芙蓉の宴

春野きいろ

須々木浩則の記憶

 ひとり暮らしの母が入院するというので、秋のはじめに一週間の予定で実家に帰った。生命にかかわる病気ではないので、留守番のためだ。私の仕事はパソコン一台でできるから、本当はここで母と一緒に暮らせば良いのかも知れない。

 妻とは離婚を前提にした別居中で、財産や居住の問題を片づけている最中だった。妻の問題で子供はできなかったが、そんなことが原因ではなく、ただ価値観の相違がどんどん大きくなり、耐え切れぬものになっただけだ。尤も、妻のほうはまだずいぶんゴネてもいた。私は若いころに大きな文学賞を貰ったあとに、その遺産の仕事として細々とした雑文を書きながら生活しており、ようよう食っていける程度だったが、多少は名の出た小説家の妻という立場に拘っていたようだった。実際には公務員の妻に将来の蓄えをすべて任せているような、情けない男であったとしても。


 母の留守を守りながら静かな家の中でパソコンを開くと、家の中にしんと音がする気がした。その音を聞いたのが久しぶりで、ああ誰もいないのだと顔を上げる。この無声の音は、子供のころの夏休みに聞いた気がする。父も母も姉も出かけたあとの家で、畳の真ん中に大の字に寝て聞いた音だ。なんとも心許なく寂しく、けれど解放感に溢れている。

 東京での生活で、この音を聞いたことはなかった気がする。学生時代のアパートでも、住まっているマンションでも、こんな風に周囲がクリアになっていることはなかった。もちろん外を通る車の音や、古い冷蔵庫の唸る音はあるが、外部との繋がりを保った中での静寂は、こんなにも心地よいものだったか。都会でも田舎でもないこの町には、私の求めるものなどないと思っていたのに。


 まだ外は明るいが、花に水を遣らなくてはと外に出た。母は花が好きで、庭木も鉢植えも多い。空は秋の色になっていても気温は高く、鉢の中の土が白っぽくなっている。通りとの境目は低い柵になっており、私がこの家にいた時分と同じように、母は通りかかった知人を庭の中から呼び、世間話に興じているのだろう。古い石の門柱は、家を建てたときに父が自分で組んだものだと聞いた。

 門柱の横に酔芙蓉を咲かせており、通りに枝が出てしまっている。通行の邪魔にならぬように、少し伐ってしまったほうが良いだろうかと鋏を持って通りに出ようとしたときに、女が門柱に凭れてしゃがんでいることに気がついた。


「どうかなさいましたか」

 しゃがんだ姿勢のまま顔を上げた女は、目の焦点が合っていないようだ。これはもしかしたら、余計な相手に声を掛けたかも知れないと思いはじめたころ、女はふらふらと立ち上がりかけ、また門柱に凭れ掛かった。倒れそうだと咄嗟に掴んだ腕は、驚くほど細い。

「少し貧血を起こしたようです」

 人間の顔がこんなに白いものだろうか。頬にも唇にも赤みはまるでなく、ただ瞳だけが黒々としていた。


 まだ日中の気温は高い。直射日光が当たる場所であることが気になって、腕を引いて日陰に誘導した。縁台に座らせて、台所でコップに氷と水を入れ、彼女に差し出した。「申し訳ありません」

