北岡芙由の記憶
民生委員さんからは、そろそろご主人に相談したほうが良いとは言われていた。単身赴任とは言っても自分の親なのだから、介護の方法や現状を確認して考えてもらうべきだと、ケアマネさんからもアドバイスされた。私自身はまだ通所施設の力を借りれば頑張れると思っていたのだけれど、外から見ると危うかったのだろう。
夫に連絡しても、忙しいからすぐには帰れないと言われ続け、気がつくと半年も経っていた。その前に戻ったときも確か、忙しいから長居はできないと一泊だけして朝早くに帰って行った。私は夜間の介護が必要な義母と同じ部屋で寝ているので、実質的に夫婦の会話はなかった。二世帯分の生活費を捻出するのに、億劫な仕事や残業をして稼ぐのだと言われれば、何も言えなかったのだ。決まった生活費だけ受け取っていた私は、夫の給与明細すら見たことがない。義父が遺したお金や義母の受け取るべき年金も夫が管理していたので、私は本当に渡された金額しか知らなかった。尤も、渡されたお金の使い道について何かを言われたことはなく、足りなければ余計に振り込んではくれていた。けれど、私の相談内容に興味はなかった。
八時にバスに乗せ、十六時に帰ってくる義母は、突発的に脱走してしまうことはあっても、長い時間は歩けなくなっていた。おむつを外して阻喪してしまうことが増え、家の中はどんなに掃除しても臭気が残る。そして好きなものや気になるものに対しての抑制が利かず、私は冷蔵庫や戸棚に鍵をつけていた。自分の言い分が通らなければ、子供のように声を張り上げて泣く。早い時間からうつらうつら寝ているためか、夜中に何度も起された。
ただ機嫌が良いときには、可憐な声で昔の歌を歌ってくれた。もとから歌の上手な人が、覚えている童謡を繰り返すのは可愛らしかった。ときどき家に飾った花をうっとりと見て、綺麗ねえと微笑む顔は、本当に童女のようだった。ひとりでいるのが嫌いで、おとなしくテレビを見ているときすら、横に私が座っていることを望んだ。私をおかあさんと呼び、手洗いにも一緒に入って来たがったが、私自身そうやって依存されることに、生き甲斐を感じていたのかも知れない。
時折、ひどく疲労感はあった。連続しない睡眠や、いつまでも片付かない家の中や、それを全て理解してくれる人がいないという空虚さに、逃げてしまいたいと何度思ったろうか。電話で弱音を吐けば、自身も祖母の世話に忙しい実家の母は、頑張りなさいと言った。夫とよく話して、頼れるものは頼って乗り切りなさいと。夫には仕事があるのだから、無理に帰ってもらわなくても何かやりようを考えて、自治体の相談会に出ればいいよと。祖母は心臓が弱って動きが鈍くなっていたから、同じような状況だと考えていたのかも知れない。けれど祖母に問題行動はなく、医者の言葉もしっかりと聞くことができていたのだ。
夫は単身赴任で忙しい生活をしていて、しかも金策までしているのだから、それ以上負担を掛けてはいけないと自戒して、愚痴めいたことは控えていた。けれどあとから考えれば、その前段階である義母の悪化すら、夫は報告を受けることを億劫がっていたのだ。
貧血がひどくなったのは、そんな疲れの積み重ねだったのだろう。道端に蹲ったときに、上から声をかけられた。
「どうかなさいましたか」
声の主は、四十歳前後の男の人だった。私を門の中に導き、冷えた水を出してくれた。庭だけとはいえ、知らない男性の家で世話になったというのに、私は彼にまったく警戒心を抱かなかった。彼はとても静かな声で、私を気遣ってくれた。私自身を。そんなことは、久しぶりだった。
私と会話する人は、みんなまず義母の状態を口にした。私はあくまでも義母の介護者であり、まだ三十に届かない私が疲れるなんて、思ってもいないようだった。一年以上顔を合わせていない実の母ですら、私がこの荒波を乗り切ったあとに、穏やかな生活を送れると信じていた。荒波に飲まれてしまうことなんて、想像もしなかったに違いない。私は体力も気力もある若い女で、義母の介護が終わってから子供を作れば、何を患うこともない日々を送れるのだから、今は耐える時なのだと言われた気がする。
