メモリーズ〜思い出の部屋(短編)

モグラ研二

メモリーズ〜思い出の部屋

タッくんが住んでいた部屋に、私は来ている。

今は、薄暗い部屋に、誰もいない。

タッくんの脱ぎ捨てた衣服が、リノリウムの床に、乱雑に散らかっている。

何枚も落ちている、際どい赤の紐パンツが、特に目についた。

タッくんが、好んで穿いていたものだ。


「タッくん……」


私は泣きそうだった。

タッくんは、もう、この部屋にはいないのだ。

帰って来ることはないのだ。

あまりにも良い人だった。

タッくん……話そうと思えば、いくらでも、タッくんについての良い話が、でてくる。


例えば……。


私は、リノリウムの床に目をやる。

やはり、何枚も落ちている際どい赤の紐パンツが、特に目につく。

仕方のないことだ。赤色は目立つ。それは赤色の特性なのだ。

タッくんは、好んでその紐パンツを穿いていた。

タッくんのお尻には沢山の毛が生えていて、そのことを、タッくんは野性味溢れる男の魅力として前向きに捉え、大変誇りにしていた。

いつでも前向きな心を忘れない好人物で、聖人だと、みんなが言っていた。

タッくん……。


《「翼を広げて飛び出そう」

「諦めないで信じる気持ちが大事」

「くじけない精神を持つことが現代人には必須」

「夢はいつか叶う。願い続けること」

「全ての経験が力になる」

ポジティブな言葉を毎日出かける前に玄関で唱えることで、

その日一日を前向きな気持ちで過ごすことができるので、

皆さんもやってみてくださいね!》


確か、そんなことを、タッくんは言っていたように思う。


《常に心の中に光を抱いて生きていく。

思いやり精神をマックス状態にして、

みんなとの絆を信じよう!》


私は、また泣きそうになる。

タッくんは、もう、この部屋にはいないのだ。

二度と、帰ってくることは、ないのだ。

その事実が、私に大きな喪失感をもたらした。

私とタッくんの関係性は、あまりにも深すぎた……。

目を閉じれば、すぐにでも、タッくんとの良い思い出が、明確な映像として、蘇ってくるものだ。


例えば……。


例えば……。


私は、リノリウムの床に目をやる。やはり、何枚も落ちている際どい赤の紐パンツが、特に目につく。これは仕方がない。やはり、赤という色は、とても、目を引く。つい、見てしまう。


落ちている際どい紐パンツ。お尻の穴に触れる紐の部分が、茶色く汚れている。つまり、タッくん本体が消えて、後には、タッくんの《ウンチ》のみが、残されたのだ。人間はやがて必ず死ぬ。肉体が消え去り、残されるのが、ただただ不快で汚らしい《ウンチ》だとしたら、人間の存在は、あまりにも悲惨すぎる。


《人間の肉体自体が、放置すれば《ウンチ》など比較にならないくらいに酷い腐臭を放ち始める。それを嗅いでしまうと、自分たちが《ウンチ》よりも結局は汚らしい汚物でしかないのだと、多くの人間が認識してしまう。人間=ウンチ以上の汚物という共通認識が世界に拡散。それでは社会が持たないから、さっさと焼くなり埋めるなり、人間はしてきたのである。》


その悲惨さがまた、私の胸を抉る。悲しみ、絶望が込み上げる。

叫び出しそうになるのを、必死に抑える。


いい年をした大人が、こんな場所で、突然叫び声をあげるべきではない。

そんなの常識だ。

私はまっとうな人間で、常識を大事に思っている。


「人間イズウンチ。命イズウンチ」


部屋の外から、わざとらしく低い声を出そうと努める中年男性の声がした。


地声は甲高いのだが、低い声を出した方がカッコイイ、渋い感じがするはずだ、という巧妙な計算のもと、発された声なのであろうが、そのような計算は全てが間違いで、実際にはかなり気色悪い、茂みに隠れている薄気味悪い変質者のような声であった。


「人間イズウンチ。命イズウンチ」


声の発生源は近くではないようだ。拡声器を用いていることが、反響の仕方から理解できたからだ。駅前広場が、この部屋から数百メートル離れた場所にあるから、そこで、何かデモを行っているのだろうか。


一体、どのような主義主張を発露するためのデモなのだろうか。非常に気になるが。


……あるいは、何らかの能力者が、私が、タッくんの《ウンチ》について思考を行ったことについて知覚し、それに反応するために、声を発したのだろうか。


タッくんは、この暗い部屋で全裸となり、山に向かったのだと、管理人のおじさんは言っている。


本当かどうかはわからない。

管理人のおじさんがそう言っている。


「山に帰ったのか。思えば数十年前にも、山猿の人格が自分の中で目覚めたと突如宣言した美しい少年が、その場で全裸となり、凄絶な吠え声を発して、どこか、山の方へ消え失せたというが……」


管理人のおじさんは話しながらお茶とクッキーを出してくれた。


太り気味、ニコニコしていて、優しそうなおじさん。


そのクッキーには、臭い、白くてネバネバしたソースみたいなものが、掛かっていた。


「手作りです。良かったら、召し上がってください……」


タッくんは「街にウイルスが蔓延し、感染した人々は凶暴なゾンビとなってしまう」というオリジナリティ溢れる小説「ゾンビ対ゾンビスレイヤー」を、2021年10月からネットに投稿していた。