 受け取った彼女はゆっくりとした仕草で口にコップを運び、自分の視界を確認するかのように開いた手を見てから、おそるおそる立ち上がった。

「ご親切に、ありがとうございました。改めてお礼に伺います」

 まだ足取りは覚束なくて、そのまま歩かせるのは不安だ。

「まだ顔色が悪い。送って行きますから、もう少し休まれたほうが」

「家は遠くはないのです。時間が差し迫っていますので、失礼します」

 どこの誰とも知らぬ女を、無理に引き留めることはない。門から出るときに、女は振り返ってぺこりと頭を下げた。


 翌日の昼過ぎに、女が訪れた。

「昨日は有難うございました」

 差し出された小さな袋には、和菓子店の名前が入っていた。 

「こんなものをいただくようなことは、していませんよ」

 受け取らずにいると、困った顔をする。

「受け取っていただかないと、行き場がなくなってしまいます」

「ご自分で召し上がればいい。中身は甘いものなのでしょう。見たところあなたは、ずいぶん痩せておられるし」

「ひとりでは食べきれません」

 まだ私に向けて差し出したままの袋を、仕方なく受け取った。中を覗くと、どら焼きのようなものが五つほど入っていた。


「さすがに僕ひとりにも多すぎます。どうでしょう、ひとつだけでも手伝っていただけませんか」

「そんな。おうちの人は召し上がりませんか」

「ここは母の家で、僕は留守番なのですよ。家にいるのは、僕だけなんです。助けると思って、食べてください」

 拝むように言うと、そこで女ははじめて笑顔を見せた。

「却って申し訳ないことをしたみたいです。持って帰ることができないので、庭先をお借りしてよろしいでしょうか」

 持って帰ることができないという言葉に首を傾げると、彼女は言い訳のように言葉を続けた。

「母が糖尿を患っていまして、たとえ包み紙でも自分の好物があると、大騒ぎになるんです」

 そんなことならばと、縁台に座布団を出した。ペットボトルの茶を出し、並んで食べる。


「ああ、美味しい」

 しみじみとした口調で彼女が言う。

「こんな風に日向で、のんびりお茶を飲むのは、贅沢なことですね」

 日光に向かって目を閉じた横顔は、白い。

「小さいころ祖母の家の縁側で、お行儀悪く寝転がって、お煎餅を齧りながら本を読んでいたことを思い出します」

「ここで寝転がっても構いませんよ」

 彼女の笑い声は、意外に闊達な様子だった。

「時間ができたら、そうさせていただきます。どんな小説が良いかしら」

 私の読者をひとり、増やせるかも知れない。不純といえば不純な動機だ。離婚を決めてから学生のようなワンルームマンションで生活している私には、何か生身な読者を知りたかった。


 母に送りつけてから、開かれた形跡のない文庫を部屋から持ち出した。

「よろしければ、読んでいただけませんか」

 彼女はきょとんとした顔で受け取り、ページを開いた。

「僕が書いたものです。あまり売れませんでしたが」

 顔を上げた彼女は表紙の名前と私の顔を見較べ、急に姿勢を正した。

「あなたが、お書きになった」

「三文小説家です」

「私、このお話を読んだことがあります。雑誌の連載でしたね。母の通院の付き添いの待合室で、毎月楽しみにしていたんです。最後までは読んでいないのですが」

「それでは、最後までお読みください。お気に召せば幸いです」

 持っていたバッグに大事そうに文庫を入れ、彼女は丁寧に礼を言ってくれた。

「却ってお邪魔をしまして、申し訳ありませんでした。たまにこうして外の人と話をすると、気分がすっきりします」

 縁台から立ち上がり、頭を下げる。門まで一緒に出ると、酔芙蓉が赤くなりはじめていた。


「このお花、昨日はもっと濃い色だった気がするのですが」

「酔芙蓉ですよ。酔っぱらった芙蓉と書きます。白く咲いて、時間が経つほどに色が濃くなります。それを宵に向けて酔っていくようだと」

 彼女は花びらを撫でて、薄く微笑んだ。

「勉強になりました。ありがとうございます」

 軽く頭を下げ、歩き出す彼女を見送った。数歩先で彼女は腕時計に目を落とし、早足になる。何か急ぎの用でもあったのかと、茶飲み話などしたことを後悔しながら、私もまた家に入った。


 三日目のことだった。あとから考えれば、ほんの数分のタイミングではあった。寝惚け眼で雨戸を開けたとき、柵の外側からこちらを窺っている老女が見えた。母の知り合いが、留守だと知らないで訪れたのかと思い、家の中から声を掛けた。

