頃の情報を眺め、彼女の住まいと私の住まいの中間に、良い場所を見つけた。ここならば、途中で彼女を車でピックアップして連れて行けそうだ。なんとなく気分が浮き立ち、夜にでも電話しようと決める。約束をして会うのは初めてだから、何か勝手が違う気がして、遮るもののない梅林はどれくらい寒いのかとか、食事をする場所を調べておいた方が良いかと、余計なことが次々と浮かぶ。そんな自分に苦笑しながら連絡をして、週末の予定が決まった。
健康診断を受けた翌日に、クリニックから直接連絡があった。診断結果をまとめる前に、早急に話があると。クリニックからの早急な話など良い知らせであるはずはなく、日曜日に計画している梅を見るための外出を楽しめるのかと気にしながら、勤め先に半日休みを申し出る。まだ一年程度の勤めだが、それなりに仕事はあるし、昼食を一緒に摂るくらいの人はいる。
「それは気になるねえ。あそこは検診がメインのところだから、何かあれば全部紹介状だよ。良い病院を教えてもらえばいいよ」
上司に当たる人は、親身にそう言ってくれた。とても気の毒そうな顔だと思ったのは、自分が不安だからだろうか。上手く眠れない夜を過ごして、予約通りに翌朝早くにクリニックを訪れると、医師はモニタに数枚の画像を映し出した。胃カメラのものだった。
「ここね、これ、わかりますか。拡大すると、こんな感じ。これね、あまり良くない感じのものです」
「良くないって、ガンですか」
「生体検査しないと確定ではありませんが、おそらく。紹介状を書きますから、早いうちに予約を入れてください」
「まったく症状を感じないのですが」
「見たところそんなに大きくはないですから、あとは紹介先で聞いてね。そんなに不安がらなくて大丈夫ですよ。医学はびっくりするようなスピードで、進歩してます」
クリニックの医師は、呑気な顔で言った。向こうは珍しいことでもないのだろうが、私にとっては青天の霹靂と言えるほどの出来事だ。それでも私には、もうひとつ訊いておかねばならないことがある。
「普段の生活で、何か制限したほうが良いことはありますか。出掛けるとか、食事とか」
「まだ確定ではないと言ったでしょう。暴飲暴食は避けて、喫煙の習慣があるなら止めるチャンスです。あと、過度の飲酒も止しておきましょうか。あんまり深刻にならずに、とりあえず検査を受けてくださいね」
診察室を出た私は、どんな顔をしていたろう。受付で支払いを済ませて、紹介状を受け取ったときは。
今時、ガンは不治の病ではない、まして自覚症状が出る前に見つかったのだから、まだ浅いに違いない。いやいや、確定ではないと言われたじゃないか。もしかしたら何か小さな潰瘍が、そう見えただけなのではないか。
病院から勤め先に向かう最中に眩暈がし、知らないマンションの入り口の階段に腰掛けた。自分がこんなに気弱だとは、知らなかった。
家庭もない、仕事だって大層な実績があるわけじゃなし、今は糊口をしのぐような勤めしか持っておらず、特別に懇意な友人もいない。自分は生きることに執着する理由なんて、何もないと思っていた。それなのに、この動揺はどうだ。指先の震えは何のためだ。
唐突に年老いた母の顔が浮かぶ。父を亡くしたあとも子供を頼ろうとせずに、自分の生活を一番に考えなさいと言った母は、健康に不安を抱いたときにどう遣り過ごしていたのだろう。今更こんなことに気付く息子は、なんと親不孝なのか。
コート越しに石の冷たい感触が尻に伝わり、身体が震えた。こんな場所に、いつまでも座っているわけにはいかない。紹介された病院に電話を入れて予約を取り、はっきりさせなくてはならないだろう。その前に上司に内々の話として、報告しておかなくては。
自分でもどかしくなるほどゆっくりとしか歩は進まず、のろのろと歩きながら彼女との約束を思う。心の中から消えなかった面影を、やっと現実のものとして受け止めることができたのだ。約束をキャンセルできるわけがない。
このことについて、考えるな。何もかも検査しなくてはわからないのだから、週末は彼女と外出することだけを考えろ。
