萌え出る緑の芽

 父と訪れた弁護士事務所は、すっきりと片付いていた。

「ちょっと調べさせてもらったんだけど、高橋氏の離婚はまだ成立していない。どうも奥さんのご両親はあまり裕福じゃないようで、孫と娘を養う財力はなさそうだ。再構築を促せる方向に誘導しようと思う」

「こちらからは、どうしたら良いでしょうか」

「身に危険があると判断したら、まず通報。実家には植木鉢を壊されるような被害はあったようだけど、芙由さんは」

「腕を強く引っ張られました。でも痣にもなりませんでしたし」

「次にそんなことがあったら、私が同行して被害届を出そう」

 こちらから積極的に遠ざけることは、何か事件が起きないと難しいらしい。

「子供がいるのだから、少しは弁えてくれると良いのですが」

「弁えられるような人間が、婚姻中に他で子供を作ったりはしませんよ。北岡さん、お嬢さんは優しすぎる」

 年配の弁護士は、やれやれと言うように笑う。

「きっと彼は今、全部他人の責任にしたくて必死なんです。でも芙由さんが、それの相手をしてやる必要はない。これ以上何かしたら、身ぐるみ剥がすぞと警告しておきます」

 そんなに長い面談ではなかったのに、ひどく疲れた。遮断されていた記憶や感情が次々と押し寄せ、今頃になってから、失われた結婚生活や夜中に呼ぶ義母の声や、家に業者を入れて介護仕様にしたときにも夫が立ち合いに帰宅しなかったことや、とにかくもう、ありとあらゆる雑多なものが頭の表面にぎっしりと張り付いているようで、吐き気がする。

 いっそのこと受け取った慰謝料を返してしまえば解決するのだろうかと父に言えば、そんなことをすれば彼はますます自分を正当化するだろうと返事が戻った。とにかく身辺に気をつけて、弁護士さんに任せるようにと。


 義母の夢を見て、夜中に目を覚ました。内容は起き上がると同時に忘れてしまったのに、声だけが残っている。

『赤いチューリップをたくさん入れましょ。ハナニラの白に映えるから』

 一緒に庭弄りができたのは、とても短い期間だった。そのあとにすぐ、ひどく攻撃的になったり被害妄想であたられたりしたし、それが終わったころには幼女に戻ってしまって、自分からの行動ができなくなっていたから。

 可憐な声で童謡を歌う義母を、夫は知らない。落ちた椿の花を拾い集める姿を、眉を顰めて見ていたのは覚えている。自分の母親が壊れていくのを、彼は認めたくなかったのだ。

「かわいそうに」

 暗い部屋のベッドの上で、私は声に出した。

「かわいそうに。逃げるだけ逃げれば、全部終わると思っていたのにね。結局現実に、追いつかれちゃったんじゃないの。ここで逃げるのを止めないと、今度こそ全部、ぜーんぶ失くすってわかってないんだね」

 声に出すことで、自分の中の整理がついて行く。寝具の上に身を起したまま身体が冷えるまで呟き続けた私は、もしも室内に他人がいたら狂人に見えたかも知れない。すっかり満足して布団を被り直したのは、明け方近くになっていた。


 彼に会うために電車に乗ったときは、特に何かを期待したわけではなかった。ただ梅の花の香る場所を歩き、頭に風を通したいと思っていたのだが、彼の顔を見た途端にそんなことは忘れた。

 彼は記憶よりも疲れた顔をしていた。何か表情に翳りがあり、私のアパートに訪れたときと同じようではなかった。そんなことを言いだすほど私は彼を知らないので、本当は億劫なのにつきあってくれたのだろうかと、引け目を感じたくらいだ。

 梅林の中を歩く彼はとても静かで、ときどき私の問いかけへの返事が飛ぶ。どことなく上の空で、それなのに私の話を懸命に聞こうとしてくれる。彼を座らせて売店からお茶を運んだとき、私を見る表情は、まるで幼い子供を見守っているかのようだった。