 老女は途方に暮れたような顔であたりを見回し、それからボソボソと何か言った。こちらに向かって話しているので知らぬ顔もできず、サンダルをつっかけて外に出た。

「ここは、誰のおうち?」

 発音は明瞭だったが、様子がおかしい。

「トミちゃん、迷子になっちゃったみたい。ここはトミちゃんのおうちじゃない?」

 幼い子供のように、視線をあちこちに向ける。おかしな人なのかとも思ったが、彼女の身形は綺麗だった。

「どちらから見えたのですか」

「ねえ、このお花ちょうだい」

 柵越しに庭の花を毟り、手にしっかり握る。どうもこれは、訊きだせそうもない。洗濯物を干していた隣の主婦が、何事か顔を見せた。

「あっちに新しい建売がたくさんできたから、その中の人だと思うんだけど、わからないねえ。迷子札か何かつけていないかしら」

 胸に高橋と姓だけが縫いつけてあり、隣の主婦とどうしようかと相談しているうちに、老女はまた歩きだそうとする。引き留めようと話しかけると、しくしくと泣き出した。

「おうちに帰りたい」

 困り顔の隣の主婦が、警察に連絡すると家に入って行った。


 半泣きの彼女が走って来たのは、そのときだった。

「トミちゃん!」

 老女の肩に手を置き、彼女は息を切らしていた。

「見つかって良かった。ひとりで外に出てはいけないでしょう」

 老女は子供のような顔で笑い、握っていた花を彼女に差し出した。

「おかあさん、あげる」

「それ、どこから持ってきたの? よそのお庭からちぎってしまったの?」

 老女は首を傾げ、おうちに帰ると言う。そこにパトロールカーがあらわれ、警官は彼女と何か話したあとに、ふたりを送っていくと言った。

 彼女は私と隣の主婦に何度も頭を下げ、パトロールカーに乗り込んだ。


 その日のうちに隣の主婦が警官から聞き出した話だと、彼女は家で認知症の母親の介護をしており、病院に連れていくために玄関の鍵を掛けている僅かな隙に、老女は庭から出てしまったらしい。そして老女老女と連呼してしまっているが、まだ還暦を迎えたばかりの年頃だという。

「旦那さんは単身赴任らしいわよ。奥さんのほうのお母さんなのかしらねえ。だとしたら旦那さんも大変だわね」

 私自身母が七十をいくつか過ぎており、ここにひとりで住まわせておくことについて、姉と何度か話したことがある。介護は少しずつ近づいてくる問題ではあった。

「僕も帰って来たほうが良いのかな」

「あら、だって奥さんは東京の人でしょう? シゲちゃんなら大丈夫よ、私たちがいるもの」

 離婚することは、別に話していなかった。地元の密な人間関係は、年配者の多い地域では心強い。


 午後の遅い時間に、彼女は挨拶に来たらしい。隣の主婦が言うには、すごいスピードで来てすごいスピードで帰って行ったそうだ。生憎と私は買い物に出ており、彼女と会うことはなかった。

「とても礼儀正しい奥さん。須々木さんにもくれぐれもよろしくって言ってたわ」

 ペンネームではなく、家の表札を覚えてくれていた。



 その翌日は、大型のドラッグストアだった。彼女はカート一杯に紙オムツだの消臭スプレーだの住宅用の洗剤だのを積んでおり、やたら忙し気に歩いていた。

「やあ、先日は」

 声を掛けた私の籠には数本の発泡酒と鎮痛剤だけで、彼女の大荷物との対比は激しかった。

「あ、先生。昨日はありがとうございました」

 彼女は丁寧に頭を下げた。

「先生はやめてください。それより大変な荷物ですね」

「買える日に買っておきたいんです。いつ、何があるかわかりませんから」

 母親が還暦を迎えたばかりということは、彼女はまだ三十代前半か二十代ではないだろうか。レジ台まで一緒に歩いたので、ついでに車への積み込みを手伝った。

「歩いて来られたのでしたら、乗っていきませんか。どうせ通り道ですもの」

 お言葉に甘えて後ろの座席に乗ろうとすると、助手席に乗ってくれという。

「母の通院のために、チャイルドロックしてあるんです。安全運転しますので、どうぞ助手席へ」


 誘われるがままに車に乗せてもらい、少しだけ話をした。母親は週に五度ほどデイサービスに通い、その間に家事を片付けるのだと言った。

「母が顔を認識できるのは、私しかいないんです。私を母親だと思っているので、家の中でも後追いするのですよ。デイサービスのバスにも乗りたがらなくて、朝は大変です。でも、素直なので」