登場する異様に凶暴なゾンビたちは、特に好んで男性のチンポを喰らう。なかでもオス臭い感じがする男性のにおい立つ血管がバキバキに浮き出た勃起チンポが、大好物である。


《ゾンビは死んでいるから、生命力に満ち溢れたものを、渇望するのか。》


そのように考えれば、合点のいく習性ではあるが。


しかし、ゾンビ化する前には、あれほどに女好きな、完全なる異性愛者である者が、ゾンビ化した途端、美味そうに、愛おしそうに、太くオス臭いチンポを喰らうのは、それで、本当にいいのか、と問いたい感覚が、ある。


「やめてくれ!俺は男なんだ!男!男!男なんだよお!」と執拗に自身の男性性を強調(何人の女性にチンポを挿入したか、何人の女性をこのチンポを用いて妊娠させてきたか等々)し、泣き叫びながら、チンポを喰われ、股間から噴水のごとく血を放ち、絶望のなか「やだ、こんなの、やだ……」と弱々しく呟いて死んでいく、屈強な肉体をした、ゾンビスレイヤーと呼ばれる男たち。


作中、何度も、主要人物(いずれも屈強な体格の男キャラクター)が襲われてチンポを喰われてしまうシーンが描かれた。


これらのシーンは、単純に昨今のマチズモ的社会を風刺した、タッくん流の皮肉だと言えるのだろうか。後世の文学研究者による発表が待たれるところである。


「ゾンビ対ゾンビスレイヤー」

ウイルスに感染した人間がゾンビ化するという、ほとんど史上初ともいえる斬新、オリジナリティに溢れる設定を持つ作品。


この作品以前には、ウイルスで人間がゾンビ化するなどという、画期的な発想は存在していなかったと、タッくんは良く、語っていた。


(もちろんタッくんはウイルスによって人々がゾンビ化してしまうという設定を持つ「バイオハザード」という作品については知っていた。しかし、自分の作品よりも遥か前に作られた作品ではあるが、明らかに自分の作品「ゾンビ対ゾンビスレイヤー」(2021年執筆)の盗作だと、タッくんは主張した。「バイオハザード」の立案者がタイムスリップを活用し、未来へと転移、そこで「ゾンビ対ゾンビスレイヤー」を盗作したのは間違いないというのが、タッくんの言い分である。時系列とか関係ない。盗作に時系列云々を持ちだしてくる奴は頭がおかしいから無視していい。しつこいなら刺殺も辞さない。これも、タッくんの言ったことである。)


ブライアンバレットという身長192センチ体重116キロの胸板分厚く腹筋が16個に割れた凄まじく屈強で毛深い男が主人公。


ゴリラとグリズリーを合体させたかのごとく屈強、いかつい顔をした男だが、街の保護猫活動にも熱心で、心優しい人物(オブライエンという名前の元保護猫の黒猫を飼っている)。


彼が、世界をゾンビウイルスから解放するために仲間たちと戦っていく壮大な物語。それが「ゾンビ対ゾンビスレイヤー」(2021年12月16日完結済み。全125話)である。


そんなブライアンバレットであるが、最終的には、ウイルスに感染しゾンビ化した恋人男性アレックスファルダスにより、重傷を背中に負わされ(その際ブライアンバレットは情けなく涙を流し、チンポだけは、チンポだけはやめてくれ、男なのだ、俺は、男としてチンポを愛する人に挿入したい、やめてくれ、と懇願していた。)……そして、倒れたところを複数のゾンビに押さえつけられ、全裸に剥かれ、オス臭いチンポを、最愛のアレックスファルダスにより喰い千切られ「なんてことだ!!マイハニー!!」と、絶叫するのである。


もちろん、血飛沫ドババ。


最終的に多数のゾンビたちに襲われるなか「アギャー!」と圧倒的な恐怖に顔を歪め、白目を剥いて絶叫。噴水のごとく股関から血を噴射、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしてブライアンバレットは死亡する。


屈強なガタイを持つ英雄的人物にしては、情けない末路。


毛深い全裸、オス臭い分厚い筋肉で覆われたカラダを、ゾンビたちが気の抜けた「あー、あー」というあの定番の呻き声を出しながら貪り食う。


「あーあー」と気の抜けた声をだし、両腕を前に突き出し、ゆっくりと、体を揺らしながら歩行するゾンビたち。


これも、タッくんが史上初めて描いたゾンビたちの独特の歩き方なのだという。


ゾンビ化した細身の美青年アレックスファルダスが、ムワッとオス臭いブライアンバレットの毛深いケツ穴を丹念に舐め、ケツ肉を噛みちぎり恍惚の表情を見せるシーンは、特にエロティクに満ち溢れていて印象的。