こんな年齢になって、不安を隠して他人と対峙することに自信が持てないなんて、ずいぶん怠けた人間関係しか持っていなかったのだと、自分を嘲る。
母に知らせてはならないが、入院にでもなれば保証人が必要だし、何かあったときの連絡先も必要だろう。姉に頼むしかない。甥はもう大学生だが、姉本人と義兄さんには少々迷惑をかけるかも知れない。
ひとりの生活でも、ひとりだけでは上手く立ち行かないものだ。そんなことすら気がつかずにいたのは、やはり私の精神のアップデートが足りない証拠なのか。自分は公休日の土曜日の部屋の中で、インターネットで検索した胃ガン情報を読み漁る。検査もしていないのに先走るなと自分に言い聞かせても、記事を追う目を閉じることができない。翌日は早いのだから寝ろと自分に言い聞かせ、二十二時には布団に入ったが、何度も目が覚めては寝返りを打った。私はひどく弱い。
祖母が退院し、その後特別に騒ぎも起きていないからと、母から実家に呼ばれた。食事制限を受けている祖母は外食が難しく、けれど私がいれば機嫌良く食が進むらしく、好きな果物を携えて仕事帰りに寄った。
「芙由ちゃんが元気だと、私も嬉しいわ」
入院ごとに小さくなっていく祖母が、一緒の食卓に着く。家の中はきちんと片付いていて、母と父がちゃんと協力し合って家事を行っていることがわかる。父がまだ勤めを持っていたときには手が回っていなかった、高い場所の埃が払われている。
ここが幸福の場所だ。協力し合い、補いあって生活を作ることの、なんて輝かしいことか。もちろん小さな不平や不満はあるだろうけれど、それを飲み込んで余りある信頼感がある。この両親が、私にとっての普通だった。だから時を経れば、夫婦はこんな風にこなれていくものだと、無意識に思い込んでいたのかも知れない。どんなに紆余曲折があっても、最後に手の中に残るのは穏やかな信頼感だと。
祖母が寝室に引き上げたあと、病院のバス停での話を父にした。心配させるのは嫌だったが、もしもまた夫が何かするようならばと、対策を相談するべきだと思う。
「偶然に見つけたとは思えない。おそらく俺か母さんが病院に行くのを、つけたんだろうな」
「いやだ、私は何もしてないのに」
「ああいうのを、理解しようとしちゃいけない。離婚のときの弁護士に連絡はしておくが、充分気をつけてくれ」
そしてふうっと溜息を吐いた。
「幸福になると思って結婚させたのにな」
それがやけに、胸に刺さった。幸福になるために送り出され、疲れ果てて戻ってきた私は親不孝だ。老齢になってきた両親に、まだ面倒をかけている。黙った私の頭を、父は子供にするように撫でた。
「こんなことになるなんて、誰も思わんよ。本人だってわからんだろう。そもそも何がはじまりなのか。確かに彼は酷いことをしたが、慰謝料って形で清算が終わっているつもりだったんだろう。世間知らずだが、法的には確かに終わった話だ。その外にいる人たちは、本来なら何も知らないはずなのに、結局は一番大事な居心地の部分を突いてくる。まあ、それをおまえに転嫁するのはお門違いだから、弁護士に頼むんだが」
ごめんなさいと言った私に、父の顔は穏やかだった。
「我々は常に芙由の味方だよ。娘を守る手間を惜しむ親には、なりたくないよ」
有難くて、顔が上げられなかった。もしも私が子供を育てることがあるとすれば、私も父のように子供を守りたいと思う。
私が梅を見たいと言ったので、彼が場所を選んでくれた。私の住まいと彼の住まいは、電車の乗り継ぎを入れると四時間以上離れており、現地で待ち合わせすることになる。隣県なのに、私のほうの交通の便が悪いのだ。習い始めたフラワーアレンジメントも、少しずつナイフの使い方に慣れて、小さな靴箱の上が場違いに華やかになっている。
やっとここまで来たのに、また私の生活を破綻させようと言うの? 私のしたことじゃない、全部あの男のしたことだ。