 彼女は明るく言ったが、買いこんだ商品を考えれば、それほど生易しいことでないことは察せられた。それにこの痩せ方は、健康的とは言えないと思った。

「手伝ってくれる人は、いないのですか」

「デイには通っていますし、ときどき民生委員さんが訪ねてくださいますから。単身赴任で頑張ってくれている主人に、これ以上負担を掛けたくありませんし」

 何の知識もない私が、彼女に何を言ってやれたろう。気がつけば彼女は、化粧をしていない。流行のないTシャツやジーンズも、新しいものとは言い難かった。傍目から見ればどこか危うく見える生活の上に、彼女は必死に踏ん張って立っていたのだ。


「ご本、すぐにお返しできると思ったのですが、なかなか進まなくて」

「あれは差し上げます。いつか暇つぶしにでも」

 そう答えながら、この人の手が空くということは、母親が亡くなることなのだろうなと思った。

「ずっと読書から離れていたので、読解力も集中力も落ちてしまっているようです」

「疲れているのですよ。活字を追うよりも、コーヒーでも淹れたほうがいい」

 家の前で車が止まり、私は礼を言って降りた。


 持ち込んだノートパソコンに向かい、私は久しぶりに集中していた。何もない自分のワンルームマンションよりも、物に溢れた台所で、作業が捗るとは意外だった。昼過ぎに大きく伸びをして、自分の空腹に気がついた。朝から、コーヒーしか胃に入れていない。食事の支度をするのも億劫で、食パンを焼かずにムシャムシャ食べながら、庭を見るともなしに見た。

 門柱の横の酔芙蓉は俄かに色をつけはじめ、その色にふと彼女を思い出した。整然とした話し方は、育ちの良さだろう。四日続けて顔を見ると、もうすっかり馴染みの深い人に感じるが、名前すら知らないのだ。

 どちらにしろもう二日で母は戻ってくるし、様子を見に行っても洗濯ものを渡されるだけで、私がいても大した役には立たない。男というのは生活には無能だなと考えたが、私が無能なだけで、上手く家事をこなす男がいるのは事実だ。

 気温は高くとも、もう風は秋だ。開けた窓からどこからともなく金木犀の香りが入ってきて、思わず肺一杯に吸い込んだ。東京とは空気が違う気がする。どちらが自分が住むに相応しいのかと考えるほど、傲慢になっていないつもりではある。大した太い木に育ちそうもない物書き風情が、誰にも迷惑を掛けずに暮らしていける場所でありさえすれば良いのだ。


 彼女は、どんな風に暮らしているのだろうと想像した。糖尿病と認知症を患った家族を介護し、その間に家事をする。誰か愚痴をこぼしたり相談したりする相手はいるのだろうか? 単身赴任だというご主人は、ときどきは家に帰って彼女の手伝いをしているだろうか。

 閉鎖された家の中の、彼女の表情を思った。縁台に座って笑ったときは確かに楽しそうに見えたが、普段あんなふうに笑うことはないのではないか。すべてが仮定で、私は自宅介護の何たるかも知らない。ただ紙オムツと消臭スプレーのインパクトが大きくて、そんなことを考えただけかも知れない。報道や手記でしか触れたことのない生活を、彼女はあの細い腕で支えているのだ。


 何故彼女のことばかり、こう気になるのか。あの静かな喋り方や細い身体、母親を追って来たときの泣き出しそうな表情や、何かを諦めたような物腰。あのすべてが私の興味を引き、連想を促す。何もないこの場所で、たまたま巡り会った目新しい人だからだと自分に言い聞かせ、頭の中から振り払った。

 そこに担当編集から連絡が入り、私が申し込んでいた取材先が翌週に予定を開けてくれたと言った。どちらにしろ、すべて身軽になるのはもう少し後のことだった。妻と生活していたマンションにはまだ私のものが残っており、妻が管理していた私の通帳を受け取らなくてはならなかった。ひとつの生活を畳むのは、簡単に一筋縄で括れるものではない。

 夕暮れが近づくと空気は冷め、水を撒いた庭の植物たちがざわめく。門柱の横の酔芙蓉は艶やかに緋桃色になり、高い建物で遮られない住宅街の風景が、何かを思い出させる気がした。