タッくんは、にやつきながら、執拗に、そういった凄惨、卑猥、残虐なシーンばかりを「死ね」とか「良いぞ、殺せ、殺せ」とかぶつぶつ言いながら書いていた。


病的としか言えない、見開いた目で、キーボードを打ち続けていた……。


時には私の前で、凄絶な暴力シーンを、巧みな演技力を駆使して、朗読することもあった。


もうやめて、気持ち悪いし、グロいから、やめて、と私が懇願しても、タッくんはにやにやするばかりで、朗読をやめてはくれなかった。


しかし、タッくんは聖人だった。

あくまでも、聖人だったのだ。

そのタッくんの意外にも激しい部分が、創作として噴出したのだろう。

誰にでも、激しい部分はあるから、不思議なことではない。

とにかく、現実において、タッくんは、紛れもない聖人であった。

フィクションでは、少しばかり激しかったかも知れないが。

タッくんは聖人。

何度でも、そのことは断言したい。

そのことを示すエピソードは、いくらでもある。数えきれない……。

証言できる友人は多く存在する。

聖人であるタッくんには、当たり前だが、かなりの数、友人がいるのだ。

思い出が、この部屋にいると、溢れてくる。

タッくん……。今、思い出す……。記憶が、語り始める。善意に溢れたタッくんのエピソード。私は目を瞑る。浸る。思い出にたゆたう。


例えば……。


例えば……。


そう、例えば……。


……思い出が蘇りそうだと思った時に、外が、異様に騒がしいことに気づいた。


私は、ベランダに出て、路上を見た。


「私は!IQ48000!偏差値13000!なのであります!」


そのように絶叫する、全裸の男が、路上の真ん中にいた。禿げていて、腹が出ていて、ブヨブヨな肉体、脇や脛が毛深い……そして、チンポの付け根に縄を巻きつけ、重りを、5キロのダンベルを、ぶら下げていた。年齢は見た感じ45歳くらいか。


「私は!IQ48000!」


ただ、顔真っ赤にして白目を剥いて絶叫している。通行人に危害を加える様子はない。通行人たちはひそひそと話しながら、時には笑いながら、指を差しながら通り過ぎた。


「偏差値13000!」


彼は、凄く頭がいい人なのだと、私は思った。


常人には理解できない、頭のいい人なりの、何かを考えての、緻密な計画に基づいた行動なのだろう。


単なる《変質者》であると割り切って考えられないある種の「気迫」のようなものを、彼の姿勢や雰囲気からは感じた。


どこまでも真面目で、おふざけなど全くない。


ああいう、真剣に物事に取り組む頭の良い人が、明るい未来を構築するために、日々、様々な分野で活躍してくれているのだと、素直に感動した。


IQ48000、偏差値13000なんて、聞いたことがなかった。


よほど頭が良いのだ。


ある人は本屋で参考書をパラパラめくっただけで記憶してしまい、東大も、べつになんの苦労もなく入学できたのだという。


多分、あの人はもっと凄い。


もう、手を動かさない。


ペンを動かさない。


念じるだけで、マークシートが完成する。


IQ48000、偏差値13000なのだから、それくらいでなければ。


……本人が、あれほど「気迫」の込められた真剣すぎる声で表明しているのだから、嘘のはずがないのだ。


途方もない数字だ。IQ48000……偏差値13000……考えられない数字。


あんな場所にダンベルをぶら下げていて、普通ならば痛すぎて悲鳴をあげるだろうが、彼は全く痛いという様子を見せていなかった。


IQ48000、偏差値13000だからこそ、チンポの付け根に5キロのダンベルをぶら下げていても、平気なのだ。


苦痛には感じないのだ。


管理人のおじさんが、いつの間にか、私の隣にいた。


「頭がいいとか頭が悪いとか以前に、頭がおかしいようじゃ、論外だよなあ」


管理人のおじさんが、苦笑を交えながら言った。


少し太り気味、ニコニコしていて、優しそうなおじさん。


「クッキー食べる?さっき、手をつけてなかったから持って来たんだけど」


クッキーの載せてある木の皿を、おじさんは、突き出した。


「手作りだよ。とっても美味しくできたんだ……」


そのクッキーには、臭い、白くてネバネバしたソースみたいなものが、掛かっていた。


「山芋ですか?」

私は言った。


「いや?植物性ではなく、動物性。搾りたてだから、美味しいよ」


暗い部屋。そして音楽などという気の利いたものも流れていないので、凄く静かだった。そういえば、私はタッくんがどういった音楽を好んで聴くのか、知らなかった。音楽の話など、したことがなかった。もしかしたら、音楽など、タッくんは聴かないのかも知れない。色んな人がいるのだから、音楽を必要としない人だって、それは、いるだろう。音楽の代わりに古いテープレコーダーに録音した《拷問されて徐々に弱っていく女性たちの悲鳴》を室内にずっと流しているセレブリティの男性も多いと言う情報もある。あるいは音が鳴り響いているという環境そのものに耐え難い苦痛を感じてしまう体質であるとか。色々な人がいる。私自身は人間の声の入っていない器楽の音楽を好んで聴く。ブライアン・イーノの一連のアンビエント的な、空間をたゆたうような音楽が、最近は好きかも知れない。部屋を見回す。暗くて良く見えない。本棚はあるが、CDや音楽にまつわる類のものは、見当たらなかった。


管理人のおじさんは、いつの間にかいなくなっていた。

私が、手作りクッキーを頑なに食べないことに怒ってしまい、出て行ったのかも知れない。


それか、池袋駅にでも行ったのだろうか。


ここから一番近くにある大きな駅、街は、池袋だったから……。


優しそうな雰囲気のおじさんだったから、私が食べるかも知れないお菓子を、池袋に買いに行ったのかも知れない。


土曜日の池袋の駅構内はかなり混雑していた。


人混みのなか、身長が180センチ以上ある太った中年男性・吉田和夫が、ズンズンと、独特な早足で、歩いていく。


青いオーバーオール姿、髪は角刈りで、目と目の間が離れていて、鼻は潰れたような形、唇が分厚く、半開きになっていて、黄色い歯が、見えている。ときどき、舌をペロッと出して、下唇を舐める。


したがって、吉田和夫の下唇は、常に唾液によって濡れている。


無言で、白いビニール袋を持って、吉田和夫は歩いていく。


時折、吉田和夫は自分より背の低い男女にぶつかる。

(もちろん自分より体格がいい、あるいは自分よりも戦闘能力の高そうな人間を、吉田和夫は避けている。)


