芽吹を呼ぶ風

 地図で確認した駐車場は、訪ねる場所から結構な距離があった。道を歩きながら、自分の鼓動がわかる。会いたくて居ても立ってもいられぬというような、強い思いではない。約束をしているのでもないのだから、訪ねても留守かも知れない。もしかすると早々に誰かと暮らしているかも知れないし、ただただ私の小説を気に入ってくれた感想を寄こしただけかも知れない。

 それなのに、こんな場所までノコノコ訪れて。目的の住所が近くなるにつれて私の足は重くなっていき、それと反比例するように目が住宅街をキョロキョロする。自分の感情を掴みそこねて、大きな家の塀に寄りかかる。不惑を過ぎてなお、惑うばかりだ。


 比較的新しい建物ではあった。ただし、夫婦もので住むには狭そうだし安価な造りだ。外から見るベランダの仕切り版の間隔では、おそらく狭いリビングダイニングに、寝室がついている程度だろう。

 ふと、母がひとりで暮らしている広い家を思った。かつて六人所帯だったときのまま減築もせず、私の部屋も姉の部屋もそのまま残っている。私の今の住まいから考えても、あの家をひとりで維持するのは大変なのではないだろうか。私が文筆業だけで生活を維持できるのならば、母を助けながら実家で生活も良いかも知れないが、それは母が心身ともに健康な場合だけだ。介護状態になったとき、私はどれほどのことができるだろう。そう考えると、配偶者の親の介護を引き受けていた彼女は、どれだけ神経をすり減らしていたか。

 考えているうちに、手紙に書かれた部屋番号を見つけた。インターフォンを押そうかどうしようかと、たっぷり五分は迷う。隣の部屋から出てきた年配の女性が、私を不審そうに見ながら言った。

「そこのお姉さんなら、お留守ですよ」

 がくっと膝から力が抜けそうになった。

「いつも何時ごろ帰ってみえますか」

「さあねえ」

 もちろん素性を知らない人間に、そんなことは教えないだろう。まして知りあいならば、連絡をして約束を取り付ければ良いのだから。

「出直して来ます」

 そう言ってその場を離れようとすると、女性は出てきた部屋に戻って行った。アパートから表の道に出たときに振り返ると、通りの見える窓から、女性がこちらを見ているのに気がついた。数メートル離れてまた振り返ると、女性はまだ私を目で追っていた。


 仕事なのだとしたら、早くとも帰宅は夕方以降だろう。まったく土地勘のない場所で、しかも真冬に散歩を楽しめるほど、私は寒さに強くない。仕方なく車に戻って動きはじめると、ファミリーレストランのようなものが見えて、そこでコーヒーでも飲もうとハンドルを切った。もう午後になっているのだから、食事を兼ねて数時間潰せれば良いのだから。

 数時間? 会えるかどうかわからない人を、そんなに待つつもりか。相手に不快な表情を見せられるとは思わないのか。駐車場で自問して、しばらく運転席に座っていた。けれどまた、せっかく来たのだからと思う自分もいる。来て会って、自分にとってのあの日を確認したかったんだろう? ちゃんと確認すれば良いじゃないか、二度目に腰を上げる機会はないかも知れない。

 ゆっくり食事をしてコーヒーを飲んでも、時間は余る。持ち歩いている小さなノートを出して、ぼちぼちと思いついたプロットを書いたりしてみる。ファミリーレストランの中は空いており、学校帰りの高校生たちが騒がしくお喋りをしていた。


 冬の日は短い。窓に西日を感じると、親子連れの客が入りはじめ、いつまでも席を独占しているわけにも行かなくなった。まだ五時前だが、もしかすると出先は近所で帰宅が早い場合もあると、もう一度アパートに向かうことにした。

 何故かひどく足が重い。もう帰ってしまおうかと何度も思い、そのたびに打ち消した。何のために自分の記憶を確認したいのだ。心に残っていることと、それの続きを考えることはまったく違うのに、何をしようとしている?