ともあれ、その人の声は直接心臓に語り掛けているかのように、暖かかった。凭れた門柱の横の濃い桃色の花の名を、私は知らなかった。
おかあさんも一緒に行こうとむずかる義母をバスに乗せたあと、洗濯機を回しながら家中の窓を開け放し、水拭きできる場所を拭き上げて消臭スプレーを撒く。前の日に阻喪がなかったので、それだけで済んだのは有難かった。
仰々しいものでもないだろうと近所の和菓子屋で、どら焼きを買い求めた。この土地の戸建てに住み、あの年回りならば妻帯者なのが通常なので、家族の分のつもりだった。あの家の庭は丁寧に手入れされていたし、縁台が汚れたりもしていなかった。きっと誰かが毎日、家のことをしているに違いない。まだ専業主婦が珍しくないこの地域では、それは当然女の仕事のはずだ。それがまさか、家の中に誰もいないとは思ってもいなかった。
持って帰れと言われても、ゴミ箱の中の包装紙が見つかっただけで、大騒ぎになることは容易に想像がつく。感情の抑制の利かない義母は、地団太を踏んで泣き喚くだろう。自分が一分前に口に入れたものですら、そうなるのだ。食事の制限はずいぶん厳しくなっており、痴呆に加えて糖尿病の二次疾患は命取りになる。
それに私は、この暖かい声の持ち主と、もう少し話がしてみたかった。私を知らず、義母も知らず、ただ親切に声を掛けてくれた男は、どんな表情で話すのだろう。ほんの一時、昨日座った縁台に座らせてもらうだけ。図々しいことと知りながら、私は庭に入れてもらった。
彼が書いたのだと差し出された文庫本の筆者名に、見覚えがあった。私がまだ社会に出る少し前に、何かの賞で有名になった作家のものだ。ユーモラスに書かれたサラリーマンの日常を、面白く読んだ記憶がある。
差し出した左手に、指輪があった。母親が留守の間だけいると言っていたが、配偶者がいる人なのだ。おそらく子供の学校の都合か何かで、奥さんは一緒に来られなかったのだろう。家で仕事をする人と一緒に暮らすって、家族はどんな感じなのだろうか。実家の母は祖母の具合が悪くなるまで、外で働いていた。ああそうか、私が祖母に帰宅の挨拶をするように、この人の子供は父親に帰宅の挨拶をするのか。
夫が一日中家の中にいるとしたら、私はどうだろう? 義父が亡くなって義母をひとりで置かせられないと同居する前から、夫は帰りが遅かった。だから私は家事をすべて行うのが当然で、大人ふたり分の家事なんてそう大変でもないからと、気にしていなかった。今に子供でもできたら、パート勤務になるのだしと気楽に考えて。
義母と同居をはじめてから僅か三ヶ月で、夫に転勤の辞令が出た。母さんをひとりにできないから俺は単身赴任するよ、と彼は言った。そのときは私も仕方ないと思い、帰りの遅い夫が自分の生活を整える大変さを考えた。
母さんを頼むと頭を下げた夫は、はじめのうちは週末ごとに帰宅していた。それが二週に一度になり、ひと月に一度、三ヶ月に一度と伸びて、三年目の今は半年も帰宅していない。
捨てられたのだ。義母と共に、私は夫に捨てられたのだ。電話しても忙しいと言われ、それではとメールしても、返信は来ない。民生委員さんやケアマネさんに夫と相談をと言われても、彼は私の話を聞く気はなかった。
投げ出して失踪してしまおうと何度も思い、そのたびに義母のその後を思う。私が投げ出せば、行政は動くだろうか。夫は義母に向き合うだろうか。けれども夫が忙しいのは、二世帯分の生活費を捻出しなくてはならない余裕の無さだ、と自分に言い聞かせてもいた。捨てられたと認めたくなくて、今に義母が施設に入るなり鬼籍に入るなりすれば、今度こそ子供を作って穏やかに暮らせるのだと。夫は義母を看てきた自分に感謝し、大切にしてくれるだろうと。