ぶつかった人間がその場で「キャアアア!」と悲鳴をあげながら転倒しても、吉田和夫は完全無視をする。というか、そのこと自体に気付いていない。豆粒のように小さい目は虚ろで、どこも見ていないようだった。


「大丈夫ですか?」と善意に満ちた人が、倒れた人を助け起こし、時には駅員を呼び、救護活動がすみやかに行われた。


その様子をスマートフォンで撮影している若者数人が「民度高すぎ!日本ってやっぱり最高だよな!」と笑い合いながら話す。


たまに「君、待ちなさい、これ、犯罪ですよ!」と善意に満ちた男性が、吉田和夫の肩を掴むことがあったが、吉田和夫は無言で、表情一つ変えず、その肩を掴んでいる男性の顔面を思い切りぶん殴った。


「キャヒイイン」と甲高い犬みたいな声を出して、善意に満ちた人物は転がって倒れ、再度、吉田和夫に向かってくる者はなかった。


再度向かって、再度殴られる、そんなヘマを犯す人物はいない。みんな学習能力が高い。危機管理能力に優れているのであろう。


善意に満ちた人物は小動物みたいにぶるぶる震え、立ち上がることはなかった。


その危機管理能力の高さを示す様子を、スマートフォンを用いて撮影している若者数人が「ノーベル賞をたくさん受賞!やっぱり日本人って優秀だよな!」と笑い合いながら話していた。


また顔面を殴られた中年のおっさんがぶるぶる震えながら四つん這いで移動していく様子は滑稽でバカみたいで阿呆丸出しで、多くの人々に良質な笑いを提供した。


もちろん、その様子はスマートフォンで動画撮影されてyoutubeなどにアップされた。


吉田和夫は寡黙な大人しい人物だ。彼が激高して怒鳴り散らしたりしているのを見たことがないと、多くの人が語る。


いい歳をして公共の場で感情をコントロールできず怒鳴り散らしたり、機嫌が悪くなりその場の雰囲気を険悪なものに変えてしまうような人物は、いかなる地位にある人物だろうと不愉快だから死ぬべきだ。


赤ん坊ぐらいじゃないのか。機嫌が悪い時に「良い子でちゅねー」とか、あやしてもらえるのは。それをいい歳して他人に期待して、激高したり機嫌を悪くして拗ねたりする奴は、本気で死ねとしか言いようがない。


少なくとも、吉田和夫に関しては、そのような、死ぬべき人物とは真逆の、感情を全く表に出さない、大人しい人物であることは疑いようがない事実。


子供の頃からそうだった。吉田和夫はいつも大人しく頷くだけで……機嫌が悪いとか良いとか、そんなことで他人に迷惑を掛けている人々に、本当に見習ってほしいと思うほどの、模範的人物。


無表情、口を半開きにした状態で、ズンズン、歩いていく吉田和夫。

駅構内をでてバス停に並んだ。バスが来て、乗ろうとした。すると、それまで列に並ばずベンチに座っていた老人たち(全員が80歳以上に思われる)が、吉田和夫の前に入ろうとした。


老人たちは「あーあー」と気の抜けた声を発しながら、両腕を前に突き出し、ゆっくりと体を揺らしながら、歩いていた。


《列に並ぶことなくバスに乗り込む》……この蛮行に対して、普段大人しくて寡黙な吉田和夫は思わず「あ」と声を発してしまう。老人の1人がその声に気付いた。


「あのね、ベンチに座っているのも、並んでいることに入るのよ、ここのバス停ではね、普段使わない人には、わからないルールかも知れないけど、郷に入っては郷に従えってことだから、まあ、認めなさいね」


老人は蛮行について悪く思うことなく、にやにやしながら言って、そのまま「あーあー」と気の抜けた声を発しながらバスに乗った。吉田和夫も、無表情で、バスに乗り込んだ。


バスの中で老人たちが、吉田和夫を指さして「あの人、さっき私たちがバスに乗り込む時に、こいつらズルしていておかしいのではないか?みたいな顔していたのよー、わかってないわよねー」みたいな話を、こそこそとしていた。


独特の腐臭が、バスのなかには漂っていた。それは間違いなく老人たちの体や半開きの口から出て来たものである。


特に後部の席に座って、白目を剥いて、口を大きく開けて「あーあー」と間の抜けた声を発しては涎をだらだら垂らしている老人のなかの老人とでもいうべき「大老人」からは凄絶な腐臭が放出されていた。


もはや、ほとんど死んでいるのではないかという疑問さえ、浮かんでくるレベル。


吉田和夫は無反応で、白いビニール袋から魚肉ソーセージを取り出し、齧っていた。

虚ろな目で、窓の外を見ていた。


路上で、複数人の若い男たちが肩を組んで笑っていた。

ギターを弾いている帽子を被った男。

露出狂みたいな短いスカートを穿いているバニーガール。

女子高校生の集団に突撃していく黒い自転車。

悲鳴。

熊の着ぐるみを着た人物が、風船を持っている。

ジャンプしてはしゃぐ小さな子供。

その子供のズボンを下ろそうとしている禿げたおっさん。

その禿げたおっさんを背後から折り畳みナイフで殺害しようとしている革ジャンを着た金髪のヤンキー。


吉田和夫は目的のバス停に到着したので席を立った。


老人たちが、吉田和夫を凝視していた「この人、私たちのことを犯罪者だと思っているのよー、列に並ばないでベンチに座っていたくせにズルして先にバスに乗って、この老人たちは卑怯な奴、最低な奴だとか、本心では思っているのよー、嫌だねー、悪いのはルールを知らない自分のくせに、年寄りのせいにしてねー、最近の若い人はねー、ダメだよねー」そんなことを、吉田和夫(若いとは言われたもののすでに50歳をとうに過ぎている)を凝視しながら、ひそひそと話していた。