 通りから彼女のアパートを眺め、灯りが点いていないことを確認して、その場を離れる。そうして帰ってしまおうかと近所を十分ほどウロウロして、またアパートの窓を見上げることを四度繰り返した。六時を回って更に三十分も過ぎ、今日は諦めようかと車に戻ろうとして、メモを残すことを思いついた。ドアにでも挟んでおけば、私が訪れたことがわかるはずだ。

 街灯の鈍い灯りの下で立ったまま書いた文字は、ひどいものだ。それでもなんとか書き上げて、彼女の部屋の前に立つ。そうしてまさに挟もうとした瞬間に、後ろから声がした。

「その部屋に、何の用だい」

 昼間に見た、隣の部屋の女性だった。

「あんた、昼間に来た人だね。さっきから女の部屋のまわりをウロウロして、なんだい。あんまり気持ち悪いから、警察を呼ぼうと思ってたところだよ」

 昼間と同じように、女性は窓から何度も私を見ていたらしかった。

「あの、古い知り合いなんです。けして怪しい者では」

「知り合いなら、連絡方法くらい知ってるはずだろう。私はあの子の母親に、頼まれてんだ」

 タジタジと後退る私の姿は、情けない。


 私の後ろから、声がした。

「大家さん、私の部屋に何か?」

 振り向くと、健康的な女性が立っている。

「いやね、あんたの部屋の前をうろついている男がいたから。この人、別れた亭主じゃないだろうね?」

 痩せて疲れた感じが抜けてはいたが、別人じゃない。彼女だ。

「……先生?」

 大家と呼ばれた女性は、まだ疑わし気な顔で私を見ていた。

「大家さん、この人は元の夫じゃありません。大丈夫です」

 彼女はそう言って、私の顔を見ながら続けた。

「まさか、またお会いできるとは思いませんでした。しかもこんな所まで」

 そうかい、と不満そうな顔で大家は呟き、私たちは顔を見合わせた。顔を見合わせているのに、何かそこにいるのが信じられないような心持になる。

「狭くて散らかっていますが、中に入られますか。外は寒いですから」

 彼女が部屋の鍵を取り出すと、大家が自分の部屋に入ろうとしながら言う。

「おかしなことをしないでおくれよ。若い女の部屋なんだから」

「大丈夫です、大家さん。そんな関係の人じゃありません」

 返事をしながら、彼女は私を室内に誘った。


 キッチンのある六畳ほどの部屋は片付いており、小さなテーブルには花が飾ってあった。ダイニングの椅子が一脚しかないと私に勧めながら、彼女は奥の部屋から丸椅子を持って出てきた。