「はじめて会ったときと、別人のようだ。貧血を起こして、芙蓉の下に座っていたのに」

「身体のほうはすっかり健康です。まだ片付けなくてはならないことがあるのですが」

 言葉を促すような視線に、私は過去から現在をとりとめもなく喋った。あの町で、大した近所づきあいもしなかった家の内情が、噂になっていることを知った。都会でも田舎でもなく、大きな事件もなく、静かな町ではあった。住民はその分、退屈しているのだろう。

「やさしい気持ちなんて、抱かなくていい」

 彼はそう言った。私にそんな意識はなかったけれど、無意識のうちに良い人ぶりたいと皮を被っていたような気がする。もっと感情的になっても良いのか。


 梅林の中に風が吹き、彼は自分の身体を庇うような仕草をした。私はそれまで、彼の容姿について何も考えていなかった。彼は最初から彼であり、他の誰かではなかったから。冬服を着ていても、痩せ型なのがわかる。眼鏡の奥の目は一重で、どちらかと言えば面長な顔は頬の肉づきが薄い。その腕の長さは知っているのに、彼を形作るものを形として認識していなかったのだ。

 駅に向かうバスの中で、彼はしきりと胃の辺りに手を当てていた。身体が冷えて痛くなったのかと気にしてはいたけれど、それを言うのもおかしな気がして、吊り広告をぼんやり見ていた。梅林の写真の横に、石を組んだ浴槽の写真があった。隠れ家のような温泉というキャッチコピーがあり、小さく部屋の様子が映っている。自分の部屋の小さな浴槽を思い出し、お湯が恋しくなる。だから口に出したときは、ただの世間話だった。それなのに彼の返事を聞いた瞬間に、小さな温泉宿の部屋に向かい合わせで座っている浴衣の男女が見えた。菓子盆と厚い湯呑みが座卓の上にあり、胡坐を掻いた男の浴衣の裾から、足が見える。一瞬ではあっても、あまりにも鮮烈な空想だ。そのときに、母から電話があった。

『ああ、芙由? 今日はお仕事お休みでしょう? 家にひとりでいるより、こっちのほう安全じゃない?』

「今日はちょっと遠出してるの」

『出かけてるなんて珍しい。なかなかお友達と会わないから、お母さんも気にしてたのよ』

「みんなそれぞれ忙しいからね。でも、ゼロじゃないから。バスの中だから、切るね」

 母が気にしてくれるのは有り難いが、何処で誰と一緒にいるのかと質問が続くのは見えているので、早々に会話を打ち切る。悪いことをしているわけでもないのに、男の人と同行していることが、やけに後ろめたく感じる。咎められることなど、何もないのに。


 私を咎めることができるのは、もう私だけだ。スマートフォンをバッグに収めたとき、急にその言葉が降ってきた。法に裁かれることでもない限り、何処に行っても良いのだし、誰と会っても良いのだ。たとえば誰かと恋をしても。

 もう一度恋ができるのか、試してみたい。彼を忘れなかったのは、きっと何かの意味があるはず。

「先生、温泉に行きませんか」

 私の顔は、おそらくとても強張っていた。もう先に身体を繋いでしまった私たちには、そんなに難しい提案ではない。広告を指す指先に、私の迷いはなかったと思う。

「今からでは、予約は難しいでしょう。今日は土曜日ですよ」

「電話してみなくてはわかりません」

 少し勢い込んでしまい、きまり悪く彼の顔を見ると、穏やかに微笑んでいた。

「勢いではなく、ちゃんと計画して行きましょう。北岡さんは少し、せっかちなんですね」

「ごめんなさい。湯けむりを思い浮かべたら、居ても立ってもいられなくなりまして」

 気まずくせずに話を収めてくれた彼には、感謝しなくてはならないだろう。けれどそのやりとりで、私の気持ちが一気に彼に傾いたのは確かだ。次の提案という形で、私の言葉には水を差さずに断ってくれた。行きたくないとか急に言うなとか、拒否の言葉はたくさんあるのに。