吉田和夫は無反応で、金を支払って、バスを降りた。


ずんずんと、独特な早足で、土曜日の、人の多い歩道を歩いていく吉田和夫。時に、思い切り自分よりも背の低い男女にぶつかることがあった。

(もちろん自分より体格がいい、あるいは自分よりも戦闘能力の高そうな人間を、吉田和夫は避けている。)


その時は、5歳くらいの可愛らしいピンク色、フリルの服を着た女の子に激突した。


女の子は弾き飛ばされ「キャアアアア!」と悲鳴をあげて転倒し、コンクリート地面に頭を思い切りぶつけ、頭が砕けて脳みそが飛び散った。


うつ伏せに倒れた女の子はぴくぴくと手足を痙攣させた。


吉田和夫は見向きもせず、虚ろな目をしたまま、ズンズンと歩いていく。


「ちょっと!大変なことになっていますよ!逃げないでこっちに来てください!あなたが犯人でしょ!」


吉田和夫よりも小柄な、若い、露出狂みたいな短いスカートを穿いた、金髪の女が、吉田和夫の腕を掴んだ。


「酷いことして!あなたは犯罪者ですよ!ちゃんと警察に捕まりなさい!」


女性は顔を真っ赤にして絶叫していた感情的になっているのは明らかだった。


吉田和夫は相変わらず無表情で、分厚い唇を半開きにして黄色い歯を見せていた。

涎が少し、垂れて来ていた。


「あの女の子が何をしたんですか!まだ5歳になったばかりの!私の姪っ子なんですよ!邦子っていうの!親から預かっていて!ウサギのぬいぐるみとお喋りするのが大好きで、可愛い、可愛い女の子ですよ!それなのに!こんなことになって!あの子の両親がどれほど悲しむかとか、わからないんですか!人の心とかないんですか!酷すぎますよ!あなたみたいな汚らしいおっさんが!こんなことして!なんなんですか!許せない!人殺し!人殺し!!」


感情的に甲高い、非常に耳障りな声で絶叫する女性。顔も、あまりにも感情的になりすぎて真っ赤になっているし、かなり歪んでしまっている。


吉田和夫は女性の腕を掴み、逆方向に、思い切り捻じ曲げた。


「アギャー!」


女性が腕を押さえて叫んだ。発情した猿みたいな甲高い絶叫だ。


「折れた!折れたよお!痛い!痛いよお!人殺し!人殺しにやられたよお!」


吉田和夫は無言で、虚ろな目で、痛がっている女性の顔面を、思い切りぶん殴った。


「ゲウグッ」と叫び、女性は5メートルほど吹き飛び、壁に叩きつけられ、倒れた。壁は少しだが凹んだようだ。


眼球が両方とも潰れ、鼻も潰れ、歯も全て折れたようで、顔面はぐちゃぐちゃだった。背中を壁に叩きつけられた衝撃で、大半の臓物を、吐き出していた。明らかに助からない、死んだことが確定しているほどに、凄惨な様相を呈していたので、誰も、女性に駆け寄ることはなかった。


あまりにもグロテスクで、その場で嘔吐する人もいたくらいだった。

(当然ながら心優しい人物はいるもので、嘔吐する人の背中を「大丈夫だからね」と優しく声をかけつつ、撫でていた。)


場は、しーんと、静まり返っていた。


同じ理由で、明らかに死んでいるとしか思えない5歳の女の子も、その後一週間ほど、路上に放置されたが「臭いしグロテスクで気持ち悪いからさっさと始末してくれ」という苦情が自治体に届き、すみやかに焼却処理がなされたのだった。


「どうせ死ぬのなら人に迷惑を掛けない形で死んでもらいたい。殺される場合もそうだ。ちゃんと迷惑の掛からない場所で殺されて欲しい。汚く気色悪い死体を片付けなくてはならないこっちの身にもなってくれ。大変なんだ。ストレスで胃が痛いよ」

自治体の担当者は真剣な表情で述べた。


ダンスユニット「マンモスアンド宇宙人ズ」のメンバーである佐久間芳樹は、三日前に土下座までしてお願いしたにも関わらず、冷淡な感じでメジャーデビューについて「あんたみたいなのはうちからは出せない」と拒絶した芸能プロダクション「エクソシストエボリューション」の事務所に侵入し、現在売り出し中のダンスユニット「ゴビ砂漠で爆死」のリーダー三島幸彦の背中を思い切りぶん殴った。


「いてえよ!」

三島幸彦は叫んだ。


その時にはすでに佐久間芳樹は「エクソシストエボリューション」の事務所を出て行って、河川敷を全力で走っていた。ジーンズのチャックが全開となり真性包茎のチンポが飛び出していた。


それを見た処女でありデブであり歯周病であり全身に腐臭のする出来物ができているグロテスクな見た目の女性、太田美代子35歳は《佐久間芳樹の真性包茎のチンポ》のあまりの気持ち悪さに卒倒してしまい路上にゲロを吐きながら倒れた瞬間に2トントラックに頭を踏みつぶされた。血の海。脳みそが路上にぶち撒かれた。血とゲロと脳みそがぐちゃぐちゃに混ざったペースト状のものが、路上に溢れていた。