「これ、ナイトテーブルの代わりなんです。これの上に電気スタンドと読みさしの本を置いてます」

 質素な生活が透けて見えるようだ。

「先生、こう見えても私、とても慌てているんです。先生がいらっしゃるなんて、想定もしていませんでしたから」

「僕もまさか、こんな風に突然伺うことになるなんて、予測もしていませんでしたよ」

「自分からいらしたのに」

「そうです。勝手に来ておいて」

 ふっと笑いが湧き、彼女もそれにつられ、ひとしきり笑いあった。

「お久しぶりですね。私はずいぶん状況が変わってしまいました」

 彼女はそう言ったが、それは私も似たようなものだ。

「義母が亡くなったあと、わりとすぐに離婚しました。今は自分の生活で手一杯です」

「僕も言った通り、あのあとすぐに離婚が成立しました。今は一介の勤め人です」

 お互いに話せば長いと、詳しい話にはならなかった。心情を打ち明けるような、気の置けない関係でないことのほうが大きいかも知れない。

「おかしなことをしないように、なんて大家さんは言っていたけど、すでにおかしな知り合いですね」

 彼女は悪戯っぽい目をしていた。

「そうですね。名前すら知らなかった」

 手紙を往復して、やっと名前を知ったのだ。


「先生、夕食はどうなさいますか」

「ああ、そんな時間でしたね。本当に突然来てしまって、申し訳ない」

 中途半端な時間になってしまったことを詫びつつ、暇を乞うた。顔を見て、声を聞いただけで満足だった。

「お食事も差し上げず、申し訳ありません。先生のお顔が見られて、本当に嬉しかった」

 彼女の真剣な顔に、数年前の面影を見た。この顔に、私は会いに来たのだ。

「ご迷惑でなければ、連絡先を交換していただけませんか。私から先生に、連絡ができるように」

「願ったり叶ったりです。この年齢になると、利害関係以外の知り合いを作ることは難しい」

 そうして互いに連絡先を教え合い、私は彼女のアパートを後にした。どういうわけかひどく高揚した気分で、昼の間ずっと待ったことが必然ででもあったかのように、満たされたまま長い道のりを運転した。再会した彼女に失望しなかったことが嬉しく、彼女の目に映る私がどんな風だったのかと考えたのは家に到着してからだ。


 彼女はおそらく、私が考えていたよりもずっと若い。疲労を取り除いたあの肌の艶は、若い女のものだ。手紙を受け取ったからなんて理由で訪ねた男は、人生の折り返し地点を過ぎているのに、誇れる成果は過去の遺物だけの情けない男でしかない。そんな男が突然現れて、警戒しないか? 過去の関係を引き合いに、脅そうとしていると考えても不思議じゃない。

 そう思い至って、頭を抱えた。あの日を幾度も思い返したのは私だけで、彼女は本当に本の感想を寄こしたかっただけなのではないのか。



 母から連絡が来たのは、まだ二日前のことだ。別れた夫が、私を探しているらしい。

「あんたが近所に悪い噂を広めたから、奥さんが出て行ったって。慰謝料を請求するとかって騒いでたわ。警察を呼んだけど、おばあちゃんが怖がっちゃって」

「なんでそんな……」

「知らないわ。近所の目だって節穴じゃないんだから、言わなくたってみんな知ってるのにね。他人の家に関心がないのは本人だけだなんて、気がついてもいないんじゃない?」

 母は呆れたように言い、危ないからくれぐれも気をつけるようにと口にした。母の知人である大家さんにも、不審な男に気をつけるように伝えたと。そんな中で彼が突然来たのだから、大家さんが警戒するのは仕方のないことだった。


 しばらく実家には戻らないようにと母から命じられ、休日に祖母の顔を見に行くこともできない。たった二日前のことなのに、何か出口が塞がれたような気分だ。

 もう私の人生から、何かを取り上げたりしないで欲しい。義母とふたりで過ごした時間、あれは夫と共有すべき時間だった。仕事だから仕方ない、家のことをすべて任せるから生活には不自由させないと、そんなふうに言っていた。生活に、本当に不自由していなかったと思っているのか。働けば手にできるお金より、大切なものを不自由させたじゃないか。

 恨んでいないと言えば嘘になる。実家に戻って魂が抜けたようになっていたあの時期、私が生き永らえたのは両親と祖母が私を守っていてくれたからだ。そうして暖かな繭を作ってもらったからこそ、私はここにこうしている。苛立って捨て鉢になるよりも、私の脳は記憶に靄をかけることを選んだ。そんな私が、わざわざ別れた夫を貶めるためになんて、動けるわけがない。


 自分の部屋の前で大家さんと男の人が会話しているのを見て、怯えたのは確かだ。けれど聞こえてきた声は妙に懐かしく、私はその声の持ち主の顔を見たいと思った。振り向いた人の顔を見た途端、私の中で芙蓉の花が咲いた。 

 別れた夫の顔を思い出すことは難しいのに、あの日のことは全部覚えている。義母のために梨を買った日、あなたは幸福そうには見えないと言い切った声、シャツのボタンを留める指、何も忘れていない。次の瞬間、私を飲み込んだのは官能の波だった。それを悟られぬように、殊更に冷静に話をしようとした気がする。


 彼が帰ったあと、テーブルの上に残った湯呑みを手に取った。スマートフォンの連絡先に追加された新しい名前は、私の知っている名前と違うけれど、同じ人なのだ。一度きりの関係を運命に感じるほど、子供ではないつもりだった。それなのに私の心は、ことあるごとにあの湿った部屋に戻ってしまう。身体の中で芙蓉の花が、赤く色づいていく。