「少し早いけれど、食事のできる場所を探しましょう。そうしたら、便の良い駅まで送ります」

 まだ空は茜にも染まっていないのに、彼はそう言う。まだ彼との時間を終わらせたくなくて、私は黙って頷くだけだった。


 彼があらかじめ調べていたという、蕎麦屋に入った。蕎麦も天ぷらも美味しかった。

「車でなければ、そこに飾ってある日本酒を貰いたかったなあ」

 蕎麦湯を頼んでから、彼は並んでいる一升瓶を見回した。

「では次は、電車で移動できるところでお会いしましょう」

「そうですねえ」

 曖昧に微笑み、また胃の辺りをおさえるような仕草をするのが気になった。

「先生、胃の調子がお悪いか何かですか」

 驚いたように手を止め、彼は答えた。

「いいや、そんなことはありませんよ。何故?」

「さっきから、胃の辺りに手をやっていることが多いので」

 訊いてはいけないことを口にしたのだろうか。帰りましょう、と彼は立ち上がった。


 道を知らないので黙って助手席に乗っていたが、高速道路に入ろうとしていることで、慌ててしまった。

「先生、大きい駅までではないのですか」

「もう少し、家の近くまで送ります」

 進行方向を見る横顔からは、表情が読み取れない。

「今、やはり温泉宿に電話してみるべきだったと、後悔しているんです。まだ時間が惜しい」

 この言葉に返事はできず、ただ私も同じ気持ちだと自分に確認する。お互いをほとんど知らないのに、彼の佇まいに惹かれる理由を誰か教えて欲しい。



 もう少しもう少しと、結局彼女の暮らす場所まで来てしまった。まるで学生のような行動だ。

「先生、家に着いてしまいます」

「もうどうせだから、家まで送ります。時間がかかって、申し訳ない」

「いいえ、私は座っているだけですから。それよりも先生が、お疲れになりませんか」

 言われてからはじめて、自分の身体が疲れていることに気がつくような、彼女が隣に座っている満足感がある。

「大丈夫です。明日も休みですから」


 彼女のアパートに向かう道を曲がると、彼女は小さく声を上げた。

「先生、ここで車を止めないで、行き過ぎてください。申し訳ありませんが、降りられません」

 狭い道に、白っぽい車が停まっていた。

「もしかして、別れた旦那さんですか」

「はっきり車を覚えていないのですが、似ている気がします。いやだ、アパートは知らないはずなのに」

 広い通りまで出て車を路肩に寄せて停めた。確認してみると、彼女はスマートフォンを出して電話をはじめる。どうも相手は、大家らしい。

「ああ、そうですか……良かった……はい、安心して帰ります。ありがとうございました」

 ほっとしたように通話を終えて、こちらを向く。

「他の部屋に来ているお客様みたいです。お騒がせしました」

 小さく頭を下げる仕草が、妙に愛おしく感じた。ここまで、どれだけ傷ついて辛い思いをしてきたのだろう。そして今、同じ原因の違う理由で怯えている。彼女の生活に、何か救いはあるのだろうか。


 ハザードランプを点滅させたまま、しばらくハンドルを握らずにいた。

「先生?」

 彼女が私の表情を見る。

「北岡さん。あなたは幸せですか」

 自分の口から、こんな言葉が出るとは思わなかった。彼女が幸福でも不幸でも、自分ができることなど何もないのに。彼女は軽く下唇を噛んで、ゆっくりと目を閉じた。

「私を気遣ってくれる家族がいて、仕事を持っています。習い事をする楽しみもあります」

「それは幸福だと言っているのですか」

 彼女の肩が、ぶるっと震えた気がした。

「いいえ……いいえ、いいえ! ずっと、笑っている実感がないのです。楽しいと感じるのが頭の表面だけで、芯の部分が固まっているんです」

 手で顔を覆い、荒い呼吸を隠している。泣かせてしまったのかと思ったが、そうではないらしい。

「芯から怒ることすら、忘れていたんです。いつになったら、私は私に戻れるんでしょう」

 シートベルトを締め直し、彼女のアパートに向かった。


「先生、帰る前に少し休憩して行ってください。運転しっぱなしで、身体が痛くなりませんか。どうせ私ひとりの部屋ですから、遠慮なさらずに」

 二度目ではあっても、女性の部屋に上がり込むことに、抵抗がなかったわけではない。けれど彼女の表情は、労いよりも懇願に見えた。こんな目をした人に、逆らえるはずもなく、私は彼女のアパートの上がり口に靴を脱いだ。