 スーパーマーケットの総菜を肴に缶ビールを数本開けたら、外の風の音が気になった。テレビでもつけようかと立ち上がり、ガラスに映った自分の顔をしばらく眺めた。もう人生の半ばは過ぎたのかと暗澹たる気分になり、これからの行く末を思う。そしてまた、彼女を思い浮かべた。

 共に生活をしてきて憎み合ったわけでもなく、互いにある種の喪失感を抱えている妻よりも、彼女が気になるのは何故なのか。ただ目新しい異性に気が行っているだけなのではないかと自問し、けれど彼女に対して性的な感情を抱いているわけではないと打ち消す。同情するほど生身の感情を知っているわけでもないし、特別に美しい人というわけでもない。

 どちらにしろ母が戻れば健康を確認したあとに、私は自分の場所に戻るのだ。もう彼女と会うことはないのだと思うと、縁台に腰掛ける彼女の横顔が見えた気がした。



 母が帰ってくる前日に、家の中の掃除をした。老人のひとり暮らしは、綺麗に見えても目が届かない場所が多い。姉に言いつけられた水回りや棚の上部は、確かに汚れていた。意外に疲れて、昼からビールの缶を縁台に持ち出して胡坐を掻いた。昼の古い住宅街は車も人も通らず、明るいうちにアルコールを摂取しようという自分は、社会からはみ出している気持ちばかりが強くなる。

「先生。まだこちらにいらっしゃったんですね」

 柵の向こうから、彼女が手を振っていた。

「何日も滞在しないと仰っていたので、もう帰られたかと思いました。もう一度お顔が見られて、嬉しいです」

 手に持った梨の入った袋は重そうで、彼女の細い腕にはいささか負担が大きく見える。

「そこの角の家で、梨を直売しているんです。スーパーマーケットで買うよりも瑞々しいので、母が喜ぶんです」

 そして袋から一つ出し、柵越しに私に見せた。

「先生にも一つ、差し上げます。今年は格別に甘いみたい」

 こちらは子供のころから育った場所だから、その梨農家から規格外のものをタダで貰っているが、それを言うのも野暮な気がして、私は縁台から立ち上がった。

「ちょっと寄って行きませんか。普段と違う人と話すと、刺激になって文章が出易い」

 まるで文章を書くのに忙しくて、他人と交流する時間が捻出できない小説家のような顔で、私は言った。


 少しだけと彼女は言い、縁台に座った。

「ご本、数ページずつですが、読んでます。夜中に母に起こされて、眠れなくなったときなんかに」

「活字は良い睡眠薬ですからね。僕は眠れないとき、広辞苑や家電のサービスマニュアルを読みます」

「物語は読まないのですか」

「良いストーリーを読むと、悔しくて眠れなくなってしまう」

 彼女は笑った。明るい笑い声だった。

「文章を書く人は、どんなものを読んで育ったのでしょう」

 今も残っている私の部屋の本棚には、まだ学生時代の蔵書が並んでいる。読書履歴は精神病院のカルテめいていて照れ臭いが、どうせ家を出るときに持ち出さなかったものだ。

「もし読まれるなら、持って行ってください。今に廃棄される本ばかりです」

 遠慮する彼女を、かつての勉強部屋に案内した。


 ふすまで仕切られた畳敷きの部屋に、ぽつんと置いた勉強机。寝起きに雑に二つ折りにした布団が、隅に寄せてあった。おそるおそるといった風情で彼女は入ってきて、本棚の前に立った。