病院前のバス停で腕を掴まれたあの日に、私の中で何かが切り替わったらしい。今まであの男を思い出すたびに、夫が……と無意識に考えていたが、あの男が……に変化している。義母の葬式依頼顔も見ていなかったのに、その間に離婚が済んで他人になったことを知っていたにも関わらず、私はまだ本当に理解してはいなかったのかも知れない。
あの日急激に湧き上がって来た怒りは、私が持つべき正常な感情だったのだ。あの男は、私を尊厳ある人間として扱わなかった。直接謝罪することもなく金銭のやりとりだけで逃げたくせに、今頃になって責任を転嫁しようとしている。結婚していたころの私なら、あの男が機嫌良くいられるように、いろいろな気をまわしたかも知れないが、他人になることを望んだ本人が何をしようというのか。
不幸になればいい。ありったけの不幸を、全身に受ければいい。そうして私の知らない所で、人生を破綻させて欲しい。今まで持たなかった感情に戸惑いながら、目が覚めた気がする。憎悪して良い相手だと、自分に自分が認めさせた。怒って当然だったのだと。
同情があるとすれば、私は父を亡くした悲しさも母に忘れられる寂しさも知らず、他に身寄りのない心細さも知らないということだ。今のあの男には、自分の行動を諫めてくれる存在がない。本来ならそれに当たる存在の妻子が、実家に戻ったことが原因だから。けれど大本を辿れば。
卵が先か鶏が先か。その場だけ繕って、私と現在の奥さんを上手く天秤にかけたつもりだったのだろう。ひとつずつ片付けることを億劫がった結果じゃないか。過ぎたことを思い返し、次々と新しい怒りを感じることに、妙な充実感がある。こんなことで高揚するほど、感情を閉じ込めていたとは思わなかった。
そして金曜日の夜、父を通じて弁護士から連絡があった。
「圧力をかけてもらうのさ。一度警察に通報しているんだから、二度目は容赦ないぞと」
「自暴自棄になったりしない?」
「そこは弁護士先生に策があるようだよ。同席しなさい」
「日曜日は……」
「何か用事か?」
「大丈夫、行きます」
彼との約束が頭を過ぎったが、自分の身の安全を確保する方が先だと思った。桜ほど花期は短くない。来週でも、梅はまだ咲いているだろう。せっかく計画してくれた彼には申し訳ないけれど、一週間延ばしてもらおうと決めた。怯えずに実家に行くことができ、無駄な怒りで興奮することもない夜が欲しい。怒りの感情はひどく消耗すると同時に、マイナス方向への活力になってしまう。もう終わったことで、清算も済んでいる。これを引きずり出して再燃させたって、私には何もメリットはない。あの男が消し炭を燻らせているのなら、火が熾きて大きくなる前に水をかけたい。
彼に会うのが一週間延びるだけ。何年も会っていなかったのだから、それくらいは誤差のうちだろう。そう思いながらスマートフォンを手に取ると、胸がひりつくように痛んだ。よく知らない人なのに、どうしてこんなに慕わしいのだろう。会えると思っていた日が先延ばしになっただけで、こんなに寂しい。
空いてしまった休日を持て余し、不安な気持ちを落ち着けるために、一日中パソコンに向かっていた。頭の中の物語を吐き出している時間は、他のことを考えなくて済む。つまり私はやはり、物書きなのだ。他人が認めようが認めまいが、私自身がそう思っていれば正解なのだと改めて思う。そうして週末の二日間のうちに短編を仕上げ、依頼が来たとき用のストックのフォルダに入れた。
急用ができて、と彼女は言った。何か切迫した話しぶりで、事情は聞かなかったが一週間延ばすことに否やはなかった。週のはじめに予約してある大学病院ですぐに検査するとしても、結果は来週中になんて出ない。今日も来週も、条件は同じようなものだ。それならば、このじくじくとした不安感に慣れて、多少なりとも開き直れそうな来週のほうが都合が良いかも知れない。
怖くて、アルコールが飲めない。油気の強いものも辛い味付けのものも、摂取してはいけないような気がする。別に何の制限も受けていないのに、勝手に自分の脳がストップをかける。こんな不安が続くくらいなら、いっそのこと今ガンだと宣言してくれ。