 彼女は私を椅子に座らせると、お湯を沸かして丁寧にコーヒーを淹れた。そして前回と同じように丸椅子を運んできて、私の横に置く。

「無理に家に誘ったみたいで、すみません。存分に伸びをして、背中をほぐしてください」

「いや、無理に送ってきてしまったのは僕です。若い女性との行動なのだから、少し弁えなくてはいけないのに」

「弁えていないのは、私のほうだと思います」

 横に置いた丸椅子に座って、彼女は両手で抱えるようにマグカップを持った。


「心細かったんでしょう?」

 私の言葉に、彼女の表情が動く。

「気がかりなことが多くて、ひとりで心細かったんでしょう」

 コーヒーを一口飲んでカップをテーブルの上に置いた彼女は、何か納得したような顔になった。

「そうかも知れません。家族にはこれ以上心配させたくないし、打ち明けるような友達もいなくて」

 視線をふっと逸らし、ひどく頼りなげに唇を噛んだ。

「私の状況を誰かに説明しても、励まされたり発破をかけられたりするでしょう。だってもう、終わったことなんですから。そして別れた夫の理不尽さを、警察にでも訴えれば解決すると言うでしょう。でも私は、そんなことは欲していないんです」

 揺れる視線は、彼女の心そのままだ。

「先生、ごめんなさい。休憩していただこうと思ったのに、こんな話を」

「はじめたのは僕です。あなたの考えていることを、聞いてみたい」

 彼女の抱えているものを、受け止めたいと思った。同情でも憐憫でもなく、吐き出すことが何かの救いになるのならば、喜んでいくらでも聞いていたい。

「まだ、ここにいていただけますか」

「いや、今日中に家に到着できる時間には帰ります。女の人の部屋に、遅くまでいてはいけない」

 分別臭くても、そう答えるしかない。彼女の両親の知り合いが管理しているアパートに、怪しげな男が出入りしているなんて噂を立ててはいけない。


 私が部屋を出るときに、彼女は車まで一緒に来て見送ってくれた。

「今日はありがとうございました。今度は私が先生のお住いのほうに出向いても、かまわないでしょうか」

「電車だと乗り換えが億劫ですよ。どこかで落ち合いましょう。また連絡します」

 車を発進させてバックミラーを確認すると、彼女はまだ手を振っていた。


 途中で一度コンビニエンスストアに寄り、手洗いを借りてペットボトルの水を買った。飲み下すと、冷たい液体が食道を通って落ちていくのがわかった。無意識に胃のあたりに手をやり、撫でる。週の半ばには生検の結果が出るはずで、大腸の内視鏡では何も見つからなかったとは言え、不安はずっと奥底にある。自分でも少し調べたことは調べたし、経験者のブログなんかも読んだ。自覚症状が感じられないぶんリアルさは遠いのに、空想は良くないほうに飛ぶ。そこに、彼女の不安げな表情が絡む。ひとりの部屋で膝を抱えているのではないかと、あまり今時にそぐわないイメージが浮かぶ。

「温泉、行けば良かったかな」

 ぼそっとひとりごちて、自分を嗤う。大人ぶって、分別臭いことを言ったくせに。

 彼女は今孤独で心細いから、過去を少しだけ見ている私に心開いているだけだと思う。何事もない生活を送っていられれば、あの優しくてよく働く人は、家族や友人に大切にされて笑っているはずだ。私のように社会の隅っこにしがみついているだけの、何もない男にしか心情を打ち明けられないなんて、普通の状態じゃない。