そんなことを考えるよりも、眠りたかった。癒されたかった。大変だねと労う言葉だけで良い、もしくは数分でも現実を忘れさせてもらいたかった。私は私を知らない人に、何を欲していたのか。
少し目を離しただけで、ふらふらとどこかに出てしまう義母は、その時だけやけにしっかりした足取りになる。迷子になった挙句途方に暮れて座り込み、警官に連れ帰ってもらったことも数度ある。だから普段から胸に姓を縫いつけ、外に出るときには迷子札をつけていた。
けれども、それで車の前に出てしまったらとか、他人の家に上がり込んでパニックを起こさないかとか、悪い予感ばかりが先行してしまい、姿が見えなくなると気ばかり焦って近所を走り回った。彼の家の前で見つかったのも、その中の一度だ。あのときは、しっかり礼が言えなかった。
ドラッグストアで会ったことも本当に偶然で、四日も続けて顔を合わせれば、知っている人のような気分になる。
もう帰ってしまったろうと思って家の前を通った日、彼は縁台で胡坐を掻いて庭を見ていた。通りから少しだけ見えた姿は、どことなく辛そうに見えた。私は私が誰よりも辛い場所にいると思っていたのだが、そうではなくて外から見えないだけで、もっとずっと深い場所に辛さを隠している人もたくさんいるのかも知れない。何故か、そう思った。
私が手を振ったのに気がつくと、彼は笑顔になった。その表情の変化が鮮やかで、言葉を交わしたくなる。お邪魔だろうかと思いつつ、誘われるままに腰掛けて雑談を楽しんだ。
人間が他人を好ましいと感じるのは、どの部分なのだろう。声や表情や仕草、言葉の端々に見える人柄、そんなものだろうか。彼の後ろには不思議なくらい生活が見えず、会話のうちに私は焦れを感じた。もっとこの人のことを聞きたい、そしてできれば私のことも知って欲しいと。
私の何気ない質問で彼の部屋に導かれたときに、何かを考えていたわけじゃない。私が彼に興味を持ったことすら彼は知らないはずだし、彼の身体からは性的な気配は感じなかった。部屋の隅に畳まれた布団を見ても、学生めいているなと思っただけで、微笑ましくさえ思った。それよりも知りたかったのは、彼が何で組成されていて、どんな人物かということだった。本棚を眺めて質問しながらも、私が本当に知りたいのは彼が誰かということだった気がする。小説家であり既婚者であるということのほかに、彼を形作っているものについて話して欲しかった。
突然、窓の外で強い風の音がした。そして続いた雨音に、私が直接打たれているような気がする。逃げたいという思いを見透かしたように、この家から出られない状況にしてくれたような。言葉をいくつか交わし、彼の顔を見上げた。その表情は、私を気遣うものだったと思う。
一歩前に出たのは、おそらく私だ。彼の瞳の奥に何があるのか、その身体はどれほど熱いのか。ただ知りたくて私の唇は動き、手が彼の素肌を求めた。そして彼が同じように、私の肌に触れてくれるのが純粋に嬉しかった。夫への罪悪感など欠片も感じず、私は彼を迎え入れた。
私に打ち込まれた楔は、記憶にある何よりも熱かった。目の前の身体にしがみつきながら、ここで死ねれば良いと思った。今この瞬間に、屋根を突き破って隕石でも落ちて来ればいい。この男と繋がったまま、ここで死んでいきたい。心も身体もこの男に委ねて、何もかもが満たされたまま死にたい。
彼を離すまいと私の身体は蠢き、彼の全てを搾り取ろうとするかのように強く締め付けた。自分の意思ではなく、何かに命じられているみたいだ。性的な興奮の更に奥で、私から見えない触手が伸び、彼を捉えようとする。見えない触手がそのまま糸になり、私たちをこの形のまま繭にしてしまう幻想を見た。