今時、ガンは死に至る病ではないと、報道でも散々言われているにも関わらず、それでも不安なのだ。これはおそらく、未知の病への不安だ。もしくは、腹に刃物を入れるというイメージへの不安。
食事が喉を上手く通らないし、今まで自覚症状などなかったのに、消化中に胃が痛むような気がする。いっそのこと診断確定すれば、このビクビクした感情は落ち着くのか。
検査結果が出るのは、二週間後だという。そんなに時間が掛かるのかと驚きながら、次はどうなるのかと医師に質問する。
「念のために生検の結果より先に、大腸の内視鏡もしておきましょう。受付で予約してください。もしもの話はできませんので、出揃ってから相談しましょう」
時間を引き延ばされたように感じながら、週末は彼女に会えると思う。家の近所の梅はそろそろ花を散らしはじめてしまっているが、出先はどうだろう。何種類か植えてあるのならば、実を採るために植えてある林よりも花期が長いかも知れない。
「今週は土曜日がお休みの週なんです。先生はいかがですか」
伝えてきた彼女の声は明るかった。私自身は土曜日は休みなので、遠出をするのならばそちらのほうが有難い。出歩くのも翌日の疲れを考えるような年齢になってしまった。まして今は、普通じゃない。心も、認めたくないが身体も、曇りなく健康とは言い難いのだ。
「面倒事があって、少し鬱屈しているんです。だから花を見ながら散歩すれば、癒されそうな気がして」
「何かありましたか」
「お会いしたら、愚痴が出るかも知れません。あまり気持ちの良い話ではなくて」
「存分に愚痴って結構ですよ。もの言わざるは腹ふくるるわざ、なんて言いますから」
「先生も何か、おっしゃってください。私の気ばかり済ませても」
「では、こちらも存分に。覚悟しておいてください」
「いやだ、怖い」
相手の声が明るいと、こちらの気分も晴れる。病は気からとは、よく言ったものだ。泣こうが笑おうが検査結果が変わらないのであれば、少しでも快く過ごした方がいい。
待ち合わせた駅の改札口に立つ彼女の姿は、清々しかった。白っぽいコートや足に張り付いたデニムパンツが、彼女はまだ若いと証明しているようだ。梅林に向かうバス停への彼女の足取りは、記憶よりもずいぶん力強い。あのころの彼女は本当に疲れていたのだと、改めて思う。若い女がまだ体力を残した年齢の人間を介護するのは、どれほど大変だったことか。そして自分を振り返れば、妻に寄りかかって好き勝手していたことが悔やまれる。もっと早くに、妻を開放すべきだった。
梅林の入り口で入園料を払えば、中は白と紅のグラデーションだった。
「もしかしたら、ちょうど満開に当たったのかしら。良い香りがしますね」
「蝋梅は終わりかけだね。順路通りに回ってみよう」
ゴツゴツした幹から延びるすべらかな枝の先々に、可憐な花が咲く。風が冷たいが、一重も八重も白も薄紅も、青い空の下で凛と花を開いている。
「寒くありませんか」
手を揉む彼女の仕草が気になって、質問した。
「こう見えて、とても厚着しているんです。先生は寒いですか」
「寒くはありませんけど、普段の運動不足が出ますね。もう足がだるい」
彼女は笑って、ベンチを指差した。
「座っていてください。売店でお茶を買ってきます」
売店に向かって歩く彼女の後ろ姿を眺め、コートに隠れた尻の動きを想像した。きびきびと動く足に従って、逞しく存在を主張しているだろう。いや、こんなことを考えてはいけない。彼女はきっと、これから幸福を掴みに行く人だ。私のような人間が邪魔をしてはいけない。
彼女に会うことで、私は何がしたいのだろう。両手にお茶の缶を持って歩いてくる笑顔を、ぼんやりと見ていた。あんなに疲れていた人が、健康そうに笑っている。それを確認できただけでも良いではないかと、自分を無理矢理納得させる。
では、彼女は何故私に会いに来てくれたのだろうか。一度肌を合わせると、気心が知れた気になる。だから彼女も、私を気の置けない相手だと認識してくれているだけなのかも知れない。
「先生、私ね」