 期待するなよ、と自分を戒める。私だけが彼女に思いいれているだけだぞ、彼女はまだ混乱しているのだと。


 生検の結果は、ひとりで聞きに行った。診断確定は確かに気分を沈ませたが、すっきりもした。その場で次の処置のスケジュールを決め、入院日と手術日の日程もほぼ決定したので、事務的に進めることができたのが幸いしたのだろう。その後にどれくらいで社会復帰できるのかなんて医師にもわからないので、その足で会社に向かって午後の仕事をしたあと、上司に報告する。

「いつまでご迷惑をかけるかわかりませんので、退職しようかと思います」

「それは早計だろう。そんなにハードな職場じゃないんだから、休職にでもしてゆっくり治していいよ」

 天下りの多いゆるい職場は、給料は安くても職員に甘い。とりあえず開腹しなくてはステージもわからないのだから、一度はお言葉に甘えることにした。

 そして姉へ電話して入院のスケジュールを伝え、身元保証人と緊急連絡先を引き受けてくれるように頼んだ。その際に、けして母には伝えないように言うと、わかったと小さく返事があった。

「あの年代の人は、ガンにネガティブなイメージしかないから。健康診断がなかったら気がつかなかったくらいだから、広がっていないと思う」

「とりあえず、そのクリッピング処置とやらの日に行くわ。それまで大事にしててね」

 言葉は軽くても、声に心配が滲んでいた。

 小説だけで食っていこうと思わずに会社員であり続けたら、今頃は家の一軒も建てて子供も手を離れる直前で、誰かに残せる何かがあったかも知れない。私は今、何も持っていない。自分の心配だけをすれば良いのは幸運なのか、それとも不幸であるのか。


 何かを書こう。唐突にそう思った。闘病記なんかじゃなくて、私が私であるという証明のようなものを書こう。商業に乗せるためでなく、ただ書くことを目的として書こう。

 そしてそれを読ませる人として、彼女の顔が浮かんだ。そうだ、書き終えたら彼女に読んでもらおう。彼女に読ませるならば、やわらかくて優しい物語にしよう。梅林を歩いていた彼女の横顔のような話を書こう。

 目を閉じて、イメージを膨らませる。入院までに大雑把にストーリーを組み立てよう。病院に小さなノートパソコンを持ち込めば、時間が余って退屈だと聞く入院生活も遣り過ごせるだろう。


 悪いことが頭に浮かばないように、私はその計画に没頭することにした。長生きしようと考えたことはなかったのに、死の可能性を感じただけでこんなに怯えが来るとは。こんなに弱い人間が、彼女を救うことなんてできるわけがない。できるのは、ただ話を聞いて感情の整理の手助けをするだけなのだ。

 自惚れるな、勘違いするな。自分から恋にしようとするな。



 弁護士を入れたのは、ずいぶん牽制になったようだ。しばらくしてから実家に短い詫び状が届いたけれど、それは実家の玄関で暴れたことだけへのもので、私に対してではなかった。あの男にとっての私はきっと、ずっと言いなりになる自分の手駒のようなものなのだろう。慰謝料を払ったことで自分に非があると認めたのではなく、不当に搾取されたと感じたに違いない。その不満が奥さんが出て行ってしまったことで、また私に向かった。厄介なことだ。好意の座布団の上に胡坐を掻いて、その座布団はずっとそこにあるものだと勘違いして。弁護士の誘導通り、あの家を処分して新天地で生活してくれれば、もう今度こそ何もなくなるはずだ。そして嘘の上塗りをしながら生活していけばいい。義母は施設でひとりで死んだのだとか、私が介護が嫌がって別居していたとか、よくもまあ口から出まかせを言ってくれたものだ。私を接触禁止にしたのは、私から奥さんやそのご両親に告げ口すると思っていたからでしょうに。


 逃げ出してしまいたい。両親や祖母や兄や、最近やっと仲良くなってきた習い事のメンバーや、気にかけてくれる勤め先の人たちや、それから自分で整えたこの部屋や、もうそんなものは全部捨てて、耳を塞いで目を閉じていられる場所に行きたい。けれどそうしたら後悔するのも見えていて、身動きが取れない。まるで義母とふたりで、あの家で暮らしていたときのように。