「どうしたの!」

「いてえよ!」という叫び声を聞きつけて、事務所の社長であるカヨコ・マキムラが駆け付けた。三島幸彦は、突然誰かに背中を殴られたからつい叫んでしまったと正直に語る。


「背中をわけのわからない奴に殴られた時のパッションを、一生懸命にダンスで表現すれば、かなりの大ヒットが見込める」

カヨコ・マキムラのカリスマ的なプロデュースが、既に始まっていた。


三島幸彦はその日から撮影に入る。


何度も、背後から殴られた。


「いてえよ!」

三島幸彦は叫んだ。


結局、撮影中に背中への執拗な強打が原因で心臓発作を起こし三島幸彦は他界、カヨコ・マキムラは責任を感じて芸能事務所経営の仕事から完全に引退した。


ダンスユニット「マンモスアンド宇宙人ズ」のメンバーである佐久間芳樹は河川敷を全力で走っていき田んぼだらけの場所に辿り着き肥溜めがあったので勢いよくそこに飛び込んですみやかに溺死した。佐久間芳樹は司法解剖の結果、大量の糞便をわざと飲み込んでいたということが判明した。


芸能プロダクション業から引退したカヨコは、古い劇場にやって来た。そこでは毎夜、「タッくんの爆笑レイトショー」が、開催されていた。


カヨコは一番前の座席に座る。幕が上がる。ドキドキする瞬間。圧倒的なエンターテイメントが始まる。不愉快なものがとことん排除され、気持ちいいものしか存在しない世界の幕開け。素晴らしいショータイム。


《心の傷を癒したいと思った時には、やはり高品質なエンターテイメントを需要するのが良い。何も考えずにただ楽しませてくれるような、そんなエンターテイメントは傷ついた心には何よりのオアシス。》


だが、幕が上がると、舞台には汚らしい便器の擬人化したような、ボサボサ頭の目が小さく口がでかい不細工なおっさんが、1人立っているだけだった。


明らかにタッくんではない。


気持ち悪い紫色の出来物が、顔中にびっしりとあり、ガムを噛んでいるのか、クチャクチャと咀嚼の音を立てている。


「え?」

カヨコは思わず声を出した。


「あ、ジョンネバダです」

その気持ち悪いおっさんが、おぞましい声で言った。


「タッくんは?あの最高のエンターテイメントを観にきたのに……」


「ジョンネバダしか、ここにはいません。今からヌードになります。人間は人間のヌードが好きですから……」


汚らしい便器の擬人化としか思えないおっさん、ジョンネバダが、着用している汚らしいジャージを脱ぎ始めた。


「本当は恥ずかしいですよ……僕はまだ純潔ですから……清いカラダなんです……」


「嫌だ!ちょっと!やめなさい!」

カヨコが絶叫した。ありえないほど醜悪なものが露出しようとしていたからだ。


ジョンネバダの皮を被ったチンポの臭いが、劇場全体を満たした。


カヨコは速攻で逃げた。クソみたいな劇場とクソみたいなジョンネバダは永遠に死ぬべきだと思った。


チンポの臭いがなかなか忘れられず、忌まわしい記憶として、定着しつつあった。


カヨコは様々な香水や芳香剤を購入したが、上手くいかない。ふとした時にジョンネバダのチンポの臭いを思い出して不愉快な気持ちになった。


一生、ジョンネバダのチンポの臭いを、忘れられないだろう。


その悪臭を、生涯背負っていく。


カヨコは呪われたのだ。


独特な早足で、ズンズンと歩いて行った吉田和夫は、公園内の公衆トイレの個室に入り、白いビニール袋から、《新商品》とラベルの貼ってあるローション仕込み済みのオナホールを取り出した。


「ああ……ああ……」


今まで無表情だった吉田和夫が、満面の笑みを浮かべた。これは、奇跡的なことだった。吉田和夫が人間らしい感情を表に露にするとは……。誰かが写真に収めるべきであるほどに、貴重な瞬間ではあったが、生憎、その場にはカメラマンなど存在しなかった。残念なことだ。

吉田和夫はオーバーオールを脱ぎ、黄ばんだブリーフパンツを脱ぎ、完全に勃起した皮を被ったチンポを、すみやかにオナホールに挿入した。


ジュプ……ジュププ……。


「ああ……ああ……」


喜びに満ち溢れた声を、吉田和夫は発した。

人生の幸せを、今、まさに彼は味わっている。


ジュポ……ジュポジュポ……。


「俺、気持ちいい。チンポ、気持ちいい……イク、イクイク……」


それが、その日、大人しく寡黙な吉田和夫が発した唯一の、意味のわかる言葉であった。


その後は、携帯電話に着信があり、通話したものの、明確な言葉を発することはなかった。その際のやりとりは、下記の通りだ。


「もしもし和夫ちゃん?吉田郁恵だけどー」

これは吉田和夫の妻、郁恵。非常に元気な女性だ。普段は新宿のデパートで働いている。なかなかのヤリ手で、一日に数十着の高級スーツを売ることもある。

「あ」

「和夫ちゃん今日の晩御飯は何がいいかしら?」

「あ、ああ……」

「え?キノコごはん?」

「ああ、あ、ああ……」

「違うの?」

「あ、ああ……」

「ハンバーグ?」

「あ、あ、ああ……」

「違うの?なに?」

「あ……ああ」

「うん?オムライス?わかったわ!じゃあ、作って待っているから!」

「ああ……」


妻との会話は、だいたいにおいて、いつもこのようにして終わる。

吉田和夫は使用済みのオナホールを白いビニールに仕舞い、公衆トイレの個室を後にした。早く帰らないと郁恵に叱られると思い、吉田和夫は、いつもは酒を買って帰るのだが、それを止めて、まっすぐ自宅に向かったのだった。