隣に座ってお茶を一口飲み、彼女は言った。
「私、夫に捨てられたと思っていたんです。でも夫を捨てたのは、私だったのかも知れません。義母を看なきゃって必死になって、夫が何を考えてるのかなんて気にも留めなかった。私ばかりが大変な思いをして、それを顧みない夫に絶望して。弁護士さんに言われました、家に居場所がなかったんでしょうねって。自分を忘れた母親と、それを自分より大切にしているような嫁と。それでも彼が責任を放棄して、いろいろと酷いことをしたことに変わりはないし、実際思いやりなんて欠片もなかったと思いますけど、少しずつ自分の感情がクリアになってきたみたいなんです」
「僕は事情をよく知らないけれど、あのとき必死になっていたあなたは知っている。ほかのことなんて考えられなくて、当然ですよ」
「夫、今は元がつきますけど、最後に会った日からずっと、彼の顔が思い出せなかったんです。それが先日顔を見たら、急に怒りの感情が押し寄せてきたんです。今まではどういうことだったのかと考えるたびに、頭が逃げてしまっていたみたい。怒ることも忘れてた。そしてやっと冷めてきたら、今度はいろいろ考えることが多くて」
そのときになってはじめて、私は彼女の離婚の経緯を聞いた。姉の噂話は本当に彼女のことで、憶測は大体正解だった。
「僕は、その話を知っていました。姉が持ってきた噂でしかありませんけど、結構広範囲に広がってますね。口さがない人はたくさんいるし、都会ほど人間関係は希薄じゃないから」
「私も家に入るまでは、近所の人の生活になんて興味はありませんでした。だから夫が自分の家に自分で住むって選択をしたことは、気持ち的には理解できるんです。けれど同じように、近所の人たちが感じる気味悪さも理解できる。夫にはそれがわからないし、バタバタと子供を産んだ今の奥さんだって、しばらくは気がつかなかったでしょうね」
彼女は梅を見上げた。
「理解なんてしなくていいんですよ。やさしい気持ちなんて、抱かなくていい。許せることでないから弁護士を頼んだのだし、それで解決したからって治まらない感情だって、人間なら当然持っているでしょう」
「そうでしょうか」
なんだか知ったかぶった、年長者くさい言葉になってしまった。本当なら彼女と一緒に怒りたいのだが、私は私の身体の中に、自分の感情を縮小してしまいそうな不安を持っている。
梅林を一周すると、まだ明るいのに気温が下がってきた。上空で吹いていた風が地上に降りてきたみたいに、強い風が彼女の髪をたなびかせた。そのたびに震える梅の小枝が、まだ新緑の時期は遠いぞと言っている気がする。
「ずいぶん冷えてきた。駅まで戻って、何か食べませんか」
「私、少し調べたのですが、この周辺にはあまり」
「僕もそう思って、駅に車を置いてきてます。移動しながら考えましょう」
観光場所の駐車場に車を入れるのは難しい、と判断しての選択だった。実際梅林のある場所は、とても静かな地域だ。
駅へ向かうバスに乗り込み、隣り合わせに座った。
「あら、この奥の地域に温泉があるのですね。いいなあ」
バスの中に下がっている広告を見て、彼女は言った。それは誘うような口ぶりではなく、ただの話のタネだと思った。
「温泉か、いいですね。休みの日もパソコンの画面を見っぱなしだから、肩こりがとれなくて」
「お休みの日にパソコンを使っているのですか」
「やっぱり何か書きたくてね。結局僕は、文章が好きらしいよ。商業になるならないの問題じゃないみたいだ」
彼女が何か言いかけて口を開いたとき、唐突に彼女のバッグの中のスマートフォンが鳴った。
「母からです。失礼します」
そう言ってスマートフォンを耳に当て、一言二言話したあとに出先だからと電話を切った。そして取り繕ったような笑顔を見せる。
「先生、温泉に行きませんか」
口許だけ笑顔の彼女の顔を、見返した。
「いつか……」
「いえ、今から」
指した先に、吊るし広告があった。
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