 二度と会えなくても不満はなかったのに、また会うことができた。しかも彼からの行動で。これを私の中で、どう処理していこう。彼がどんなつもりでここまで来たのかなんて、想像もできない。

 友人という括りにするには、あまりにも共通点の感じられない人。それなのに私は、彼との繋がりを持ちたがっている。連絡先の交換を申し出たのは、図々しかったろうか。けれど細い糸を手繰るように、彼の声だけでも傍に欲しいと思った。この感情の名前は、まだない。けれど今に何かに育っていくような予感がある。それが幸福なのか不幸なのかは、知りたくない。未来を知っているつもりになって、実は何も知らなかったのだと思い知らされたのは、古い記憶ではないから。


 日曜日は、普段なら軽く家事を済ませたあとに実家に行くことが多い。自転車で動ける距離だし、心臓が弱って循環が悪くなった祖母の浮腫んだ足が気になる。両親とは億劫がる散歩も、私と一緒なら少し歩いてくれるのだ。

 もう終わったことなのに。慰謝料を受け取ったのだから近づくなと、向こうが接近禁止を申し出たのに。何故今頃になって、私の生活を脅かしに来るの。

 おそらく夫は、軽く考えていたのだ。自分名義の家なのだから自分が住むことが当然で、近所の人も同じように考えていると思っていた。ところが近所から見れば、長いこと母を介護していた女がいなくなった直後に、新しい女を伴って戻ってきた男でしかない。住まうことは当然でも、暮らしとは寝起きするだけではないのだ。玄関を出れば挨拶くらいはするし、町内会やゴミ当番だってある。自分はそれに関わっていなかったから、挨拶だけの薄いつきあいでも家庭の事情が見えることを知らず、自分のしでかした非常識さを他人が知っていると思っていなかったのだろう。

 私だって、そんなややこしい事情を抱えている家族とは親しくしたくない。あの近辺は新興住宅地だったから、全体的に所帯が若かった。つまり、子育て所帯の横の繋がりがあったのだ。新しい奥さんは、そこに入っていくことを拒否されたに違いない。そんなことは、子供のいない私にすら想像が容易なのに。

 あんなに馬鹿な人だったのか。頭の良い理性的な人だと思っていたのに。


 やけに寒いと外を見ると、雨が降っていた。垂れこめた冬の重い雲は、今に霙交じりの雨を雪にするだろう。夏の雨とは違う、冬だけの匂い。

 あの日の叩きつけるような雨と、逃げるように帰宅する途中に見上げた真っ青な空。あのときの私は、何を考えていたろう。義母が在宅している時間は介護に追われ、昼の時間は片付けと家事に終わり、いろいろなものに絶望しているような余裕もなく。抱いていたのは確かに罪悪感だった気がするけれど、何に対しての罪悪感だったのだろうか。少なくとも夫に対してではなかった。

 身体の中に酔芙蓉の花を咲かせ、何度となく彼の実家の前を通った。一緒に行かないと言ったのは自分なのに、彼がもう一度手を指し伸ばしてくれるならと願った。彼の指輪を思い出し、ただの行きずりだと自分に言い聞かせ、芙蓉の花はもう枯れたのだと繰り返して。

 まさか、また彼が目の前に座る日が来るとは。私が上ずっていたことを、彼は気がついたろうか。そのままあの日の続きをしたいと思っていたなんて。

 身体の中に、芙蓉の花が咲く。彼が何故ここまで来たのか量ることもできないのに、勝手に白い花が奥底から開いていく。湿った薄暗い部屋、外の強い雨の音、合わさっていく呼吸音。忘れなかっただけだったのに、今の私はあの記憶を手繰り寄せて身体を満たそうとしている。