 僕と一緒に来ませんか。彼はそう言った。あのときの私には、逃げ出すという選択肢を選ぶ力もなかった。彼と一緒に義母を残して家を出れば、或いはあの男がどうにかしたのかも知れない。そして私は、やはり身を捩って後悔しただろう。だからあれについては、もう考えまい。彼だって、私を連れ出したあとにどうするかなんて考てもいなかったのだから。


 今また彼が手を差し伸べてくれるとしたら、私は喜んで手を取るだろうか。離れて暮らす彼のいる場所に、職業も持たず面倒な感情を抱えた私が逃げ込むなんて、現実的じゃない。私自身が厄介者になるだけじゃないか。

 この塞がった場所から、早く出して。箱の上辺を突き破り、大きく息がしたい。いっそのことあの男が死んでくれれば、もう何も煩わずに済むのに。弁護士の交渉が上手く行き、念書が届くまではまったく安心できない。それはあの男が、自分のしたことを不当だと認めることだから、今はきっとプライドと計算がせめぎ合っている。ジレンマをまた私にぶつけて来たりしないか?


 ウジウジと日を過ごし、習い事の花を玄関に飾るだけが楽しみだ。もう花材に淡い春の花が増えた。梅林の中を歩いたのはまだ最近なのに、とても遠いことのような気がする。あのあと家まで送ってくれた彼の、一緒の時間が惜しいと言ったのは本音だったのだろうか。それとも不安定な私を気遣っただけか。わからない、全部わからない。

 私は彼とどうしたいのか。一緒に温泉に行こうと言ったのは、本気だった。彼のことを知りたくて、もっとたくさんの時間を共有したいと思った。ときめくような感情ではなく、彼の眼鏡の奥の瞳には真実の私が映っているような気がする。もしくは、そうであって欲しい。

 そしてまた私は、暑く湿った部屋に戻ってしまう。決められていた何かのように、身体が吸い寄せられた日を忘れない。強い雨の音に囲まれ、世界はあの部屋だけだった。何度もスマートフォンを握り、何を話すのだとテーブルに戻すことを繰り返した。何をしていますかと、気軽に電話してしまえば良いのに、それができない。自分の心の傾きが恋か依存か判断できずに、ただ記憶の雨の音を聴いている。


 最近耳が遠くなってしまった祖母は、電話で話すことを嫌がる。最近はウトウトしている時間が長くなったと父が言う。とても気になるし、近いのだから少しだけ顔を見せに行きたいとも思う。けれど自分のことで精一杯の今の私には、億劫なのだ。

 鬱々とした日々の中で、休みの日の遣り過ごし方に迷う。隔週の土曜日の休みは、普段ならば実家で祖母の散歩の付き添いをしていた。

 仕事帰りの道で、梅の花がもう終わったことを知る。気がつけば桜の枝の先が柔らかい色になりつつあり、私の心などお構いなしに季節が移ろってゆく。

 彼に会いに行こうか。彼が連絡もなく私の部屋を訪れたように、私も彼の部屋を訪れてみようか。急に思い立ったのですと、驚かせてもいい。留守なら仕方がないし、迷惑だと叱られたら謝ろう。もしも彼が、誰か他の人と共に生活していたりしたら。そのときは、絶望しながら帰ろう。

 鏡に向かって化粧を済ませ、立ち上がる。何をするにしても、ひとりで家にいるよりマシな気がした。


 何度も電車を乗り換え、知らない街に立った。この駅からまた別の電車に乗れば、私が暮らしていた場所がある。あの家で義母が植えた海棠は、咲きはじめただろうか。

 スマートフォンの地図で表示すれば、彼の家まで歩いて三十分ほどだ。急ぐこともないので、知らない場所を歩いてみようと思う。


 駅周辺の賑わいは、しばらく遠ざかっていたものだった。独身時代にあんなに好きだったファッションビルやショウウィンドウの美しいブティック、洒落た入り口のレストランにもずいぶん入っていない。歩いている途中に列が並んでいたので先頭を覗くと、ラーメン店だったりする。知らない街は興味深く、面白い。名代・栗可乃子と幟旗の出ている和菓子店のショウケースに興味を惹かれて、つい中に入った。彼の家を訪れるのに手土産になるかと、いくつか買い求めた。もしも留守ならば、翌日実家に持って行けば良いと自分に言い聞かせて。