けれど当然、終わりは訪れる。果てた彼の体重を受け止めながら、一時の夢だったのだと自分に言い聞かせた。目を覚ませばすぐに忘れる夢。だから少しでも早く、覚醒しなくてはならない。これを覚えていたとて、私の生活は何も変わらないのだから。
「ご主人がいることは知っている」
彼がそう言うまで、夫のことは念頭になかった。そして彼の左手に指輪があったことを思い出した。
「また会えないだろうか」
それは隠れた関係を築きたいということか? そんな時間も余裕も、私は持ち合わせていなかった。まして倫理に悖ることなどを。
「僕と一緒に来ませんか。あなたは幸福そうに見えない」
知らない男が、真摯な顔でこんなことを言う。その差し出された手に、一瞬縋りそうになってから我に返る。自分がこんなに追い詰められていたことを、はじめて知った。
雨上がりの道には水溜りが残り、私は梨を入れた袋を提げて帰路を急いだ。後悔はしていなかったし、罪悪感も感じなかった。無性に涙が零れて、自分でもその感情についての説明はできなかった。何かとても大切なものを諦めたようで、ここ数日の彼との会話ばかり思い出した。もう二度と会うことはない人が、自分に向けて発した言葉は、ただの衝動に違いないのに。
あの手に縋ったとて、幸福が待っているとは限らない。彼の言葉を信じて指輪が外れるとしても、それが私にとって何になろう。義母の介護に関心を示さない夫に、義母を委ねるのか。介護義務がないことなんて、知っているのだ。知っていたって何の役にも立ちはしない。私がいなくなることで、生活の立ち行かなくなる人間をふたり生み出すだけだ。歌と花が好きで、流産したときに一緒に泣いてくれた義母が、私はとても好きだった。一緒には住んでいなくても、私が風邪で寝込んだときには家のことを引き受けてくれた。
義父が亡くなったとき、夫は私に頭を下げた。仕事を辞めて義母を看てくれと。三年前の義母はまだ、断片的に不自由がある程度で、家に誰かがいれば普通に生活できていた。年齢から考えても進行は遅いだろうと言われ、私はとても楽観的に同居を受け入れた。ところが義父が交通事故で急逝したショックからか、義母は僅か二か月で急激に悪化した。そこに夫の転勤の辞令があり、バタバタしているうちに義母の人格は変わっていった。夫が転勤していくころには被害妄想と他人への攻撃がはじまっており、引継ぎで帰りのますます遅い夫は、眠れないとイライラしていた。
考えてみれば、眠れないのは私も同じだったのだ。それどころか昼の間も四六時中目を離せずにいるのに、家事労働はすべて私の仕事だった。それでも最初のころは、まだ報告を聞いたり相談に乗ってくれるだけのことはあった。義母も夫が戻ってくれば多少はしっかりし、私が見ていれば風呂も排泄もどうにかなっていた。
坂道を転がりはじめたボールが加速度をつけるように、義母は悪化していった。そして身体が弱るのと比例して精神が退化をはじめ、自分の年齢を忘れた代わりに、とても素直な童女になった。
「おにいさん、だあれ」
義母にそう問いかけられて嫌悪の表情を浮かべた夫を、私は黙って見ていた。そこにいるのはあなたの母親で、助けを必要としている人なの。嫌悪すべき人ではなく、あなたが助けなくてはならない人なのよ。夫も大変なのだと自分に言い聞かせ、短い帰宅の夫を送り出すことを、自分の愛情だと勘違いしていたのかも知れない。
ケアマネさんと相談してデイケアを週五日に設定してもらうころには、夫は帰宅しなくなっていたが、私も夫がどれくらい帰宅していないのか、数えられなくなっていた。ただ連絡しても話を先延ばしにするだけの夫を、当てにすることはできないと絶望しただけだ。老健に入ってもらうことや高齢者施設に住まいを移してもらうことは、後見人である夫からの申し込みが必要で、何度かケアマネさんからも連絡してくれていたはずだが、何も起こらなかった。