その公園にはちょうど、可愛い柴犬を散歩させている山中静子30歳がいた。


黒髪ロング、手脚の長い、モデル体型の女。歩き方も、どこか、モデルっぽさを意識した感じだ。


公衆トイレの横を通った時に、近所に住んでいる元教職員の伊藤和子76歳に声を掛けられた。


「可愛いわね!ワンちゃんの名前はなんだったかしら!」


和服を着た、笑顔の老婆。顔全体が皺そのものであった。


醜悪な老婆の笑顔に若干の気色悪さを感じながらも、そのようなものを表明するのはマナー違反であると考え、山中静子は微笑みながら「マドリーヌです」と答えた。


「まあ!マドリーヌちゃん!可愛いわね!」


「ありがとうございます」


伊藤和子76歳はしゃがみ、目線を可愛い柴犬に合わせてにっこりと微笑み、頭を撫でた。「マドリーヌ」は嬉しそうな感じに見えた。


元教職員である彼女独特の優しい仕草と声。


「本当に、いい子ね」


「はい。おとなしくて、いい子なんです」


「たいそう、大事にされているのねえ」


「はい。うちは子供もいないですし、わが子のように思っていますよ」


「それは良いわねえ。ねえ、マドリーヌちゃん?」

目を細め、伊藤和子76歳は、可愛い柴犬の頭を優しく撫でる。犬はハアハアいいながら、心なしか嬉しそうな様子に見える。


「可愛い。本当に、可愛い」


「マドリーヌはみんなのアイドルなんです」


「可愛い!」

甲高い声で叫ぶと、伊藤和子76歳は可愛い柴犬「マドリーヌ」を抱えるようにして押さえつけた。


「可愛い!」

甲高い声で叫ぶと、伊藤和子76歳は和服の懐からサバイバルナイフを取り出して「マドリーヌ」の首に深々と刺した。


血飛沫ドババ。


「マドリーヌ!やめて!なにするの!」

山中静子30歳が叫ぶ。


「可愛い!」

甲高い声で叫ぶと、伊藤和子76歳は握っているサバイバルナイフを激しく動かし、柴犬の首を切断した。


「可愛いから!可愛いからなのよお!」

伊藤和子76歳は絶叫した。


「ちょっと!勝手に殺さないで!」

驚愕した山中静子は首を切断されてドババと血を噴出している柴犬の胴体を見た。

「いやだ!グロすぎる!」

山中静子はリードを離した。


首のない柴犬の胴体が、勝手に走り出し、公衆トイレの壁に激突した。

壁に、ユーラシア大陸のような模様が、柴犬の血によって描かれた。


「勝手に殺さないで!」


「だって可愛いから欲しくなったのよ!でも犬を飼うって行為は面倒だから、せめて首だけでも欲しいなと思って!うちのリビングの壁に飾るの!良いでしょ別に!犬なんていくらでもいるのだから!また買えばいいでしょ!ペットショップに問い合わせしなさいよ!」


柴犬の生首を持って、そのまま伊藤和子76歳は去って行った。


返り血を浴び、着用している和服は血まみれだった。


それらの様子は、遊具で遊ぶ子供たちにより、全て見られていた。


特段、子供たちが、この柴犬虐殺の件でコメントすることはなかったし、あえて、子供に、残虐な事件について、執拗に尋ねるような、嫌らしい、気色悪い、変質者みたいな大人も存在しなかった。


柴犬の首を鷲掴みにした76歳の老婆が、公園からでて、堂々と、人通りがそれなりにある路上を、歩いていく……。


そうして、30分後、駅前に、可愛いつぶらな瞳をした柴犬の生首を持った老婆が突然現れた。


あたりは悲鳴、罵詈雑言で騒然としたが、すぐに警棒を持った屈強な警察官が複数人やって来て老婆をボコボコにした。


「アギャー!」

老婆の絶叫。人間ばなれした声。


老婆は最初の後頭部への一撃で気を失ったが、屈強な警察官たちは

「黙れ!抵抗するな!」

と延々と叫び、気絶して動かない老婆を地面に押さえつけてひたすらに警棒で殴っていた。

「死ね!」

「抵抗するな!死ね!」


「エキサイティング!」

手を叩き、歓喜の声をあげる外国人の子供。家族で、ちょうど日本を観光中だったのだ。

「日本の文化ですね?面白い!エキサイティング!」


金髪、青い目をした子供は嬉しそう。

外国人家族は記念品として柴犬の生首を拾い、黒いスーツケースに投げ込んだ。


《本当に可愛いものは死んでもその可愛さを維持するから十分に鑑賞するに耐え得る。》


老婆の頭は砕かれ、脳みそが地面に散らばっていた。


屈強な警察官たちは満足した様子で暴力行為を中断。


「なんかセックスしてえな」


「俺もムラムラする。男でも女でも、どっちでもいいから、やりてえな」


「行くか」


「ああ、やりたくて仕方ねえからな……」


「触ってみてくれ、勃起がすげえから……」


そのように呟くと、揃って駅前の交差点を渡り、怪しげな雑居ビルの林立するエリアに消えた。


……そこに現れたのが、先ほど公園で愛犬を惨たらしく殺害された女性、山中静子30歳。


呆然とした様子で、ふらふらと歩いた。モデル的な歩き方は、特に意識していないようだった。別に殺された愛犬の首を追って来た、という感じでもなかった。彼女は、駅前にある錆びたベンチの上に、古いラジカセを起き、スイッチを押した。