「学生さんの部屋のようですね」

「学生時代のまま、放りっぱなしなんです」

 彼女はゆっくりと棚を眺め、ときどき本を抜いて裏表紙を確認した。

「読んだ本と先生の作品は、別なのですね。ミステリとSFばかり」

「書きたいと思ったのは、大人になってからですから。今は鳴かず飛ばず死なずってとこで」

 苦笑しながら、考えてみれば彼女の名も知らないのだと気がついた。


 窓の外がいきなり暗くなり、風がざわめいた。あれっという顔で彼女はガラス窓に目をやり、戸惑ったような顔をした。

「布団でも干して来ましたか」

「いいえ。洗濯物も乾燥機を使っていますし」

「通り雨でしょう。すぐに止みますよ」

 ほどなくガラス窓に雨粒が落ちはじめた。大粒の、叩きつけるような激しさだ。

「ひどい雨ですね」

「ええ。道を歩いているときでなくて良かったです」

 暗い部屋の中で、目が合った。細い身体の上の白い顔が、薄暗い部屋の中に浮く。その目の奥底を、私は見たいと思った。


 顔を近づけたのは、どちらが先だったろう。唇が合わさっている最中に、シャツの中に手を入れたのは、どちらが先だったのか。性的な興味を抱いていたわけではないし、特に女を求めていたわけではなかったと思う。ただそのときに、彼女とそうすることがごくごく自然で、自分の行動に抗おうとも思わなかった。言い訳をしてしまえば、彼女の目の奥に吸い込まれたのだと思う。年齢も名も知らぬ女だと違和感すら抱かずに、私は彼女と畳の上に倒れこんだ。

 慎ましやかに隠されていた彼女の女の部分は、思いの外したたかで貪欲だった。互いの身体をまさぐりあい、何かに急かされるように繋げた身体のまま、私の下で彼女は言った。

「ここで死にたい」

 細い指先はまるで昆虫採集の蝶を止めるピンのように、私の背に食い込んでいた。


 身体を解いたあと、彼女は後ろを向いて着衣を直した。

「母が、戻ってきてしまいます」

 私はグズグズと始末をし、シャツのボタンを留めていた。

「もうお会いすることはないと思いますが、先生の本は読ませていただきます。ありがとうございました」

 立ち上がった彼女の手を、思わず引いた。

「ご主人がいることは知っている。けれど、また会えないだろうか」

 隠さねばならぬ関係を、どうするつもりだったのか。私の口は勝手に動いていた。


 彼女は疲れた口調で言った。

「あの人はもう、半年も帰っていません。私が電話してもそそくさと切ってしまって、自分の母親の病状ですら確認しません。生活費はきちんと送ってくれますし、仕事がとても忙しいのだと言えば、私には文句が言えないと思っています。彼は私がどんな行動しているのかなんて、興味がないのでしょう」

「ご主人のおかあさんなら、あなたに介護義務はないでしょう」

 そのときの私の言葉は、今考えても衝動的に過ぎた。

「僕と一緒に来ませんか。あなたは幸福そうに見えない」

 彼女は大きく目を見開いた。そうしてそのまま口許を微笑ませたが、目からは大粒の涙を零した。

「私は、母を見捨てられないのです。自分が息子を持っていることも忘れてしまっているのに、私にはすっかり心を預けて家の中でも後追いします。まだ助けがあれば、自分の家で生活のできる人なんです。花と歌が好きで、まだ元気だったころは一緒に出掛けるのが楽しみで」

 声を詰まらせたあと、彼女は大きく深呼吸をした。


「先生にも、奥様がいらっしゃるのでしょう?」

 はっとして私は、自分の指を見た。指が太くなって外れなくなってしまっていた指輪が、まだ薬指にある。

「来月には、離婚が成立している予定です」

 慌てた私の言い訳は、滑稽だ。彼女はゆっくりと首を振った。

「私は先生の私生活に、入っていくつもりはありません。幸福な時間をありがとうございました」

 一礼して部屋から出て行った彼女を、追うことができなかった。いつの間にか外は明るくなり、むしむしとした空気が畳の部屋に充満していた。



 その後私は離婚を成立させ、本格的にひとりの生活をはじめた。何かのバラエティ番組で芸能人が私の著書を紹介してくれたらしく、急に何やら依頼が来てバタバタしたり、書きたい内容について取材ついでにアルバイトをしてみたりと、相変わらず死なない程度に稼ぎつつ日々が過ぎて行く。

 二年の間に何度か母の家には訪れたが、彼女と顔を合わせることはなかった。忘れたわけではなく、折に触れて私の脳裏には白い貌があらわれたが、探しに行こうとは思わなかった。介護する生活が続いているかも知れず、疲れた彼女をますます煩わせるかも知れない。もしかするとご主人が戻って一緒に生活している可能性もある。少しでも彼女が癒されるのならば、私が強引に連れ出すよりも余程良い。