義母が肺炎で入院した時、それが生命に関わるものだと知っていたのに、私は大きく安堵した。入院さえしてくれれば、夜に起こされることもなく眠ることができる。あのときの私が非情だったとは、今でも思えない。
いよいよとなって帰ってきた夫は、自宅ではなくビジネスホテルに部屋を取った。あんな臭い家で落ち着けるかと言い放った夫は、私の顔も見なかった。その臭い家で私が生活することを余儀なくしていたのが他でもない夫であることは、彼の頭の隅にすらなかったのだろう。
すべて済ませてから連絡するだけで良いと、まだ存命である義母の父親や兄弟を呼ばないで、ささやかな葬儀を行ったあと、夫はさっさと赴任地に戻って行った。家にクリーニングサービスを入れて、客を呼べるようにしておけと言い置いたのみだ。まだ相談したいことは山のようにあるのに。
家のあちらこちらに義母が生活するための補助具があり、彼女を喜ばせるための飾りや、飲み残した薬や、気に入っていた服、そんなものを片付けながら、自分は何をしているのだと思う。そうすると立っていることすら億劫になり、居間の真ん中で何時間も尻をついて座る。翌週末に帰ってくる予定の夫が、今度は家で眠れるようにしなくてはならないのに、どうしても動くことができなかった。
その間私が脳裏に浮かべていたのは、湿度の高い畳の部屋だった。もう一度あの部屋からはじめたら、違う今日があるかも知れない。彼と一緒に行くことはなくとも、自分には責任は無いのだと認めることができたら、夫に対してもっと強く出ることができたのかも。
あのときの私は、私がすべてを引き受けて収めなければ、義母と夫と私の全員が破綻すると考えていた。本当にそうだったのだろうか。頑なに自分が意地になってはいなかったろうか。
浮かんでは消えるイメージと、繰り返す自分への問いかけに圧し潰されて、ふと気がついてはノロノロと腰を上げる繰り返しだった。
実際のところ、断片しか覚えていないのだ。忘れようとして忘れたのではなく、おそらく私自身が記憶に留めておくことを拒否した。ぼちぼちと連絡した親類が家を訪ねてくるようになったころ、私の父がやって来た。私を労うつもりで、好きだった菓子を携えていた。
「おまえ、どうしたんだ。夫くんは何も言わないのか」
父が驚くほど、私は痩せて背が曲がっていたらしい。見えていないような目を瞠いて、と父は言った。介護の痕跡が残る部屋の中で、一番小さく見えるものが私だったと。
夫が葬儀の翌日に赴任地に戻ったと言ったとき、父は私に身支度を整えて身の回りのものを鞄に詰めるように言った。
「弔問客を迎えるのは、夫くんに任せなさい。おまえには療養が必要だ」
「疲れているだけで、どこも悪くないのに」
「どこも悪くないと言っても、誰も信じないような状態なんだよ、おまえは」
しばらく帰れなかった実家に行きたいのも事実で、二日やそこら留守にしても問題はないと、私は父の車の助手席に乗った。自分以外の誰かに行動を任せてしまうのは、とても楽だった。父に言われるがまま、夫にはメールで実家に行くことを知らせた。返信はなかった。
実家に到着すると、母と祖母が私を見て驚いていた。祖父が老健に入ったことは知っていたが、それ以外は家の中の様子は変わっていなかった。実家にいたころ私にあてがわれていた部屋は父の書斎のようになっており、私のために和室に布団が敷かれた。
「そんなふうになるまで頑張ってるなんて、知らなかった。迎えに行ってあげれば良かった」
泣く母を見ても、薄紙の向こうの出来事にしか感じなかった。それなのに敷かれた布団に入ったら、意識を失ったように眠ったらしい。その夜、両親は遅くまで話をしたということだ。
父の怒鳴り声で目が覚めた。理性的な父が声を荒らげていることが珍しく、居間に入ろうとして足が止まった。父が持っているのは、私の携帯電話だった。後から聞けば、私の荷物の中で鳴り続けていたそれの、発信者の名前を見てから受けたらしい。相手が夫だったのは、言うまでもない。
