第5話 返される手のひらの速度
さわやかな朝だ。
空はよく晴れ、少しばかりの肌寒さも心地よく感じる朝。
もしかすると今日は良いことがあるかもしれない――。
そんな予感を抱かせるこの朝に、住み慣れた家を出て行ってほしいとお願いされると予感する者はそうそういないだろう。
昨夜のシルとの話し合いで、宿を正面から見て右側の土地を確保することに決まった。右側でなければならない特別な理由があったわけでもなく、宿の左側には裏庭の馬房(もう無い)へと続く小径があったため、なんとなく右側に決まっただけの話だ。
この話し合いの中、シルは自分も交渉に参加しようかと言ってきたがこれは俺が断った。
わざわざ来てもらうほどではない。
それよりどんな家がいいか考えておいてほしい。
そんな言葉は結局のところ言い逃れで、実際は交渉の様子をシルに見せたくなかっただけだ。
いくらお金を払うとしても、いきなり住み慣れた家を出て行ってくれなどと言われて良い顔をされるわけがない。過去に悲惨な事件があったとか、どうもお化けの居候がいるとか、そんな瑕疵物件というわけではないが、それでも怒りや悲しみの一幕があり、その末に確保した土地であるような事実は俺だけが知っていればいい。
俺が望むのは、家を受け取ったシルが「良い家ではないか、がはは!」とでも笑ってくれること。かつて俺の素人仕事で建てられたログハウスを見て「なかなか良い家ではないか」と浮かべた苦笑いよりはマシな笑顔であればそれで良いのだ。
この立ち退き交渉におちびーズは興味を持っていたが、同じような理由で宿でお留守番させることにした。
お金を払って引っ越してもらう。
言葉で聞くにはそれだけの事だが、実際の現場となると、とても子供に見せるようなものではないはずだ。
「ケインさん、おはようございます」
セドリックが現れたのは、朝食をすませてしばらくした頃だった。
てっきり一人で来るものだと思っていた俺は、彼が引き連れてきた役人っぽい人々の集団や、妙に頑丈そうな馬車とそれを護衛する騎士たちの来訪にびっくりする。
「何事なの……?」
「ああ、この方々は商業ギルドの者ですよ。話がまとまったとしても引っ越す方々からすればそこからが始まりでしょう? 引っ越し先なども決めないといけませんからね。そのあたりの面倒をなるべく軽減させるために相談役として来てもらったんです」
「お、おう」
昨日の段階でそこまで考え、あのあとも動いてくれていたのか。
なかなかの商人だと思っていたが、どうやら俺はまだセドリックを過小評価していたらしい。
「ユーゼリア騎士団の方々は馬車の護衛です。あの馬車には両替したケインさんの金貨が詰まれていますからね。エレザさんの口利きもあり、快く引き受けてくださいました」
「ああそうか、結構な金額っぽかったからな」
これはエレザにお礼を、と思ったが――
「さあシセリアさん、今日この騎士たちは貴方の指揮下にありますから、どんどん命令してしまっていいですよ!」
「えっ! ええっ、うええええっ!?」
エレザはなんかシセリアに無茶振りして遊んでいた。
「ではまずは慣れるため、その場で跳ねろ、とか、回れ、とか命令してみましょう!」
「いやいやいや、先輩方にそんな――」
「シセリア隊長! どうぞご命令を!」
「さあ、このわたくしめに跪けとご命令を!」
「なにを!? ではこちら這いつくばって靴を舐めろとご命令を!」
「ちょっと皆さん何言いだしてるんです!?」
騎士たちも悪乗りしてシセリアに謎の命令を強要する。
あれは……愛されている、のか?