 こんなことを考えている場合ではない。別れた夫は警察を呼ぶほど騒いだと言っていた。祖母が怯えるようなことを怒鳴ったのだろうか。それでなくとも、成人男性の怒声は女には怖い。私のために、これ以上の負担をかけてはいけない。電話で両親にそれ以外の情報を尋ねようとしても、家に近づくなと言われるだけで、警察を呼ぶような決定的な言葉は教えてくれなかった。週が明けたら、父が弁護士に会いに行くと聞いただけだ。

 私のことなのに、私の外で物事が動いていく。考えてみれば、私は別れた夫と対峙していないのだ。父によって実家に連れ帰られ、話の内容はすべて人伝てで、何もこの目で確認していない。今度のことだって、実家で起きたこと。ただ伝えられたことに傷ついたり怯えたりして、私自身が矢を受けているわけじゃないのだ。

 散乱していく思考の中でファンヒーターの前に座り込み、自分を見失った気になる。きちんと仕事を得て独り立ちしているはずなのに、何もかも上滑りしているような焦りを感じる。何の実感が欲しいのか、自分ではわからない。


 義母を介護していたとき、確かに実感はあった。ひどく疲れてはいたけれど、私が手を引けば義母は死んでしまうし、私が私自身の動きを考えて行動していた。自分が生きているのか死んでいるのかわからないなんて、思わなかった。

 今の生活は穏やかで、日々の幸福は確かにある。主語を取り戻したし、自分以外の誰かの生活で思い煩うこともない。誰も私を傷つけたり裏切ったりしない。でもどこか空洞で、そこに何が詰まっているべきものなのか、それは自分で探さなくてはならないものか、それとも勝手に埋まっていくものなのか、見当もつかないのだ。

――会ってみようか。会って、夫にきちんと失望すれば、実感が湧くのではないだろうか。

 ふと浮かんだ自分のアイディアに怯えて、頭を抱えた。あれは元の夫ではないと、父が言っていたではないか。自分の責任から逃れて周囲に嘘を振り撒き、挙句の果てに金さえ払えば文句はないだろうと怒鳴ったという。そんなものに会って、私はどうしようというのだ。


 彼は、どうなのだろう。彼もまた、離婚したのだと言っていた。良い人のように見えるけれど、人は見た目や言葉や職業ではない。職業だって、私は著述業を生業としている知り合いはいない。何故離婚なんてしたのだろう? 不貞、暴力行為、収入、それから。

 私の場合私が動けずにいるうちに父が話を進めてくれたが、離婚は結婚の三倍以上のエネルギーを使うと聞く。そこまでして別れるのだから、何か強い理由があるはずだ。それが彼に由来するものでも、不思議じゃない。

 そう考えてもなお、私はもう一度彼に会いたい。そしてできれば、あの呼吸をもう一度私の上で感じたい。自分の肩を自分で抱き、窓の外を見る。気がつけば、建物はうっすらと白く化粧していた。



 炬燵に足を入れたまま寝てしまい、電源が切れて冷えたので目が覚めた。昨晩は遅くまで眠れず、手元にあった本を読んでいたら、その表現力に目が冴えて明け方まで読み耽ってしまったのだ。

 もう、昼近い。強烈な尿意を感じて一度炬燵から出たが、またすぐ戻って電源を入れた。そしてだらしなくまた身体を横たえ、昨晩飲み残したペットボトルのお茶を手に取った。なんという自堕落だ。

 そもそも結婚生活中のほうが、生活のリズムはなっていなかった。夜中に文章を綴り、腹が減れば妻が作り置いてくれたものを口に入れた。妻と生活時間を合わせようとは思わなかったし、そう要求もされなかった。あなたは小説を書くという稀有な才能を持っているのだからと言われ、それに違和感を感じるようになるまで、私は私の時間を好きに使っていた。

 きっかけはあれだ、新卒で入った会社の同期にバッタリ会ったことだ。私はその会社に二年と少ししかいなかった。学生時代から細々と書いていた小説を公募に出したら思いがけず大層な賞をもらい、それに伴うインタビューや執筆依頼が舞い込んだ。若い作家だということで雑誌でのグラビアなんてものまであり、スケジュールがタイトになってしまったことと、自分の能力への過信があった。どんなものでも書けるような気になって、つまり天狗になって、勤め人生活にしがみつく必要はないとあっさり辞めてしまったのだ。それが自分の作風を狭めることになるとも知らず、洋々とした未来ばかりを信じて。