 無駄足だったとうんざりするくらいなら、知らない街の観光を楽しもう。彼に会うのはついでだと自分に言い聞かせておけば、当てが外れたときにがっかりしなくて済む。

 殊更に時間をかけて街を見回しているはずなのに、私の足は妙に急ぎたがる。繁華街が住宅街に切り替わっても、まるで足の速度は落ちない。三十分も継続して歩くことなんて普段の生活でも稀であり、疲れないわけがないというのに、スマートフォンが表示する時間よりもずいぶん早くに、到着地点が近くなる。


 住宅街の整備が開発に間に合わなかったのであろう、入り組んだ細い道が続く。時折通る乗用車が通行人の姿を認めると速度を落とすような、古い住宅街だ。そんな中にも新しい建物が点在し、半端に切り取られた土地にベンチが置いてある。

 スマートフォンの液晶に赤い星マークで記されていたのは、三階建てのマンションだ。ロビーに管理人はおらず、セキュリティもない。

 本当にここに来て、良かったのだろうか。突然激しく後悔しはじめ、足が竦んだ。来てしまったのだからと自分を励ましながら、集合ポストを見た。二階の一番端の位置に、須々木と記名がある。その名札を、指でなぞった。彼はちゃんと、ここに住んでいる。

 ゆっくりと階段を昇ると、鼓動が激しくなった。私は一体何をしに来たのかと自分に問うても、返事はない。部屋の前に立ち、しばらくインターフォンのボタンを見ていたけれど、思い切って押した。


「はあい」

 聞こえてきたのは、女の人の声だった。しまったと思うのと、やはりと思うのが半々で、混乱する。逃げ出してしまおうかと思ったときに、ドアが開いた。

「すみません。弟は今、ちょっと出てまして。すぐ戻りますけど、何か」

 彼と同年代に見える女性が、チェーンをかけたドアから言った。

「いえ、何の連絡もなしに来てしまいまして。先生がお留守なら、また」

 後退りして頭を下げると、一度ドアが閉まってチェーンが外れ、今度は大きく開いた。

「弟を先生と呼ぶなんて、編集さん? こんなところまで、わざわざ来るのね」

「違います。私はただのファンで」

「ただのファンは、あの子の住んでいる場所なんて知らないでしょう。もしかして、彼女?」

「いいえ、そうではなくて」

 近いのでまた来ると言い残して、慌てて階段に向かう。弟という言葉と彼女の顔に敵意が浮かばなかったことが救いで、走るように階段を降りた。

 さて、どうしよう。お姉さんは夜までいるのだろうか。もしかすると泊っていくのかも知れない。もう一度行って伝言を残す勇気はなかった。


 知らない道をとぼとぼと歩いていると、彼のマンションを出て五分もしないうちにスマートフォンが鳴った。

「北岡さん?」

 彼の声が聞こえる。

「今、僕の部屋に来た?」

 咄嗟に違うと答えそうになった。

「僕の部屋を知っている人は、そんなにたくさんはいないのですよ。まだ近くにいるんでしょう?」

「人が来ているなんて思わずに、ごめんなさい。急にご迷惑を」

「迷惑じゃないから、戻って来られますか。それとも僕が迎えに行く? どこの近く?」

 あたりを見回しても、住宅しかない。

「どこかわかりません。適当に歩いてきてしまったので」

「戻ってきてください。マンションの前で待ってます」

「人が来ているのでしょう?」う

「姉はもう帰ります。もう相談が終わったので」

 何か込み入ったときに来てしまったのだろうかと、連絡しなかったことを改めて後悔した。今日でなくとも良かったのに。道を戻りながら、情けなさと申し訳なさで消え入りたくなる。



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