まあ和気藹々としているようにも見えるし、放って置けばいいか。
△◆▽
この辺りの民家は、猫の額かよと言いたくなる狭い縦長の土地に建てられた木造二階建てが多い。イメージとしてはコンテナが二段になっているようなもの。なかには強引な三階建て、四階建てもちらほら。限られた狭い土地を有効活用、生活空間を増やそうとする努力はなんだかんだで馴染み深く思えてしまう。
配達されてきた馬車の金貨を〈猫袋〉に放り込んだあと、俺はセドリック、それから商業ギルドの職員一人を伴い、いよいよ立ち退き交渉に臨むことになった。
まずはお隣さん。
この家には中年のご夫婦が二人で住んでいる。子供は息子が二人いて、どちらも今は家を出て王都内で仕事をしつつ、仮宿暮らしをしているとセドリックから伝えられた。
「おはようございます。突然の訪問で申し訳ないのですが、実はこちらの土地を売って頂きたく、お願いにまいりました」
いきなりの訪問でいきなりのお願い。
セドリックの話に、ご夫婦はすんなり状況が飲み込めずきょとんとしてしまっている。
そんな二人に、セドリックはさらに話を続ける。
その様子を俺と商業ギルド職員は黙って見守る。
先に話し合った段取りでは、交渉はセドリックが主導、俺は状況を見て必要な行動をとり、職員は交渉がまとまってからが仕事だ。
やがて――
「つまり……俺たちにこの家から出てけって話なんだな?」
最初こそはあはあと頷いていたご夫婦だったが、次第に状況を把握できてきたのか警戒心を露わにして険しい表情を見せるようになった。
旦那さんはむっと気色ばみ、奥さんはそんな旦那さんに寄り添うようにしている。
状況だけ見ると、完全に俺たちが悪者だ。
やはりシルやおちびーズを連れてこなかったのは正解だな、と思いつつ、俺は黙って交渉を見守る。なんか話しているセドリックばかりが恨みを買うようで申し訳ないが、そのセドリックに『お願いだから黙って見ていてくれ』と言われているのでひたすら静観だ。
「あのな、この土地は、この家は、こいつと一緒になるため、俺が必死に働いて、苦労して、金を貯めて、やっとの思いで手に入れたもんなんだ」
「あんた……」
堂々たる態度で旦那さんは喋り始め、そんな旦那さんの横顔を奥さんは誇らしげな表情で見つめている。
「そりゃよそ様の立派な家に比べたらみすぼらしいもんさ。だが俺にとっちゃやっとの思いで手に入れた立派な城なんだよ。こいつと一緒に暮らし、息子たちが産まれて育ち、そして巣立っていた思い入れのある家なんだ。言ってみりゃ、俺の人生そのものよ」
そう語る旦那さんの言葉の重みは、森に家を建てた俺としても共感できるものがあった。
あの家はスローライフというまやかしに惑わされた結果であるものの、あの頃の頑張り、そしてやっとの思いで完成させた時の喜びは確かに存在したのだ。たとえあの頃が忌まわしき黒歴史であるとしても、その日々の想い出まで完全に封じ込めてしまうことはできない。
おそらくそれは、俺がただ一人きりではなかったからだろう。
「わかるか、お前らはそんな場所から俺とこいつを追い出そうって言っているわけだ。はんっ、ふざけんな。ここは俺とこいつの家だ。たまに顔を見せに訪ねてくる息子たちの家だ。ちょっとやそっと金を積まれたくらいで俺たちが――」
金貨ザララララー。
「で、出て行かないこともないんだからね!」
「あんた!?」
俺が粗末なテーブルに拵えた金貨の山を見て、旦那さんの態度が急変。
それはあまりに勢いよく手のひらを返したせいで手首を捻挫してしまったかのような反応で、これには奥さんもびっくりだ。
だがまあ旦那さんの反応も仕方のないことだろう。
この辺りの者たちは、普段の生活で銀貨すら見ることが少ないとセドリックから聞いた。そんな者に、金貨の山を見せようものならどれほどの精神的な破壊力となるか。こういうのは金額を口で言うだけではダメなのだ。ぴんとこないから。こうして目の前に現物を出したからこそ、旦那さんは意見を一転させたのである。
やはりシルやおちびーズを連れてこないのは正解だった。
こんなものは見ない方がいい。
「これだけあれば、この辺りよりも良い地域で家を構えることができますよ? 空き家を買うのであれば資金も多く残り、しばらくは生活にも困りません。どうでしょう、この土地を売ってはもらえませんか?」
「う、うぅん、うーん? 売っちゃう? 売っちゃうー?」
「あんた……。ま、まあ、損な話ではないみたいだし、ね?」
旦那さんは若干の幼児退行。
奥さんの方はテーブルをギシギシ軋ませるほどの金貨の山に目が釘付けになっている。
「取引がまとまったあとの、お金の扱いに関してはこちらの商業ギルドの職員が契約書を作り一時的にお預かりすることになります。なにしろこれだけの大金ですからね、この家に置いておくというのも心配でしょう?」
「うん! わかったー!」
「ちょっとあんた、恥ずかしいからもうちょっとしゃきっと……!」
すっかり売る気になった旦那さんの肩を、奥さんが叱るようにぺしんぺしんと叩く。
さっきまでの睦まじい様子が嘘のようである。
「引っ越し先に関しても、こちらの職員にどんどん相談してくださいね。お二人の相談係みたいなものですから、希望に添った物件を紹介してくれますよ。――あ、そうそう、言い忘れていましたが、三日以内に立ち退いてくださった場合にはもう一割ほど追加でお支払いしますので――」
「あんた! あんた! しゃきっとしな! ちゃんと話聞いて!」
「い、痛いよぉ! やめてよぉ!」
さらに金貨が増えると知り、奥さんはべちこーんべちこーんと旦那さんの肩を叩く。
もし旦那さんが指先でくるくる回されるバスケットボールだったら、今頃相当なジャイロ効果を発生させていることだろう。
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