祖母がお茶を淹れて、こちらに座れという。
「芙由ちゃんは、何も考えなくていいんだよ。ゆっくり身体を休めて」
そう言われている傍から、父が私の携帯原話を握り、しばらくこれを借りると言う。もう何年も夫との連絡にしか使っていなかったし、父が悪用するとも思えなかった。
定年を延長して仕事を続けている父が、ネクタイを締めて外出するのは珍しくもなく、ぼうっとそれを見送った。そしてその日は、祖母とテレビを眺めていた気がする。その日のうちに父があれこれ動いていたことを知ったのは、すべてが終わってからだった。
夫は赴任先に妻を呼び寄せたことになっていた。義母はひとりで施設に入り、ひとりで亡くなったことになっていた。会社にはそう説明していたらしい。では夫名義の家で、義母の介護をしていた私はいなかったのか。
「おまえは夫婦を続ける気があるか」
父の言葉は覚えていても、私がどう答えたのかは覚えていない。半年ほどの記憶がすっぽり抜けて、気がついたときには私の口座に大金が入っていた。すべて父と、父に雇われた弁護士がしたことだ。私がその間に何をしていたのか、よくわからない。母と祖母に守られ、ただ座っていただけかも知れない。
これもしばらくしてから知った話だが、夫と生活していた人は、相手が既婚者だと知らなかったらしいが、騒ぎの最中に妊娠が発覚したそうだ。そして私たちの結婚の仲人は夫の上司だったことを、夫は甘く考えていた。離婚の経緯を知った上司が夫を叱り、もともと本社から年数を決めての転勤だったはずが、本社に戻る道を断たれた。プライドの高い夫には針の筵で、会社を辞めて持ち家で生活することになったらしい。もちろん私が確認したことではないので、すべて伝聞の形だ。これを聞いたのは、父が私を実家に連れ帰ってから一年も経ったころだった。つまり私は、義母の葬儀が夫を見た最後だったということになる。
夫の顔を思い出すことができないのに、新婚旅行で見た風景を覚えている不思議。ひとつひとつ家具を相談して、買い揃えた部屋の晴れがましさを懐かしく思い出す不思議。私が仕事から帰ると、慣れない手つきで洗濯物を干していた後姿は微かに記憶している。
それに較べて、義母との記憶はクリアだった。自分の名前以外のすべてを忘れてしまい、立つこともできなくなった義母の世話は大変だったが、車椅子の上から花を見上げるとき、よく熟れた果物を一口食べたとき、私はその表情に癒されていた。話し相手のいない家の中で、どうせ忘れてしまうのだからと私が盛大に罵ったとき、義母は意味もわからず涙を流して、ごめんねと繰り返した。ごめんね、おかあさん、ごめんね。
私たちは、夫に捨てられた者同士だったのだ。
やっと自分の身体が自分の精神と折り合いをつけはじめたころ、ふと駅前の本屋に立ち寄った。平積みの新刊の上の棚に、薄い文庫本を見つけた。それを見た瞬間、私の耳の奥でガラスを打つ雨の音が鳴り、身体が湿気た部屋に運び込まれた気がした。
あの人に、もう一度会いたい。私の身体がどんな人を記憶しているのか、知りたい。本名を姓しか知らず、住んでいる場所も知らない。芙蓉の咲く門のある家、あの土地にはもう近づくことすらないだろう。隣県とはいえ車で移動しても三時間以上かかる場所では、偶然に会うことだって考えられない。
出版社に手紙を送ることは? 本人に渡る前に、出版社の人が読んだりしないだろうか。それに自分をどう説明する? 彼も、私の名前を知らないのだ。
忘れてしまったかも知れない。疲れた女と一度きり肌を合わせたことなんて、記憶に留まっていると考えるほうが傲慢だ。
私が、会いたい。自分の中で自分を主語にすることは、とても新鮮な感覚だった。夫が、義母が、父が。主語を自分に持ってくることができるのだ、今は。
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