 夏に、公園で酔芙蓉が咲いているのを見た。途端に私の身体は、雨上がりの湿った空気に包まれた気がした。あの薄暗い部屋の中で、ここで死にたいと言った彼女は、何を考えていたのだろうか。自分の手を広げて、眺める。この腕の中に抱えた細い身体は、私が思っていたよりも多くのものが詰まっていて、それがあの言葉になったのか。

 もう一度会いたいと、強く思う。芙蓉の薄い花びらのように淡く儚い記憶のままではなく、彼女の表情が見たい。名前も知らぬ女、ただ一度きり身体で会話した女が、記憶の中で鮮明に私の背を掴む。

 恋だというのか。あんな淡い繋がりが、恋だったとでもいうのか。酔芙蓉の花の赤みが、私の下で目を閉じた彼女の目蓋の色のようだ。


 そしてその年の秋の終わりに、姉と待ち合わせて母の家を訪れた。骨が脆くなっているらしく、転んで腰椎を圧迫骨折したという。これからできなくなることが増えていくだろうと、先の相談をするためだった。家庭のある姉の家に母を入れることはできず、今すぐではなくとも生活を介助する人間を頼むのか、それとも母の住居環境をまるっと変えるのか、それとも。ゆっくりと確実に、母は老いていく。あまりリアルでなかった呑気な息子にも、現実は容赦がないのだ。

「そういえばさ、こっちに住んでる友達に聞いたんだけど、ひっどい話があるんだ」

 煎餅を齧っていた姉が、茶飲み話をはじめた。

「痴呆の母親を嫁に押しつけて単身赴任してた男が、母親が死んでから一年もしないうちに子供連れて帰ってきたらしいよ」

「単身赴任なのに子供を連れてって、どういうこと?」

 母が興味津々に身を乗り出す。

「嫁が介護してる間に、自分は向こうで違う女と子供作ってたんじゃない? 嫁が見えなくなったのは、葬式から三ヶ月も経ってなかったらしいから。いっくら近所づきあいの薄い新興住宅地だって、嫁がひとりで介護してたのは、みんな見てるからね。知っててあの家に入ったんなら、新しい嫁も相当だわ」

 夫が単身赴任で、ひとりで介護をしていた。掴んでいた湯呑みが、沸騰しているような気になった。その人は、俺の知っている人か。

「やだ、浩ちゃんが怖い顔してる。夫婦のことなんてもう無縁なくせに」

 姉の言葉が、頭の左斜め上に浮いた。


 散歩してくるとサンダルをつっかけると、門柱の横の酔芙蓉が目に入った。花はもう終わり、萎んだ花びらが数日前には咲いていたのだと告げる。二年前に門柱に凭れていた人は、どうしているのか。姉の話が彼女のことならば、それはどれほどひどい仕打ちだろう。

 記憶の彼女が歩いて行った方向に、歩いてみる。比較的新しい住宅の並ぶ一角の表札を見て歩いたが、高橋の姓は見当たらなかった。確認してどうしようというのではない筈なのに、私の心はひどく揺れていた。

 思い浮かぶのは、微笑みながら大粒の涙を零している顔。意外なほど闊達な笑い声も半泣きに走ってくる姿も、忘れていない。そして雨の日の畳の部屋の空気や、私を取り込んで熱く波打った身体を、すべて覚えている。


 あのとき、名前だけでも訊けば良かった。こちらの連絡先を教えておけば、彼女が救いを求める相手になれたかも知れない。いやせめて家の場所だけでも知っていれば、ここに残っている幼馴染に何か頼めたかも。

 遠くから気にしているだけでは、何の役にも立たない。何があってどうしたのかなんて、そして彼女がどんな状態なのかなんて、私は知りようがないのだ。

 僕と一緒に来ませんか。自分の言葉が自分の背を打つ。問いかけるだけでなく、来て欲しいと望めば良かった。


 薄暗くなって街灯が灯った狭い道で、門柱の横の酔芙蓉の葉が揺れた。後悔は後悔でしかなく、ざわめいた心のまま、私にはどうすることもできない。

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