「人間イズウンチ。命イズウンチ」


本来は甲高い声をしている男が、無理をして低い声を出そうと努めているような、気色悪い、茂みに隠れた変質者の声にしか聞こえないものが、流れた。本人はカッコいい声、渋い声を出しているつもりだろうが、全くその認識は間違っていて、とてつもなく気持ち悪いし、耳が腐りそう、聞いていると吐き気がしてくるような声だった。


「人間イズウンチ。命イズウンチ」


山中静子はラジカセの前に立って、涙を流していた。その声は、彼女が愛した男性が遺したものだった。愛する人の、最期の言葉だったのだ。


山中静子の最愛の人は、その言葉を遺し、永遠にいなくなった。二度と戻ることはないのだ。そのことを思うと、全身に震えが走り、涙が止めどもなく零れてしまう。嗚咽が漏れてしまう。悲しみでいっぱいになってしまう。いなくなると思っていなかったから。いて当然だと思っていた人だったから。山中静子は、涙を流しながら、ラジカセを凝視している。


「人間イズウンチ。命イズウンチ」


だが、そんな山中静子の事情など、駅前にいる人々は知るはずがない。


「ババア!クソきめえんだよ!ババア!」


ベンチの上に置かれたラジカセの前で涙を流す山中静子に対し、袖を乱雑に切り裂いたジャンパーを羽織っている若いティーンエイジャーに見える男たちが罵声を浴びせた。


「頭おかしいんじゃねえのか!ババア!死ねよ!」


「きめえんだよ!死ね!」


鉄パイプによるラジカセの破壊。

もちろん、なかのテープも、無事では済まない。


「ああ!あたしの宝物!」

山中静子が悲鳴をあげる。


「きめえ!ババアも死ねや!」


袖を乱雑に切り裂いたジャンパーを着用した若い男の1人が、山中静子の長い黒髪を鷲掴みにして引きずった。


「アギャー!」

山中静子は白目を剥いて叫んだ。醜い顔。それを見て、金髪、青い目の外国人の子供が、再び笑いだす。


「エキサイティング!これも有名なジャパニーズショータイムなの?凄いや!」

そうして笑い、手を叩く。


普段は親からも見捨てられゴミクズとして認識されている袖を乱雑に切り裂いたジャンパーを着用した若い男たちは、いい気分がした。


自分の行動で、金髪、青い目の可愛い外国人の子供が、心から楽しんでいる。


生き甲斐、という言葉が浮かんだ。


「うら!ババア!死ね!」


山中静子の頭部に鉄パイプによる一撃。前述した老婆と同様に、脳みそが飛び散る。うつ伏せに倒れ、手足を激しく痙攣させる山中静子。その様子は、言うまでもなく、ゴキブリがスリッパなどでブッ叩かれて死ぬ瞬間に似ている。


「凄い!凄い!日本の文化は凄い!興奮が止まらないよお!」

歓喜の表情。手を叩いて爆笑している金髪、青い目の外国人の子供。


ジャンパーの袖を、一様に乱雑に切り落としているティーンエイジャーに見える若い男たちは、素晴らしいショータイムを演じてやったことに大変満足して、それぞれ、口の端に笑みを浮かべていた。そうして、「俺たちは最高!」と叫ぶと、ローラースケートを滑らせて、颯爽と、去って行った。


駅前に集合していた人々は目を見開き「ブラボー」と口々に叫び、拍手を送った。日本に《新しい文化》を創り出した若者たちに最大の賛辞を贈るのは、当然のことであると言えた。


その様子は、とても爽やかだった。


鮮烈な色合いの青春時代そのものだった。


タッくんの存在そのものが、青春時代だった。


いつでも、爽やかで、みんなを前向きな気持ちにさせてくれたタッくん。


今、私は、タッくんの部屋にいる。


暗い部屋。もうタッくんはいない。


二度と戻ることはない。


あまりにも良い人だった。

タッくん……話そうと思えば、いくらでも、タッくんについての良い話が、でてくる。


例えば……。


例えば……。


ここまでの間に、私はタッくんについて、たくさんの具体的なお話をしたと思う。


タッくんの生まれながらの善性について、かなりご理解を頂けたのではないか。


だから、もう、例えば……などと言う必要はないのだ。


タッくんについては、十分すぎるほど、語ったのだから。


特にタッくんの生い立ち、幼少期における凄絶な体験については、皆さんの記憶に鮮烈に刻まれているだろうと思う。


……部屋は静かだった。


路上からの音も皆無。IQ48000の人や、通行人の人々は、交流して仲良くなったのだろうか。多くの人が、あのような、頭のいい人から、様々な事柄を学ぶ社会が、望ましいように思った。どこかファミレスなどに揃って向かったのだと信じたい。


リノリウムの床に、際どいデザインの赤い紐パンツが散らかっていた。ちょうど、お尻の穴が当たる部分が、茶色く汚れていた。


人間はウンチなのだろうか。


非常に憎たらしい人物に対して瞬間的に猛烈な殺意を抱いた場合などには、その人物が、限りなく臭いウンチに見えるものだが。


確実に言えることは、今、目の前に、ウンチで汚れているパンツがある、ということである。


嫌だけど、誰かがやらないといけない仕事というものは、必ずあるものだ。


タッくんという、この部屋の主人が、永遠に戻らないなら、私がやるしかない。


私は、洗剤や漂白剤が十分にあるかどうかを、確認するため、その部屋の、より暗い方へと、歩いて行った。


(了)


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メモリーズ〜思い出の部屋(短編) モグラ研二 @murokimegumii

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