 子を作り家を建て、将来を社会に保証され、彼からは自信が漲っていた。自分の人生は揺らがないぞと、彼の全身が言っているようだった。雑文が売れたの重版が来なければ税金の支払いが危ういのと、綱渡りのような生活をしている私自身がとても貧相に感じた。しかも彼の社会生活や家庭生活の話は、私がパソコンに向かって空想で描く他人の生活よりも奥深かった。もちろんそれで書ける人は多くいるが、私にはそんな才能はないのだと思い知らされた。そうだ、私程度の書き手ならば、勤め人の生活をしながら空き時間を執筆に当てている人が大半なのだ。それを配偶者の所得で老後を計算できるからと、新入社員並みの稼ぎでのうのうと物書き面をしている私は一体――


 他人の生活と自分の生活を比較して何かしなくてはならないと焦り出した私と、まだ私の将来の名前を期待する妻は、どんどんすれ違っていった。知らない場所を覗くために、取材代わりに短期のアルバイトとして働くことすら、妻は嫌がった。それは小説家らしくない、アポイントメントを取って取材先に挨拶することが必要なのだと。妻は私に小説家らしさを求め、私は生活者としての自分を思う。

 結局私が外に仕事を求めたのは離婚してしばらくしてからだし、それについて何かの言い訳をするつもりはない。ただ自分で驚くくらい、執筆のペースは落ちていない。それが商業に乗るかどうかは別問題としてだが。

 だとすれば、私が費やした十年余りは何の意味があったのだろう。妻の世話と所得に乗っかり、煽てられて自分を育てることを疎かにした。私自身が器用な性質ではないのは知っているのに、机上だけで現実感を得られていると思っていたのだ。

 建築物は基礎がなければ建たない。自分の基礎の部分は、ひどく甘かったのだ。現実に勝る現実感を、指先だけで語れる技量はなかった。それに気がつくために、妻を使い捨てたのか。彼女だって私と結婚などしなければ、子は生せなくとも幸福な夫婦生活を過ごせたのかも知れないのに。

 過ぎたこと、終わったことだ。私が今何を思おうが、過去には戻れない。悔いたところで、もう何もできないのだ。前を向けと、他人にはそう言い、時折は文章にもしてきた。けれどもそれは、なんと難しいことか。


 やっと起き上がってカーテンを開けると、外は白くなっていた。寒い筈だと炬燵に入り直し、天板の上に置いていたスマートフォンに目を留めた。新しい連絡先が入っているのだ。

 あの小さなテーブルを挟んで、彼女と向き合った。記憶よりもはるかに健康そうではあったが、表情に危うさを含んでいるように見えた。介護を語っていたときのほうが力強く見えたのは、ただの記憶のなせる業だろうか。二度と会うことはないだろうと思いながら、忘れることのなかった佇まいが、もう一度蘇る。これを恋とか情欲だとか表現することは容易いが、本当は自分の心に説明ができないだけなのだ。

 大体、今更そんな感情を抱いたとて、どうしようもないではないか。彼女は見たところ瑕疵のない身体の若い女なのだし、私は生活力のない中年の男だ。あの細い指をもう一度背に感じたいと思っても、それは男の勝手な羨望であるとしか思えない。姉の噂話が本当に彼女のことなのだとしたら、彼女は人一倍幸福になるべきだ。自分を壊されるような喪失感を味わったであろう彼女は、晴れやかな笑顔で毎日を過ごさなくてはならない。

 私には何もできない。記憶は記憶のまま、彼女と新しく交流できるものだろうか。


 窓の外の雪に雨が混ざってきたようだ。積もらなくて良かったと安堵しつつ、また彼女の顔を思い浮かべた。あのアパートの窓にも、雪は降ったろうか。

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